2014年6月1日日曜日

『Self-Reference Engine』 のつづきです。


前回、Self-Reference Engine』を読んで2~3考えたことがあると書きました。その二点目を書いてみました。
 

 



 

第二点目は、これは物理学と数学と言語学の逆説的パロディではないのかということ。円城氏はあり得ない世界をとことん論理的に描写しているが、それが回り回って、でたらめな事になっていくようです。この本では、プロローグが書きだされる前に、次の一文が載っています。

 

P, but I don’t believe that P.

 

オリジナルの日本語の本も同じ英文で書かれています。あとがきの解説者によりますと、PとはProposition(命題)のことのようです。この後に続く22個のお話は、なんらかのひとつの命題を証明しようとして書かれたものではないのか。そして、証明する事に失敗する、あるいは命題自体が間違っていることを証明してしまう。具体的には、もう少し読み込んでからに致しますが、単にわたしの感覚では、物理の法則で理論的に構築されているこの世界は、実は単なる人間が創りだした幻想ではないのか…ということ。物理学も、数学も言語も、すべては人がただ「そうだ」と信じているだけのものにすぎません。数字の1や2にしても、具体的な「1」とか「2」という目に見える物体は存在しません。そんな目に見えないものを組み立てて、人間はその世界観を形作っているのです。我々はそんな世界に住んでいるんだ…ということでしょうか。

 

 

円城氏は東北大学で物理学を学び、東京大学大学院で総合文化研究科に所属し、そこで学術の博士号を取得したとウィキペディア書かれています。英語のウィキペディアでは、「received Ph.D. for a mathematical physical study on the natural languages」と記載されています。具体的に何を表わしているのかわかりませんが、とにかく言語に関係したことでしょう。そう思うと、円城氏の日本語の選択はちょっと変わっていると思わざるを得ません。

 

前に「彼は『あさっての方向』という言葉に触発されてこの本を書いたのかもしれない」と書きました。この本では、そのような類の言葉が多数見られます。落語に出てくるような地口の類です。「Bullet」の中でも次のような言い回しが見られます。

 

りんごから熊を引き算できない

ドアを開ける前に中に入れない

何を食べて育つとそういう奴になるのかね

 

これらの文を読むと、なんだか眩暈がしてきそうです。確実な物から少しはずされるような・・・。よろめいてしまいそうな・・・。彼はまた、言葉で表わされた世界は実体がないものだと言っているのでしょうか。あるいは、言葉でどんな実体のないものでも表現できると言うのでしょうか。

 

 

こういったことが、時空間の混乱している世界と繋がっていくのでしょうか。






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