以前、日本人は何でも追求して「~~~道」としてしまう、と書いたことがあります。柔道、剣道などは、以前は「柔術」とか「剣術」とか呼ばれていたものに、「精神性」を取り入れて「~~道」まで高めたと聞きました。そればかりでなく、日本に全然関係ないもの、例えばコーヒーなどを豆の炒り方または煎じ方の道を極め「道」というまでにしちゃいます。「わたしの珈琲道」なんて。
それで、ひょっとしてこの「道」って、「オタク」なんじゃないの、と思いました。「道」がメジャーで「オタク」がマイナー、つまり庶民の「道」なのではと。
「道」あるいは「オタク」は、何に関心を持つということは重要ではなく、自分がこれと決めたもの、その一つの事柄に邁進して行くということかも。そして、なにやら、その関心を持ったものそれ自体は、その人にとってはどうでもいい事ではないのか、と思ってしまいます。それは、自分が自分自身の道を窮めるための単なる手段なんじゃないかなあと。つまり、人は何かに精神を統一する事によって、自分の世界を作り上げていくと言うことを求めているのみ。
だから、日本人って多かれ少なかれ、日々、「自己実現」のための修行をしているのではないのか・・・、言い過ぎかなあ。でも、ひたすら、小さなネジを作り続ける町工場のおじさんも、「どれだけ小さなネジを作れるか」という課題に日々邁進しているのは、小さなネジを作るという結果を求めているのではなく、自分の充実のためであるかのよう。
例えば、技術者のオリンピックみたいなもので、「直径10cmの円盤を造る」という課題を与えられた場合、そして、そのアローワンスが1mmであるという場合、ある人たちは、10cm1mmの円盤を完成した時に仕事をやめる。だけど、日本人の職人は何の物質的利益もないのに、ひたすら円盤を10cmに近づけるため努力する。そんな話を聞いたことがあります。
あるいは、ただ単純な「車を駐車する」という仕事でも、ある人は、一生懸命効率を考え、止め方を考え、車の間隔をどうするかとか、一回の操作だけでピタッと定位置に停める努力をする、などなど。それは、ある意味見事な「道」です。
こんな風に考えて行くと、これはインドの修行者に似ているなと感じました。人々がよく「インドは不思議な国」だと言います。テレビ番組でインドの修行者のことを見ました。ある修行者は、一生、左腕を上にあげて暮らすという誓いを立てました。その人のことです。彼はちゃんとその誓いを守っていました。常に上にあげられている彼の左腕には、もう血が通わず、まるで枯れ枝のようでした。
日本人がこうであるとは言いませんが、とりあえず、「現実の世界に生きず、自分の世界を生きる」という点では同じではないかと。日本の携帯電話を「ガラケー」と言いますね。世界の情勢から取り残された、まるでガラパゴスのような携帯という意味で使われています。ガラパゴスの人は怒っておりますが・・・。識者は「これではいけない、世界のグローバル化に付いて行かなければ日本の将来はない」と言った意味の事を言っております。しかし、そうでしょうか。最近、この日本の状況にプラスの意味を見出している人々も現われました。
わたしの結論:日本人はこの特徴を生かし、グローバル社会に迎合することなく、日々現実離れした修行に邁進し、独自の世界観で勝負しましょう。自分の慣れ親しんだ行動指向により、幸せを掴みましょう。
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