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わたしは「ことば」に興味があります。もちろん「言語学」にも興味がありますが、ソシュールの理論のような哲学的要素は理解不可能(努力はしていますが…)。それで、「ことば」が、特に文化や歴史、政治にどのように関連しているのかというところを「学ぶ」ことに興味があるわけです。
この本は「そうだったんだ!日本語」シリーズの一冊で、「黒船が江戸の時代にやって来た時、日本語にどのような影響をもたらしたのかという内容」との本の帯を読んで買いました。明治期に欧米の言葉がドバーっと日本に入って来て、日本語はいろいろな言葉を生みだしました。欧米の言葉を訳してできた語や、今までにあった言葉を欧米語に当てはめて少々意味が変わってしまった語などです。そんな話が読めるのかなと思って買ったのですが、内容は少々違っていました。
違っていましたが、・・・興味深いことをいろいろ学びました。
ペリーが浦賀に現われてから、日本は(江戸幕府から明治政府、現在も)諸外国と条約を結ぶことになります。本書は、その条約を日本語で書く時、日本語をどのように変化して行かなければならなかったかということがメインテーマになっています。
一番興味深かったのは、ペリーが現われる以前から、日本は多くの外国文化を吸収していたことです。わたしが日本の歴史を学校で学んだ時は、「江戸時代に日本は鎖国をしていた」ということでした。実際には、長崎で蘭学が学べたように、「鎖国」状態ではなかった。近年では、学校の歴史授業でもそのような教育方向になって来ています。
が、その知識は半端なし。黒船は四隻やって来ましたが、それに対応した江戸幕府の役人は、すでにどの船に乗りつけて交渉をすれば良いのかがわかっていたそうです。旗艦船です。正確には、役人ではなく、通詞(通訳者)ですが。その通詞が「余は和蘭語(オランダ語)を話すことができる」と船に向かって怒鳴ったそうです。なんだかワクワクするでしょ。このことだけで、映画が一本作れそうですよ。
実は、アメリカ側は日本語で、日本側は蘭語で怒鳴り合っていたそうですが、お互い相手が何を話しているのか理解できず、漸く、日本側が叫んだ「Dutch」という英単語が、アメリカ側に伝わり、意思の疎通が始まったということです。
はじめは、アメリカ側はオランダ語の通訳士を立てて交渉に臨んでいました。しかしその後、日本はオランダ語がもはや世界の共通の言語ではないと知り、フランス語、英語の勉学に励みます。
安政二年、1885年の日英和親約定では「英語が世界の言語」だとイギリス側に強要されたとあります。その頃は、まだ条約文まで英語で賄う能力が日本の通詞になかったので、普段の会話は英語でするものの、正確な条文は蘭語という妥協案が成立していました。その数年後には、日本の通詞は英語で対応できるまでになっていたそうです。
話が長くなってしまいましたが、その他興味があったところは、その頃の朝鮮王朝と日本の関係、中国(清)との関係です。この二国はお隣の国ですから、昔から友好関係が図られてきたと思いがちですが、実際は、常に敵対関係だったと言えるでしょう。「常には」ちょっとオーバーか。それを、明治政府はどのように友好関係を探って行ったかという事実。現在の状況と鑑み、なんだか意味深では・・・。
言語学的な点では、慎重に意味を定義しなければならない条文で、通詞たちがどのように日本語を進化していったかということに興味を覚えます。欧米の論理的思考をどう日本語に移し替えるかという問題です。入組んだ仮定的条項や構文の違いを克服する事など。
このような明治維新の時代に活躍した日本人のおかげで、明治政府は日本語を進化させ、欧米列強と渡り合い、日本語を自らの国家を代表する役割を担う言語であると宣言するに至りました。欧米の植民地政策によって自らの言語を失ったたくさんの地域があります。この言語を守り抜いたということが、日本が欧米列強に対し、独立を守れたひとつの要因ではないでしょうか。
如何。
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