2015年12月31日木曜日

年の終わりに


こういう定例物は得意ではありませんが、してみました。このブログを書き始めたのは…、多分…、2005年に上海から帰ってからなので、2005年の末か2006年の始めです。ということは、10年は続いているのかと。何事も10年続けば、熟練か?せっかくここまで続けてきたので、なんとか書き続けていきたいと思うこの頃です。

 

 

年末に相応しい話題かどうかはわかりませんが、朝日新聞に毎日掲載されている「折々のことば」の引用です。

 

「ひきこもりの子どもたちのことをニューヨークで聞いて、アジアの子どもたちらしい革命だと喜んだ。」    オノ・ヨーコ

 

続いて、

 

「女性が結婚を渋るようになったと聞いて、これも革命だと嬉しがったり。」と。

 



 

なるほどと、思いましたね~。皆と連携しないけど「ひとり革命」ですよね。日本の学校制度、教育制度に反対したり、日本のまだまだ封建的な結婚制度に反対したりと。日本人って、声高に、「…に反~~ターイ!」と叫びませんが、なにげに意思表示はしているんですよね。

 

例えば、わたしのまわりの主婦仲間に聞きますと、「スーパーでは、絶対、中国生産の野菜は買わない。」とか。実際、中国生産の野菜をスーパーでは、あまり見かけなくなりましたよね。ニンニクか。ニンニクはあるかも。アメリカ産のレモンは絶対買わないと言った人もいました。これも「ひとり革命」ですよね。ひとり不買運動です。わたしも買いません。まあ、外食すれば、自然に食べているんでしょうけど。

 

以前、フランスがアジアの海で(南シナ海かなあ???覚えていません)核爆弾の実験をした時、フランス製ワインの不買運動が全世界的に起りました。日本ではそんな運動は起りませんでしたが、フランスワインの売り上げは落ちました。わたしも未だにフランスワインは買いません。

 

 

そんな風に、声高に「○○反対」とは言いませんが、これからも何気なく「ひとり革命」を続けていくつもりです。

 

来年の抱負に代えて……








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2015年12月24日木曜日

金剛組(英語トピック・クラスの私の題材です)

少し前、世界で一番古い企業は日本にあり、1000年以上続いているという記事を読みました。しかし、その企業の名前とか謂われとかを覚えておらず、あいまいな記憶となっていたのです。ところがつい最近「金剛組」の記事を見かけました。

 

記事の内容は、金剛組は日本の建設会社で、創業は578年、世界最古の企業であるということ。1955年に法人化され、2005年まで金剛一族で経営されていましたが、その年の11月に高松建設の子会社となりました。しかし、金剛組の名前は残されたとのことです。

 

金剛組は、大阪生まれです。あの有名な聖徳太子が四天王寺を建てるために、招聘した当時の朝鮮半島からの大工が起源となっています。その大工さん達の一人である金剛氏が日本に残り、宮大工としての技法などを日本に伝え、七度の焼失を被った四天王寺の再建にその都度貢献を果たしました。

 

 

実はこの話は、2008年韓国の銀行のリポートがもとになっています。「日本では1400年余もひとつの企業が続いている。韓国ではとうてい考えられない。」と韓国のSNSで評判になったとか。

 

According to a report published by the Bank of Korea on May 14, 2008, investigating 41 countries, there were 5,586 companies older than 200years.  Of these, 3,146 are located in Japan, 837 in Germany, 222 in the Netherlands and 196 in France.  89.4% of the companies with more than 100 years of history are businesses employing fewer than 33 people.  A nationwide Japanese survey counted more than 21,000 companies older than 100 years as from September 30, 2009.  (英語版ウィキペディアより)

 

ウィキペディアによりますと、TOP6まで、日本の企業が並んでいます。先ずは、金剛組578年。続いて、西川温泉慶雲館705年などなど。ギネスにも載っているそうです。

 



 

それでは、なぜ日本に最古の企業がたくさん残っているのでしょうか。あるネット・ニュース(名前は忘れました)では、次のような理由を挙げています。

 

日本の企業は伝統的に、創業したらその事業を固めて守り、成長させていく「守成の戦略」があること。日本の家族経営企業の多くが「終身雇用制」と「年功序列制」を採用しており、血縁を越えて後継者を決めることができること。誠実な経営、徹底した職人気質、保守的な企業経営などの文化が根付いていること。

 

経済的側面の事はわかりませんが、文化面での私見はあります。日本の文化は徹底して一つの事を変化させずに守り通すということに価値を置いているところがあります。例えば雅楽。この歴史は、金剛組くらいありますよ。そして、その楽器の形状はそのままの形で受け継がれています。中国の古代の流れを引くものですが、中国ではその形を留めていません。古代の中国の楽器研究にも一役立っています。漢字も然りでしょう。わたしたちは、中国ではとうに廃れた発音(読み)を守り通しています。

 

また、日本の職人は、受け継いだものをそのまま次代に継承することをモットーにしているところもあります。自分の代で家業を潰すことが不名誉であるというような。とにかく次代に繋いでいくのです。

 

または、日本の文化の特色である「官と民」の要素も影響しているのかもしれません。「官」は忠実にその伝統を守り抜く。そして「民」の文化は、変化です。つまり、江戸時代の絵師、狩野派と浮世絵のような。日本のポップ・アートは、常に新しいもの、目新しいものを追求していきます。メチャメチャあっけらかんと変動していきます。この二大潮流が、相反する日本の文化を生み出していく説明ではないでしょうか。そして、伝統産業とベンチャー企業のように。








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2015年12月20日日曜日

第三部 原子爆弾と戦後の起源


以前UPした本『戦後入門』の第三部の題です。なぜ、この部分だけを取り上げたかと言いますと、「原子爆弾」というものの意味を今までなにも考えず、過小評価してきたことに気が付いたからです。まさしく「目からウロコ」です。

 

もちろんこの第三部には、いろいろ政治的な歴史的な考察がなされています。例えば、日本が「無条件降伏」をしたとされているのはなぜかとか、「東京裁判」にはどんな意味があるのかとか、「東京大空襲」などの無差別攻撃がなぜなされたのかです。これらのことは民主主義に反すると言われています。そのような判断はわたしにはできませんが、「原子爆弾がどういう意味を持つのか」という科学的な考察は、受け入れ可能です。

 

原子爆弾の開発とそれを使用することに、多くの科学者が反対の意見を述べていました。原子爆弾の開発は人類にとってのとてつもない第一歩だったからです。ボーアの覚書が紹介されています。ボーアは、当時、原子物理学、量子力学の第一人者であったデンマークの科学者です。

 

彼は述べています。

 

核エネルギーの解放に関する理論的解明は、人類にとって画期的なものであった。これにより地球上の生命を維持する強力な放射線を、何十億年にも渡り、どうして太陽が出し続けることができたかを説明することができるようになった。―――中性子の存在が明らかになり、これをウランの原子核に衝突させると、新たな中性子を放出し、それがさらに原子核に衝突することによる核分裂連鎖反応が可能であることが示された。―――この試みは、「かつてこれまでに試みられた、いかなることにもまして自然の営みの流れに深く干渉するもの」であり、成就すれば「人類の知力に関してまったく未経験の事態をもたらす」であろう。

 

考えるに、今では日常的になっている自然界に逆らうことのこれが最初だったのかと。最初かどうかは、実際のところ、わたしにはわかりませんが。現在、遺伝子組み換え食品とか、iPS細胞による臓器の製造などがあります。しかし、原子爆弾は武器ですから、一瞬にして多くの命を奪う所が他とは徹底的に違います。

 

つまり、これが一旦世に放たれたなら、人類の滅亡も引き起こされると言うことです。アメリカが最初に手に入れた訳ですが、その発明をひとり独占することは不可能です。たとえ独占できても、それは数年だろうと推測されていました。となると、この威力を制する国際的枠組みが必要となります。勝手に原子爆弾を創って、勝手にその威力を試すことがないようにです。そこで、アメリカは、ソ連との協定が必要となります。自由主義社会とは違う国家です。

 

また、この爆弾を日本に試すと言うことは、国際的にEXCUSEが必要でしたが、それは政治的問題なので保留します。しかし、原子爆弾投下後、キリスト教等あらゆる団体から抗議の声明が出されました。それは、事実上無視されたのです。

 

そして、本当にその本質が世界的に認識されたのは、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験です。放射能被曝だけで甚大な害を被る事実に世界が驚いたのです。故に、それぞれの国の主義主張に拘わらず、全世界を取り込む組織が必要となったのです。お互いに牽制し合うということ。

 
 
 

 

最後に、この第3部の最後に著者も引用していますが、ジョージ・オーウェルが『あなたと原爆』(1945年10月19日)という記事を新聞に寄稿しています。

 

彼は先ず、科学者たちが主張する原爆の「国際管理」という概念を「役立たずの提言」と切り捨てています。問題は、「原爆は人民にとってどれくらい製造するのが難しいのか」と言うことなのだと指摘します。

 

「もし製造が簡単なら、人民は国家に対し、大きな武器を手に入れたことになるが、それが人民には手出しできないくらい大規模で難しい工程を要するなら、国家の人民支配がより決定的になるだろう。その『あなた』と『原爆』の関係こそが、重要だ。」

 

つまり、原爆が入手可能ならば、人民は国家に対し容易に革命を企てることができるが、入手が不可能ならば、国家は人民に対し常に優位な立場を取り続けるということ。当面、原爆を製造できるのは、2~3のスーパー国家だけで、その少数の国家が「お互いの間で原爆は使わないという暗黙の協定」を結び、それを使うのは「ふつうの人々」に対してだけ、ということになる。

 

引用です。

 

「原爆は、最終的にあらゆる被搾取階級と人民からことごとく反逆の力を奪ってしまうかもしれないし、それと同時に、原爆を保有する国家の軍事力の基盤を均衡させるように事態を進めるかもしれない。お互いがお互いを超克できないもの同士で、彼らは仲間内だけで世界を支配するようになるかもしれない。そしてそのバランスはゆるやかな予知できない人口の増減でも招来されない限り、容易に覆されないだろう。」

 

「われわれは、全体的壊滅に向かっているというより、古代の奴隷帝国のような、恐るべき『安定』の時代に向かっているのかもしれない。『少数の国家による世界支配と言う』ジェームス・バーナムの理論はこれまでさんざん議論されてきたが、そのイデオロギー的なの側面、つまりそこで世界の見方、信念、社会構造が容易にひっくり返されず、隣国との『冷戦』といったあり方で永続的に固定化されることになるだろうという側面は、まだ検討されたことがなかった。

もし、原爆が自転車とか目覚まし時計のように安価で簡単に作れるなら、原爆は簡単にわれわれを野蛮状態に戻してしまうだろうが、と同時にそれは、国家主権の終わり、高度に中央集権化された警察国家の終わりを意味するかもしれない。一方、こちらのほうはありそうだが、もし原爆が戦艦くらいに高価で手に入りにくいなら、『平和ではない平和』が無限に続くという代償のもとに、以後、大規模な戦争に終止符が打たれる可能性はある。」

 

これは、1945年に書かれたものですが、とても予言的だとは思いませんか。実際、ほぼそのように世の中はなっています。しかし、技術は進歩します。当時は高価で手に入れられない原子爆弾も、今はネットで製造方法を検索できる時代です。つまり、われわれは、容易に野蛮状態に戻ってしまうということ。

 

現実に、テロが横行するこの現代、彼らを武力でねじ伏せることは困難です。彼らをも、話合いの場に引き込み、原爆の協定を結ばせる必要性が生じているのです。彼らを国際コミュニティの中に抱え込まなければいけない状況です。原子爆弾は、人類の相互理解、相互信頼を要求しているのです。

 

パンドラの箱を開けてしまった人類は、もう後戻りはできません。それ以上に、今なお、人類は新たなパンドラの箱を開け続けているのです。科学は進歩し続けます。もうそこに『量子爆弾』の世界が見えているのかも…。








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2015年12月19日土曜日

人に「歴史」在り


世の中、突然ポッと現れて、あれよあれよと言う間に有名人の仲間入りをする人がいます。人々は、そのポッと出てきた瞬間しか見ていないので、「なんだあんなポッとでが。」などと揶揄します。嫉妬心とともに。しかし、世間に現出しているその人の部分は、氷山の一角で、その裏には、たいへんなものが隠されているはず。芥川賞の「又吉さん」然りでは。

 

今日の新聞でSEALDsの中心メンバー奥田愛基さんが取り上げられています。わたしがはじめて彼を見た時は、「なんか、チャライ奴だなあ。」と思いました。しかし、彼の活動は一過性のものではありませんでした。その裏には何かあるはずと感じていましたが、謎が少々解けました。

 

彼は、北九州市の生まれで、彼の父親は、ホームレスの自立を支える牧師でした。その妻も彼らを家族のように受け入れる人物だったようです。幼い頃から、彼は父の炊き出しなどの活動のお手伝いをしていました。やはり、「基礎」はあったんですね。

 

その後、中学でイジメにあい不登校に。そして、自分でネット検索し、沖縄の離島の学校にひとり転校。そして、高校は島根の全寮制の学校を選びます。「世間の価値観とかけ離れた家庭にも、地元にも居場所がなかった」と彼は述懐しています。

 

高校を卒業する直前に東日本大震災が起こります。被災地支援で現地に入り、大学入学後もボランティアとして通います。しかしここでも自分の居場所が見当たらず、大学を休学し、カナダなどへバクパック放浪の旅へ。ここで普通に政治を語り平和を語る同世代の人々との接触が。日本に居るだけでは、ほんと自覚できないことが多々あると感じますね。経験上。今回、18歳からの選挙権取得に伴って、高校での政治に関するルールも見直される運びとなりましたから、次代の若者の自覚に期待するところであります。

 

そして帰国後、2013年12月に特定秘密保護法に反対する学生有志の会「SASPL」を約10人で結成します。後にSEALDsとなります。若者の新たなデモの形を作り上げ、人々に拡散し、共感を広めました。今後は大学院に進む模様。SEALDsも、来年の参院選以降に解散し、新たな組織「ReDEMOS」を立ち上げるとか。学生だけではなく弁護士、学者を巻き込んだ政策を提言できる集団として活動を続ける予定。

 
 
 

 

奥田氏は、私から見れば「偉大な」親を持って羨ましいと思いますが、彼自身は悩んでいたみたいですね。つまり、子どもは親に反発し、親を乗り越えて生きて行かなければいけない存在ですから、親が偉大であればあるほど乗り越えるのが難しいと言うことでしょうか。彼のおじいちゃんが「やっと、奥田愛基になったな。」と言ってくれたそうです。悩んでいた中学生の頃から、おじいちゃんは、「奥田愛基になれ!」と激励してくれていたよう。自分自身を確立すること…、これも民主主義必須アイテムですからね。

 

保守の若手評論家である古谷氏が彼を評し、「良く言えば、特別な才能の持ち主。悪く言えば、幼少から自由と民主主義に触れて育った『変人』」と言っています。彼に外観を見ただけで、「自分が死にたくないから、戦争に反対をしている」と評した政治家に、そしてその言に踊らされる一般大衆に知ってもらいたい彼の生き様です。

 

また、彼が通った全寮制のキリスト教系高校時代に、授業でBC級戦犯の飯田進さんの講演を聞きました。「自分は人を殺した。」と未だに悲痛に語るその姿に影響を受けました。「この人は、絶対伝わらない戦争体験を、あきらめずに伝えようとしている。」と。「生きるしんどさ」を抱え、いつも死にたい感じがしていた彼にとって、絶望を抱えながらも希望を語る飯田さんの存在が、少し彼の支えになったようです。

 

 

そう、人はいつも絶望を抱えているのです。それでもなお生きなければならない。その理由、手段を見つけた人は幸いなりと…、思います。







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2015年12月17日木曜日

英語の勉強


長い間英語を勉強し続けてきましたが、最近めっきり英語学習意欲が衰えてきました。1998年に南アフリカ共和国に滞在し、英語学校に通ったのを皮切りに、サンフランシスコ、マルタ、イギリス、ニュージーランドなどなどで語学学校に通いました。2007年にマルタの学校でADVANCED CLASSに入れてもらえました。上級クラスになったものの、英語の勉強にはきりはなく、上には上がいるもので、いくら頑張っても終わりは見えません。

 

実際、わたしの仕事に英語は必要ありませんでした。英語が話せたから故のいろいろな経験はできましたが。例えば、サンフランシスコでは、ホームスティ先生と友達になり、その後2回ほど無料でお宅に泊めていただきました。今でもメールのやり取りはしています。1999年からの付き合いなので、もう16年くらいになります。「今度、いつ来るの。」なんていうメールが、未だに来ます。

 

また、上海で友達と商売を始め、2年ほど上海にいましたが、そのきっかけは、イギリスの語学学校で上海人の学友と会ったからです。彼女も未だに友達で、名古屋にも2回ほど来ました。その他、海外でいろいろな人と会って、異文化を知り日本の常識がすべてではないということも体感できました。視野も心も広くなったと、自分では思っています。

 

が、これ以上勉強を続けてももう上達はしないし、メリットも感じません。今は、この英語能力が落ちないようにという考えで、勉強を続けています。でも、なんだか全然面白くありません。

 

理由のひとつは、わたしが日常会話がキライだからです。英語でも同じことです。それで、今、日常英会話ではないトピッククラスとレーディングクラスを持っている訳です。しかし、わたしがいくら日常会話から脱しようと思っても、クラスメート達が話すことは日常会話。それから使い古されたモラルの応酬です。

 
 
 

 

直近のトピッククラスでは、ビル・ゲイツの話が出ました。ゲイツ氏が「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」を設立し、社会貢献に努めるという例の話です。皆は「素晴らしい。近年にない良い話だ。」などと言いますが、ほんとうにそうでしょうか。

 

彼自身、「行き過ぎた不平等は問題だ。資本主義は格差是正の方向へ自動的に動くことはない。不平等の是正には、多くのお金を持つ人が持ってない人に渡すことだ。」と語っています。資本主義のパラダイムのみを信じ、この格差是正に乗り出すなら、彼の言はメイクセンスかもしれませんが、資本主義を信じていないわたしにとっては、なぜ根本的な資本主義の是正を言わないのか…、と言うことです。資本主義の制度のもとで独り勝ちをしたゲイツ氏が、何を持って社会貢献をすることができるのか。

 

こういう過激な事を、英語のクラスで話すエネルギーがもう無くなってしまったのです。もう「はい、はい。」と聞き流してしまうのです。「はい、はい。ステキなお話ですね。」って。つまり、クラス自体にもうなんの意味もないということなんでしょうね。今、きっぱり英語の勉強をやめようかと考慮中です。







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2015年12月13日日曜日

『戦後入門』 加藤典洋著


歴史の本はたまに読みます。古代の歴史とか、せいぜい中世までの日本の歴史です。学校でも、昭和の歴史を学んだ記憶はありません。ですから、この本がわたしの初めての「近代の歴史」本です。まだ、全部を読んだ訳ではありません。ちくま新書ですが、とても長い本で、今のところ第3部まで読みました。

 

第1部     対米従属とねじれ

第2部     世界戦争とは何か

第3部     原子爆弾と戦後の起源

第4部     戦後の日本の構造

第5部     ではどうすればよいのか―――私の九条強化案

 

となっております。なにかどれも初めて聞く、触れる話で興味深いです。もちろん、わたしの不勉強のせいですが。

 

なぜ途中なのに感想を書き始めたのかと言いますと、あまりにも自分が無知だったことに反省し、自分の感想をまとめたくなったからです。この本を購入した理由は、昨今の安部内閣のイケイケ政策にあります。安保など。しかしながら、反対意見を述べるには、それなりの知識と根拠が必要と、とりあえずこの本を読んでみることにしたのです。「論理武装」をしないと、何も語れないわたしの悪い癖です。

 

もうひとつ、まだ第五部の「どうすればよいのか」という章は読んでいませんが、そこでは、憲法改正の話が出てくるはずだからです。書評によりますと、加藤氏の意見では、憲法制定権力としての米国を国外に撤退させ、「より平和主義を徹底させるための憲法九条の改正」を提起しています。

 
 
 
 

わたしは、自衛隊が存在することは憲法と矛盾していると思っています。しかし、自衛隊をなくすわけにはいかない。では、どのように自衛隊を日本に位置付ければよいのかと探っていました。わたしの拙い意見は、スイスのように集団的自衛権を行使しない軍隊として、ただ自国民を守るという位置付けではどうかというものです。そんなヒントが第五部に書かれているのではないかと期待しています。

 

 

全章読めましたら、またUPしたいと思っています。








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2015年12月12日土曜日

『命売ります』 三島由紀夫著


日本の作家の中でわたしが「超スキな」作家は、先ず安部公房、で、大江健三郎、それから別役実、小栗虫太郎、谷譲治…、と言ったところです。三島由紀夫は彼の著作が好きと言うよりは、彼の人生に興味があります。彼がなぜ割腹自殺をしたのかということは未だ謎でありますが、それは、わたしが高校2年生の時に起きました。

 

同じクラスの男子生徒が2~3人、昼休みに学校から脱走し、そのままサボるところを、喫茶店でニュースを見たと教室に戻って来たのです。「三島由紀夫が死んだ。」と。クラス全員が、「ウォー」と叫びました。

 

 

と言う訳で、三島由紀夫が自殺した…関係の本は、少々持っていますが、彼自身の著作は、『仮面の告白』と『金閣寺』だけでした。『仮面の告白』はたぶん高校生の時に読んだと思います。『金閣寺は』2~3年前に買ったのですがまだ読んでおりません。で、今回『命売ります』です。

 

この本は、新聞の単なる広告で見て、すぐ買って、一気に読んでしまいました。なぜでしょう。多分、この本は『仮面の告白』のように、彼の著作のメイン・ストリームではなく傍系路線だからでは…、と思います。わたしの「へそ曲がり精神」に火が点いたのでしょう。

 

広告では、

 

三島由紀夫、極上エンタメ小説!

隠れた怪作小説発見!

これを読まずして三島を語るべからず!

 

などの文字が飛び交っております。

 

「オモシロイ」と絶賛されていますが、「ハッハッハー」と面白いわけではなく、興味深いです。没後45年と書かれていますので、それ以前に書かれた本。ユーモアの感覚は古臭いと思われますが…。興味深いのは、彼がなぜ「割腹自殺をしなければいけなかったのか」というような彼の心の闇が、メイン・ストリームの作品ではないからこそ、この作品に素直に現れているのではないかと思うからです。『仮面の告白』と同様でした。

 
 
 
 
 

主人公の羽仁男は、なにやら「新聞の文字がゴキブリの如く動き出して逃げていった。」と言って、この世も終わりだと自殺します。が、目が覚めると病院のベッドの上。自殺に失敗しました。自殺に失敗したからには、こんな命どうにでもなれと「命売ります」の新聞広告を出すのです。その広告に反応して羽仁男のところ訪れる訳のわからない人々と、その人たちに命を売りながら、結局は助かってしまう羽仁男のドタバタ喜劇の連続です。

 

このドタバタ劇の中で、羽仁男の心はどのように変化したのでしょうか。自殺に失敗した彼は、命を売る広告を出して誰かが彼の命を買い、そして彼は死ぬ。この死に方に対し、彼は「自分の責任のない死」と面白がります。命を売るというのは無責任を全うできる素晴らしい方法であると彼は思います。

 

それから、2回ばかり命を売って、いろいろなドタバタで死から免れた後、彼の意識は少々変化します。吸血鬼に命を売ったものの、その美人の吸血鬼に先立たれ、彼も彼女の後を追うべく「命を売ろうか」と思ってしまうのです。それは、初期の「純粋な死」から少々道を外れた行為なのです。この段階では、羽仁男は「しかし、そんなことはどうでもよかった。死んでゆく人間の動機なんかどうでもよかった。」と言っています。

 

その後も命を売り続けますが、どう言う訳か助かってしまいます。それで、お金も溜まって何もしなくても十分生きていけるようになった頃、「命売ります」をちょっと休憩しようかと、新聞広告でバレていた自分の棲みかを離れようと全財産を持って旅立ちます。

 

その頃、羽仁男はこんなことを思っています。

 

すべてを無意味からはじめて、その上で意味付けの自由に生きるという考えだった。そのためには決して決して、意味ある行動からはじめてはならなかった。まず意味ある行動からはじめて、挫折したり、絶望したりして、無意味に直面したりするという人間は、ただのセンチメンタリストだった。命の惜しい奴らだった。

戸棚をあければ、そこにすでに、堆い汚れ物と一緒に、無意味が鎮座していることが明らかなとき、人はどうして、無意味を探究したり、無意味を生活したりする必要があるだろうか。

羽仁男は自分がまたいつか、「命を売り」だすにちがいないと思った。

 

しかし、「終わりのない小説」などはなく、この小説もついに大団円を迎えます。今まで、命を買いに来た人々に何らかの繋がりがあったのです。最後に、彼等が羽仁男を追い詰めます。訳もわからず、命を脅かされる身になると羽仁男は、ホテルに身を隠しますが、そこにも彼らの手が伸びてきます。

 

「命を売っているときは何の恐怖も感じなかったのに、今では、まるで、猫を抱いて寝ているように、温かい毛だらけの恐怖が、彼の胸にすがりつき、しっかりと爪を立てていた。」

 

羽仁男は、街の交番のおまわりさんに保護を求めますが、警官はまともに受け止めません。逃げ回っているので、彼は住所不定です。住所不定の奴が何を訳のわからないことを言っているのか…、と言うことです。

 

「まともな人間というのはな、みんな家庭を持ち、せい一杯女房子を養っているものだ。君の年で独り者で住所不定と来れば、社会的に信用がないのはわかりそうなものじゃないか。」

 

「あなたは人間はみんな住所を持ち、家庭を持ち、妻子を持ち、職業を持たなければいけないと言うんですか。」

 

「俺が言うんじゃない。世間が言うのさ。」

 

と言うことです。

 

 

新聞の文字がゴキブリのように動き出し逃げていったことから、羽仁男は自殺しました。そして、その命が助かると命を売りに出します。そこには、羽仁男が思う「死に対する意識」があります。しかし、その意識も死と戯れているうちにあやふやなものと堕してしまう。そして、最後には、巨大な「凡庸」が羽仁男の前を立ち塞ぎます。もはや、彼にはなす術もなく、夜空を見上げての…、絶望か?

 

少しだけ、三島の自殺の意味が汲み取れると思うのは、考えすぎでしょうか。








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2015年12月8日火曜日

Anything You Say Can and Will Be Used Against You


警察官が容疑者を逮捕する時にいう言葉です。邦題は『あなたに不利な証拠として』、LAURIE LYNN DRUMMOMD著です。次回の英語リーディング・クラスの小説ですが、実際には、この短編集の中の一編の邦題『完全』、原題Absolutesを選びました。

 

この本は、ずいぶん以前に購入しました。まだ、英語の勉強のために英語の本を買っていた時のことです。たぶん十年くらい前と思いますが、わかりません。その頃は、もちろん本の内容も考慮はしますが、自分の読めそうな推理小説を買っていました。推理小説なら最後まで読むだろうという魂胆です。この短編集は、女性警察官のお話の十篇の短篇からなっていますが、「推理小説」という訳ではありません。女性警察官の日常の苦悩…、と言ったところでしょうか。

 

もうひとつ、その頃の英語の本の選び方はというと、書評で見たよさそうな本の英語版をアマゾンで探すという方法です。つまり、日本語に翻訳された本の書評を読んで、再び翻訳前の英語版を買います。この本もそんな方法で買いました。そして、これをクラスのために選んだわけは、クラスの一人が「評価されていない」本を読むことを嫌うからです。他の二人は古典小説から短篇を選んでいるので、もうすでにその本の評価は定まっています。が、わたしが選ぶ本は現代の作家のものなので、権威付けがありません。で、新聞の書評付きで皆さんに提供したということです。

 

しかし、書評を読んで失敗したなあと思います。なにか先入観が出来てしまったから。書評によりますと、(池上冬樹さんの書評です。)

 

『完全』という短篇の主人公はキャサリン、二十二歳。警官歴15カ月で、職務執行中に強盗を撃ち殺した。物語では、キャサリンがどのように事件と関わり、どのように射殺したかを振り返る。―――徹底したリアリズムで、警察官の職務の一部始終を描き、事件現場へと読者を連れて行き、キャサリンが銃を撃たざるをえない状況をまざまざと味わわせる。そして殺すしかなかったこと、殺さなければ自分が死んでいたことを深く感得させるのである。

 

「その通り」としか言いようがありません。

 




 

先ず第一に、彼女が22歳と言う若さだということが驚きです。そして、職歴15カ月で銃を撃って強盗を殺したということにも。これがアメリカの現状なのでしょうか。その他の国、一般人が拳銃を手に入れることができない国では、こんなことはまず起らないでしょう。昨日の朝日新聞に『NYタイムズ・「銃蔓延 国家の恥」』という記事がありました。カリフォルニア州で14人が殺害された銃乱射事件を受けてのものです。NYタイムズがこの事件の社説を第一面に載せたのです。一面社説は95年ぶりという指摘もありました。

 

社説は、「人間を素早く効率的に殺すように作られた武器を、市民が合法的に購入できるということは、国家の恥であり非道徳的だ」と主張しています。「自由の国アメリカ」を標榜するあまりに、国家の銃規制に反対する国民は、自己の安全のためにも少々の自由を手放すべきではないのでしょうか。そもそも国民が「武器所有の権利」を放棄し、その権利を国家に譲渡することによって近代国家が成り立っているのですから。

 

 

22歳の若さのキャサリンは、毎日過酷な職務の中にいます。毎日銃を携行し防弾チョッキを身につけます。一日の職務が終わった後、彼女が家に帰ると、彼女は自分の身体に触れます。ガンを着けて歩き回ることにより、ガンがつけた蒼痣のあとを触れてみるのです。また、防弾チョッキで擦りむけた首筋にある痕を。そして、最後に「OK」と言います。

 

Okay, I tell myself.  Every night I tell myself, okay.

 

どうですか。

 

キャサリンは、警察官になる前のアカデミィーで逮捕手続の訓練を受けます。

 

The training films and the instructors at the academy, they tell you when you are sitting safe and cool in the classroom that you should say, “Do it NOW!” after each command.  But there is never time for this: they respond or they don’t.  If they don’t, I yell, ”NOW MOTHERFUCKER!” You want to convince them you’re mean, that you’ll take them out in a second.  You want to convince them not to do anything you’ll have to shoot them for.

 

このような説明が1ページ程続きます。で、実際の彼女の逮捕劇の時、なにが起ったのでしょうか。

 

彼女が撃ち殺したJeffery Lewis Mooreは、もちろん銃を携行していました。彼女が彼を追い詰めた時、彼は彼女の方に振り向いてその手にはナイフが。彼は銃とナイフを持って彼女に立ち向かってきたのです。彼女は銃よりナイフの方が怖いと言っています。銃は撃たれるだけ。でも。ナイフは人を切り刻むと。

 

彼女は、アカデミィーで学んだ通りの行動に出ました。しかし、

 

“You fucking move I’ll blow you away,” I screamed in a voice that probably carried more shrillness than authority.

He didn’t listen.  They’d always listened before, believed what I said.  The cursed command, the gun, the badge, the woman on the other end of the gun always stopped them.  He didn’t stop.  He grinned, that’s what he did.  He grinned a shaky grin and raised that knife.  He took a half-stop forward.

 

つまり、彼女の学習が役に立たない犯人が現れたのです。彼が刃向かってきた最後の瞬間に彼女は銃を発砲しました。そして、彼は彼女の手の中に倒れ込んだのです。彼は死にました。

 

And his eyes, those deep brown pools went even wider, and the light rushed in.  He stumbled forward, dropping gun and knife; he stumbled forward into me, his blood soaking my hands and uniform.  I caught him in my arms and dropped with him to the ground.

 

彼女の行為は完全に法に則っていると立証されました。しかし、彼女のBODYJeffery Lewis Mooreが棲みつきました。

 

There is a piece of him inside now, and I can’t deny him his right.  Sitting in the long carpetless hall, the lights off, just the two of us Jeffery Lewis Moore whispers low into my ear.  “Come on,” he says, “come on.”  And I lean into myself, waiting for him to say more, but there is just silence, and I am left wondering how dead we ever really are.

 

 

さて、自由の国アメリカは、どのように応えるのでしょうか。








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