2014年4月27日日曜日

『身体から革命を起こす』



古武術家甲野善紀氏とフリーライターの田中聡氏の共著である。主に甲野氏が語った事を田中氏が文章化したらしい。甲野氏は、『笑っていいとも』などのTV番組で2~3回見かけた。古武術の技を介護などに応用しているらしく、日本の古い技を継承している貴重な存在の人だなあ~、という感想だった。

 

もともと『忍者武芸帳』とか『カムイ外伝』などの白戸三平の劇画のファンだってこともあり、わたし自身は、昔の武術家の凄技を信じていた。甲野さんは、その凄技を体現しようと努力しているようである。どんな、技があるのかなあと軽いノリで手に取ったのだが、さあ大変、「人の在り方」を問う深い内容だった。とは言え、難しい本ではなく、甲野氏はただご自分の日々の修行のことを語っているのである。そして、甲野氏に圧倒された各分野の一流の人たちの彼に対する証言である。例えば、元巨人軍桑田真澄氏、コンテンポラリー・ダンサーの山田うん女史、フルート奏者の白川真理女史そして介護福祉士の岡田慎一郎氏などなど。

 




 

感銘を受けたところは多々ある。しかし、一番は「人間は自分の身体の使い方を忘れてしまった」ということ。わたしも常々、科学の進歩で「人間」は何かヤバいことになっていると、うすうす感じていたが、実際にどうなのかということが語られていて、わたしが感じていたこともあながち間違いではなかったと思った。

 

日本における最初の変化は、やはり「黒船来航」によるものだ。西欧人を見た日本の「偉い人たち」が、日本人の身体が西欧人と比べて貧弱であり、動き方も洗練されていないと感じたのだ。もうひとつ、日本の近代化を促進する為の富国強兵に携わる軍隊が、日本人の身体行動パターンでは成り立たないということ。つまり、日本人は近代的な行動科学に基づく動きをしていなかったということ。もちろんそれは日本人にとっては、理にかなった動きであったのだが。

 

近代医学で身体の構造を示されれば、なるほどそれは解剖してみればその通りだ。しかし、こういう構造だから、身体はこのように動いていると概念化されても、ところがどっこい、身体はそのように動いていないらしい。「医学的にあり得ないことが、我々の日常の暮らしである」と、著者は言っている。例えば、プロ野球でバッターがボールを打つことすら、情報の神経伝達の早さを考えると「ありえない」ことであるという。

 

いろいろな物が近代化されるまでは、我々人間は、身体を使って仕事をしていた。それが、今考えれば重労働のようであっても、当時の人々は、その仕事に合った身体の使い方をしていたのだ。その頃は、人の身体の動き方で何の仕事をしている人かがわかったという。そして、今の人が考えるほどの重労働ではないということ。日本人がアフリカの国々に行って、日常生活を体験するというテレビ番組がよくある。そんな中で、日本人はアフリカの辺境に住む人々の身体能力に驚いたりする。明治以前の日本においても、そんなことが想像される。

 

著者によると、日本人の身体の動かし方はアジア人と比べてみても特殊だったらしい。しかし、例えどの国であっても(西欧でも)近代化される以前は、人は生活にあった動き方をしていたのだ。科学的思考により、身体はこう動くと概念化された。それにより、人は自分の自然な動きではなく、そのように概念化された動きに支配されるようになった。この書ではこのように述べられている。

 

「近代には、人々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある体である。その理想像の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体である。(中略)。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働と無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。」

 

 

冒頭でも紹介した違った分野で活躍する人々は、甲野氏の講演や実技に接触し、衝撃を受ける。そして、その一部でも自らの仕事にフィードバックできた時、彼らは「自分が持っていた感覚がよみがえった」と感激する。自分の持っている感覚を目覚めさせればいいんだと。フルート奏者の白川真理女史は言う。

 

「音楽大学というのは、昔なかったんですよね。音楽は、本当に才能があって神様に選ばれた様な人だけがやっていた。それがフランス革命とかで市民階級が台頭して、その後有産階級の子弟が入れる学校ができて、ようするにお客さんになっちゃった。そうすると。大勢のほどほどの人が、そこそこのことができるようにしないといけないから、マニュアル化していった。」

 

だから、そこで才能がない人をそこそこにする教育ではなく、才能がなくても身体の感覚を磨けば可能性が広がるということを、彼女は言いたかったのだ。マニュアル化する=学校の存在は、資格制度の構築。そしてそれは、利権の棲みかでしかない。だから、人は自分の能力を取り戻すしかない。自分の身体に聞いてみること。自分にとって何が正しいのかを。「生きているものとして在ること」、「生きている身体を取り戻すこと」…、そんな感想。

 

 

その他にも、もっと「そうだ!」と思う記述もありました。それは自我あるいは個人について。西欧とその他の国での違いはindividuality をどう見るかと言うこと。キリスト教文化と仏教文化の最たる違いは此処にあると思う。この古武術を習得するにも、先ずは、意識を消すこと。己を消すこと。身体を自然な流れに任せ、意識せずに身体を動かせるようになること。

 

う~~~ん、これは、打ち破りがたい相克でしょうね。

 

 





にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿