『言語の本質』
言語学に興味があります。この本の帯に「なぜヒトだけが言語を持つのか」とありました。この本のサブタイトルは、「ことばはどう生まれ、進化したのか」です。言葉は、神秘的です。宇宙や深海のように。
この本を読んで言語の「本質」がわかるかどうかはわかりませんが、「言語に本質というものがある」とはわかります。ソシュールの『言語学』からのメルロ=ポンティの『意味と無意味』、あるいはフーコーの『言葉と物』などに、もう一度挑戦できると良いのですが。
今井むつみ氏と秋田喜美氏の共著です。秋田喜美氏はオノマトペの研究者ですが、今井氏との交流で言語と人間の本質を考えるようになり、共著による「オノマトペによる言語の本質」に結びついていきました。
この本を読んで興味を持ったことが二つあります。ひとつは、「記号接地」という問題です。ひとつひとつの言葉が関係性を持って、巨大システムとなり、「言語」というものを成り立たせていくのですが、少なくとも最初の「ことば」の一群は身体と接地していなければならないということ。
わたしたちが、その言葉を知っていると言う時、それは視覚、触覚、食べ物ならば味覚をも取り込んで、理解が成り立ちます。「メロン」という言葉を聞くと、その味ばかりでなく色、手触り、匂いなども想像します。このことから、身体を持たないAIは、本当に言葉を理解できるのかという疑問が出て来ます。
自分の体で実感した言葉をひとつも持たないこどもが、辞書だけを見て、その記号の羅列から意味のあることばを紡ぎ出すことができるのだろうかという問題です。AIは膨大なデータを学習することで言葉を紡いでいきます。
それが意味のある事かどうかは、紡いだAIには、なんの関係もない事ですが(実際感情はないのだから、意味も無意味もないでしょう)、それを使う人にとっては問題です。データを与えているのは人間ですが、AIの進歩によりどうなって行くのかは今後の話です。
もうひとつの興味は、アブダクション推論です。論理学では推論といえば演繹法と帰納法です。この中で、必ず正しい結論を導き出すのは、演繹法だけです。帰納法とアブダクション推論は、つねに正しい答えにたどりつけるわけではありません。帰納法推論では、99%が当てはまる事象に基づいて、結論(一般化)を出します。しかし、新たな発見をもたらすのは、帰納法とアブダクション推論であり、演繹法から新しい知識は得られません。(この辺の理解は本書を読んで下さい。)
このアブダクション推論は、少々の例外を除き人間にしか見られない事のようです。このような事から、人間だけが言葉を得たということにつながっていきます。(だから、人間は偉大だという事ではなく、その他の生き物は、生命を維持するのにそんな事をする必要がなかったということ。)
幼児がことばを操れるようになる時、アブダクション推論の誤りが生まれます。例えば、「足で投げる」。手で投げると足で蹴るとの身体的類似性から、アブダクション推論してしまう訳です。推論から得た知識。そして、その修正。こうして、お話ができるようになっていきます。
この「二つの興味」を得ただけでも、本書を読んだ甲斐があったという事です。
もうひとつ、オノマトペに関するオモシロイことの発見。
日本語にはオノマトペがたくさん見られるのに英語にはそんなに見られないという事。それは、日本語の動詞の中にオノマトペ的要素は含まれていないので、そのような意味を付け加えなければいけないという事。
例えば、
汽車が汽笛をピーッと鳴らしながら走り去った。は、The train whistled
away. と、whistleだけで表現できます。
猫がシャーと鳴いた。は、The cat hissed. トラックががらがらと私道に入っていった。は、The truck rumbled into the driveway. です。
このような事がAIで自動翻訳されると、人にとっては、永遠にわからない事になりますネ。蛇足ながら…です。