2013年10月20日日曜日

どうなる…アメリカ


以前、「G2」「Gゼロ」について書きました。GGroupGです。G3、G5、GG8、G10と徐々に、主要国会議に出席する世界の国は増えて行きました。今は、G20となっています。しかし、近年、この主要国会議は、数が増えた分意見がまとまらないという憂き目を見ています。

 

そこで、以前に紹介したのは、『「Gゼロ」後の世界』。政治学者イアン・ブレマー氏の著作です。G20は、新興国や既得権を持った主要国の思惑が噛み合わず、世界をリードする存在にはならないだろうという著者の意見でした。「G2」とは、米国と中国のこと。同じく、著者は、この2国では世界をリードし得ないと言っています。彼が予見したのは、「Gゼロ」です。つまり、リーダーの存在しない世界。

 

未だ世界は、「Gゼロ」にはなっていませんが、イアン・ブレマー氏は、最近、世界は予想以上の速さで、「Gゼロ」の世界に近づきつつあると言っています。それは、シリアの化学兵器問題の米国の対応。つまり、そこで世界のリーダーとしての力を発揮できなかったこと。そして、それに続く米国の政府機関閉鎖とデフォルトの危機です。一応危機は脱しましたが、また、来年初頭には再燃しそうです。

 

その上、米国の国家安全保障局(NSA)がテロ対策でネット上の個人情報を極秘のプログラムで収集していたという問題も明らかになりました。米国には良い統治と民主主義があるという国際的信頼が急激に低下しつつあります。米国自体も「世界の警察」という役割への関心を失いつつあります。米国の内向き志向も相まって、世界で指導的役割を果たして行く存在がなくなっていく状況です。

 

 

そんな折、朝日新聞が「大丈夫かアメリカ」と題し、三人の識者に意見を求めています。朝日新聞が選んだのが、中国、ロシアとフランスの面々。そこに、わたしは「おもしろいなあ~~~」と思ってしまいました。

 

その意見の紹介だけします。拙いほんの要約でスイマセンが。

 

 

中国:ニー・フォンさん(中国社会科学院米国研究所副所長)

 

リーマン・ショック後、米国のパワーは傷つき、以前よりも対外政策でほかの国と相談する必要性が生じている。オバマ政権は、小さな友人との関係は調節で来ても、中国やロシアの大国との関係を改善しきれていない。これはかなりの失策だ。

 

また、中国の最大の市場は米国だ。中国人が最も多くのお金を注ぎ込んでいる国でもある。破産されたら、回収できない。一部の外交政策など、同意できないことはあくまでも同意できないが、協力すべきことは協力する。ビジネスはビジネスだ。我々は劇的な変化を望んでいない。平穏で自然なプロセスが好ましい。(つまり、米国権威は失墜しても、中国の覇権の為の戦争にはならないだろう・・・ということか)。

 

 

ロシア:ビクトル・クレメニュックさん(ロシア科学アカデミー米国カナダ研究所副所長)

 

ロシアのプーチン大統領とオバマ米大統領はお互い嫌い合っている。それでも、シリアの化学兵器を国際管理する事で合意した。お互いの思惑が合致したと言う事だ。二国間が冷戦に戻ることはないが、同盟でもパートナーでもない。世界のあらゆる地域の安定が米国だけの力にかかっている状況は終わろうとしている。欧州に米国が居続ける必要がなくなったように、アジアでも米国はプレゼンスを縮小させていく。オバマ氏はとにかく政府予算の重荷を減らす必要があるからだ。

 

そんな時、中国の存在はどうか。かつてのドイツ、ソ連のように拡張主義に向かうのか否か。石油が偏在している中東のイスラム世界とどんな関係を築くのか。米国はその道筋を示してはいない。ロシアにも「シベリアの独立(シベリアの中国化)」という深刻な問題がある。そこには戦争の危機さえ含んでいる。多くの同盟国、そして依存する国々を持つ米国は、国際的責務とそれに割ける力のバランスをとるという、極めて困難な課題に直面している。

 

 

フランス:アニエス・ジャウイさん(映画女優)

 

フランスは今年、米国と欧州連合の自由貿易協定から映画などの文化産業を除外するよう迫りました。各国の映像文化の独立性を保つため、国際憲章の制定も提唱しています。多様な作品をつくり続ける環境を守るためには、市場の論理にすべて委ねてはなりません。自分とは違う他者を理解する事で、人種差別や戦争、自身の孤独と闘うすべを培うことができます。他国の文化に触れる機会を米国人は知らず知らずのうちに減らされており、自国の文化産業の犠牲者とも言えます。

 

 

 

最後のフランスのアニエスさんの意見は、少々視点が違うようですが、一応、紹介しておきました。わたしは、アメリカの力が弱くなって「Gゼロ」という状態に世界がなっても、それで、戦争がボンボン勃発するとは考えにくいので、イインジャないか・・・、と思うのですが。返って、今まで米国に抑圧されていると感じていた国々が、その力から解放されて、独自の平和な国を模索して行くのではないかと考えるのです、・・・アマイですか。








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2013年10月18日金曜日

追記

以前、「英語はそんなに思うほど世界で話されているのか」について書きました。その際、「笑っていいとも」の番組の例を引きました。

で、

今日、同じコーナーがあったのですが、「日本に来たばかりの外国人」の出演者はすべて、英語スピーカーでした。アメリカ人、カナダ人、ニュージーランド人、フィリピン人でした。偶然か、意図したものかはわかりません。それから、報道番組ではなくバラエティなので、そんなにとやかく言うことはアリマセン。

でも、

メディアって、それなりに疑って見た方が良いなって、・・・思いました。






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2013年10月15日火曜日

『はだしのゲン』に「いっちょかみ」



「いっちょかみ」は、わたしの母がよく使っていた言葉です。京都生まれなので関西弁なのだろうか。「ひとつ噛んでおく」、つまり「ちょっと首を突っ込んでおく」といったような意味でしょうか。「ひと言物申す」の関西版オチョケ表現といった感じか。

 

とにかく『はだしのゲン』の閲覧制限問題は一先ず沈静化した様相ですが、9月に「新しい歴史教科書をつくる会」が、この作品を「有害図書」として教育現場から締め出すことを求める要望書を文科相に出したと聞きました。このことに関する新聞記事を読みました。

 

 

記者がこの事について被爆二世でもある日本図書館協会・図書館の自由委員会の西河内靖泰委員長(59)に意見を聞いてみたところ、「良書だから開架にせよという主張も、悪書だから排除せよという主張も、ともに間違っています。どんな図書も平等に扱われるべきです。」の答えで少々驚いたとの事。つまり、特に『はだしのゲン』を支持するわけでもなく、右であれ左であれ、自分の考えと違うものは排除しようとする意志が働くものだが、図書館の自由は、多様な本を等しく扱う事・・・そして、対立する意見を等しく提示・紹介すること、なのだとのご意見だったのです。

 

この記者は、また、「ゲン」の著者である中沢啓次さんに生前取材し、「ゲンとは被爆者の怨念の漫画だ」と中沢さんが語るのを聞いたと書いています。著者にとっても、書いたものが良書であるのか悪書であるのかということは関係なく、自分の表現したいものを書くと言う事なのでしょう。

 

 

また、『名作に常識は似合わない』という違う記事も目にしました。その主張は、「図書館は異様な空間だ。残虐で不条理で不道徳な話に満ち満ちている。」というもの。つまり、青年が金貸しの老婆と妹をおので打ち殺す、『罪と罰』。アラブ人を殺した男が動機を問われて「太陽のせいだ」と答える『異邦人』。若者が皇族と婚約した女性を妊娠させる『春の雪』。などなど・・・、著作物は「善」に満ち溢れているものとはとても言えない。

 

すぐれた作品は読者のことなど御構いなし。読者の良識や常識、そんなものを考慮していては作品は書けません。読者はそんな自分と異質なものに向き合うことによって、戸惑い、反発し、考えるのです。そして、作品は読み継がれて行くのです。だから、『はだしのゲン』が良識にかなっているのかと問うことは、無駄なこと。誰かが、自分の考えと違うと言って、教育的配慮や歴史認識の問題を持ちこむと、その作品の世界とは違ったところに議論が行ってしまう。

 

この記事の著者の結論は、「平和を訴える本に感動すれば反戦主義者になる、戦記に夢中になれば好戦的になる、というほど人は単純ではない。さまざまな作品を糧としながら自分の考え方をはぐくむ。だから図書館は豊かで異様な空間であってこそ意味を持つ。そこに常識と衝突する作品があることは異様ではない。」でした。

 

 

わたしは、良い本も悪い本も、いろいろな雑多な本を読むことによって、自らで自分にとって何が正しいのか、有意義なのかということを選び取る力が生じるのであり、誰かが何を読むべきかを選択提示すべきではないと思います。もっと読者(子どもを含む)の良識や知性を信頼すべきです。為政者は、その時々によって変わりますからね。その度に、何が良書で、何が悪書かがコロコロ変わるなんてことはないはずです。と、思いますがね・・・。

 




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2013年10月13日日曜日

英語って「言うほど」世界で話されているの?



前回、インターナショナル言語としての英語の潮流について少々考えてみましたが、考えているうちに「んっ、ほんとにそうか」と思ってしまいました。

 

中国の事はちょっと脇に置いて、少し前に世界で話されている言語として、スペイン語が英語を抜いたと聞いた記憶があります。日本と言う地域柄、外国語と言うと英語と反応してしまいますが(あるいは中国語や韓国語か)、世界ではそうでもなさそうです。

 

つい最近の新聞で、現代イスラム研究センター理事の水谷周さんという方が『私の視点』というコラムに意見を寄せておられました。アラビア語についてです。

 

彼によりますと、

 

広く国際社会を見渡すと、アラビア語は特殊言語ではなく、多くの人が使用する広域言語なのである。アラブ人でなくとも、イスラム教徒となれば聖典コーランを読むためにアラビア語を習得する。ムスリムはアジアやアフリカ、欧米を含め、世界人口の4分の1になりつつある。英語と匹敵する存在であり、国連の公用語の中でもフランス語やスペイン語とは比較にならない(ほど重要)。国際報道の点から見ても、アルジャーラというTV局は、世界に対し重要な情報を「アラビア語」で発信し続けている。

 

前回五輪のあったロンドンには10万から30万人のアラブ人が住んでいる。ブラジルには1千万以上が住んでいると言われる。ロンドンの道路標識では、五輪以前からアラビア語が英語、スペイン語と並び表記されている。

 

以上、彼の主張の簡単な要約ですが、また、「アラブ人は一般的に英語ができると言うのは、誤解にすぎない。ロンドンで盛んにアラビア語通訳の宣伝が出回っていることが、それを証明している。」とも書いておられます。わたしもたびたびそんな感想を持ちます。つまり、日本人は、「日本人は英語が話せない。他の国々の人々は話せるのに」と思いがちですか、思ったほど、他の国々の人々は英語を話せませんよ。

 

とても卑近な例ですが、先日、タモリの「笑っていいとも」を見ていると、日本に来たばかりで日本語を理解できない外国人を連れて来て、出演者が好きな漢字を選んでその文字を書いたT-シャツを、意味がわからないままにどれが好きか選ぶコーナーがありました。5人くらいの外国人が出ていました。国籍はバラバラです。フランス人、イタリア人、マレーシア人等などです。で、その通訳は「英語の通訳者」ひとりだけ。誰でも英語が話せるという思い込みですね。実際、英語を話せる人はいましたが、あまり流暢ではありません。英語でなされた質問に、頓珍漢な答えをしていました。キルギスの人が一番流暢に英語を話していたと思います。その他の人は、フランス語やなにか出演者同士で通訳をし合っていました。

 

テレビのニュースなどでも、アラブの春などで話題になったエジプトやまたは経済問題ではギリシャ等など、「英語の国」でない街かどでインタビュアーは当然のごとく英語でインタビューをしていますが、彼等は、その思いのたけを英語で話せるほどの実力があるのでしょうか。または、英語を話せる人だけが選ばれてインタビューに答えると言うシステムです。国際的ないろいろなスポーツ選手のインタビューでも、勝利者は英語でインタビューされています。その英語能力はまちまちです。

 

以前、『日本人の9割に英語はいらない』という本を見ました(わたしは読んでいませんが、成毛眞著)。そんな感じです。今年ニュージーランドで出会ったスイス人の青年も、「スイスでは、英語なんて全然必要ない。でも、物理学者になりたいので、英語を学んでいるのだ。論文を英語で書かなければいけないから。」と言っていました。そんな感じです。「英語を話せない日本人」と言っても、外国人相手の旅館やお土産物屋さんは英語話していますよ。そんな感じです。

 

 

 

前回、「カタカナ日本語」は日本語だ…と書きました。でもアルファベットで書かれたものは違います。フランスでもイタリアでも・・・でも、パトカーにPOLICEとは書いてありません。日本の道路で、そんなPOLICEと書かれたパトカーに出会う度にウンザリしてしまいます。









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2013年10月6日日曜日

続・カタカナと外来語


「カタカナと外来語」は英語クラスでの発表のために書いたのだが、その発表が一週間延びた。そのため、引き続きこの問題について考える破目になった。

 

前回の三人の意見は、微妙に論点が違っている。前の二人は、英語が世界中に侵入してきて、他の文化に影響を及ぼしているという主張だが、最後の岡康道さんの意見には、その論点はない。それ以上に、英語の侵入を取りこんで自らのものにし、そのパワーを跳ね返す勢いを感じる。

 

わたしの意見として、「英語のみがインターナショナル言語として世界に受け入れられ席巻して行く事には反対である。言葉は文化である。ひとつの言葉のみが、全世界で席巻すると、他の文化が廃れていく。その文化を表現できる言語がなくなってしまうからだ。世界には文化的多様性が必要である。異なった言語で、異なった表現がされ、異なった意見がたくさん出ることで、互いが刺激し合って、発展が促される。」――と書いた。しかし、反対に、英語がインターナショナル言語となることは、英語にとっても不幸な事だと考えている。というのは、岡さんが指摘しているような「英語の侵入を跳ね返す」力である。

 

今、世界で話されている英語の50%以上は、英語ネーティヴではない人々が話していると言われる。その人たちが全て正しい英語を話しているとは考えにくい。あるいは、彼ら自身の文化に沿って英語を話しているのかもしれない。つまり、反対に英語の方が崩壊しているのである。

 

わたしは、このあたりで、英語を一括りに「英語」と呼ぶのはもうやめにした方がいいのではないかと思う。イギリス英語・アメリカ英語・カナダ英語・オーストラリア英語等などと、区別すべきではないのか。そして、それぞれの国の文化を担う言語であるとして認知すべきだ。日本に「正しい日本語」を規定する協会があるように、正しい英語を保守して行く協会があると言われるかもしれない。カナダ人の先生は、イギリスにそういう協会があって、カナダもそれを遵守していると話していた。しかし、アメリカはどうか。想像するに難くはない。

 

私の結論としては、「インターナショナル言語は自然発生的な言語ではなく、人工に作られた言語であるべきだ。」と言いたい。破壊される文化を内包していない言語という意味で。

 

 

もうひとつ英語をインターナショナル言語として受け入れたくない理由は、それが、昨今の世界のグローバル化を背景としたマルチ・エンタープライズの存在と関連しているのではないかと思うからである。それはまた別のお話と言うことで…、また、考えます。。。





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2013年10月1日火曜日

カタカナと外来語

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『日本語を大切にする会』で世話人を務める高橋鵬二さんが、「NHKは放送番組や番組名で外国語を使い過ぎることをやめるべきだ」とNHKに対し、名古屋地裁に提訴した。「リスク」や「ケア」など、外国語を使わなくても表現できる言葉を多用しており、内容が理解できず、精神的苦痛を受けたとしている。

 

朝日新聞は、この訴訟を踏まえ、『カタカナ語の増殖』と題し特集を組んだ。そこでは、三人の論客が、それぞれ違った観点から意見を述べている。

 

 

アルベール・サロンさん(フランス人、「フランス語の未来」協会長、文学博士)

 

この協会の目的は、米国主導で英語が世界の言語の覇権を握ることに反対すること、そしてフランス語を守り、文化の多様性を守ること。

 

フランスは、ヨーロッパが欧州連合を立ち上げた時、1992年に憲法を改正した。その際、「共和国の言語はフランス語である」ということが明記された。この憲法の一文により、「フランス語の使用に関する法律」が制定され、フランス語の位置が確保されている。それでも、英語の乱用は拡大しており、「イーメール」を「クリエル」と言い換えることを求める活動などをしている。「ソフトウエア」が「ロジンエル」というフランス語に言い換えられ、定着した前例もある。

 

「一つの言語が他を支配するようになれば、モノの考え方も単一になる。母国語を守ることこそが、国家の独立を守ることにつながる」と、彼は主張している。

 

 

津田幸男さん(筑波大学教授)

 

彼は、日本人は外来語をあまりに無防備に無神経に取り入れ過ぎると、日本語防衛論を唱えている。そして、氾濫の元凶は四者あると指摘する。

1.企業:商品名や社名、宣伝、看板に外来語が多過ぎる。

2.官公庁:難しいカタカナお役所言葉を全国に撒き散らしている。

3.知識人や学者:本来、翻訳や言い換えを考える立場なのに、それをしないでカタカナのまま使うことは、知的怠慢だ。

4.報道機関:以上の三者の外来語を無批判に垂れ流している。

 

「言語法」の制定を検討すべきだ。外来生物には「外来生物法」という法律が対応している。ことばについても日本語の威信と地位を守る「日本語保護法」などの法律が必要と主張している。

 

 

岡康道さん(クリエーティブディレクター)

 

「これまでカタカナ語を不快と思ったことはない」と、岡氏。職業柄、身の回りの言葉はほとんどカタカナで、彼にとっては、カタカナは純然たる日本語の一部であると言う。

 

かつて、コピーライターを「文案家」と言ったことがあったが、この言葉は廃れてしまった。言葉は生き物なので、使われなくなればお終しまい。逆に使われている言葉は、それなりの存在意義を持っている。「自由」と言う言葉は、FREEDOMの訳として現われたのだが、現在も使われていて、フリーダムとカタカナでは書かない。それは、「自由」と言う言葉に、洗練された美しさがあったからだ。つまり、ダメなものは消え、魅力あるものは残って行くということ。「日本語を守れ」と権力や権威を背景にして唱えても、残るものは残り、消えるものは消える。

 

カタカナ語は、出自は外来でも本来の外来語の意味から離れ日本語として日本語を豊かにもしている。「カタカナ語も新しい日本語表現として面白がって使っていけばいいのではないか」と、彼は主張している。

 

 

わたしの観点では、英語のみがインターナショナル言語として世界に受け入れられ席巻して行く事には反対である。言葉は文化である。ひとつの言葉のみが、全世界で席巻すると、他の文化が廃れていく。その文化を表現できる言語がなくなってしまうからだ。世界には文化的多様性が必要である。異なった言語で、異なった表現がされ、異なった意見がたくさん出ることで、互いが刺激し合って、発展が促される。

 

と言って、津田氏の言う「言語法」の制定には反対する。何か胡散臭い匂いが漂うから。わたしの思いは、最後の岡康道さんの意見に近い。アルファベットで表わされた外来語とカタカナで表わされた外来語は、全く意味が異なる。我々は、幸いにも「カタカナ」という表現方法を持っている。外国語をカタカナで表わせば、それは日本語になると思うのである。津田氏の言う「外来語即日本語ではない」と言う事にはならない。そこに意味の置き換えが起こっていないから。それ以上に、本来の日本語の意味に何かをプラスしていさえしているように思う。

 

これが、企業が英語を社内語とするようなことであれば、それはもう単に日本語を捨てて英語そのものだけを活用していることになるのであろう。以前上海に暮らしていた時、中国の新聞を見る機会が多々あった。もちろんのこと、中国にはカタカナはない。外来語は、中国語に訳されて漢字で表現されるか、訳しきれないものはそのままアルファベットで表記される。中国の新聞には、漢字に混じってアルファベットが見える。それは、とても醜い光景だ。プラス、そのアルファベットで書かれた文字は、それで表現される意味を表わすのみで、中国語とはなっていない。日本の新聞の中で見られる、カタカナの外来語は、見事に日本語となっていると思うのである(それに、なっていないものは、自然に消えて行くよ)。