2024年4月26日金曜日

今日の『ことば』

 



『折々のことば』です。



エーテルの波はつねに送られているが、しかし、われわれはたいてい、受信機をはずしているのである。    (マルティン・ブーバー 哲学者)


生きていると言うのは「語りかけられている」ことだと哲学者は言う。と、鷲田清一氏。


その語りはじかに私に向けられたものでも、人の声でもないかもしれないが、紛れもなく私に、応答することを求めている。なのに私たちは「甲冑で身をかため」、この言葉の芽を摘む。



わたしは、ヒトが言葉を発するようになって以来、いろいろなものを失ってきたと思っています。「言葉にならないもの」を失ってきているのです。


言葉のおかげで人類は分かり合い、文明も発達し、科学も発展し続けています。人は、そのような進化を受け入れてきたーーーその方向に進むのに躊躇しなかった、ということでしょうか。


もちろんそれで人は幸せになれた面もあります。だけど、何かを失った。


どちらが良いのかは、単純には決めれれないけれど、「何かを失いたくなくて」文明に逆らっている人々もいますし、ドロップアウトしている人々もいます。アマゾンに住む忘れられた人々や、無法地帯「ゾミア」に住む人々。


科学が普通の人の持つ能力・理解力以上に進んできた現在、これからどのような世界にヒトは進んで行くのか、と。


コンピュータ・チップを脳内に埋め込め得る時代、AI機能を搭載したドローンが、戦争をしている時代。フィリップ・K・ディックのSFのような時代が来たのだなあと、オモイマス。


 


2024年4月12日金曜日

囲碁研究

 


大袈裟ですが。。。


暇なときはたいてい囲碁の研究?勉強?練習?をしています。今までは、『囲碁研究』という月刊誌を読んでいましたが、廃刊になってしまいました。今年から季刊ということでまた出しているようです。


しかし、昨今AI囲碁が主流です。AIに基づいて内容も書かれていますが、まだ過渡期。今まで主流だったのが、即、時代遅れになります。AIの打ち方が変わるからです。それで、購読はやめました。年4冊で1万2千円ほどすることもありいの~~~です。


それで、今まで買った本とか『囲碁研究』の付録とかを読み直しています。詰碁とか手筋とかいったものです。または、新聞に連載されている「名人戦」の対局棋譜などを碁盤に並べています。



思う事。


詰碁とか手筋とかは、読んでいてツマラナイ。それは何故か?たぶん、たとえるなら「辞書」みたいなものだからではないか?


そして、棋譜並べはオモシロイ。こちらは、小説のようだから。想像力を働かして深読みできます。


そんな日々です。








2024年4月10日水曜日

『シェイクスピアの記憶』を読んで


ボルヘスは好きな作家です。10冊くらい持っています。でも、難し~~~い。でも、買ってしまう。

 

『シェイクスピアの記憶』もそうです。「ボルヘスの文学的遺言。人間ボルヘス最晩年の自伝である。」というキャッチについつい手が伸びてしまいました。

 

なぜ、理解するのが難しいのに買ってしまうのかと、考えました。

 

わたしは、幼い時から「不思議な話」というものばかり読んでいました。SFファンタジーとか怪奇ファンタジーなどなど。そんな延長で、中学、高校、大学時代もそんなような本ばかりです。その一環としてボルヘスにハマったのではないかと。

 

マーク・トウェインの話など童話に焼き直されているものがあります。しかし、彼の本はそんな簡単な物でなく、原本を読むと皮肉たっぷりな少々難解なお話。ボルヘスも民話とか怪奇小説として読めるけれど、そんなものではないと。

 

 

理解不能なものに挑戦するという、わたしのヒネクレ魂に火が付いたのですかね。

 


『シェイクスピアの記憶』は、4つの短編から成っています。しかし158ページあるうちの3分の1ほどは、解説です。今回は、一遍読むたびに解説を見て本編と解説を行き来して読みました。

 

第一遍は、『一九八三年八月二十五日』です。歳を取ったボルヘスと若いボルヘスが遭遇するという「タイムスリップ」のお話ですが、そんなSFであるはずはなく、異なる時間と異なる場所に居る二人のどちらが夢でどちらが現実なのか?そんな葛藤です。

 

1983年は、ボルヘス84歳の誕生日で、その翌日の日付です。この過去と未来の邂逅というパターンは、他の短編集にもよく見られます。『砂の本』でも読みました。

 

 

二つ目は、『青い虎』です。インドのジャングルに虎を捕獲しようと行った男が、入ってはならない聖なる山で、不思議な石を手に入れました。その青い石を巡る不思議なお話です。今、同時に読んでいる『チベット幻想奇譚』に出て来そうな感じ~~~。不思議な存在に憑りつかれて自滅していく、あるいは、超えてはならない「神の不条理」か。

 

 

三作目は、『パルケルススの薔薇』。パラケルススのところに弟子にしてくれと男が訪ねてきます。パラケルススの錬金術、魔術をペテンだと告白させようとの意図です。が、己の小ささ卑劣さに恥じ入り、去っていく、というお話。

 

薔薇の花を燃やして灰にし、元通りにしてくれと頼む弟子。神が作りし一輪の花を人間が消すことができると信じて疑わない弟子に、世界を宇宙を理解できるはずがないとのパラケルススの応えです。

 

弟子が去った後、パラケルススが何かを唱えると、薔薇は元の姿に戻るのでした。

 

 

4編目が『シェイクスピアの記憶』です。シェイクスピア国際会議で知り合ったダニエル・ソープという男が、シェイクスピアの記憶をくれると言います。シェイクスピアの探究に身を捧げていた「私」は、「もらいます。」と言う。

 

それから、「私」は。自分の記憶とシェイクスピアの記憶を持って生きることとなる。初めは幸福感を味わうが、やがてシェイクスピアの記憶に押しつぶされるようになる。ちっぽけな自分の記憶が大きなシェイクスピアの偉大な記憶に飲み込まれるような。

 

自分のアイデンティティーが記憶に基づくのであれば、自分自身の存在理由の意味がなくなると。そして、最終的にはシェイクスピアの記憶を他人に譲り渡すのです。

 

シェイクスピアの記憶を持ったからと言ってシェイクスピアになれるわけではない。では、記憶とはなんだろうか……という問い。

 

 

こうしてわたしは簡明なボルヘスの物語に憑りつかれて、またボルヘスの本を買ってしまうのだろう。

 

 


2024年4月1日月曜日

思いついた。。。


 

ず~~~っと、「わたしは、何故いつも焦っているのだろう?」と、思っていました。昨日、思い至りました。


わたしは自分が理解できないものを、いつも追い求めている。


前に、英語を勉強していた時も、いつも焦っていた。intermediate から始まって、upper-intermediate になり、10年かかってようやくadvanced class に。これより上のクラスはない。が、つまり上は青天井であるということ。どこまで行っても終わりはないのだ。


一生英語の勉強を続けるつもりはない。英文学者、英・語学者になるつもりもないから。



それから碁を始めました。今も続いています。辛いです。苦しいです。囲碁友達が、「なんで楽しみだけで囲碁を打たないのか。」と言うけれど、それで楽しいのか?


一度打ち終わって、「ああ、疲れた。」と言ったら、「碁は楽しんで打たなきゃだめだよ。」と言われ、「疲れるのが愉しい。」と言うと、何も言われなくなった。


今、棋院の「有段者クラス」にいますが、レーティングなのでとてもストレスフルです。「級位者クラス」というのもあります。級位者クラスで打っているととても楽です。が、面白くない。碁を打っているという気がしない。


それで、有段者クラスには3級からなれるので、3級にスレスレなった時、有段者クラスに行きました。レーティングなので、1点でも落ちれば逆戻りです。今のところ順調にクラスに留まっています。


初段とか二段になってから、有段者クラスに来る人もいます。が、ドンドン落ちて行って消え去ります。わたしは、その点、楽です。最低線で入っているので、落ちる苦しみがない。



しかしこれも「自分以上の物」を追い求めているということ。



読みかけだったボルヘスの本、読み終えました。これもそうでした。自分が理解できる以上の本を読み続けている。感想はまた後日に。