2021年10月25日月曜日

『生命40億年全史』


地球に生命が誕生してからの40億年の歴史であるが安直な通史ではなく、生命の激変と絶滅のダイナミックな考察である。


この本は題名の如く、生命が初めて地球に誕生してから人類に至るまでの壮大な歴史物語である。わたしは基本的には、いつの時代にどんな生物が生存していたかとか、どのように絶滅したかという歴史については興味はない。


興味があるのは、無機物しか存在していなかった地球から如何にしてはじめての生命が生まれることができたのか、そしてそれがどうして動き出すことができたのかなどである。そのような類の本を読んだこともあるが、この本は前半で時系列的にこの問題を説明しているので頭の中がスッキリしたように感じる。

 

それから現在に生きる人類の業のようなものがどのように生物の発達と関連あるのかがところどころに散りばめられていて、時々哲学的な夢想に引き込まれた。


例えば、「動物は自分の食い扶持を他人に頼る居候のようなもの。植物は独力で成長と増殖のための栄養分を作り出している。」とか「共生による太古の平和を粗野なやり方でかき乱す真の動物、性的な衝動や攻撃的な性質に満ち満ちた捕食者あるいは搾取者」という動物の定義である。


もうひとつ、「捕食者が現れ、またその捕食者の捕食者が現れ、捕食者・被捕食者の関係が生物の新たな進化を推し進めていく」と、あった。


捕食者の頂点に位置する人類の運命に、う~~~ん、と唸ってしまった。




2021年10月23日土曜日

囲碁ネタです。

 



先日の『折々のことば』に


失うことや死を恐れたら、片一方の生きるってことがみみっちくなる。  相米慎二


と、ありました。


自分は、人の死というより、人が「綱渡りの」のようにして生きるその姿を描いてきたと、映画監督は言う。それを「みみっちく」しないためには「愛と勇気の物語」を紡ぐことしかなかった。が、そんなことをしているとなんか悲しくなってくる。「人にはもっと頽廃とかもあるのに」と心が反撥する。そんなふうに心はいつももつれると。


遺文集『相米慎二 最低な日々』から……だそうです。


もっともな事です。

何か、「一生懸命生きている人々のお話は、お金の心配もなく頽廃的に生きている人々の話より上等だ。」というような風潮がありそうです。今回のノーベル文学賞も「虐げられた人が、懸命に生きる」というようなお話の様です。わたしは読んでいませんが。


昨今思うのは、「SDGsなどで皆が幸せになる時代が本当に来るのなら、その時、文学とか哲学とか芸術はどうなるのだろうか。」という事。人が苦しむところから、いろいろな事が発生すると思いますが、皆が「のほほん」と暮らしていると、何が題材となるのでしょう。





という事は、今は置いておいて、


わたしが、この「折々のことば」を読んだ時に感じたことは、


そうだよねェ~、囲碁の先生がいつも言う、『石が死ぬことを恐れていたら、勝ちはないぞ!』という事。


囲碁の境地「肉を切らして骨を断つ」。自分の石が死ぬことを恐れず、ギリギリまで自分の石を働かせて、相手の石を窮地に追い込むのだ。


みみっちく生きてはいけないよ。人生、大胆に切り込んでいこうよ。




2021年10月13日水曜日

先日の『折々のことば』



 

朝日新聞のコラムです。


「たまたま出てきた染みみたいなものの形が面白いねとか、そういうことではないかと思う。」


書いた人は、吉村萬壱という作家らしい。解説は、鷲田清一さんです。


解説;

自分が綴っている言葉は元々人様から授かったものだし、自分が物語る思想も所詮は誰かのそれの焼き直しのようなものでしかないから、と作家は言う。作家のこの言葉、きっと私の文章のことを言っていると思う人も少なくない。それだって「染み」であるはずなのに、各人がこの自分に宛てられた言葉だと思うところが、面白くて深い。




まあ、解説はともかく、わたしも「自分で考えた事など何もない。」と常々お思っているものですから、「この言葉」に引っ掛かってしまったのです。


わたしが言うこと・書くことは、どこかで読んだ・誰かが言っていたことの記憶でしかありません。自分で考え付いたことは100%ありません。自分で必死に悩んで考えたと思ったことも、すでに誰かがどこかで言っています。


よく、「いろいろなことを知っているね。」と言われますが、それは、単なる何か読んだ物の記憶です。「記憶力が良いね、と言ってください。」てなことです。


そんないろいろな記憶を自分なりに組みなおし、とっかえひっかえ組みなおしていくと言う試みです。つまりそれが、「染み」という事でしょう。


それなりに、面白い形の「染み」を作っていくしかないのです。




2021年10月8日金曜日

軽自動車はどお?

 



昨今は、素敵な軽自動車がたくさんあります。でも、「わたし」は、買いません。


何故か?


それは、あのナンバープレートの色です。これでもかと言わんばかりの黄色です。すべての他の色を台無しにしてしまいますよね。軽自動車の関係者の方は、政界に進言しないのでしょうかね。


ずいぶん以前に、「軽自動車どう思う。税金も安いし軽に乗るべきじゃないの?」と聞かれたことがあります。


わたしは、即、「ナンバープレートの色が嫌いだ!」と応えました。「あんな色じゃあ、絶対買わない!」と。


その人も、「政府は馬鹿だねえ。色を変えるだけで軽を買う人増えるのにね。」と。




軽自動車のコマーシャル・メッセージを制作している人は、そんなことご存知と思います。なぜなら、公道を走る軽自動車のTVコマーシャルは、黄色のナンバープレートに会う色の車しか使っていないからです。クリーム色とかライトグリーンとか。


その他の「かっこいい車」は、公道を走っていないか、止まっています。そして、プレートはたいてい黒です。黒に白抜きの文字です。きれいなワインレッドの車にあの黄色のプレートが付いているところを想像してください。「素敵だ!」と思いますか。または、コバルトブルーの車にあのダサいプレートは?


という訳で、どんなに軽自動車がカッコよくても、性能がよくても、安価でも、わたしは買いません。





2021年10月6日水曜日

もう一つの趣味


 


囲碁の他に読書と言う趣味があります。こちらの方の年季は古いです。


4~5歳の時、名古屋に引越してきました。その前の記憶がチラホラとあります。そこに本を読んでいた記憶もあります。


小学生の時は、「不思議な話」ばかり読んでいました。中学生では、ハードボイルドや推理小説、SFなど。高校生になると、それにプラスしてシュールレアリスム小説。大学生でプラス哲学書、その他社会科学関係です。


囲碁を始めてからは、読書する間がありません。読書感想文を書くサイトにも顔を出しています。そこで1級になるまでは(1級が最高)、それでもいろいろと書いておりました。


今、イタロ・カルヴィーノの『最後に鴉がやってくる』を読んでいますが、なかなか進みません。




昨日の新聞広告で道尾秀介の『N』という本を見ました。アマゾンで調べて「立ち読み」をしてみました。何だかすぐ読めそうな内容。こんな本を読むと、すぐ読めて感想文をサイトに投稿できるなあ……と思いました。


が、それは本末転倒ですね。読みたい本を読んで、感動して感想文を書いてみる……ですね。


そのサイトに感想文を投稿できないのには、もう一つ理由があります。それは、わたしが書きたい本がなかなか登録されていないのです。一々登録してくださいと頼むのも……何だかなあ、と。


イタロ・カルヴィーノの本もあまり登録されていないのですが、『最後に鴉がやってくる』はありました。先ずは、こちらの方を読み進めることに致します。




2021年10月5日火曜日

夢で見る。



私、興味のあるものに憑りつかれる傾向にあります。


それが夢にまで出てきます。夢に現れるとその事がうまくいくことがあります。それが、囲碁にも当てはまりました。囲碁の対局をしている夢を見ました。


小学生の時、自転車の走行をマスターしたかったのですが、母が古い人間で「女の子は自転車に乗ってはいけません。」というスタンスでした。自転車は買ってもらえませんでした。それで、友達の自転車を借りては練習していました。友達もそうそうは貸してくれませんでしたが。


しかし、夢中で練習していると、「その通り」夢の中に現れました。夢の中でスイスイと自転車に乗っているのです。それで、現実でも自転車に乗れるようになったとさ……です。


また、英語の勉強を一生懸命していた時も、夢に現れました。夢の中で、ペラペラと英語を話しているのです。そのシーンが長く続き、自分でも「英語で話している」と夢の中で思った次第です。そして、その後、そこそこ英語は話せるようになりました。




そして今回、素晴らしい夢を見ました。「これが囲碁の真髄だ」と夢が教えてくれたのです。起きてから、反芻しました。が、その後の対局でそれが活かされたわけではありません。


しかし、対戦成績はグッと良くなりました。その「教え」を守っていくつもりです。




2021年10月3日日曜日

決心しました。




 

囲碁の話です。


8年くらい前に囲碁を始めました。その時の目標が『10年で五段になる』でした。五段は、ちょっと、はったりです。五段と言っておけば、「三段くらいにはなれるかなあ。」と。


しかし、あと2年余りです。今の実力は、たぶん初段くらい。三段になれるかどうかも微妙な情勢になってきました。


10年と決めたのは、何事もいっちょ前になるには10年かかるという事。そして、10年経って気持ちが楽になったら、違う事にも挑戦しようと思っていたからです。今の心境では、それは俳句です。





が、決めました。これからも囲碁をメインに戦っていきます。俳句を始めると、それなりにまた10年はかかります。俳句は諦めてあと10年、囲碁を頑張っていった方が、充実した生活を送れるかもしれないと。


と言うのは、


家での囲碁研究もしますが、その成果を発揮するために、碁会所、棋院などに対戦相手を求めて出かけます。俳句人口と囲碁人口のどちらが多いかは微妙ですが、取り敢えず今出かけるところがあるのは貴重です。


もうひとつ、


囲碁は、あと10年やろうが20年やろうが、「先が見えないゲームである」という事。飽きることは無いでしょう、と。


以上、今の心境です。