2021年5月12日水曜日

『タタール人の砂漠』を読んで

 



作家の小田実さんが、政治家の中川一郎氏に「民主主義とはどういうものであるか」と言ったら、「選挙である」と答えたとか。選挙は民主主義のひとつであるけど「デモ」もあると言ったら、笑われてと。

もし政策に賛同できなければ、国民はデモで意思表示することができる。「デモは選挙と並ぶ民主主義の大切な表現行為であろう。」と。

わたしが興味を持ったのは、締め括りの言葉。

「ひどい政策だけじゃなく、ひどいCMにもみんなでデモをしたらおもしろいと思うけれど、そんなヒマはないか、でも。」

つまり、ヒトはなんで「ヒマがなくなっちゃったんだろう」と思うのです。『ピダハン』というアマゾン流域に住む部族は、狩猟採集生活をしています。未だに。わたしたちは「狩猟採集生活」と聞くと、さぞかし大変な生活だろうと思うが、実際は全然そんなことはないらしいです。もちろん、彼等は、アマゾン河という豊穣な食料源を持っていることもありますが、一日の労働時間は3~4時間くらいらしい。あとは、ブラブラしているか、仲間でじゃれ合っているくらいのもの。

そう言えば、草食動物は一日中草を食んでいなければ必要なエネルギーを得られないが、肉食獣は、獲物を捕食したらあとはブラブラ過ごしている。その「ブラブラ」は、人類にとって、どこに行ってしまったのだろうか。どのあたりで取りこぼしちゃったんだろうか。もちろん進化のために「せっせ」と働いていることはわかるが、「民主主義のデモ」ができないくらいにどうして働く。






『タタール人の砂漠』という小説を読んだ。国境の砦に派遣された将校のお話。その砦は、実はとても辺境な地で軍にとっても重要な場所ではない。とても敵など攻めてこないような場所なのだ。その任地に赴いた兵士は、すぐに配転を願い出る。

 

しかし、その地に「ハマって」しまう兵士がいる。彼等は、いつ来襲するともわからない伝説の「タタール人」を夢見ているのだ。当然のことながら、誰も攻めてこない。日々を無為に過ごすだけ。その間に、その兵士の家族や友人たちは、街で優雅な日々を送り、出世もし、子供もでき、孫もできる。

この主人公の将校も「ハマって」しまった一人。ここから出るチャンスはあった。でもその瞬間に「いやここに居る」と決心する。人生、ここで夢を追って無為に過ごすのと街で楽しく過ごすのと、どんな違いがあるのか。

 

彼は、最後の瞬間に「潔くかっこよく」死ぬという(気持ち的に。行動ではなく。)幸福感を手に入れることができた。

つまり、わたしが感じたことは、人は何をして過ごしたって同じこと。どの人生が、最高だとか最低だとかは誰にも言うことはできない。進化を求めて一生懸命働く人も、毎日、ただ食べて寝て過ごす人も、結果は同じ「死」だ。

 

それならば、「かっこ良く死ぬ」ために、自分のためにヒマな時間を取り戻そうよ。「ウナギ」を食べるために必死に働くより、鰯をかじって、ブラブラするよ、わたしは。

 

追記:この何もない場所に「ハマってしまう」という話は他にも読んだ。わたしは、この手の本が好きなようだ。

 

ひとつは、安部公房の『砂の女』。もうひとつは、J.G.バラードの『コンクリート・アイランド』。

 

またの機会にUPします。




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