2021年5月28日金曜日

最終考

 


俳句のことです。


またまた反省して、


キンキンの

ビールを友に

囲碁を打つ


と言うのをひねり出したのですが、昨日のテレビ番組「プレバト」を見て、まだ、駄目だあ~と。


そして、考えたのが、


×××××

グラスを友に

詰碁解く


です。


×××××の所に季語を入れます。それらしき季語。。。

例えば、「夏の夕暮れ」とか、「暑い夏の午後」とか「秋の夜長」とかを表す素敵な季語です。


この季語を見つけ出すために研究が必要なのだと。歳時記を読破しなければいけません。


父が亡くなりまして、遺品の整理をしていたら、『俳句歳時記』という本を見つけました。父は俳句ではなく、短歌を詠んでいたのですが……。


この本を確保して、その気になった時に、また出直すことにします。






2021年5月26日水曜日

前回の反省

 



俳句ですが、わたしの試し俳句は、水平思考過ぎると反省しました。


ワープしなければならないのだ。

「キンキンのビール」は、私の好きなタームです。が、ここで、同じような水平線上の「夕涼み」とか「風呂上がり」とかでは、安易すぎると言いう事か?


それで、


キンキンの

ビールを友に

碁石打つ


というのが浮かんだのですが、まだまだ水平思考ですね。


しかし、ワープするには、それだけの「詠みたいこと」がなければいけないと……、


それがない。今のところ、それがないのだ、と、気付きました。


また、出なおします。




2021年5月24日月曜日

俳句への挑戦は何時になりますやら。。。

 


「とりあえず書いてみる」というのが、UPの上位ランクに入っていますが、お恥ずかしい。


何もわからずの俳句創作ですから。現在も「何もわからず、進歩もナシ」と思いますが、書き直してみました。


キンキンのビール

風呂上がりの

夕涼み



雨もよい

ジム通う道

蝉時雨


ダメかなあ~、

まだまだ考えます!




2021年5月20日木曜日

本が好き……

 





実は、このブログの他に読書感想文のサイト(『本が好き』)で感想をUPしています。それで、今、感想文は98冊になりました。もう少しで100冊だと喜んでいたら……、


ちょっと興味の惹かれる人たち(私の感想文に反応してくれる人達)のページを見てみたところ、今までは他の人に興味がないので見たことがなかったが、みんなスゴイ事になっていた。


1000冊とか2000冊の本の感想をUPしているのだ……。


一日に2冊読む事をモットーとしているーーーという人もいた。


わたしは、今は囲碁に夢中なので、とても真似は出来ない。読書は大変好きなんですけどね~。囲碁をやり始めてから、あと2~3年で10年になるので、囲碁の腕前が落ち着いたら、読書の方にももっと時間を費やそうかな~、と思ったところでした。




2021年5月14日金曜日

映画化もされた『探偵スルース』の著者の作品です。

 

 


 

プライベート・レッスンの先生が変わりました。前のカナダ人の先生は「首」になりました。学校のオーナーはどうしても彼の傲慢な態度が許せなかったようです。我々2~3の生徒にとっては、そんなことはどうでもよくて、優秀な先生なら良かったのですけれども。

 

まあ、優秀かどうかはわかりませんが、ちゃんと打てば響く先生でした。それから、へそ曲がりなわたしにとっては、「なまいきな先生」の方がやり甲斐がありました。ファイトしがいがあって、燃えますからね。

 

と言う訳で、新しい先生はイギリス人のMr. Millerman (あだ名です)。以前の先生は、歴史が専門でしたが、今回は文学のよう。それで一回目は、アンソニー・シャファーのマーダラーを取り上げてみました。先生には細かいところまでプレゼンしましたが、ここでは止めておきます。

 


 

Anthony Shaffer の名前を知ったのは、ずいぶん昔のことです。若かりし頃、『探偵 Sleuth』というイギリス映画が、日本にやって来ました。主役はローレンス・オリヴィエとマイケル・ケイン。二人とも名優です。

 

その後、この映画は、マイケル・ケインの役をジュード・ロウが演じ、年を経たマイケル・ケインがローレンス・オリヴィエの役を演じました。ちょっと面白い趣向でしょ。それで興味を覚え、彼の本をもう一冊買ったという訳です。

 

その本がMURDERER です。前に一回読んでいるのですが、二回目に挑戦しました。英語の読書会をやり始めてから、英語の本をじっくり読む癖がつき、英語の読解力が進歩しました。以前わからなかった所がすんなり理解できて嬉しい~。単語力も以前に比べてついているので―かもしれません。

 

いっこうに、本の内容に話が進みませんが、これは推理劇。という事で、筋を話してしまうと、これから読まれる方には興ざめとなってしまうと思い、どこまで言っていいんだろうかと悩みます。

 

簡単に配役を言いますと、CASTは4人です。そして二幕劇です。Bartholomew という画家、その若き愛人Millie、そして、妻のElizabeth。それから、Sergeant Stenning。劇は、最初のセリフ “Open up. Police” と叫ばれるまでに、30分必要と書かれています。

 

その30分の間に悲劇的な事が起こる訳です。そして、ポリスの登場。無言の中でなにが起こったかを記述することは、なんだかためらわれます。前述の理由で。

 

大まかな内容は、いつもの如く平凡な妻と夫と愛人の愛憎模様と言うところですが、シチュエーションが二転三転し(誰が誰を殺したかったのか?)、話しに引き込まれてしまいます。

 

愛人のミリーは二十代前半の女性、妻のエリザベスは40歳くらいと書かれていました。バーソロミューは何歳かの記述はありません。バーソロミューは画家ですが、超一流とはいかないようです。エリザベスは、婦人科の医師で賢い女のようです。

 

そんな賢い女がなんで「馬鹿な恰好だけの男に惚れるかね」、というところがみそのよう。そして、愛人は若くてかわいい「ノータリン」です。

 

そうそう、これは書いても良いでしょう。バーソロミューは、殺人とか殺人者のことに異常な思い入れがあり、過去の有名な犯罪者を崇めています。それで、いつも過去の犯罪を模倣して犯罪ゴッコをミリーとしています。そんな彼にエリザベスは愛想を尽かしていますが、なぜだか別れられない。

 

バーソロミューはそんな妻を疎ましく思い、殺人の計画を立てますが、それが上手くいったかどうかは、この本をお読みください。彼は、彼の崇める犯罪者リストに載るようなことができたのでしょうか~。

 

これは戯曲ですから、当然セリフのみの構成。イギリスの本らしく、その会話は皮肉に満ち溢れていて、読み応えがありますよ。英会話の先生に皮肉の一発でも言いたい方には参考になるカモ。おススメします。

 




2021年5月12日水曜日

『タタール人の砂漠』を読んで

 



作家の小田実さんが、政治家の中川一郎氏に「民主主義とはどういうものであるか」と言ったら、「選挙である」と答えたとか。選挙は民主主義のひとつであるけど「デモ」もあると言ったら、笑われてと。

もし政策に賛同できなければ、国民はデモで意思表示することができる。「デモは選挙と並ぶ民主主義の大切な表現行為であろう。」と。

わたしが興味を持ったのは、締め括りの言葉。

「ひどい政策だけじゃなく、ひどいCMにもみんなでデモをしたらおもしろいと思うけれど、そんなヒマはないか、でも。」

つまり、ヒトはなんで「ヒマがなくなっちゃったんだろう」と思うのです。『ピダハン』というアマゾン流域に住む部族は、狩猟採集生活をしています。未だに。わたしたちは「狩猟採集生活」と聞くと、さぞかし大変な生活だろうと思うが、実際は全然そんなことはないらしいです。もちろん、彼等は、アマゾン河という豊穣な食料源を持っていることもありますが、一日の労働時間は3~4時間くらいらしい。あとは、ブラブラしているか、仲間でじゃれ合っているくらいのもの。

そう言えば、草食動物は一日中草を食んでいなければ必要なエネルギーを得られないが、肉食獣は、獲物を捕食したらあとはブラブラ過ごしている。その「ブラブラ」は、人類にとって、どこに行ってしまったのだろうか。どのあたりで取りこぼしちゃったんだろうか。もちろん進化のために「せっせ」と働いていることはわかるが、「民主主義のデモ」ができないくらいにどうして働く。






『タタール人の砂漠』という小説を読んだ。国境の砦に派遣された将校のお話。その砦は、実はとても辺境な地で軍にとっても重要な場所ではない。とても敵など攻めてこないような場所なのだ。その任地に赴いた兵士は、すぐに配転を願い出る。

 

しかし、その地に「ハマって」しまう兵士がいる。彼等は、いつ来襲するともわからない伝説の「タタール人」を夢見ているのだ。当然のことながら、誰も攻めてこない。日々を無為に過ごすだけ。その間に、その兵士の家族や友人たちは、街で優雅な日々を送り、出世もし、子供もでき、孫もできる。

この主人公の将校も「ハマって」しまった一人。ここから出るチャンスはあった。でもその瞬間に「いやここに居る」と決心する。人生、ここで夢を追って無為に過ごすのと街で楽しく過ごすのと、どんな違いがあるのか。

 

彼は、最後の瞬間に「潔くかっこよく」死ぬという(気持ち的に。行動ではなく。)幸福感を手に入れることができた。

つまり、わたしが感じたことは、人は何をして過ごしたって同じこと。どの人生が、最高だとか最低だとかは誰にも言うことはできない。進化を求めて一生懸命働く人も、毎日、ただ食べて寝て過ごす人も、結果は同じ「死」だ。

 

それならば、「かっこ良く死ぬ」ために、自分のためにヒマな時間を取り戻そうよ。「ウナギ」を食べるために必死に働くより、鰯をかじって、ブラブラするよ、わたしは。

 

追記:この何もない場所に「ハマってしまう」という話は他にも読んだ。わたしは、この手の本が好きなようだ。

 

ひとつは、安部公房の『砂の女』。もうひとつは、J.G.バラードの『コンクリート・アイランド』。

 

またの機会にUPします。




2021年5月5日水曜日

英語学習のために、『KWAIDAN』

 



Lafcadio Hearnの『KWAIDAN(怪談)』からOF A MIRROR AND A BELLを選びました。10ページ程度のお話です。

 

話としては、単純です。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は『今昔物語』に興味があったようで、このお話も平安時代のものです。昔、お寺の鐘を鋳造するのに庶民から銅製の鏡を寄贈することを求めたそうです。彼によれば、明治期にもまだこの風習は残っていました。それで、いったん鏡を寄贈した女性が、これは先祖代々伝わるものであると、寄贈したことを後悔し返してくれるように頼みます。しかしそれは許されません。

 

寄贈された鏡はお寺の境内に山のように積まれます。そして、いよいよ鋳造する段になると…、ああら、不思議。ひとつだけ溶けない鏡があります。この鏡は不浄な想いがこもっているから溶けないのだと、誰が寄贈したのかと、問い詰められます。そこで、その女の人が寄進したものとわかり、彼女は恥と怒りのうちに呪いの言葉を残し憤死します。

 

その呪いが何かと言いますと、「わたしが死ぬことによって、鏡は溶けて鐘は鋳造できるでしょう。その鐘が吊るされた時、強い力で打ち鳴らし鐘が壊れたら、その打ち壊した人にはたくさんの黄金がもたらされるでしょう。」というもの。その後、人々はその言い伝えに踊らされて、鐘を打ちに来ます。しかし、誰も叩き壊すことはできません。それで、お寺の住職は、この騒ぎにうんざりし、鐘を池に沈めてしまいます。もう二度とその鐘は浮き上がって来ることはありませんでした。

 

話はここでお仕舞いではありません。その後のエピソードも書かれています。しかし、その間に、ハーンの解説が挟まれています。その解説文が、わたしがこの話を選んだ理由です。

 


 


彼が解説しているのは「nazoraeru」という日本語についてです。

 

Now there are queer old Japanese beliefs in the magical efficacy of a certain mental operation implied, though not described, by the verb “nazoraeru.”The word itself cannot be adequately rendered by any English word; for it is used in relation to many kinds of mimetic magic, as well as in relation to the performance of many religious acts of faith. Common meanings of “nazoraeru”, according to dictionaries, are “to imitate,” “to compare,” “to liken;” but the esoteric meaning is to substitute, in imagination, one object or action for another, so as to bring about some magical or miraculous result.

 

これに続いて例を上げています。寺を建立するお金がなくても、「心を込めて」石を積み上げれば、それは、お寺と同じ意味を持つ、あるいは、6771巻ある経典を読むことはできないが、経典鐘を回転させると一巻読んだことになる、というようなこと。

 

ハーンは、日本の文化に共感と興味を持っていました。だから、日本文化の側に立って翻訳ができると思います。現代の日本人にはもうわからないような事も、彼の翻訳によって再確認することもあるかと。

 

もうひとつ思ったことは、日本の文化には「nazoraeru」ということが、よく見られるのではないかということ。例えば「石庭」、「盆栽」、「落語の扇子」、「文楽」などなど。「なぞらえる」というのは、「わら人形」にも見られるように、アニミズムからきているもの。キリスト教などの一神教に比べ、日本の神道はアニミズムと言われます。先進国で未だに原始的宗教を信じている国は珍しいとも。そういう点からして、これらは、アニミズムを文化にまで昇華させた例だと思うのですが…、どうでしょう。

 

さて、このお話の続きは、”strike and break objects imaginatively substituted for the bell”です。人々は、せっかくの宝を得るチャンスを逃してはならないと、いろいろなものを例の鐘に「なぞらえて」叩き壊し、黄金をえようとします。その一人が「梅が枝」。平家の落ち武者、梶原 景季(かじわら かげすえ)と関係しています。梅が枝は銅製の手水鉢をその鐘になぞらえて叩いて壊します。すると300両の金が現われたということ。

 

この話もまたレジェンドとなります。そして、いつもの昔話の如く欲張りな人が現われます。彼は、

 

Having wasted his substance in riotous living, this farmer made for himself, out of the mud in his garden, a clay-bell, and broke it, ---crying out the while for great wealth.

 

で、結果は、a white-robed womanが現われて、大きな壺を与えます。家に帰って、妻とその壺を開けてみると……、壺の縁まであるものがいっぱいに満たされていましたが…、

 

But,no!-----I really cannot tell you with what it was filled.

 

ですと!!!

 

わたしは、ひとつ想像していますが、皆さまは如何でしょう。なんだと思いますか?




2021年5月4日火曜日

『怪奇小説傑作集』

 



「サキってさあ、怪奇小説家じゃないの~~~。」という私に、「ふ~ん、心理サイコかも。」と一人が答えました。

 

因みにウィキペディアでは、「サキSaki)、本名ヘクター・ヒュー・マンローHector Hugh Munro18701218- 19161114日)は、スコットランドの小説家。オー・ヘンリーとならぶ短編の名手であり、ブラックユーモアの強い、意外な結末をもつ作品を得意とした。」とあります。

 

わたしも実際に彼がホラー小説を書いていたとは思っていません。「サキ短編集」っていう文庫本を持っていたような気がしますが、見当たりません。

 

しかし、どこでどうなって、わたしは彼がホラー小説を書いていると思っているのかを考えたところ、そうだ、『怪奇小説傑作集』に入っていたかもと。怪奇小説のアンソロジーです。わたしは、五巻まで持っています。

 

その後、六巻が出版されたかどうかは知りませんが。この本には、ラヴクラフトやブラックウッドなどの生粋(?)の怪奇小説家の短編はもちろん入っています。が、その他アポリネールやトルストイの小説も組み込まれています。

 


見てみたら、やはり入っておりました。1969年に買っていました。サキの作品は、『スレドニ・ヴァンシュタール』という題。小さな男の子とその叔母が主役です。

 

解説を読みましたら、サキは、「ビルマ駐在の警察官の子として生まれたが、生まれるとすぐ、ひとり本国のイギリスに帰されて、彼の叔母と暮らしていた」ということです。彼の作品には、度々、口やかましい叔母が出てくるとか。相当、悩まされたんでしょうね。

 

「スレドニ・ヴァンシュタール」とは、少年が飼っているイタチの名前です。「口やかましく、根性の曲がった彼の叔母」と二人暮らしの中、その叔母にイタチの存在を知られるとイタチが殺されてしまいそうなので(実際、以前に彼が大切に育てていた雌鶏は、殺されて食べられてしまったのだ。)、少年は納屋に隠してイタチを飼っています。そこで悲劇が起こるという塩梅。ちょっと、ゾクッとしますよ。興味のある方は…、読んでみて下さい。

 



2021年5月3日月曜日

先日お亡くなりになった桃紅さんの追悼です。

 



 少々以前に書いたものです。スイマセン。


『百歳の力』は、数えで103歳になる篠田桃紅さんの自伝で、最近販売部数10万部を突破した話題の一冊です。度々新聞の広告で目にしていました。わたしは「自叙伝」なるものは基本的に好きではありません。他人の人生に興味がないからです。同様にノンフィクションの探検モノや回顧録等も好きではないです。しかし、桃紅さんの言葉は興味があります。 

 

篠田桃紅さんは1913年、大正2年生まれです。102歳になる今も絵筆を取って美術家として創作に励んでいます。信じられない事ですね。彼女は文筆家としても評価を得ているようで、数冊のエッセイ集が出版されています。

 

1979随筆集『墨いろ』で第27回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。朝日新聞の書評欄では、『一〇三歳になってわかったこと―― 人生は一人でも面白い』幻冬舎、が取り上げられていました。20154月刊です。

 

この本は、歳を経た人のエッセイにありがちな「老成とか悟り」が書かれているのではなく、百歳にしてまだ達観できない彼女の若々しさが溢れているようです。この辺りが凄いですね。妙に悟って「うんちく」を語る人が多い中で。

 

「生きている限り、前とは別のものができる。この歳になってできることはある。昨日と今日は違うんですから」が、彼女の言。

 

幼少期から書道を嗜んでいましたがお手本の決まり通りに書くことができず、「わがままな子だと」言われ続けてきました。彼女は、「わたしははじめから、この線はお手本よりもう少し長く引きたいというところがあった。決まりの通りにすることが性に合わなかった。」と語っています。また、「お手本通りすることなど朝飯前ですが、それではつまらない。お手本をまねするのは複製を作ること。アートでは、まねしたものは偽物です。」とも。

 

人生でも歳を取ることは「クリエート」する事だと言います。人生にはお手本がありません。自分で考えて自分の人生を創造していかなければいけないからです。記者が「生きているかぎり人生は未完」と書いているが、完成に近づいている実感はあるのでしょうかと問うています。彼女の答えは、「人として何が完成なのかわかりません。この辺かなと思って辿り着いても、また先がみえます。」というもの。

 

この先が「みえる」というところが、またまた凄いです。「先はわからない」ではなく、進むべき道がちゃんと彼女の心の中に存在しているという事ですから。





 

ウィキペディアによりますと、こんな風です。

 

篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子1913年(大正2年)328日)は、日本の美術家。映画監督の篠田正浩は従弟にあたる。

 

日本の租借地だった関東州大連に生まれる。5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。抽象表現主義絵画が全盛期のニューヨークで、作品を制作する。文字の決まり事を離れた新しい墨の造形を試み、その作品は水墨の抽象画=墨象と呼ばれる。アメリカ滞在中、数回の個展を開き高い評価を得るが、乾いた気候が水墨に向かないと悟り、帰国。以後日本で制作し、各国で作品を発表している。

 

一部抜粋です。

 

 

先日、美容院に行きました。待ち時間に渡された『婦人画報』のページをペラペラとめくっていたところ、篠田桃紅さんのエッセイ・コラムのような小さな記事が目に止まりました。読んでみたところ、「オオおおお~」という感じ。つまり、出版されたエッセイでも相当過激なのに、その上をいく過激さだったのです。

 

その時の記憶を頼りに報告いたしますと、

 

「最近、インタビューをされる機会が増えました。しかし、あとでその記事を読むとがっかりします。紋切り型のインタビューと一般受けする答えになっているからです。これこそ<マス>メディアということでしょうか。人とおしゃべりしても何にもなりません。わたしの言う事を理解してくれる人がいないからです。受け入れられないわたしの考えを封印して、なんで人とおしゃべりなどできましょう。日々ひとり精進し、己の道を進んでいきたいと思います。」(こんな感じだったと思いますが~~~、間違っていたらゴメンなさい。)

 

102歳にしてこれですよ。素晴らしいと思いませんか。相当強い人ですね。こうも世間と妥協しなかったら、普通の人では生きていけませんよ。だから、芸術家として成立しているのでしょう。「老成とか悟り」の境地ではなく、まだまだ先を見つめて前進しているのです。

 

 

わたしにも人の思惑を気にすることない強い意志があったなら…、自分の才能を信じる強さがあったなら…、と羨ましく思います。

 

彼女は、このように言っています。「お手本通りすることなど朝飯前ですが、それではつまらない。お手本をまねするのは複製を作ること。アートでは、まねしたものは偽物です。」と。もちろんその通りと思います。でも、わたしなら「朝飯前」とは言わないでしょう。ここまで言ってしまう「強さ」、それがわたしの足りないところなのでしょう。

 

彼女の言葉、『歳を取ることは「クリエート」する事だ』を英語のクラスで紹介したところ、先生に「えっ。」と言われてしまいました。To grow older means to create. と言ったのですが。彼女の言った意味は、「人生にはお手本がありません。自分で考えて自分の人生を創造していかなければいけないからです。」ということ。

 

先生が言うには、英語が間違っていたから聞き直したわけではないと。今まで聞いたことがないことをわたしが言ったから、「えっ。」と言ったんだと。それで、人って自分の理解できないことを聞くと、頭が「言葉」として受け入れないんだなあ、と感じました。

 

以前、「君が完璧に英語を話せるようになっても、君の言う事は理解できないだろうね。」と、ある英会話の先生(アメリカ人)に言われたことを思い出しました。

 

 

わたしも一人で生きていきましょうかね~~~。