以前書いた『読書会もどき』のつづきです。
あの時は、まだ読書会が開かれる前に書いたものでしたが、実際に皆が集まって、意見を言い合ったら、いろいろ違う事がわかりました。申し遅れましたが、題材は『クオーレ』です。
この本の作者は、エドモンド・デ・アミーチスで( 1846年 – 1908年)イタリア王国の作家です。確か2~3年前に、イタリア統一100年祭なるものが日本でもブームになっていましたので、この作者が生きた時代は、統一される頃ですね。この事も読書会で指摘され、なるほどと思ったことでした。
彼もイタリア統一運動で、赤シャツ隊に志願したほどの愛国者でありました。14歳の時だったので、幼少として断わられたそうです。(年代は違いますが、ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスが、ナチの年少隊に入っていたという事で問題になったことを思い出しました。)。
彼は子どもに愛国精神を培わせよと、子どもの教育用にこの本を書きました。日本でも、教育者三浦修吾が翻訳しています。子どもの頃に読んだ記憶がかすかにあります。三浦氏は『愛の学校』というサブタイトルを付けたそうですが、短編集で、その中のひとつが、日本でもアニメで有名になった『母を訪ねて三千里』です(原題『アペンニーノ山脈からアンデス山脈まで』)。この事も読書会で学んだ事のひとつです。
この新たに知った二つの事を踏まえて考え直したことは、そもそも「単純な子供向けのお話」何てものは存在しないのですが、(だって、実際には童話は残酷なものだと言うではありませんか)、この本も相当教条的だなと思います。だから、作者は本当に子どもに愛国心を植え付けるためだけにこの本を書いたのだろうかと疑ってしまいます。両極端は一致する…、などと申します。スーパー写実的に書かれた絵は、かえってシュールになると言ったような。作者にだけわかるアイロニーが込められていたのではと…、考え過ぎか。
もうひとつ、これに関連しているようなしていないようなお話です。
先日、ラジオを聞いていたら、ある写真家のインタヴューを放送していました。その人の名前は覚えていませんが、新進気鋭の女性カメラマン。現地に飛び込んで撮影し、「エイズの子どもたち」などの写真集を出しています。彼女が何故そのような「社会的な問題」を題材として写真を撮り続けているのか、あるいは何故写真なのか、という質問です。彼女の答えは、
何かの問題を抱えている人たちは、自分でそれを発信する余裕がない。その代わりにできる人が、その状況を訴え続けなければいけない。そして、自分は、写真という表現方法を持っていた。だから、わたしにはその使命がある。
と、めちゃめちゃ簡単に要約してしまいましたが、そんな風に話していました。
それを聞いたわたしの第一感は、「天才は普通の人々の人身御供なんだ」というもの。私利私欲なく、すべて他の人のためにと、人生を生きて行く、つまり、一番有名な例はキリストか、と。仏教もそうでしょうか。あるいは、ガンジーとか、マザー・テレサとか。
ほんとうの「天才」はそう生きられるでしょう。すべてを他の人に捧げて、本人は幸せでしょう。しかし、ほんのちょっとの邪念があったら、その行為は、自己満足になってしまう。自分の幸せのために、「尽くす他人」が必要となってしまう。そんな映画を見ました。多分アメリカ映画のドキュメンタリー。ある中年の女性が、何か問題のある子供ばかり引き取って育てているのです。下半身のない少女とか、皮膚がいつも爛れている少年、または、手がないとか。常にそんな7~8人の子供たちを、親にも見捨てられたそんな子どもたちを育てます。彼等はそんなには長く生きられません。病気ゆえに。しかし、彼女は、メゲズにまたそんな子供たちを引き取っては育てていきます。
その彼女の母親が一言いっていました。「彼女にはそんな子どもたちが必要なの。」と。
どうでしょうか。この二つのお話は繋がるでしょうか。
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