2014年4月13日日曜日

『ソマリランド』――読み終えました。



『謎の独立国家……ソマリランド』について、以前に取り上げました。こんな感じです。

 

「今年最高の本」、「本屋さん大賞」と「講談社ノンフィクション賞」を受賞。「三冠制覇!」と帯に謳われています。わたしは、そんなことはどうでもいいのですが、同じ帯に書かれている「西欧民主主義、敗れたり!!」に惹かれて買いました。というのは、近年思うこと、「(西欧)民主主義って絶対なの?」からです。

 

 

しかし、もっとも興味ある「西欧民主主義、敗れたり!」の部分が書かれている最終章をその時まだ読み終えていませんでした。最終章を読んでみて、やはり著者の結論は論理的なものではなく、冒険旅行から得た感覚的な結論でした。もちろん、わたしが違う方向性でこの本を読んだだけの話で、それは著者のせいではありません。感動的な物語だった、と言うことは確かです。

 

彼は西欧諸国の民主主義に対して、ソマリランドの民主主義を「ハイパー民主主義」と表現しています。彼は、その土地にはその土地なりの発達の歴史があるので、西欧諸国で発達した「民主主義」そそのまま移植されても、反発されるのは必至であると記しています。わたしもその点は大賛成です。しかし、その他の独自の民主主義(アジア民主主義、アフリカ民主主義、イスラム民主主義など)が、今の世界の主流である西欧民主主義とどのように折り合いをつけられるかが問題です。なぜって、彼等は西欧民主主義以外の民主主義を民主主義をと認めそうにないもの。

 

 

著者の結論を言いますと、ソマリランドの民主主義は、氏族民主主義です。彼の言う氏族とは、日本で言う藤原氏とか平氏とか時代を下れば武田家とか上杉家とかいうもの。簡単に言うと、西欧の民主主義が「個人」を基に構築されているのに対し、「氏」というものを単位に構成されているということでしょうか。ソマリランドには憲法もあり、議会も日本のように二院制です。大統領も公選で選出される、立派な立憲民主主義国家です。

 

二院制のひとつは、グルティと呼ばれ、日本の参議院のようなもの(ただし、著者によれば日本の参議院より、よほど真っ当)。日本の参議院は、一応有識者からなるとなっていますが、グルティは氏族比例代表制です。氏族の規模に応じて議席数が決められます。アフリカにはもともと「国家」というものが存在していなかったので、国家の範囲と言うものがあいまいです。よって、国の範囲=参加氏族の範囲となります。とても理にかなった制度です。つまり、西欧に押しつけられた国家像に依らず、歴史の流れによる国の造りとなっていること。

 

問題点は、西欧民主主義に慣らされている我々が、個々の権利ではない「氏族」の縦社会の原理をどう感じるかと言うことです。実際、個人とか自我とかいう概念は西欧諸国以外の国には馴染みのない概念だとわたしは思います。日本が民主主義国家であるとは言え、個ではなく、「家族」とか「村」の意識が強い。それはそれで、「日本の民主主義」なのかなあと。つまり、社会の形態はどうあれ、全ての人の「自由」が保障されることに価値があるのでは。西欧諸国の人々のすべてが、その民主主義により個人の権利や個人の利益を保障されているわけではないのですから。

 

スピノザは言います。「もし人間が自由なものとして生まれついていたら、自由であるあいだは、ひとびとは『いい』とか『わるい』といったことについて、なんの概念も形成していないことだろう。」と。

 

ヒトの存在自体は、何にも妨げられない「絶対的な」存在であります。それが、何者かが恣意的な社会を創作し、ヒトはその恣意性に翻弄されているということです。

 


 
 

 

最後に、著者は「ソマリランドのディアスポラになってしまった。」と告白しています。それで、わたしはルワンダのディアスポラ達のことを思い出してしまいました。それから、著者が、ルポ中に常用していた「ヵート」についても興味あります。そんなお話はまた次回に…ということに。






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