2014年6月29日日曜日

今日の新聞記事から考えた…


英語のプライベート・レッスンは、『Self-Reference Engine』をやめにして、先生とわたしで交替にイシュウを持ち合うということになりました。と言ってこれも長続きするかどうかは未知の領域。先回はわたしがトピックを持って行きました。このブログの「人気第二位」になっている『自由か、さもなくば幸福か?――21世紀の<あり得べき>社会を問う』です。

 

クラスの前に、先生に「そういうことにした」とメールしておきました。レッスンの日、彼は、「自由と幸福について3点ほど考えてきた」、って…。「オオッ、珍しい」というか奇跡が起こった。家で考えたってか。と思いましたが、ここで先生にリード権を取られたら、先生の話をただ聴いて終わってしまうことになると、「先ずは、わたしから説明したい。」と先手を取りました。クラスでのわたしの目的は「たくさん英語を話す」だからなのです。

 

わたしが話した内容は、ブログで書いたような事。で、先生の反応というか言いたかったことは、

 

Do you think “freedom” and “happiness” can coexist?

 

でした。

 

正直言って、この「自由と幸福」の命題は、今回この『自由か、さもなくば幸福か?――21世紀の<あり得べき>社会』の書評を読むまで考えたことがありませんでした。このふたつがそんなように対立する概念とは思っていなかったからです。この書評の中にも、「自由と幸福はどこまで両立するかというのは西洋で19世紀以来の大問題」であると書かれていましたが。

 

なので、わたしのいつもの論理の展開で、「それは19世紀の西洋の自我と合理主義の命題の延長である。」と。東洋思想ではそういう風には展開しないと。ちょっと、我ながら「何だかなあ」とは思いましたが、強気で押してみました。続いて、19世紀からの西洋の思想が世界に浸透、反映していったので、その他の地域の自然な思想展開を阻害したのだと言ってみました。西洋思想は「神が死んだ」あと、自らがこの世界の創造主であるが如く振舞っている。そして、究極的に頭の中にチップをいれて、自分の中の自然を殺して行くのだ、…なんて。

 

先生は、それでは、人の「幸福」は何かと聞くので、わたしは反対に人の「不幸」について述べてみました。

 

人類の不幸は「お金」と「言葉」を発明したことだ。抽象的概念を発明したことが人を不幸にしている。

 先生は、

“People invented abstract concepts.”

 

と言って、「イイね」と言ったよ。

 



 

しかし本題は、話はちょっと変わって(関連はしていますが)、今日の新聞からの記事です。

 

『人類進化700万年の物語―――私たちだけがなぜ生き残れたのか』

 

人は、絶滅危惧種の保護と生物多様性の維持に努力しているが、我々自身はどうなのか。この180年間の発掘調査で27種のヒト族の骨が発見されたが、今、生き延びているのは我々ホモサピエンスだけ。ほかの種族は「絶滅」してしまったのだ。それは何故か。現時点での、その解答である。

 

一つには、ヒトが未熟な状態で生まれてくること。人類に特徴的な長い幼年時代のために親子で過ごす時間が多くなる。その間、教育や学習に膨大な時間と手間をかけることで、より多様な環境、状況に対応できる能力を得る。ネアンデルタール人が滅んだのは、彼らは我々より「早く大人になる進化の道」を選んだため。

 

氷河期到来で生存環境が厳しくなった時に、「高度な知性」(学習)が有利に働いた。また自然界にないものをも作り出す言語能力も生き残りの一助になっている。

 

 

人間は、DNAでは受け継ぐことができない知性を学習して行かなければ生き残れないようです。人類の歴史が進むにつれて、その学習しなければいけないことがドンドン膨大になっていく。自然界にない概念をも作り出して、同時にそれも学習によって受け継いでいかなければならない。こうして人類は、生まれた場所からさらにさらにかけ離れたところに突き進んでいくのです。

 

 

つまり、人間の進化のメソッド自体が、人を不幸にしているということでしょうか。

 

 






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2014年6月23日月曜日

読書ノート


先日、本棚をプラプラと探索していたら、いつ書いたかわからない読書ノートを見つけた。中を見てみると、なんだか素敵な事が書いてあった。わたしにこんなこと書けるわけがないので、何かの本の書き写しと思う。

 

「人間は、哲学によって、人間であることから解放される。」

 

こう書いてあった。

 

多分、別冊宝島44『現代思想・入門――サルトルからデリダ、ドゥルーズまで、知の最前線の完全見取り図!』のノートと思う。中を見ると1985年発行とあった。約30年前だ。今はもう「最前線」ではない。この後にポストコロニアリズムやカルチャラル・スタディが続いて行く。

 

この頃は訳もなく、全然理解しないまま、心に引っかかったフレーズを書きとめていたのであろう。今は、少しわかるような気がする。人間は言葉を発明して以来、物事を抽象化し続けている。この抽象化したものと現実実体の乖離を埋めるものをヒトは探し続けているのだということがわたしにもわかってきたからだ。

 
 
 
 

デカルトは「認識と実在としての対象の一致は、神によって保証されている。」と言う。神が存在していた時代はこれでよかった。人が神を信じなくなってからは、人類は自らの手でこの問題を解決しなくてはいけない。そして、今なお哲学者と言われる人たちは、この問題に取り組んでいるのだ。

 

フーコーは、その著書『言葉と物』の中で、エピステーメの三つの時代について述べている。

1.ルネッサンス期とバロック期:言葉と事物が一致していた時代から、裂け目ができ始めた時代

2.古典主義の時代(17世紀前半~18世紀末):言葉と事物が分離し、言葉が事物の記号となった時代

3.19世紀以降のいわゆる近代:「人間」という中心的概念の要求

 

 

人間は、確かに宇宙の一部であった。しかし、近代が「合理的理性」を人間の土台に据えたため、人間は自分の中から「自然」を排除し始めた。それは永遠に到達できない目標である。銀河鉄道999の星野鉄郎のように機械の身体を求め続けて行くとでも言うのであろうか。






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2014年6月21日土曜日

読書会 2


英語の読書会をしていると以前書きました。生徒は3人で(今のところ)普通の英会話学校で先生を立ててもらって進んでいます。つまり、こんな教室を持ちたいとリクエストすると、学校がアレンジしてくれます。

 

今回から先生が変わりました。先生はイギリス人でしたが、「オメデタ」でしばらく休むという事。新しい先生は同じくイギリス人で若い男の先生です。わたしたちは(初期の目的は)、3人で順番に本(10ページほどのショートストーリー)を推薦して読書会までに家で読んで来て、クラスでは内容についての感想・意見を言い合います。普通の英会話学校の先生は、自宅で授業の準備などするわけもなく、クラスの前に10ページの話を読んで来てくれるのだけでも奇跡的です。だから、それ以上のことを先生には期待していません。

 

前の先生は「それなりに良い先生」でしたが、わたしたちが持っていった本のヘミングウェイもスタインベックもサマセット・モームも知りませんでした。しかし、それはそれなりにやりやすく、わたしたちは勝手にあれこれ話すことができました。わたしたちの目的は「いっぱい英語を話す」ということですから、ひとりでしゃべりまくる先生は必要ないのです。ちょっとnasty と思われるかもしれませんが、自分の関心あること・知っていることだけ熱心に話して、生徒が話している時はあくびをかみ殺している先生…に、わたしたちはほとほとウンザリしています。

 
 
 
 

で、今回の読書会は小説ではなく認知論関係でした。というのは、わたしたちの一人が、小説ではなく、『東京大学の英語の教科書』というのを持ち込んだからです。英語を学ぶためのものですから、内容は二の次です。英語自体はそんなに難しくはありませんでしたが(小説は往往にして文法通りではないし、詩的表現などはちょっと理解不能ですからね)、ロジックが難しかったのよ。

 

A Super Tunnel』という題です。わたしは三回ほど読み返してようやく理解できました。そして、多湖輝氏の『頭の体操』を思い出しました。そんな感じのクイズのようなもの。三つの箱の中に10ドル入っていて、そのどれかを当てるともらえるという実験(テレビ番組)。司会者はどの箱に10ドルが入っているか知っています。そして、一人の人が10ドルを当てるべく箱を一つ選びます。そして残りのふたつの箱のうち10ドルが入っていない方の箱を司会者がオープンします。彼は、からっぽの箱を知っていますからね。そしてこう聞きます。

 

「これで、残りの箱はふたつです。あなたが選んだ箱に10ドルが入っているでしょうか。それとも残りの箱の方でしょうか。あなたは選んだ箱を変えるチャンスが与えられます。どうしますか。」

 

たいていの人は、箱が3個の時は10ドルが入っている箱を当てる確率は3分の1、そして、箱が二つになったのだから確率は2分の1になったと考えるでしょう。そこが、『A Super Tunnel』なのです。それは、直観でしかない。論理的ではない。人は論理ではなく直観で物事を判断している。直観と論理とで結論が違う場合、人は自分の直観の方を信じる。という訳。

 

司会者が空っぽの箱をあけたことは、この際選んだ人には関係ないのです。なぜなら、司会者は「どちらが空っぽであるか」を知っていたから。だから、選ばれた箱に10ドルが入っている確率は、なお3分の1であり、残っている箱に10ドルが入っている確率は3分の2となるのです。従って、選んだ人は、いつも選んだ箱を変えた方が良く、10ドルを獲得する確立が3分の1から3分の2に変わるということになります。

 

どうですか。おもしろいでしょう。これは、ほんの一部のサマリーです。今回の内容はもっと複雑でした。先生は我々にサマライズしてみよと言っておいて、彼は内容を理解していないようでした。わたしたちが日本語で書かれたものの全てをは理解できないように、先生も英語で書かれたものの全てを理解できる訳ではないのです。単純なお話でしょ。

 

 

次回はわたしの当番で、Lafcadio Hearnの『怪談』を選びました。どんな意見が飛び出すか楽しみです。

 
 





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2014年6月18日水曜日

『里山資本主義』を読んで


この本は多分一年くらい前に買いました。また最近、新聞広告などで見かけるようになったので、「ああ、早く読まなきゃあ」と。早く読まないと時代遅れになるかもと。つまり、今読まないと、新鮮さが失われる本の類のような気がしましたから。

 

読みましたところ、内容は新聞やその他で報道されてきたものの集大成という感じでした。目新しいところはナシ。と言って、役に立たなかったと言う訳ではありません。いろいろな事を考えました。



 

里山資本主義は「マネー資本主義」に追従しないで、お金のやり取りのない「おだやかな経済」を志向しようという提言です。例えば、裏山で薪を拾ってきて、自分で育てたお米でごはんを炊いたら、電気やガスを使わなくてもよい、何も買わなくてよい。つまり全然経済活動には貢献していません。今の世の中は、お金を媒介にして取引をしないと世の中の役に立っていないと錯覚させる仕組みです。なんでもかんでも大量に生産し大量に消費させること。そしてそれが、GDP/国内総生産を押し上げることになります。GDP世界第三位と実生活の豊かさは必ずしもリンクしていないのです。

 

「そもそも人はなぜ職業を持たなければいけないのか」というのがわたしの疑問です。いつからそうなったのでしょうか。端的に言えば、「お金」というものができてからでしょう。ギリシャのアテネ金貨が一番有名ですが、その前から、お金は存在していました。人は仕事をしてお金を得て何かを「買わなければいけない」。自然の恵みを狩猟採集して生きていた時からの大転換です。

 

しかしイギリスで起った第二次産業革命前までは、人はまだ自然の営みの中で生きていたような気がします。この時から「マネー資本主義」が湧きだしてきたのでしょうか。(イギリスは何も無いものを売る天才だ。銀行然り、金融業然り、特許、知的財産権然り…、CO2の売買権などなど。)それもまだせいぜい200年というところです。これが人類が理想の形態を手に入れたという最終段階ではないのです。本書では、「懐かしい未来」と表現しています。以前のような「お金を媒介」としない関係を結ぶことによって、新しい未来を築いていこうという事。なにもほんとうに原始時代の狩猟採集生活あるいは物々交換生活に戻ろうと言っているのではなく、せめて「無からお金を生みだす」ようなシステムは考え直した方が良いのでは。

 

もうひとつ思うことは、職住近接の問題。人がお金で物を買うようになってからは、職を得てお金を稼がなければいけない。そして、「都会」の出現です。お金を稼げない「いなか」を捨てた人々は都会に群がります。そこでは、生活の場所と働く場所が異常に離れています。わたしがまだ子供の頃は、小学校の友達の親はたいてい近所で働いていました。小さな商店を営んでいたり、近くの市場で働いていたり、工場で働くのも近所の工場でした。大人たちがいつも近くにいたような気がします。そこには「家族」が存在していました。里山ではそんな生活があると著者は紹介しています。そしてまた、少子化の問題や高齢者介護、老人福祉の問題もこんなところから解決していくのではと提言しています。いかにお互いを縛り付けない「絆」を築けるかですかねえ。

 

また、里山資本主義と企業が押し進めるスマートシティの近似性を著者は指摘しています。これに関連して最後に、最近読んだ新聞記事を紹介したいと思います。『日本企業の「善意」震災復旧早めた』というもの。英国エディンバラ大学の研究者が発表した論文です。

 

2011年の東日本大震災で、部品供給網を寸断された複数の日本企業が、限られた資源を時には競合企業との間で調整し共有したことが、迅速な生産復旧につながったと論文は指摘しています。大きな被害を受けた企業の多くが、単なる契約上の義務の範囲やグループ企業の系列を超えて協力し合ったことに着目し、企業間コミュニティを通じて「社会資本」が働いたと指摘。各社が知的財産権やその他の商業的利害について法的保証を要求していたら実現しなかっただろうと論じています。

 

日本には「個」よりも「和」を優先する独自のモラルがあり、米国(多国籍企業、グローバル経済)に押しつけられても、軽やかにそれを有耶無耶にして、密かにしっかり独自路線を走っている日本資本主義をこれからもしっかり守ってもらいたいものだと思います。

 

 

以上





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2014年6月12日木曜日

ちょっと思い出しました。


前回、日本語に対する英語翻訳について難癖をつけましたが、日本の翻訳本については難癖を付けるつもりはありません。もちろん学術書などで理解できないのがあるのは、翻訳が悪いこともあるという事を聞いたことはありますが。

 

その難癖の文章を書いていて思い出したことがあります。一般的に、日本人は完璧主義でトコトン細かいところまでこだわると思っています。以前、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』をUPしたことがあります。アメリカ人の作家の小説ですが、オリジナルはドミニカ共和国でスペイン語が母国語の人です。この本も、英語とスペイン語の半々くらいで書かれているとか。作家本人は、「アメリカ人が全員英語を話せるとは限らないし、半数ほどはスペイン語が母国語の人々が住んでいるのだから、こんな本が出版されるのも道理だろう」と言っています。

 

この本の日本語の翻訳家も2カ国語なので相当苦労したようです。しかし、彼は、英語もスペイン語も、その他「オタク用語」にも熱心に取り組み、「この翻訳が世界で一番優れた(フランス語版とかドイツ語版とか)、間違いの最も少ないものと自負している。」と訳者あとがきで述べています。つまり日本の翻訳家は、「翻訳文化」と言われているように(揶揄されているのか)、それだけで成り立つような独特な世界を作り上げていますねえ。

 


 

わたしが思い出したことは、上海に暮らしていた時のことと、イギリスのマーゲートの英語学校に3週間通っていた時のことです。上海には2003年から2005年まで約2年間仕事の関係で住んでいました。その時の苦労は並大抵ではありませんでした。その一つは、通訳者。上海では通訳者は電話一本で出前のように雇えます。しかし、その技量は???です。日本人は、いくら英語をペラペラしゃべれても、英語は話せますかと聞かれれば、「まあまあです。」と答えるでしょう。が、他の国の人々はたいてい、「こんにちは」と言えるくらいで、「日本語を話せます。」と言いますよ。その時の通訳士もそんな感じで、わたしの中国人の友達より日本語が下手でした。

 

その時は凄いトラブルに巻き込まれていたので、わたしのトラブル相手がその通訳を雇ったのです。わたしは、わたしの友達を連れていきました。その友達が、通訳とわたしの間を取り持つような体たらく。あとで友達と「あれでよくお金取るネ」と言い合いました。

 

 

イギリスのマーゲートには2002年に行きました。日本人で英語を学びたい人は、「英語がオリジナルでない国に行った方が良い」と言いたいです。つまり、ケープタウンとかマルタとか母国語が他にある国です。英語がオリジナルな国にアジア人が行くと、たいていは実力より下のクラスに入れられてしまいます。考えてみれば、アメリカ人と中国人が目の前にいて、どちらが日本語をうまく話せるかと推測するなら、中国人を選んでしまいそうでしょ。顔のせいです。そんな感じで、イタリア人やポーランド人などと並べられたら、彼らの方が英語を話せると判断されてしまう訳です。

 

その伝で、わたしは初級クラスに入れられてしまいました。その前年は、マルタの英語学校に行っていて、アッパー・インターメディエットクラスだったんですが。もちろん抗議すればクラスは変えてもらえたでしょうが、その時前述の中国人の友達と同じクラスだったんです。その時は友達ではありませんでしたが。それで「まっ、いいか」って。英語の学習よりその場の楽しみを選びました。

 

そんな初級者クラスのわたしに、学校のオーナーが、日本語に訳されたものと英語のオリジナルの文章を渡して、ちょっとあっているかどうかチェックしてくれというのです。その学校に日本人はわたし一人でした。3~4枚ありましたが、わたしも嫌いではないので、チェックしてあげました。数か所の間違いを指摘してオーナーに渡したところ、彼は、「日本人の生徒の獲得のために日本語でパンフレットを作ろうとしているのだけれど、この文章は日本語として正しいか。」って聞くんです。

 

「日本語としては正しいですが、プロの文章ではありませんねえ。素人が書いた物のようです。」

 

と言うと、彼は、エージェントに翻訳をたのんだのだが、ほんとにそうか。そう思うかと。それで終いにこう言いました。

 

「君は彼と会う必要がある。」

 

なんでやねん。タダで校正して、なんでそのエージェントの人にまで会わないかんのや。なに考えとんのじゃあ。それも、わたしは初級クラスの生徒なんやからね。

 

 

ということです。つまり、他の言語を正しく美しく訳そうなんてことを考える人はそうはいないと言うことです。

 

 






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2014年6月11日水曜日

英語翻訳に難癖


今回は重箱の隅を突くような、日本語から英語に翻訳された文章に対する難癖です。『Self-Reference Engine』の英語版は、プロローグとBulletしか読んでいませんが、ちょっとよくありませんかあ、難癖。というのは、いつもは英語の本を日本語訳されたものばかり読んでいます。そして、訳に問題があると、「だから日本語は」とか日本語に訳せないのは、日本語に問題があるといったような感想がもたらされます。しかし今回は、前にも書きましたように、「真実は我々の側にある」ということです。

 
 
 

 

1.口吻熱くはmeanlyか。

 

「それじゃああなたは、過去からやってきたに違いないわ」

彼女が口吻熱く語りかけてきた時のことを思い出す。

 

I remember her saying meanly, “If that’s the case, you must be the one from the past.”

 

2.これはどうでしょう。

 

僕たちはどこへともわからない一方向へ、どこか定められた明後日(あさって)の方角へだけ進むことを許されています。

 

We were moving in some unknown direction, allowed only to proceed toward some predetermined day after tomorrow.

 

3.意味は同じだけれど、インパクトが違うのでは。

 

リンゴから熊を引き算できないことくらい僕も知っているけれど、こいつは最低だ。

 

Now, even I know you can’t get apples from oranges, but this guy is the worst.

 

4.「何を食べるとそんなばかなことを思いつくようになるのか」は日本語の常套句ですが。こういう言い回しは英語にもあるんでしょうかね。

 

何を食べて大きくなるとそういうことを思いつく子供に育つのかわからない。明日の朝食からジェイの大好きなコーンシリアルを避けるべきかもしれない。

 

What did a kid have to eat to grow up thinking things like that? I knew Jay liked corn flakes, and starting tomorrow I was never going to eat them again.

 

4.この表現はどうでしょう。これも日本語特有の言い回しと思いますが。

 

裏蓋をはずした時計を持ってトンボを切れと言われているようで落ち着かない。

 

I could not relax, as if while holding a watch with the back removed someone had told me to do a backflip.

 

5.「舞い上がる」はdanceなんだろうか。先生に聞いてみるべきか。

 

それともこの娘の前で舞い上がりきって、僕が彼女に執心しているとか口走って逃げたりしたのか。

 

Or had he come and danced before her and blabbed that I was the one in love with her?

 

6.「ハチの巣にされる」とは。

 

断わればそいつは蜂の巣にされるだろう。で、蜂の巣にされるのは誰だ。ジェイだ。

 

If I could just figure out who, that person would get shot full of holes. So who was going to get that hornet’s nest? Jay was.

 

7.主語が違うのでは。

 

思いつく理由の一つは、時空構造当人としても面倒くさかったからというものだが、あまりまともな回答とは言い難い。

 

One reason that comes to mind is that the whole business was bothersome to me, as the figure in the center of this space-time structure, but it is hard to make the case that my being the center of space-time is a decent solution.

 

8.「軟禁状態」という言葉は英語にないのか

 

リタは事件以降しばらく軟禁状態におかれたが、別に大したことじゃないという僕の口添えもあって、半年もしないうちに外を歩き始めた。

 

For some time after the incident, Rita withdrew from the world, but after less than half a year she started walking around outside again, due at least in part to my influence.

 

9.再び「主語」の問題

 

その頃にはもうイベントの影響が本格化しており、なんだか全てが滅茶苦茶になっていて、彼女が出ていくという噂は囁かれたすぐから忘れ去られていった。

 

All hell broke loose, and practically as soon as I heard a rumor she was gone I had forgotten all about it.

 

10. excitementはドタバタか。

 

そのどたばたにまた巻き込まれたいかって。

まっぴら御免だ。

 

Wouldn’t I want to be part of that excitement?

Not at all.

 

 

以上です。やり過ぎでしょうかね。







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2014年6月7日土曜日

『Self-Reference Engine』---最終考察


オリジナルの日本語の方は読み終えました。この本は円城氏の処女作のようですが、処女作にありがちな、あらゆるものが詰め込まれた装飾過剰な作品になっていると思います。第一に「イベント」が余分なのでは。イベントとは世界の時空間が混乱した瞬間のことを指します。そのイベントが起きてからの混乱した状態を描写しています。それぞれのショート・ストーリはイベントに関連していますが、イベントを中心に置かなくとも、それそれぞれの話だけで「ある時イベントが起った」という事実を暗示した方がスッキリするような……。

 

あとがきの解説文を読むと、円城氏はこの「イベント」というものを出汁にして、ただハチャメチャな世界を書きたかっただけだと推測いたします。前回書いたように、彼は「あさっての方向」という言葉に惹かれてこの本を書きだしたのでは。芸術家とはそんなものではと。人々は、つい、芸術家の意図を読み取ろうと勝手に難しい理論を組み立てて「こんなことを言いたいのだ」と解説しますが、実体は、ほんとに単純な動機だと思います。ある作家は、「単なる状況をただどれだけ長く描写する事ができるかを試してみたかっただけだ。」とある作品について述べています。また、画家にしても「ある色とある色の組み合わせが美しかったから、その組み合わせの美の極限を描いてみたかった。」と。わたしは芸術家ではありませんが、わたしの彫金の作品を見て、「これは何を表わしているの?」とよく聞かれました。わたしはいつも適当に答えていましたが、作品制作の動機は、「平らな面に滑らかな曲線を持った凹みを入れたら美しいだろう」と言ったような単純なものでした。

 

円城氏の文を読んでいると、星新一氏の影響を受けているんじゃないかと思わされます。または、落語。言葉あそび。だから、それだけに留めておけばよかったのにと。イベントを中心に添えると、勢いその説明に追われてしまいます。通常ではない世界を舞台にするのは、フィリップ・K・ディックの得意なところですが、彼の場合は、その正常でない世界が、ただあると言うだけです。そんな世界で、人々はその世界の説明を求めるでなく、普通に普通ではないことをしています。円城氏は、too much あるいはtoo littleです。つまり、通常でない世界を描き過ぎる、世界を説明し過ぎる、そして、その世界に生きる人々の日常性を描き切れていない。そんな感想を持ちました。

 




 

英語のプライベート・レッスンでこの本を読み続けて行くことにしていましたが、やめました。だんだん、興味が薄れてきたからです。しかし、ひとつ面白いことに気付きました。英語の先生とは、プロローグと一作目の「Bullet」を読んだだけですが、二人の感じ方の違いがわかったのです。わたしは、Bullet を読んで、この主人公の3人は、中学生くらいの少年・少女と思いました。イギリス人の先生は、「大人の男と女」と感じたようです。それは、言うことがスマートだからと。わたしは、彼らの言うことは、どことなく、コミックブックの主人公の子供たちの表現と似ていると思いました。実際には、13歳の少年・少女でした。

 

もうひとつ、先生は(イギリス人の男性。30歳くらい)、想像の世界にスンナリ入っていけないよう。つい最近聞いたラジオ番組で、ゲームのイベントをしている人(かなり有名なようですが、名前を忘れてしまいました)が言っていました。「いろいろな国でゲームのイベントをしているが、想像の世界にスッと入っていけるのは日本人だけのようだ。」と。カフェで、「ここは列車の車室です。」と設定すると、日本ではたいてい「はあ、そうですか。」となるが、他の国では、「なぜだ。ここはカフェじゃないか。」と言いだす人が必ずいるそうです。

 

わたしが言いたいことは、Bulletの中で、「リタ(少女)は頭の中に弾丸を持っているのだが、それは、母親が撃たれた時、リタが母親のお腹の中にいたからだ」、という描写がありました。最初の彼の反応は、「頭の中に弾丸があって、彼女は死なないの」でした。わたしは、「ああ弾丸が入っているのか」という反応。また、それなら、過去でリタが撃たれたことになるので、明後日の方向にガンを撃ちまくるのはおかしい、過去の方向に打つべきなのです。で、読んで行くと、「リタはある時点で撃たれた。そしてその衝撃で過去の方向に押しやられ、母親の子宮に戻ってしまった。そして、この世に生まれて現在の13歳の時点に来た。この時、リタの頭の中に弾丸はあるがまだ撃たれてはいない。だから、これから撃たれるであろう未来の方向の人物に向けてガンをぶっ放し続けているのだ。」と。どうですか。わたしは、「はあ、そうですか。」と思いました。先生は、「それでは、リタは2回生きているの?」って。どうでもいいじゃん、そんなこと。でしょ。

 

 

「日本人は、日本人は…」というのは、あまり好きではありませんが、でも、やっぱりそういうところ、日本人にはあるような気がします。「まんが文化」の育つ国だからでしょうかね~~~。





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2014年6月1日日曜日

『Self-Reference Engine』 のつづきです。


前回、Self-Reference Engine』を読んで2~3考えたことがあると書きました。その二点目を書いてみました。
 

 



 

第二点目は、これは物理学と数学と言語学の逆説的パロディではないのかということ。円城氏はあり得ない世界をとことん論理的に描写しているが、それが回り回って、でたらめな事になっていくようです。この本では、プロローグが書きだされる前に、次の一文が載っています。

 

P, but I don’t believe that P.

 

オリジナルの日本語の本も同じ英文で書かれています。あとがきの解説者によりますと、PとはProposition(命題)のことのようです。この後に続く22個のお話は、なんらかのひとつの命題を証明しようとして書かれたものではないのか。そして、証明する事に失敗する、あるいは命題自体が間違っていることを証明してしまう。具体的には、もう少し読み込んでからに致しますが、単にわたしの感覚では、物理の法則で理論的に構築されているこの世界は、実は単なる人間が創りだした幻想ではないのか…ということ。物理学も、数学も言語も、すべては人がただ「そうだ」と信じているだけのものにすぎません。数字の1や2にしても、具体的な「1」とか「2」という目に見える物体は存在しません。そんな目に見えないものを組み立てて、人間はその世界観を形作っているのです。我々はそんな世界に住んでいるんだ…ということでしょうか。

 

 

円城氏は東北大学で物理学を学び、東京大学大学院で総合文化研究科に所属し、そこで学術の博士号を取得したとウィキペディア書かれています。英語のウィキペディアでは、「received Ph.D. for a mathematical physical study on the natural languages」と記載されています。具体的に何を表わしているのかわかりませんが、とにかく言語に関係したことでしょう。そう思うと、円城氏の日本語の選択はちょっと変わっていると思わざるを得ません。

 

前に「彼は『あさっての方向』という言葉に触発されてこの本を書いたのかもしれない」と書きました。この本では、そのような類の言葉が多数見られます。落語に出てくるような地口の類です。「Bullet」の中でも次のような言い回しが見られます。

 

りんごから熊を引き算できない

ドアを開ける前に中に入れない

何を食べて育つとそういう奴になるのかね

 

これらの文を読むと、なんだか眩暈がしてきそうです。確実な物から少しはずされるような・・・。よろめいてしまいそうな・・・。彼はまた、言葉で表わされた世界は実体がないものだと言っているのでしょうか。あるいは、言葉でどんな実体のないものでも表現できると言うのでしょうか。

 

 

こういったことが、時空間の混乱している世界と繋がっていくのでしょうか。






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