以前から俳句には、興味があるのですが、やり始めるには、しんどいなと。
通信教育の「俳句入門」などの講座の案内書を入手したこともありました。でも、いったん始めたら、やり続けなければいけないし、その分、囲碁の方が疎かになると。
しかし、やりたい。
で、
先ず、
夏井先生の『絶滅寸前季語事典』を買いました。俳句をしていなくても、十分面白く読める本というコメントがあったからです。
で、
十分面白く読めました。
ひとつひとつの季語(絶滅寸前)の解説(エピソードとか、面白話+解説)があり、そして、夏井氏の俳句または有名な俳句が一句。
まるで、麻薬のように、一つ読んだら、また一つと、読み続けてしまう事、確実。
ここで、俳句にはまるかどうか?思案のしどころです。
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2018年7月29日日曜日
2018年7月26日木曜日
オウム6人死刑執行
今日の朝日の夕刊の一面のタイトルです。
何故、このタイミングですべてのオウムの死刑囚の執行が判断されたのか?
まあ、いろいろな分析はあるでしょうが、わたしの意見では、考えすぎだと言われようとも、
法務大臣が女性だという事が関係していないのか?
死刑を執行する法務大臣は、まあ、非難されるのが現状だ。そのために、将来の政治生命にも係わる。
川上陽子法相は、今回、1か月に2度死刑を執行にサインをしたことについて記者会見をしている。
「過去に前例を見ない重大事件。残酷極まりなく、社会に大きな衝撃を与えた。---、裁判における十分な審議を経た上で死刑が確定した。慎重にも慎重な検討を重ね、執行を命令した。」
と述べている。
これで、川上法相が在任時の死刑執行は計16人となり、1993年以降では最多。
この将来的にマイナスな責任を押し付けられたのが、女性の法相。女性には将来がないという暗示なのか。これで政治家として、歴史に名を残すことだけで満足しろという自民党の思惑なのであろうか。
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2018年7月22日日曜日
日本語と英語翻訳の『Self-Reference Engine』を読んで。
この本を買った理由は二つあります。ひとつは、円城塔氏がフィリップ・K・ディック特別賞をアメリカで獲得したという事です。ディックはわたしの大好きな作家なのです。1960年代の作家ですが、今でも、いろいろな映画の原作になっています。一番有名なものは、『ブレードランナー』でしょう。『ペイ・バック』とか『トータルリコール』等も。ほんとにたくさんの映画があります。彼の原作と意識されていなくても。円城氏のこの本を読んだところ、なるほどフィリップ・K・ディックの賞に相応しいなと感じました。
そしてもう一つの理由が、日本語の本が英訳されてアメリカで賞を取ったということです。つまり、日本語がコンテキストなのです。ワールド・リタリチャーには、「ワールド・リタリチャーと複数形のワールド・リタリチャーズ」があります。単数形のワールド・リタリチャーは、それぞれの国の文学の中で「世界的な観照」に耐えられる作品を意味します。
そして、それらの国々の作品が日本語に訳される時、日本語とその言語との微妙なニュアンスの違いが生じます。完璧に日本語には訳しきれません。そんな作品をわたしが読むとき、その真実は彼らの側(書いた側)にあるのです。訳された日本語が間違っているわけではないのですが、日本語に訳しきれないということです。同じ意味を持つように表現することが困難なのです。
日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳されます。彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているのだということに。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、英語スピーカーたちはなかなかこの真実を受け入れません。
『Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。この本の根幹は時間軸が崩壊し過去も未来もぐちゃぐちゃにこんがらがっている状況です。そんな中で話が展開しています。だから、「明後日の方向」というのは、文字どおりの意味で理解されうるということですが、日本語としては、「明後日の方向」とは、「デタラメ」という意味を含んでいます。この二つの意味が相まって、日本語での本は話に厚みが出ます。が、英語では、意味が一つとなります(英語にはそんな表現方法はないと確認済み)。
あるいは、主語を明確に表現しない日本語でも我々は、何が主語かわかりますが、訳された英語では、主語が間違っていることがあります。そんないろいろな間違いに、「真実は我々の側にある」と主張できる幸せ(倒錯してますね、わたし)。とにかく、わたしが言いたいことは、文化の違いを謙虚に受け入れること。我々は、パーフェクトにお互いを理解し合える存在ではないのです。
それは、時間軸が狂った世界で、お互いが別々の違った方向に進んでいるのと同様に、時間軸の狂っていないこの現実世界でも、我々の意識は必ずしもリンクしないのだという事実。つまり、我々は、「ひとりひとりが常に異次元の世界に住んでいる」のです。
この本は円城氏の処女作のようですが、処女作にありがちな、あらゆるものが詰め込まれた装飾過剰な作品になっていると思います。第一に「イベント」が余分なのでは。イベントとは世界の時空間が混乱した瞬間のことを指しています。そのイベントが起きてからの混乱した状態の描写です。それぞれのショート・ストーリはイベントに関連していますが、イベントを中心に置かなくとも、それそれぞれの話だけで「ある時イベントが起った」という事実を暗示した方がスッキリするような……。
あとがきの解説文を読むと、円城氏はこの「イベント」というものを出汁にして、ただハチャメチャな世界を書きたかっただけだと感じます。彼は「あさっての方向」という言葉に惹かれてこの本を書きだしたのではとさえ思えます。芸術家とはそんなものでは。人々は、つい、芸術家の意図を読み取ろうと勝手に難しい理論を組み立てて「こんなことを言いたいのだ」と解説します。が、実体は、ほんとに単純な動機だと思いますよ。
ある作家は、「単なる状況をただどれだけ長く描写する事ができるかを試してみたかっただけだ。」と作品について述べています。また、画家にしても「ある色とある色の組み合わせが美しかったから、その組み合わせの美の極限を描いてみたかった。」と。わたしは芸術家ではありませんが、わたしの彫金の作品を見て、「これは何を表わしているの?」とよく聞かれました。わたしはいつも適当に答えていましたが、作品制作の動機は、「平らな面に滑らかな曲線を持った凹みを入れたら美しいだろう」と言ったような単純なものでした。
円城氏の文を読んでいると、星新一氏の影響を受けているんじゃないかと思わされます。または、落語。言葉あそび。だから、それだけに留めておけばよかったのにと。イベントを中心に添えると、勢いその説明に追われてしまいます。通常ではない世界を舞台にするのは、フィリップ・K・ディックの得意なところですが、彼の場合は、その正常でない世界が、ただ「ある」と言うだけです。そんな世界で、人々はその世界の説明を求めるではなく、普通に普通ではないことをしています。円城氏は、too much あるいはtoo lessです。つまり、通常でない事を描き過ぎる、世界を説明し過ぎる、そして、その世界に生きる人々の日常性を描き切れていない。そんな感想を持ちました。
余分ですが、ひとつ面白いことに気付きました。英語の先生と『Self-Reference Engine』のプロローグと一作目の「Bullet」を読みました。二人には感じ方の違いがあったのです。
わたしは、Bullet を読んで、この主人公の3人は、中学生くらいの少年・少女と思いました。イギリス人の先生は、「大人の男と女」と感じたようです。それは、言うことがスマートだからと。わたしは、彼らの言うことは、どことなく、コミックブックの主人公の子供たちの表現と似ていると思いましたが。実際には、13歳の少年・少女でした。
先生は(イギリス人の男性、30歳くらい)、想像の世界にスンナリ入っていけないようです。つい最近聞いたラジオ番組で、ゲームのイベントをしている人(かなり有名なようですが、名前を忘れてしまいました)が言っていました。「いろいろな国でゲームのイベントをしているが、想像の世界にスッと入っていけるのは日本人だけのようだ。」と。カフェで、「ここは列車の車室です。」と設定すると、日本ではたいてい「はあ、そうですか。」となるが、他の国では、「なぜだ。ここはカフェじゃないか。」と言いだす人が必ずいるそうです。
Bulletの中で、「リタ(少女)は頭の中に弾丸を持っているのだが、それは、母親が撃たれた時、リタが母親のお腹の中にいたからだ」、という描写がありました。先生の反応は、「頭の中に弾丸があって、彼女は死なないの?」でした。わたしは、「ああ、弾丸が入っているのか。」という反応。
それなら、過去でリタが撃たれたことになるので、明後日の方向に銃を撃ちまくるのはおかしい。過去の方向に打つべきなのではと思いました。で、読んで行くと、「リタはある時点で撃たれた。そしてその衝撃で過去の方向に押しやられ、母親の子宮に戻ってしまった。そして、この世に生まれて現在の13歳の時点に来た。この時、リタの頭の中に弾丸はあるがまだ撃たれてはいない。だから、これから彼女を撃つであろう未来の方向の人物に向けてガンをぶっ放し続けているのだ。」と。どうですか。
わたしは、「はあ、そうですか。」と思いました。先生は、「それでは、リタは2回生きているの?」って。どうでもいいじゃん、そんなこと。でしょ。
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2018年7月15日日曜日
世界史からの―――日本の歴史に興味津々。
『アマテラスの誕生』を読んで
マクニ―ルの『世界史(A World History)』に取り憑かれています。マクニ―ルは文明を四つに分け、それ以外の文明はその文明の亜流であると書いています。その四つの文明とは、チグリス・ユーフラテス文明、ナイル文明、黄河文明と、インダス文明―――ではなく、ギリシャ文明。ギリシャ文明とは、少々変だと思いました。しかし、誤解していました。彼は、メソポタミア文明に影響を受けて興ったギリシャ文明、インダス文明、メソポタミア・エジプト文明と黄河文明―――と区分していたのです。
19世紀の終わり、あるいは20世紀の初め、『世界最古の物語』が発掘されました。4~5千年前に楔形文字で書かれた物語です。その内容はまだまだ研究つくされていませんが、近東地域に位置するバビロニア、ハッティ、カナアンの文明です。これが、彼の言う最初の文明でしょう。聖書もインド叙事詩もホメロスもこの影響下にあります。そして、そこからのギリシャ文明・メソポタミア文明・インダス文明・黄河文明ということです。
彼は、文明にはひとつの理論に基づいた官僚国家が必要だとしています。「ひとつの理論」とは、現在意味する「理論的」なものという事ではありません。人心をひとつにする「物語」です。つまりこの「物語」を他の文明は創り出すことが出来なかった。だからこの四大文明のどこかから拝借したのだと、彼は言います(四大文明以外の文明は亜流だという意味)。実際には「物語」とは、宗教です。西欧キリスト教、インドのヒンズー教、イスラム教と仏教。例えばモンゴルはどうでしょう。彼等のジンギス汗はユーラシア大陸を征服しましたが、人を説得する「ひとつの理念」は持っていませんでした。イスラム教に接触するとすぐイスラム教に転向してしまったのです。
マクニ―ルは『世界史』を書いています。その『世界史』がやや西欧中心的なのは致し方ありませんが、新しい世界史観を創出していることは確かだと思います。そこでは日本のことも触れられていますが、やはり日本人の書いた日本の歴史ほどではありません。そこで、実際、日本の歴史はどうなんだろうかと思った訳です。彼は、日本の歴史を中国文明に影響を受けたいわゆる「亜流」文明とみなしています。そこまで単純なのだろうかと思いました。故に『アマテラスの誕生』(溝口睦子著)に辿り着いたということです。
溝口氏は、「アマテラスを日本に統一国家をもたらすための皇祖神」としています。つまり、ひとつの文明に不可欠な「物語」。前置きが大変長くなってしまいましたが、やっと、お題の『アマテラス』に行き着きました。
『アマテラスの誕生』で溝口睦子氏は「なぜアマテラスが日本の皇祖神になったのか」という謎ときに挑んでいます。あくまでも溝口睦子氏の説です。わたしには、それが正しいとか間違っているとかの判断はできません。しかし、スッキリと納得はいたしました。
日本は近代化するまでに、対外的に三つの敗北があると溝口氏は言っています。ひとつは、5世紀初め高句麗と戦っての敗北。ふたつ目は、663年白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に負けた事。そして幕末期の黒船来航。幕末期に西欧諸国に対抗する為、「西欧から」学んだということは、日本のひとつの特徴です。中国、その他の国などは、その巨大な国力に安住して、気がついたら植民地化されていたということが見受けられますから。それと同様に、高句麗や唐・新羅に敗れた時も、日本はそこから新しい知識を学んだのです。
4~5世紀の東アジアは、ユーラシア大陸と朝鮮半島南部、日本列島を結ぶ文化の流通圏がありました。そして、5世紀初めに高句麗に敗北を喫すると、倭の独自性の強い文化から、朝鮮半島の影響の強い文化へと変化しました。古墳から掘りだされる遺物は、大陸文化そのものだと溝口氏は述べています。その頃大陸で流行っていた思想が、「天孫降臨神話」だったそうです。
敗北により、権力の集中と統一国家の立ち遅れを意識した倭王は、統一王権にふさわしい、唯一絶対性・至高性が必要と、天から神が降りられて王家の始祖となったという物語をここで取り入れました。その時の皇祖は「タカミムスヒ」であって、アマテラスではありません。溝口氏によりますと、ヤマト王権(5c~7c)はタカミムスヒが皇祖、律令制国家成立以降は(8c~)はアマテラスが皇祖ということになります。「この時になぜ皇祖の転換が成されたのか」が、『アマテラスの誕生』の主旨です。
663年に白村江で日本が敗北した時、時の権力は「もう大慌て」といった状況でした。唐と新羅の連合軍に敗れたので、唐が侵攻してくるのではないかという恐れから都を内陸部に移すということもしました。その頃はまだ数多の豪族の頭としての天皇でしたが、天武天皇は統一国家への改革を始めるのです。天武天皇(在位672~686)は、豪族の「部曲(土地・人民)廃止」を675年にします。これで、「私地・私民」が「公地・公民」となります。豪族は国から支給される扶持によって生活することになりました。中央集権の成立です。
もうひとつ重要な事が、思想面の改革です。天武天皇は歴史書の編纂を命令します。681年に開始されました。そして、720年『日本書紀』の完成です。天武天皇は大陸からのグループの神と見られがちなタカミムスヒをそのまま国家神とすると、大陸との繋がりが深い特定の豪族の官僚国家なのだと受けとられる事を恐れました。そこで、それ以前の土着の神である「アマテラス」を皇祖神として定め、人心の一新をはかり、新しい国家作りに挙国一致で向かう態度を示そうとしたのです。しかし、『日本書紀』ではまだ完全な転換を果たせず、『古事記』によってその意図は貫徹されます。『古事記』によって神話が一元化され、タカミムスヒは忘れられていきました。
しかしながらアマテラスが名実ともに皇祖神となったのは明治に入ってからの事で、明治2年明治天皇が伊勢神宮を参拝したのが、はじめての「天皇が伊勢神宮を参拝」ということになります(祖先を参拝するという事)。つまり、江戸時代まではいくら「皇祖神」「絶対神」「至高神」などと言われても、庶民は八百万の神を信じていたのですね。
そもそも国を統一する時は、なにか絶対的なものが必要だったという事が、納得できました。『日本書紀』や『古事記』は、キリスト教で言う「聖書」のようなものだったんだと、この『アマテラスの誕生』を読んで、思い至った次第です。
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2018年7月2日月曜日
今日は『ルンバ』の日です。
まだまだ囲碁三昧の日が続き、ブログのUPをサボっております。そこで少々近況報告。
iROBOT社のルンバを買ったことはお話しました。その「起動」の日が月曜日と木曜日です。今日は月曜日なので掃除を始めました。(と言って、ルンバが掃除するのだが)。やはり見入ってしまいますね。「チャラッラ、ラー、ピッピッピ…」と言って動き始めます。そんなに見ているほど暇ではないので、そっとドアを閉めてルンバに掃除を任せます。
単なる丸い形の掃除機なのに、一人で動き回るのを見ていると、何か感じてしまいます。今まででも一人で勝手に動き回る機械はありましたが、それはおもちゃの類で、ロボットとか電車とか自動車とか。人の役に立つものではありませんでした(それでも癒されるが)。それが掃除をしてくれるとなると、仲間という意識が何となく生まれるのでしょうか。先に『HUMAN』の感想文で書きました「ヒトは共感によって心が生まれた」という事でしょうか。
こんな形のものにも共感してしまうとなると、ヒト型ロボットが家庭に来たらどう言う事になってしまうのでしょう。現在、AIと繋がっている家電やロボット犬、話しかけると応答してくれる器機などが家庭に入っています。話しかけると「用事を済ませてくれる」機器のコマーシャルを見ていると、小さい時からこんな生活に慣れてしまうと「ヒトとは」どう。いうものになってしまうのだろうと思います。
もちろん昔から機器は進歩しており、それによって人は別段変わらず「人として」生きているということはわかります。が、これからの進歩は今までの進歩と「質が違う」という事を言っておられる「学者」の方々もいます。今までの進歩は人の外側で起こっていたのだと。自動車が発明された。人は歩かなくてもよくなった。等々は、「人の存在」そのものには関係がない事。しかし、これからの進歩は、人間の内側に関係する進歩であると。
今のロボットは機械です。そういう見かけです。しかし、人そのものの見かけのロボットが出現したら…。アンドロイド。SFの世界そのものになってしまいますね。最後には『マトリックス』の世界が待っているのか?と。
5月31日の新聞に「筋肉の伸縮で動くロボット」という見出しの記事がありました。「ラットの筋肉を使い、指のように動くロボットを、東京大学生産技術研究所の竹内昌治教授らが開発した。」というもの。また、昨日の新聞では「遺伝子解読、編集の次は人工細胞」という記事が目に留まりました。
50年前、「これはなかった、あれはなかった…」、等々と、仲間内で話題になります。ほんの50年前です。これが今後50年後の事を考えると、想像もできないような新たな世界が待っているような…。地球はAIに任せて、人類は、火星でパイオニア生活でもしますか。
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