2018年12月29日土曜日

無題


一つの事に夢中になっていると、社会の事に無頓着になってしまいますネ。
どうやって、そこに折り合いを付けるべきでしょうか。










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2018年12月23日日曜日

今、尚、世界はキナ臭く……




『アンティゴネ』 ブレヒト





ソフォクレスが書いたギリシャ悲劇をドイツのヘルダーリンが翻訳し、ブレヒトが舞台用に改作したものです。戯曲です。1948年に上演されました。しかし、わたしが購入した文庫本は、2015年8月20日に初版本として出版されたものです。



最近、囲碁に夢中でなかなか他の事が出来ません。囲碁の本を読んでいると、それなりに頭は使うし、論理的思考は満たされますが、情緒的には満たされません。なんだかどんどん鬱屈していくので、「そうだ、何か小説を読もう。」と…、これは戯曲ですが、戯曲ゆえに早く読めそうと。



ブレヒトは、わたしの青春時代のヒーローです。その頃「ブレヒトの異化」という概念が流行っていました。それまでの舞台演出は、「アリストテレス的演劇」つまりルネッサンスの時期から始まった西欧の演劇が主流でした。観客は観劇する時、その内容と同化し感動し情緒的に満たされると言う構造です。ブレヒトはそれを嫌い、「異化」、つまり劇と観客が同化しないことを望みました。観客は劇に感情を翻弄されるのではなく、客観的に劇と対峙し、その内容を把握し、自分の意見を述べる事、考える事を要求されるのです。



というような事を『アンティゴネ』を読み終わってから、つらつら考えました。わたしも少し満たされた気分です。











ブレヒトの『アンティゴネ』とソフォクレス原作の『アンティゴネ』の間には、少々の違いがあるようです。翻訳者の谷川道子さんが、長い、長い、解説文を書いていますが、その中で述べられているその違いは、ブレヒトの脱神話化の意図のための様です。



そもそも『アンティゴネ』はギリシャ神話です。人間と神のお話。神に定められた運命は人間には変えることが出来ない。それをブレヒトは、人間と人間の話として構築しました。アンティゴネは、自らの運命を神の意志に委ねるのではなく、自分の手で変えようとしたと。そのためにブレヒトは筋の骨組みを少々変えていると、谷川道子氏は指摘しています。



アンティゴネは、オイディプスの娘です。オイディプスが自らの母親と、そうとは知らずに交わったために出来た子どもの一人です。末娘です。ソフォクレスは、その呪われた子どもたちまたは一族の話を書き連ねています。



オイディプス王が自分の犯した罪を引き受けて去った後、テーバイの王権は、息子である兄弟が一年ごとに交互に治めると協定しながら、約束を守らなかった兄エテオクレスから政権を奪うために、弟ポリュネイケスが敵国アルゴスと組んでおこした戦争がテーバイの勝利に終わったという後日譚があります。



しかし、ブレヒトの場合は、王権を継承した伯父クレオンが起こした戦争での事件です。兄エテオクレスの戦死に驚いた弟ポリュネイケスが逃亡し、逃亡兵として殺されます。その弔いを禁じたクレオンのお触れに妹であるアンティゴネが逆らい捉えられるという内容。クレオンの戦争も、アルゴスの鉱石目当てにテーバイがしかけた侵略戦争であることが明らかになります










その違いはブレヒトが生きた時代に関連があるかもしれません。ブレヒトは、1898年、南ドイツに生まれ、第一次世界大戦に召集されました。そして、医学部に在籍していたことから衛生兵として敗戦まで陸軍病院に勤務しました。その時の経験から、詩や戯曲の創作に入り戯曲作家として名前が売れました。



それから時代は、第二次世界大戦に突入していくのですが、ブレヒトはヒットラーが政権を掌握してから、ナチスに追われる身になり、アメリカに亡命。戦後、東ドイツに戻り劇団を設立し、演劇活動を再開するのです。それから、彼の「異化理論」により世界的な名声を手に入れました。1956年に心筋梗塞のため亡くなっています。



そんな時代に生きたブレヒトは、『アンティゴネ』で何を表現したかったのでしょうか。第二次世界大戦終結後、ブレヒトは、「古代ギリシャ悲劇の偉大な抵抗者は、我々にとって最も重要な意味を持たなければならない反ナチ抵抗戦士の代理を務めているのではない。今日では彼らを思い出させるようなことが殆ど起こらず、それどころか忘れさせてしまうようなことばかり起こっているだけに、なおさらこれは残念である。」と書いています。



解説ではこれを、「終戦と共に核戦争の危機と東西冷戦が始まり、反戦と抵抗の論理が終焉していくことへの苦々しい思い」と、分析しています。ブレヒトの『アンティゴネ』は、ナチズムとスターリニズムとマッカーシズムの三つの極を生き延びて、これから生まれるべき新しい世界と新生ドイツを前に、国家とは、祖国とは、演劇とは何かが、ブレヒトにもドイツ人にも、根底から問われなければならなかったであろう時代に書かれ、創られたのだ、との提言です。



時代は、今尚ですね。











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2018年11月30日金曜日

18か国語に翻訳決定とあったので、買ってはみたものの……



『コンビニ人間』を読んで。





芥川賞受賞作です。文庫になったと新聞にあったので買ってみました。読み終えたのは、少し前でしたが、感想文を書く気になれずにいました。感動しなかったからです。しかし、色々なことを考える契機にはなりました。



そもそも芥川賞受賞作は、あまり読みません。二、三購入した本もありますが、結局は読めず仕舞いです。何故か。読み出しから辛気臭いからです。この『コンビニ人間』は、軽いノリで調子よく最後までスラスラと読めました。



では、なぜ感動しなかったのでしょう。つい最近、芥川龍之介選の『英米怪異・幻想譚』というアンソロジーを買いました。この本を読みつつ、「わたしはこういう本がつくづく好きなんだなあ。」と実感しました。ですから感動しなかったのは、単なる好みの問題でしょう。



「こういう本」とは、どういう本でしょう。一言で言うと「不条理」ですかね。不条理が不条理のまま終わるというモヤモヤ感です。











『コンビニ人間』の設定は、一見不条理です。主人公の36歳独身女性は、人とは違う感性を持っているらしく、人との社会生活がスムースに行かず、会社に就職できないままコンビニでのアルバイトで暮らしています。また、準主役と言った体の白羽さんも社会に馴染めません。この二人が出会って、ひと騒動おきて、その結果収まるところに収まるというお話。



この「不思議人間」の二人ですが、何か設定が単純すぎます。二人の性格がカリカチュアライズされすぎで、漫画の主人公の様。二人の周りにいる「一般の」人々の方が、複雑な生活・複雑な人生を送っているように思われます。



主人公が笑うということがどういうことかがわからず笑う振りをしながら職場に馴染んでいるのを、普通にコンビニでアルバイトをしている登場人物が、「あなたは笑ったことがないね。」と喝破します。その他の人も然り。しかしながら、コンビニの内部のディテールやコンビニの仕事のディテールは圧巻です。まるで「コンビニ道」なるものを書きたかっただけではないのかと勘ぐってしまいます。



少し前、『タンゴ・インザ・ダーク』という本を買いました。こちらは「太宰治賞受賞作」で、何か物々しい宣伝文句でした。「ゆがみとずれを抱えた夫婦の、奇妙な物語―――地下室に閉じこもる妻、インポテンツの夫、暗闇のセッション」とか。読み終えることはできましたが、こちらも人物像が単純でした。しかし、暗闇でのタンゴのセッションの描写や暗闇での二人のセッションの描写は圧巻。やはり、この地下室の暗闇の話だけで終って置いたらいいのにと。



『コンビニ人間』で、主人公は、白羽さんと会って同棲することで、コンビニのアルバイトを辞めて、会社員としての道を否応なく選ばなければいけなくなるのですが、その面接の日に入ったコンビニで「自分にはコンビニしかない(コンビニ=自分)。」との啓示を取り戻します。それがこの物語のエンドです。



中村文則さんが解説文を寄せています。彼はこの最後を「ベビーエンド」と呼びます。最後に赤ん坊が生まれることで終る物語。終わりを始まりにすることが出来る。主人公にとってコンビニは赤ん坊なのだと。



これで主人公は、自分自身の生きる道を見つけてハッピーになったのでしょうか。コンビニで生きることを肯定したのであれば、彼女は初めからハッピーだったのではないか。これで、自分がハッピーであると気付いたのだとしたら、36歳はあまりにも遅すぎると思うのですけど。







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2018年11月16日金曜日

歴史が苦手なわたしでも読めました。




『日本の歴史をよみなおす』 網野 善彦著





題名通り日本の歴史の本です。しかし、わたしが興味を抱く本はどうもいつも「異端」のようで、この著者も学界のなかでは異端児です。彼は「日本は農業国」ではないと言っています。この「日本=農業立国」という誤解から、日本の歴史も間違って解釈されている部分があるとの指摘です。



例えば「百姓」。現在、「百姓」は日本では農民を意味します。ですから、歴史的な資料の中で「水呑百姓」と書かれていると、田畑を所有していない貧しい農民と解釈されてしまいますが、彼によりますと、「百姓」は農業に従事していない(漁業とか林業または貿易業)お金持ちの事も多々あるといいます。しかし、歴史学界の主流は「農民=百姓」であるので、まだまだ、彼の「日本は農業国ではなかった」との主張は受け入れられないということでした。



「百姓が農民ではない」という説は、わたしには受け入れやすい物です。それは、もともと百姓というのは、百の姓(私の解釈)で一般の人を指していると思うからです。上海にいた時、いろいろなところに百姓という文字が見受けられるので、不思議に思い、友達に聞いてみたことがあります。彼女は、「普通の人、平民とか言う意味だよ」と教えてくれました。中国での意味はそのようです。この本でも、中国人ならすぐわかるが、日本では違う意味が定着しているので、なかなかわかりにくいこともあると指摘しています。



こう考えて歴史的資料を精査すると、日本は農業国ではなく、いろいろ多彩な職業で成り立っていたと彼は述べています。最初に中国(唐)からの「律令制」という日本に馴染みのない制度を受け入れたことで矛盾が生じてきました。この制度は、すべての日本人(その頃のどこまでの人を言うのかはわかりませんが6歳以上という事)に土地を与え、それに基づき税制が敷かれました。



税金は基本的に「米」で納めるものですが、資料によると、「絹」とか「鉄」、「馬」、「塩」で納められている例も多々あります。つまりこれは、農業以外の産業も相当進んでいたという証拠になります。



このように律令制が敷かれた。しかし、本来、農地の少ない日本では、農業では暮らしていけない。そして、律令制が乱れてくる。するとまた、時の権力者が税制を立て直すべく、「農業中心に」改革を進める。その繰り返しです。江戸時代然り、明治維新然り。とにかく、日本は「農業国」でなければいけないようです。













わたしが感じた事がふたつあります。



1.15世紀あたりが、人類の転換期であること。



この本によりますと「13世紀以前の問題は常識では及びもつかない」そうです。つまり、13世紀以前は、古代に近く、精神的にかなり今とは異質な世界だったのではということ。例えば、盗みや人殺しは、許容はされていないものの、日常的に起るものだったとか、幽霊とか妖怪が普通に信じられていたとか。



モノとモノの交換については、このように書かれています。物と物を交換するというのは、贈り物でしかあり得なかった。商業的な意味を持たせてはいけないという事です。贈り物ではなく商品として交換する場合は、その物を日常の世界から切り離し、「無縁」のものとしなければならない。つまり、「市場」。市場は神の世界と人間の世界、聖なる場所と俗界の境に設定されるのです。モノを世俗の縁から切り離し、商品としての交換を可能にする場所です。



従って、商品の交換に携わる「人」自身も「世俗の人」であってはならない。12~13世紀の商工業者や金融業者は神仏天皇の直属民と言う地位を持っていました。



世界的に見ても、15世紀頃が近代精神の幕開けです。私が言いたいことは、学校の授業でこのような基本的な事柄を学べていたら・・・ということ。古代・中世の人の「人間観」がわかっていたら、歴史の理解がもっとスムースにできただろうと思います。また、興味も、より湧いただろうと感じます。





2.日本の文化の二面性について



日本の文化は「公」と「私」で相当の違いがあると思います。それは何故でしょうか。この本を読んで、唐から無理やり「律令制」がもたらされたことに関係しているように感じました。遣唐使によってもたらされた中国の文化です。天皇家の食事のメニューも唐の皇帝と同じものが供されたようです。他の本には、唐の衰退で影響力がなくなると、もとの「日本食」に戻ったとありました。よって、「無理に」と思った次第です。



この頃から、「『公』は中国式に」ということになったのでは。公文書は漢文で書かれていましたし、また、漢文は貴族のたしなみでありました。後に武士のたしなみにも。民間はひらがな、はなし言葉です。ここで、文化は「公」と「私」に分化されます。民間の文化が本来の日本の文化なのではと思ってしまいます。江戸時代に漸く庶民の生活が潤ってきました。その時が、日本文化の爆発の時です。



とにかく、「おおやけのもの」は難しい。わざと難しくしているのではないかと勘ぐってしまうくらいです。言文一致運動もようやく明治に入ってから起こりました。しかし、明治維新では、「中国」が「西欧」に変化しただけでした。



「日本独自の文化とは何か。」という定義も難しいですが、やっとわたしたちは「日本文化」を見直し始めたのではと思うこの頃です。












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2018年10月29日月曜日

ダンテの『神曲』地獄篇を読んで




ダンテの『神曲』地獄篇を読みました。内容についてとやかく言うことはできませんが、(それから、「詩」なので、わたしに詩を味わう能力があるのかと言う疑問もあります)、興味深いです。わたしの弱点として、本筋ではなく細部にこだわりがいってしまうという事がありますので、その方向で書いてみます。





もちろん翻訳本を読んでいます。それで、興味を引いたのは、キリスト教の「地獄」でありながら、翻訳の言葉に仏教用語が使われているという事。批難している訳ではありません。ただただ、おもしろいなあと思ったので。



例えば、三途の川。アケロンとルビは振ってありますが。その他、地獄の門番の「仁王立ち」とか、です。キリスト教自体が日本特有のものではありませんから、それに相応しい言葉がないことは当然です。それでも宗教らしい雰囲気を出そうとすると、一般の日本語より仏教用語の方がより的確であるのでしょう。



もうひとつ同時に読んでいた本があります。Lafcadio Hearn の『Glimpses of Unfamiliar Japan です。こちらは英語で読んでいます。ハーンの興味は見るところ日本の(明治時代ですが)風景と、民間伝承(おとぎ話を含む)、仏教にあるようです。それで仏教用語とか日本特有の単語が頻繁に散見されます。彼は先ずは日本語でそれを示し、それから英語で意味を示します。時々はノートでさらに詳しく解説しています。例えば、Monju Bosatsu---the Lord of WisdomThe Sai-no-Kawara, which is the place to which all children after death must go など。またこんなものもあります――innen, the result of errors in a previous life



こんな本を二冊同時に読んでいたものですから、なおさらそれぞれの宗教の言葉使いに目が行ってしまった訳です。



もうひとつ、仏教の地獄への入口は三途の川で、道は三つしかありませんが(地獄の種類が三個と言う事)、キリスト教の方は九個あるようです。キリスト教の地獄は三角錐をさかさまにしたような形をしています。つまり、じょうろの内側を下って行くと段々と罪深い過酷な層になって行くという物。上層の界の方が広い円周です。翻訳ではひとつの階層が圏谷(たに)となっております。



興味深いのは、第一の圏谷は辺獄と呼ばれキリスト教の洗礼を受けていない人が行くところなのです。実際、ダンテの先達であるウェルギリウスも神によって辺獄から呼び出されてダンテの地獄めぐりの道案内をしています。その彼はキリスト教以前の人。つまり、キリスト教がなかった訳なので、どう考えても洗礼は受けられません。それでも「キリスト教の」地獄に行っちゃうのですね。その他、ホメロスなどの偉大なギリシャ詩人やソクラテス、プラトン、アリストテレスや、カエサル、ブルータス、キケロやユークリッドもいます。第二の圏谷は愛の為に罪を犯した人が行くところですが、そこにはクレオパトラもいます。



さすが、唯一の神、絶対神!キリスト教に全然関係のない人の罪まで引き受けてしまうのですね。どこかに日本の武将もいるかもしれませんよ。他人に暴力を加えた人として。














ダンテの地獄は次のような構造になっています。



第一の圏谷:キリスト教の洗礼を受けていない者

(辺獄)

第二の圏谷:愛ゆえに現世を逐われた者

第三の圏谷:生前、大食いであった者

第四の圏谷:貪欲な吝嗇家、浪費家

第五の圏谷:地獄の下層界ディースの市

第六の圏谷:皇帝党

第七の圏谷:虚偽瞞着

   第一の円:人殺し、横領

   第二の円:自殺、財産を散財する者

   第三の円:ソドム、高利貸し

第八の圏谷:

   第一の濠:女衒

   第二の濠:女たらし、阿諛追従

   第三の濠:聖職売買

   第四の濠:魔術、魔法

   第五の濠:汚職収賄

   第六の濠:偽善

   第七の濠:窃盗

   第八の濠:権謀術策

   第九の濠:分裂分派

   第十の濠:虚偽偽造

第九の圏谷:裏切り者の円

   第一の円:カインの国―――肉親を裏切って殺した者

   第二の円:アンテノーラ―――裏切りによりトロイアを敗北させた者の名前による

   第三の円:トロメーア―――客人を裏切って殺した者

   第四の円:ユダの国―――恩人を裏切って殺した者



ダンテはこんな地獄をすべてたどって行きます。そして、第二部煉獄篇へと進むのです。





ここまで読んで来て、キリスト教、西洋中心のこの文学が何故世界でも有数の文学になり得るのかと言う疑問がわきました。もちろん、キリスト教文化の国で重要な文学作品の位置を占めるのは理解できます。しかし、キリスト教に関係のない国々ではどうなのでしょう。



例えば、第五の圏谷ディースの市で円屋根の回教寺院が見えます。イスラム教の寺院を悪の城と位置付けているのです。また、第八の圏谷の第九の濠にはマホメットがいます。「俺はめった斬りにされたマホメットだ」と叫んでいるのです。もっと凄いのは、第九の圏谷の第四の円の名はユダの国です。



こんなこと書いていいの、と思って訳者あとがきを読んでみると、翻訳者平川祐弘氏も同じ考えらしく、「イスラム教の始祖を地獄の底に堕としイスラム寺院を下地獄の悪の城に見立てている『神曲』を世界文学の最高峰と呼び続けることははたして賢明なことだろうか」と言っています。



彼によると、『神曲』のアラビア語への翻訳はあるそうです。ただし、地獄篇第二十八歌は削除されていると。また、彼は以前、日本イタリア学会で「『神曲』に見られるキリスト教の厭うべき点」という発表を申し込みましだが、断わられ、その理由の説明も得られなかったと付け加えています。



もう一人川本皓嗣氏も終わりに一文を寄せています。タイトルは『「喜劇」という名の大叙事詩』。その中で、彼もダンテのゆるぎないキリスト教への信仰について述べています。ヨーロッパ中世と古典古代の融合と、逆に真っ向からの対峙という両面を、きわめて高い次元で体現しているのが『神曲』の偉大なる所以であると。



二人ともに、ダンテのこのキリスト教に対する大いなる自負について考察していますが、この事を抜きにしても『神曲』は偉大な詩であることに間違いはないとしています。わたしにとっても、ダンテの描写力は素晴らしいと言い得ます。ビジュアルのないただの言葉だけで地獄のおどろおどろしさを感ずることができました。もちろんこれには翻訳家の技もあるだろうけど。



すばらしい翻訳家の恩恵で、我々読者は階段の第一段をオミットして、二段目から上れるというものです。翻訳家のフィルターを通してより高い段階の観照が得られるなら、日本の翻訳文化に感謝と言うところですね。








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2018年10月28日日曜日

最近のコメンテイターからの……思う事



ニュースショーやテレビ討論会のコメンテイターは、以前は上等そうなスーツを着たおじさんばかりでした。最近は、少々マシになって来たかも。ボツボツ大学教授やその道の専門家の女性が出演するようになってきたから。



これまでは、女性が出ていても、「花を副える」が如きの扱い。タレントや少々頭のよさげな美人系。その後、元ニュースキャスターや弁護士などの女性の登場。そして、今漸く、その道の専門的意見を言えるような人たちが出てきた模様。



わたしが若い時分、安藤キャスターが金丸氏(政治家)の記者会見で質問をしましたが、「お前は黙っとれ!」とばかりに無視されました。女性が偉そうに政治家に質問などしてはいけない時代だったのです。強烈な思い出です。



大学院の入学試験でも、定員があるので、女性は遠慮しなさいという雰囲気。同じくらいの成績なら男性が推薦されるし、「男性には将来があるから君は辞退しなさい。」と、教授にもろに言われた先輩もいました。「女性には将来は無いんかい。」と彼女は、憤慨。









こう書くと、漸く女性も「デキル奴」が現れてきたと誤解される向きもあるでしょう。しかし、女性は以前から「デキル奴」だったのです。育つ環境やら社会慣習の影響です。特に、女性は小さい頃から、「男性に道を譲る」、「男性を立てて勝負に勝たない」というように躾けられています。何か意見を言うとき、男性と女性が同時に手を挙げると、必ず男子生徒が先に意見を述べます。



息子の小学校の運動会の話です。男子対女子の綱引きで女子生徒軍が勝ちました。先生は、男子が女子に負けるのは可哀そうだからと、男子軍が勝つまで3回もやり直しました。父兄たちも男子生徒を応援です。こうやって、女性は男性に道を譲るように育てられていくんだなあ~と、感じた次第です。



しかしまだまだ、「漸く女性も日の目を見られるようになった」という段階です。どこかの医大の入試で女性が差別を受けていたという話。男性はテストの結果に下駄を履かせてもらっていたのでした。この状況を受けて他の大学入試を調査したところ、同じような現象が多々見られたとか。











どこまで女性は我慢しなければいけないのでしょう。女性は差別の構造の最下層にいると学生時代に何かの本で読みました。いろいろな差別がありますが、その差別される人々の中で、また、女性は男性に差別されているのですから。





私、囲碁で最近は勝てるようになって来ました。しかし、男性は(特に囲碁界は年寄りが多いので)女性に負けるのが恥と思っているようで、わたしに負けた男性が、「なんだ女に負けて恥ずかしいなあ。」と言われているのも聞きました。そのせいか、上手(うわて)の人は、わたしと碁を打ってくれますが、同レベルの人には避けられている雰囲気があります。



そんな現状です。









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2018年10月21日日曜日

何故、話しかけなければいけないのか?



俳句への道は、まだまだ取り掛かっていませんが、新聞などで俳句、短歌コーナーがあると、ついつい目が行ってしまいます。と言ってスキャンするだけで、すべてを読んでいるわけではありません。



つい先日、その伝で朝日新聞の「東海歌壇」に目を泳がしていると、ひとつの歌が目に入ってきました。



「パソコンが話しかけろと言っている独り言なら声出るものを」



その通り!!!



今年の初め頃、パソコンを買い替えました。何か前のパソコンにはないキーがあったので、ちょっと押してみると、「何か言え。」と言ってきました。え~~~ッ、と思って絶句している間に、「音声が聞き取れませんでした。」と言って、シャットダウンされてしまいました。その後も、間違えてそのキーを押したことがありますが、わたしは何も話しかけることが出来ず、パソコンは呆れたように閉じてしまいます。



何故、機械に話しかけることが出来るのでしょう。わたしは「恥ずかしさ」に黙り込んでしまいます。昨今、テレビのコマーシャルでも、よく見かけるシーンです。端末に話しかけて何かを通販に注文するとか、灯りを消すとか……。



「オーケイ、グーグル。」なんて恥ずかしげもなくよく言えますねえ。または、スマホに話しかけて質問するとか。最近では、「車に話しかけろ」とコマーシャルは言っています。子供の時からこんな状況で育つと、どんな風になるのだろうかと思いますが、それはそれで時代は進んで行くのでしょうか。










最近、「子供は、大人と比べてロボットからの『同調圧力』に従いやすい。」という記事を読みました。



会話や意思疎通が出来る人型ロボットの開発が世界中で進んでおりますが、そんなロボットが人に与える影響を調査したものです。自分が正しいと思っていても、周囲の回答につられて誤答してしまうかどうかの実験です。3体の人型ロボットが加わり、3体とも間違った回答をします。大人の場合は正答率が変わりませんが、7~9歳の子供の場合、ロボットの回答に同調しがちだという結果が出ました。



結論は、「自律のロボット」が教育を担う時代は遠くない。そんな時代のために、ロボットが子供に悪影響を与えないような規制が必要かどうかの議論が必要との見解の様です。





どうでしょうか。



文明は日々進化しています。現代のわたしたちも昔の人が出来ていたことが出来なくなっています。単純な例では、火が熾せないとか。それでも我々は、不便さを感じず、進化し続けます。しかし、今回は少しオカシイ。それは、人が人でなくなってしまいそうな進化だからではないでしょうか。



今のところは大丈夫ですが~。(わたしが生きているうちはまだ大丈夫そうです)。










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