2014年6月29日日曜日

今日の新聞記事から考えた…


英語のプライベート・レッスンは、『Self-Reference Engine』をやめにして、先生とわたしで交替にイシュウを持ち合うということになりました。と言ってこれも長続きするかどうかは未知の領域。先回はわたしがトピックを持って行きました。このブログの「人気第二位」になっている『自由か、さもなくば幸福か?――21世紀の<あり得べき>社会を問う』です。

 

クラスの前に、先生に「そういうことにした」とメールしておきました。レッスンの日、彼は、「自由と幸福について3点ほど考えてきた」、って…。「オオッ、珍しい」というか奇跡が起こった。家で考えたってか。と思いましたが、ここで先生にリード権を取られたら、先生の話をただ聴いて終わってしまうことになると、「先ずは、わたしから説明したい。」と先手を取りました。クラスでのわたしの目的は「たくさん英語を話す」だからなのです。

 

わたしが話した内容は、ブログで書いたような事。で、先生の反応というか言いたかったことは、

 

Do you think “freedom” and “happiness” can coexist?

 

でした。

 

正直言って、この「自由と幸福」の命題は、今回この『自由か、さもなくば幸福か?――21世紀の<あり得べき>社会』の書評を読むまで考えたことがありませんでした。このふたつがそんなように対立する概念とは思っていなかったからです。この書評の中にも、「自由と幸福はどこまで両立するかというのは西洋で19世紀以来の大問題」であると書かれていましたが。

 

なので、わたしのいつもの論理の展開で、「それは19世紀の西洋の自我と合理主義の命題の延長である。」と。東洋思想ではそういう風には展開しないと。ちょっと、我ながら「何だかなあ」とは思いましたが、強気で押してみました。続いて、19世紀からの西洋の思想が世界に浸透、反映していったので、その他の地域の自然な思想展開を阻害したのだと言ってみました。西洋思想は「神が死んだ」あと、自らがこの世界の創造主であるが如く振舞っている。そして、究極的に頭の中にチップをいれて、自分の中の自然を殺して行くのだ、…なんて。

 

先生は、それでは、人の「幸福」は何かと聞くので、わたしは反対に人の「不幸」について述べてみました。

 

人類の不幸は「お金」と「言葉」を発明したことだ。抽象的概念を発明したことが人を不幸にしている。

 先生は、

“People invented abstract concepts.”

 

と言って、「イイね」と言ったよ。

 



 

しかし本題は、話はちょっと変わって(関連はしていますが)、今日の新聞からの記事です。

 

『人類進化700万年の物語―――私たちだけがなぜ生き残れたのか』

 

人は、絶滅危惧種の保護と生物多様性の維持に努力しているが、我々自身はどうなのか。この180年間の発掘調査で27種のヒト族の骨が発見されたが、今、生き延びているのは我々ホモサピエンスだけ。ほかの種族は「絶滅」してしまったのだ。それは何故か。現時点での、その解答である。

 

一つには、ヒトが未熟な状態で生まれてくること。人類に特徴的な長い幼年時代のために親子で過ごす時間が多くなる。その間、教育や学習に膨大な時間と手間をかけることで、より多様な環境、状況に対応できる能力を得る。ネアンデルタール人が滅んだのは、彼らは我々より「早く大人になる進化の道」を選んだため。

 

氷河期到来で生存環境が厳しくなった時に、「高度な知性」(学習)が有利に働いた。また自然界にないものをも作り出す言語能力も生き残りの一助になっている。

 

 

人間は、DNAでは受け継ぐことができない知性を学習して行かなければ生き残れないようです。人類の歴史が進むにつれて、その学習しなければいけないことがドンドン膨大になっていく。自然界にない概念をも作り出して、同時にそれも学習によって受け継いでいかなければならない。こうして人類は、生まれた場所からさらにさらにかけ離れたところに突き進んでいくのです。

 

 

つまり、人間の進化のメソッド自体が、人を不幸にしているということでしょうか。

 

 






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