2015年1月27日火曜日

『その女アレックス』


前回、本を4冊買った話をしました。その本を全部読まない内に、また本を2冊買ってしまいました。『その女アレックス』と『昆虫はすごい』です。

 

『昆虫はすごい』を購入したのは、人類誕生以前から地球に繁殖続けている昆虫にとても興味があるからです。「昆虫の営みのすごさと巧みさを実感する一冊」というキャッチ・コピーなんです。が、まだ読んでいません。



 

『その女アレックス』はミステリーです。この頃ミステリーは読んでいませんが、あまりにも「今、No.1のミステリー」と随所で見かけるもんですから買ってしまいました。それで、こちらから読んだのです。「ネタバレになるので内容は書けない!」というのが、キャッチで、わたしも内容を書くことは控えます。「心躍る予想外の展開」ともありますが、こんな展開でいいの?…っていう感想です。

 

前回読んだミステリー小説は、The Girl with Dragon Tattooです。この話は3部作で、引き続き後の2冊も買って読んでしまいました。The Girl Who Played with FireThe Girl Who Kicked the Hornet’s Nestです。スウェーデンの作家ですが、英語版で読みました。この作家は、まだ50代前半でしたが、この三部作を書いた後、急逝してしまいました。しかし、彼のパソコンの中には続きの4冊目が入っていた――が、そのパソコンが紛失された――しかし、また戻ってきたという曰くつきです。何故この本のことを紹介したかと言うと、同じような傾向の本と感じたからです。同じようなバイオレンスですが、こちらの作家の本の方が、興味深かく楽しく読めました。『その女アレックス』の読後感は、「憂鬱」です。とても暗い気分になって、落ち込んでしまいます。

 

どうしてかと考えると、この本は「展開」だけが売り物だからではないかと。世間に出ている書評は、もう少しその内容を伝えても良いのではないか。そうでないと、「だまされた」という印象を持ってしまいます。それから、登場者の人物像がもっと描かれていたなら、展開だけの興味で引っぱっていく必要性はないのではないかと。「これでもかこれでもか」という展開とバイオレンスには辟易してしまいます(と言って全部読んだが)。

 

それからもうひとつ思ったことは、女性はいつからサスペンス小説や映画、テレビで戦うようになったのだろうということ。最初のバイオレンス映画は、『わらの犬』だというのを聞いたことがあります。1960年後半か1970年前後の作品と思います。ダスティン・ホフマン主演。彼は、数学者でバイオレンスに一番遠い存在。彼は若いセクシーな妻と別荘に滞在している時、3人の強盗が別荘に侵入します。彼は、初めは彼らに抵抗できません。が、徐々に、その弱い男が反撃に転じて行きます。その時、若いセクシー妻はどうしていたか。彼の影に隠れて震えていただけです。どうですか。今の映画ならいっしょに戦うか、あるいは一人で先に戦いを挑むか……では。

 

現在の物語の中では、女性はどんなに殴られてもレイプされても、立ちあがり戦わなければなりません。ほんの少し前までは、女性は殴られませんでしたよ。せいぜい平手打ち。でも今は、「ぐう」で殴られます。殴られて倒れても、蹴飛ばされます。顔も踏んづけられます。フェミニズムの賜物でしょうかね。

 

 

『その女アレックス』はフランスの小説です。ハリウッドが版権を買って映画化するそうです。ただし、著者はアメリカの話にするのは許さなかったとか。フランスを舞台として映画化される模様です。







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2015年1月25日日曜日

『動物が幸せを感じるとき』


先月、トピックを発表する英語のクラスで「オランウータンに『人権』」という記事について話すつもりだと書きました。次の木曜日がその日です。それで、英語でどのようにこの話を組み立てようかと考えていたところ、『動物が幸せを感じるとき』という本を思い出しました。

 

今回わたしが選んだ記事は、「オランウータンに『人権』」ですが、結局これは人類を基本においているということです。人類に近い類人猿を救うための方策です。これはどうなんでしょうね。東洋の思想とは相容れないと思いますが。東洋思想では、自然(自然界の生き物)と人間は対立関係ではありません。人間もその一部を形成する一分子です。

 

また、アメリカの哲学者にも触れました。その人物はちょっとあやふやですが、リチャード・ローティでは。ローティは、自らを「リベラル・アイロニスト」と称しています。彼は、「人間より能力のある類人猿は、彼等より劣るとされる人間よりも権利を与えられるべきだ。」と言っています。つまり、人間かあるいは類人猿かの境界線よりも、どちらに能力があるかでその優劣を定めるべきだと言う事。(違う人だったらゴメンナサイ)。彼の場合もやはり世界を人間中心に描いています。

 

アメリカ・ニューヨーク州の3つの裁判所に「チンパンジーを法的に人間と認めて」という訴訟を申し立てている動物愛護協会があります。その根拠は、ニューヨーク州が、かつて奴隷たちが自らの立場に異議を申し立、自由を獲得する為に使った「人身保護法」の原則に基づいています。人身保護法とは、法律上正当な手続きによらず身体の自由を拘束されている者を裁判所によって迅速に救済させるための制度について定めた法律……だそうです。

 

以上は、前回書いたものの焼き直しです。そこで、話は最初に戻って、『動物が幸せを感じるとき』という本の事。著者は共著です。この本を読んだ時はあまり気にしていませんでしたが、著者の一人はテンプル・グランディン(アメリカ人)といい、アスペルガーです。自閉症の彼女は、努力して大学院まで進み動物学の研究者となりました。ということで、共著者が必要だったのかなと思います。自閉症であるために、他の動物の感情の代弁者・翻訳者となれたのでしょうか。



 

 

彼女の考えは、「人間は動物の支えを受けて『人間』たりえている。」ということ。食料にされる動物と人間との関係は「共生」としています。そのため、人間は彼らの感情を尊びそれぞれの動物が気持ちよくその生涯をまっとう出来るように考慮しなければいけないと。彼らとは、犬、猫、馬、牛、豚、鶏などですが、野生動物や動物園の動物たちのことに触れた章もあります。そのそれぞれの種の特徴を把握し(怒り、恐怖、パニックと欲情、保護、遊びの七つの情動を尺度に動物を観察する)、彼らと円滑な関係を結ぶのです。特に、牛、豚、鶏など食料として育てられている動物の項では、如何に彼らを恐怖心なく屠殺すかが重要だと述べられます。

 

この本の「あとがき――わたしが今でも精肉業界で仕事をしているわけ」では、「どうして精肉業界に反対する活動家にならずに、今でも業界で仕事をしているのですか。としょっちゅう尋ねられる。」と、告白しています。彼女の理由は、彼女が畜産関係の仕事を始めた1970年代に、5年間、先進的な管理者や作業員から、敬意と愛情をこめて牛を飼育し、扱うことを教わったからです。もっと悲惨な状況の精肉工場であったなら、職業人生は変わっていたであろうと。これらの人々に接して、肉食をやめるように説得する仕事ではなく、業界を改善する仕事に就こうと彼女は考えました。

 

 

この本を紹介して…何なんですが、彼女の考えには、わたしとしては、しっくりいかないところがあります。この一文をどう思われますか。

 

「私は長年の間じっくり考えて、食料にされる動物と人間との関係は、共生に違いないという結論にいたった。共生とは、ふたつの生物のあいだで相互に恩恵がある関係だ。人間は動物に餌と棲みかを与え、そのお返しに、繁殖牛が産んだ子牛のほとんどを食料とする。」

 

彼女の考えでは、食肉工場にいる牛は、人間が繁殖したもので、人間が手を掛けなければ一頭たりとこの世に生を受けなかったのだということ。近代的な処理工場より、野生で死ぬ方が強い痛みとストレスを感じる事は、しばしばある。だから、ストレスなく処理工場で死ぬ方が彼等にとっては幸せなんだ――という理屈です。

 

 

世界人口70億人余。これだけの人々を養うためには、人間の手により動物を繁殖させ、食料に供しなければいけません。そんな、動物たちにも幸せな安らかな死を与えようとする彼女の考えは「理解は」できますが、それでいいのかとも感じます。「共生」などと言わず、明らかに搾取であると自覚すべきなのでは。その上で、我々は人間として、どのように振舞わなければいけないのかを考えて行くべきと思います。







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2015年1月18日日曜日

上海の思いで

  
上海---BEGGARS

 

わたしが上海にいたのは、2003年から2005年のこと。北京オリンピックや上海万博の前で、まだ上海の街も開発途上であった。とは言え、上海の街は高層ビルが立ち並び立派な近代都市ではあったのだ。とりわけ上海は、北京をライバル視しており(東京都と大阪の関係か)、上海人は北京の殺風景な白いビル群を軽蔑していた。上海にはデザイン性の優れた上海博物館などの多くのビルがあった。また、欧米諸国の居留地であったバンドのビルはその頃のまま残されており、映画『上海バンスキング』を思わせるようなジャズの街でもあった。

 

しかしそんな近代的な街並みも、そこに住む人々は様々である。守衛のいるマンションに暮らす人もいれば、バラックのような家に住み、熱い真夏にはうだるような部屋から逃れ路上に裸で寝そべったりしていた。そして、わたしは、この頃たくさんのBEGGARSを路上で見かけたのである。見かけたのは、2003年から2004年の始め頃。2004年の始めに日本に一時帰国し、また、2週間くらい後に戻ると不思議な事に彼らはすべて消えていた。

 

その頃わたしは上海のど真ん中に住んでいた。ブランドショップや有名デパートやステキなブティックが立ち並んでいるところである。そのメイン通りを歩いて隣の地下鉄の駅まで歩くことがよくあった。その間に優に20人を超えるBEGGARSを見かけた。どこの国の都市にもBEGGARSはいる。わたしが海外で見かけたBEGGARSはみんな元気で力強く強引だった。人がお金をくれるのは当然といった態度で手を出してくる。お金をねだられるわたしたちよりも、かえって溌剌とし、陽気でさえある。しかしここ上海では、様子が違う。彼らは一言もしゃべらない。彼らはわたしたちと顔を合わそうとさえしない。お金を入れてもらうためのカンをただ置いているだけだった。

 

わたしは、興味深く彼らを観察していた。結果、4種類くらいに分類できた。一つ目のBEGGARSはというと、彼らはたいてい老人と思われた。多分男性。でも、実際には年寄りか男性かは判断できない。なぜなら彼らは地面にうつぶせになって、ただ寝転んでいるだけだからだ。顔はわからないのだ。たいていは黒っぽい長い上着を着、地面に顔をつけ片方の手を前方に目いっぱい伸ばしている。そして、その手に小さなカンをしっかり持っているのだ。決まって黒いビニールのごみ袋のような大きな荷物をもっている。そしてそれはロープでしっかり彼らの腰に結び付けられている。しかし、なぜかロープは長い。だから、袋と彼らの間は1メートル以上離れているのだ。それは、まるでそこで力尽きて行き倒れたといった情況設定である。ある意味、キュートだった。

 

二つ目のBEGGARSは、男性の場合も女性の場合もある。彼らの顔は蒼く雰囲気は暗く赤ちゃんや、時にはほんのちいちゃな子供を抱いている。そして道端に正座している。彼らは絶対道行く人の顔は見ない。まったくと言っていいほど動かない。彼らが抱いている赤ちゃんたちもまったく動かないし、泣きもしない。時折、彼らの眼は白く濁っていた。顔に酷い傷跡を持っていたりする場合もある。あるいは、抱きかかえられたあかちゃんの方に問題があったりする。肛門を丸出しにされているあかちゃんを見たこともある。いっしょにいた中国人の友達は、その時ばかりは、「ひどい事をするよね。」とひとことつぶやいた。あかちゃんたちは、泣かないように薬を飲まされているといううわさもあった。一度だけ、ビルの前に坐っていた、女性のBEGGARが立ちあがり、抱かれていた小さなこどもを地面に下ろしたところを見たことがある。置かれたこどもも立って、そのまま歩きだした。店じまいのところを目撃したのであろう。

 

三番目のBEGGARSは、初めは彼らがBEGGARSとは気付かなかった。彼らも道端に座り込んで、ただにうつむいているだけだった。違うのは彼らの前に文字の書かれた大きな紙が置かれていることだった。だからわたしは、彼らは占師かなにかで、道行く人の足止めをし、占いを商売としている人達なのであろうと思っていた。実際、2~3人の人がその紙を読むために立ち止まったりしているのを見かけた。ある時、同じ中国人の友達に彼らは何をしているのか聞いてみた。

 

「占い師なの?」―――「違うよ!あの紙には彼らの生い立ちが書いてあるね。どんなにひどいことがあったか書いてある。親が死んでお金がないから学校も行けないとか、会社が潰れてお金がないとか、そんなことね。」

 

一度、一人の人物の前に黒山の人だかりを見たことがある。そこには相当興味深い話が書かれていたのだろうと想像する。

 

最後のBEGGARSはもっとも悲惨なBEGGARSだった。小さな男の子たちだ(1回だけ女の子も見た)。彼らの足は奇妙に折れ曲がっている。たいていは両足とも。そしてその足を折り曲げてヨガの修験者のように背中に背負っている。どうしてそんなかっこうをしているか初めは不思議に思ったが後で気づいた。彼らには動かない足を自分の背中に背負っている方が動き回りやすいのだった。彼らはゴムのパンツをはき、手には靴を履いている。お尻と手を使って這い回っているのだ(文字通り這いまわっている。そんな子供たちが街の真ん中のメインストリートに10mぐらい毎にいるところを想像してみて頂きたい。)。そして上半身はたいてい裸。冬でもTシャツ1枚程度だ。わたしは、彼らが車の行き交うメインストリートをそのやり方で横断しているのを見たこともあるし、地下鉄の階段を降りているところも見かけた。もちろん、彼らの情況は悲惨だ。でも、他のBEGGARSと比べると、少なくとも彼らは動いている。話している。一度、彼らの内の小さな男の子が仲間の男の子と楽しそうにおしゃべりしているのを見た。ある意味彼らは他のBEGGARSと比べてノーマルであった。

 

例の友達に尋ねてみた。「警察が彼らを見たら、彼らを保護して施設に入れてくれるとかしないの?」―――「しないね。」のひとこと。

 

もうひとつ。彼らが上半身裸なのは彼らの背中の傷跡とかを見せるためだと気付いた。脊髄の手術跡を見せているのだ。彼らの元締めが、彼らの足の骨を折るのだといううわさもあった。また、朝早く、彼らをトラックに乗せてやって来て、一人ずつ間隔をおいて道端に置いていくのだという話も聞いた。たまに、近くの食べ物屋さんの人が、彼らにご飯を与えているのを見ることがあった。彼らも、もちろん、お金を恵んでもらうための小さなカンを持っているのだが、そんな時も彼らはそのカンを放さない。片手にカン缶を片手に靴をしっかり握りしめ、食べ物を道に置いて犬のように食べるのである。

 

 

このようなわたしの観察を中国人以外の他の人に話しても誰も信じない(もちろん中国人には話はしないが)。たいていはこう言う。

 

「えッ、そんなにたくさんBEGGARSがいたっけ?見たことないなあ。5番目の違うBEGGARSを探してみようっと。」―――わたしがシリアスな方法で(雰囲気で)話さないせいかもしれない。

 

そして、ある日BEGGARSは突然上海の路上からいなくなった。多分、上海万博のための政府対策の一環ではと…思った。

 

 

追記

 

この話を日本に帰った時友達に話したことがある。彼も「僕なら5番目の種類のBEGGARSを見つけられるよ。」と言った。そして、わたしが上海にいる間にと、彼は上海に遊びに来た。BEGGARSは上海にはもうほとんど見かけない時だった。その頃、わたしは郊外に引越していたが、以前に住んでいたあたりのメインストリートを案内した。そこには大きな歩道橋がある。歩道橋にはエスカレーターも付いているほど。その歩道橋の上から写真を取ると綺麗だよ、と言うと彼はトントンと階段を上って行った。わたしは後からゆっくり上っていった。上に着くと、片隅にひとりのBEGGARがいた。彼は地べたに正座していた。上半身裸。両腕なし。上半身と顔中にひどいケロイド。

 

わたしが彼に追いつくと、彼は黙ってあらぬ方を見つめている。彼がふり向くと顔が蒼白。

「見たの?」

「見・た・・・。」

 

その後一日、彼はほとんど一言も、言葉を発しなかった。

 







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2015年1月12日月曜日

HAL


ロボットスーツ・ハルの話です。HALは『2001年宇宙の旅』のHALではありませんよ。こちらのHALIBMの先を行く、つまり、Iの前のHBの前のAMの前のLという意味でしたが、ロボットスーツは、Hybrid Assistive Limbの意味です。多分、映画のHALを意識しているとは思いますけど。

 

わたしがはじめてHALを知ったのは、2004年でした。筑波大学教授の山海氏が開発しました。それから10余年、HALも段々進歩していると思いますが、その頃の説明では、脚や腕にスーツのようなものをつけ、それが筋肉を動かす時に発生する生体電位を感知して、筋肉の動きをアシストするというものでした。また、疾患のために生体電位が出ない人のためには、ある程度のまとまった動きをあらかじめプログラムしておき、人の動きを再生するという方法もありました。

 

わたしは、趣味でロボットの開発を追っているので、逐次新しい変化があった時の新聞記事などで、HALのことはフォローしていました。そして、英語クラスのトピックスでも、2~3回取り上げましたが、先生や生徒の皆さまは無反応。HALの存在自体も御存知なかったのです。

 

何故なの~~~!

 

世界に誇る日本の技術ではありませんか。日本人の無関心さには恐れ入ります。と同時に、日本政府の取組のスローなことにも…怒りさえ感じます。日本の技術が政府の認証が得られないばかりに、欧米の人が先にその果実を享受しているという意味です。新薬なども然り。人工皮膚もそうだったなあ。

 
 
 

2013年、2月27日には、「ロボットスーツHAL福祉用」が、世界で初めて生活用ロボット国際安全企画(ISO/DIS13482)の認証を受けました。同年6月にはその欧州モデルが欧州の医療機器として認証され、ドイツではHALによる治療が公的労災保険の対象となっているとのこと。日本国内では、医療・福祉施設で400体ほど使われているそうですが(2003年現在)、医療機器としての申請はまだのようです。

 

 

2014年12月の新聞記事によりますと、

 

「着るロボットとして知られるロボットスーツHALを使い、脊髄損傷などで歩行が困難な人の機能を改善する治療を東京大医学部付属病院が計画している。」

 

そうです。

 

ようやく政府も動き出しましたか。地域限定で規制を緩める「国家戦略特区」の制度を使うということ。2015年の夏までには実施したいと言っておりますよ。

 

「東京圏の特区では、欧米などで承認済みの医薬品や医療機器の手続きの迅速化を掲げており、この制度を使って早期の医療応用を目指すことにした。この場合、HALを使う治療と保険診療の併用が認められる見通しだ。今年度内をめどに正式な医療機器としての国への申請手続きも予定されている。」

 

と言うことです。

 

山海教授によりますと、事故や病気で歩行が困難になった人がHALを装着して訓練を繰り返すと、脳から手足の筋肉へ至る神経のルートが強化・再構築され、運動機能の改善が促されるということです。

 

 

その他医療用以外の用途では、テレビ番組で見たのですが、重い荷物を運ばなければいけない物流や建設、農業の分野で活躍できそうです。昨今の高齢化、そして人手不足に伴いそのような分野で働く人には、多大な荷重がかかっています。人が装着して仕事をするので、この場合のHALはよりコンパクトにそして軽量化が求められます。HAL自体の重さが仕事の妨げにならないように…です。今年から、このタイプのものは量産される予定で、一台月5万円程で企業に貸し出される模様。筑波大発のベンチャー企業ももっと簡便化されたHALを大手ゼネコンに貸し出す予定です。貸出料は月10万円代前半とか。人件費を考えればお安いかも。

 

もうひとつこれもテレビ番組で見たのですが、おんぶ用HALです。健常者がHALを着用し、重度障害のある人をおんぶしていっしょに旅を楽しみます。番組では実際に交通事故で頸椎を損傷した人をおぶってアルプス・ブライトホルンを登頂した模様を放送していました。こちらも装置の軽量化とバッテリーの長寿命化が進められています。山海教授は、「登山に限らず、車いすの人が入りにくい世界遺産の遺跡などでも、おんぶ型HALは役立つ。将来は、製品として実用化させたい。」と語っています。







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2015年1月10日土曜日

COMPOSER (FLYING LEAPより)


英語クラスで読書会を月一回開いている事は、たびたび書いているので「耳タコ」でしょうが、今回も話の導入として書いてしまいました。そして、今月はわたしの当番で、読む本を選ばなければいけません。10ページ程のショートストリーです。3人のクラスですが、他の二人は、世界の古典のからいつも選んで来ます。しかし、先生が若いイギリス人なので、「いつもなんで宗教がからんでいるんだ。」との感想。1800年代あるいは1900年代初期の話となると、それはしかたのないことですよね。それから、この頃の若い人は古典小説を読んでいないというのは世界共通なのでしょうか。と言っておいて、私も古典小説はあまり読んでおりません。が、教養としてどんな話かは知っています。あるいは作家の名前程度は。

 

英語の勉強のためにだけに買った原語(英語)で書かれた本は、本棚三段分くらいあります。しかし、すべてわたしの趣味的な本で、推理小説やサイコやSFや怪奇小説(ゴシック)その他サスペンスものばかり。つまり、他のお二人の趣味には合いそうにないものばかりです。それで今回自分の本棚から見つけたものは、『FLYING LEAP』です。この本を読んだ時は、なんだかおもしろくなくて2~3篇読んだだけでほってありました。いつからホッタラカシニしているのかをアマゾンの履歴で調べたところ、2008年に購入した模様です。

 

 

なぜこの本を買ったのか。

 

表紙(表紙ですよ!)にはこのように書かれています。

 

“I don’t know what planet Budnitz comes from, but I’m happy to have her.  Flying Leap is a tremendous debut---funny, dark, weird, adventurous, slanted and enchanted.”

------Newsweek

 

著者はJudy Budnitzです。若い女性でこの本でデビューしました。紹介文は以下のよう。

 

The twenty-three stories in this debut collection provide short, sharp shocks---jolts of recognition, surprise, or delight.  In her tales of ordinary people in extraordinary situations, Judy Budnitz plays with the boundaries of time and reality, from the young man persuaded to donate his heart to his dying mother, to the girl in post-apocalyptic suburbia whose only friend is a man in a dog suit, to a short history of women contained within the pages of a fall fashion catalog.  Laced with wit and imagination, these stories announce the arrival of a uniquely talented new voice in fiction, a young writer leaping boldly into the next generation of American writers.

 

いかがですか。なんだかわたしの読書趣味にピッタリって感じでしょう。しかし、いざ読んでみると、なんだか中途半端な感じが……。古典小説はわたしの趣味ではありません。が、読めば感動は得られます。文章の良さとかいつの時代でも共通の人間の性とか。しかしこの本には共感が得られない。そして、ファンタジー性も純文学の方向に行こうとしたのか迫って来ません。これが、わたしがまだこの本を全部は読んでいない理由です。でも、英語としてはわかり易いし、「古典小説ではない」、「宗教性がない」ということで先生の要望には答えられそうに思います。

 
 
 

 

この23篇のお話から私が選んだものは、『COMPOSER』です。8ページの小編で、単にクラスのリクエストに答えられからという理由から。

 

作曲家の話です。若くして優秀で有名で聡明でウィットもありいの女性にもてもてのイケメン。しかし、お話の1行目は、

 

You see in the paper how the composer died today.

 

彼は亡くなっちゃったんですね。彼は母親と二人で暮らしていました。幼い時は父もいました。しかし、父は若くして亡くなって、その時、彼の母は嘆き悲しんで部屋に閉じ籠もってしまったんです。それまでの母はとてもやさしく、父と共に幸せな日々を送っていました。彼は、父がピアノを弾いて母を慰めていたのを思い出しました。その父のピアノは決して上手くはありませんでしたが、母の心を捉えていたのです。

 

When the composer was still very small, his father fell ill.  He lay in bed slowly dying, the sickness working its way through his body.  The house fell silent.  The curtains were drawn.  After he died, his wife went to her room and would not come out for weeks.

 

彼は、母親を非常に愛していました。それで、彼は母の気持ちを引き付けるために、ピアノを弾いてみました。すると、母のベッドルームから足音が聞こえてきました。そして、ピアノの前に坐っていた彼を、背後から、以前のようにやさしく抱きしめたのでした。

 

彼女は、彼を有名な音楽学校に入学させ、こうして彼はコンポーザーになったのでした。つまり、彼の母親の気を引くためだけに…です。

 

Whatever the reason, she sent him to the best schools, found him the best instructors.  He read about Mozart and began composing when he was fourteen.  She was proud of him, sometimes fascinated by him.  But as she grew older she touched him less and less, paid attention to her own affairs.  The composer continued to write, always struggling to recapture the days of sunlight and mother’s laughter.

 

彼女は彼の手を離れて行ってしまいます。他の男性と遊び歩いたり…。そして、どういう訳か彼女は、太ったり痩せたりを繰り返します。彼は、太った時の母が好きでした。なぜなら、その時期は彼女は家に閉じ籠もって、彼を一人にして出歩くことがなくなるからです。そんな繰り返しが彼女の身体を蝕んだのか、彼女も亡くなってしまいます。その後の彼は、父が亡くなった時の母親と同じように誰とも会わず家に閉じ籠もります。誰も彼に会うことができません。どんなものも彼の興味を引くことができません。

 

そして、このお話の第一行目に書かれていたように、彼は死を迎えるのです。どうして死んだか知りたいですか。書いても良いんでしょうかね。まあ、こんなところです。

 

He was angry at her for leaving him.  As if she had run off with the milkman.

He said the music would not cease.  It sloshed and crashed in his head.  He refused to open the floodgates to let it out.  A flock of violins, like seagulls.  Kettle drums thunder-rumbling.  His heart beat a rhythm like dance music.  Music! For dancing! His own traitorous heart!

He directed his anger against it, as if his heart were the enemy.  He cried out that if he had the means, he would stop it.  He said he could not stand to go on any longer.  He did not care about anything but her.

 

 

結局、彼の母は彼の父親しか愛していなかった。そして、彼は彼の母親しか愛せなかった…ということでしょう。

 







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2015年1月2日金曜日

『愉楽』―――読み終えました。


閻連科著、『愉楽』を読みました。中国の現代文学です。2014年、「『本年度フランツ・カフカ賞受賞』アジアでは、村上春樹に次いで二人目」という本の帯広告です。

 

大変長い本でした。前半は、もちろん面白かったのですが、ちょっと読むのに時間がかかりました。しかし後半は、あれよあれよという間に、読み進んで行けました。前半は、後半に進むための長い長い段取りだったんですね。前半を丁寧に読むことによって、後半の息をも吐かせぬ大団円に滑り込むことができたと思います。

 

内容の話は後にして、周辺事情から書きますと、彼は、ラテンアメリカ文学のガルシア=マルケスによく例えられます。つまり、マジック・リアリズム。私見では、マジック・リアリズムとは、過去と現在そして近未来が混然と一体化しているところに生じるものと思います。

 

マルケスやリョサを生んだ南アメリカは近未来的近代都市とアマゾン川流域のまだ原始の名残りがある地域、そして中世の雰囲気を醸し出しているその中間地帯から成り立っています。決してヨーロッパの「洗練された都会」からは生まれないもの。そして、閻連科の中国は、やはり高層ビルが立ち並ぶ北京、上海を始めとする近未来的大都会と、山奥の少数民族が暮らす地域、そして、まだ中世を残す農業地帯が見られます。この物語は中国の革命後の世界から現代までのお話。しかし、読んでいると時々、中世のあるいは明治時代の話ではないかと錯覚させられてしまいました。

 

あるいは、中国映画の『山の郵便配達人』を彷彿と。この郵便配達人は、徒歩で山の頂上まで、そこに住む少数の人々に何日も掛かって郵便物を配達するのです。が、その背景に高速道路を駆け抜けて行くトラックなどが見えるんですよ。徒歩で郵便物を配るということが、同じ現代に同居しているんですね。日本のどこかのテレビ局も配達人の追跡調査をしていましたよ。スイマセン脇道に逸れてしまいした。

 

もうひとつマジック的な事は、巻や章が奇数しかないこと。第1巻の次は第3巻、第1章の次は第3章が続きます。「訳者あとがき」では、これも内容の魔術性を強調すると言っていますが、それはどうなのかなあ。ちょっと瑣末なこととも思いますが、中国の独特な文化に関連づけられているかもしれません。それから、お話の中で「注」が入ります。それは、「くどい話」という章になっています。方言の説明などがあります。しかし、しばしばその「くどい話」にも注が付き、「くどい話」の「くどい話」があります。そこでは、中国の革命事情とか歴史的な話も書かれていて、本文より長く、それだけで読める話となっていたり、「う~~~ん」と唸っちゃうほど、話の補完になっていたこともありました。

 




 

ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は、女族長が百年に渡り家族を束ねて行く物語でした。この『愉楽』も女の長が、一つの村を引っ張っていくお話です。しかし、『長』と言っても、このふたりの女性は何か罪悪感のようなものを持ち続けています。長であるが故の「皆を幸せにしなければならない」という責任感に基づく、皆に対する申し訳のなさでしょうか。

 

『愉楽』の女族長は茅枝という名です。そして彼女を長とする村は、障害者ばかりの村。この村の成り立ちには伝説があるのですが、早い話が、邪魔者扱いされる障害者たちが(めくら、ちんば、つんぼ、おし、下半身不随,腕無し、などなど差別用語満載ですが、そのまま本にも記述されています。これらの言葉なしにこの本は成り立ちません。)、その村では皆が障害者でどんな者でも受け入れてもらえると、どんどん集まってきたということでしょうか。

 

茅枝は、革命戦士でした。彼女が所属していた紅軍が戦闘で破れ、負傷者は自分の村に帰ることになりました。その時、彼女は孤児で自分がどの村の出身かわからなかったのです。それで、ひとりでそれらしき村に向かっている時に、凍傷で足の指をなくし、また崖から落ちて片足の骨を折りびっこになってしまいました。その時、この障害者の村「受活(楽しく暮す)村」を見つけ留まることにしたのです。そして、彼女が紅軍の戦士ということで、皆も彼女を長として迎え入れたのでした。つまり、彼女の栄光のために障害者である彼等も、県からも尊重され幸せに暮らせると言う読みです。ここまでが、第一巻の第一章です。ですから、この物語の全てをとても書き記すことはできません。

 

で、お話は、大きく分けて二つの本流があります。ひとつは、この茅枝にこと。彼女は革命戦士であったために公社(共産党の人民は総てを分け合い、お互いに助け合うという事)に入社することが、皆の幸せであると思い、入社します。しかしその後、そのために村は不幸の連続に見舞われます。それで、彼女は入社した事を後悔し、死ぬまでに必ず退社して見せると誓います。さて、それは上手く行ったのでしょうか。村はどんな不幸な目にあったのでしょうか。

 

二つ目は、県長の柳さんの野望。彼は、県長として立派に県を治め、県民を幸せにし、その上の段階の出世を目指します。そのためにロシアからレーニンの遺体を購入し、県の財産にし、世界中からの見学者を集め金儲けをし、県を豊かにしようともくろみます。しかし、レーニンの遺体を買うには、莫大なお金が必要です。それのため受活村の障害者たちを集め、絶技団を結成し、巡業してお金を得ようと計画します。

 

ここまでもお話が前半の部分です。さて、柳県庁の運命はいかに、受活村のめくらやちんばの運命はいかに。こうしてお話は後半になだれ込んで行きます。柳県長と茅枝は、どういうようにリンクし、どう共鳴し合い、どういう結末になだれ込んで行くのか。興味が湧きましたら読んでみてください。

 

 

最後に、著者である閻連科は「リアリズム」をどう考えていたのかについて。彼は、「後記に代えて」で、「イズムまみれの現実からの超越をもとめて」という一文を掲載しています。「今の状況からすると、リアリズムは文学を謀殺の最大の元凶である。」と。

 

つまり思うに、リアリズム文学が現われた時は、それなりにリアリズムが現実に存在していた。真摯な人間の営みでありましょう。が、現時点では、人間生活はあまりにも自然からかけ離れた架空の次元にあります。人間の生活が、自然と同調していないのです。

 

彼はこう書いています。

 

どうか「現実」とか「真実」とか「芸術の源泉は生活」だとか「生活は創作の唯一の源泉」などという、とりとめもない話を信じないで欲しい。事実、あなたの目の前には真実の生活など並べられていないし、どの真実も作家の頭を通った後はすべて虚偽となってしまっているのだ。

 

 

だから、現世界で、もはやリアリズムなどない。リアリズムは人の頭の中にあるのみ。それを取り戻すかどうかは……「あなた次第」っていうことでしょうかね~~~。

 

 





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