2014年4月27日日曜日

『身体から革命を起こす』



古武術家甲野善紀氏とフリーライターの田中聡氏の共著である。主に甲野氏が語った事を田中氏が文章化したらしい。甲野氏は、『笑っていいとも』などのTV番組で2~3回見かけた。古武術の技を介護などに応用しているらしく、日本の古い技を継承している貴重な存在の人だなあ~、という感想だった。

 

もともと『忍者武芸帳』とか『カムイ外伝』などの白戸三平の劇画のファンだってこともあり、わたし自身は、昔の武術家の凄技を信じていた。甲野さんは、その凄技を体現しようと努力しているようである。どんな、技があるのかなあと軽いノリで手に取ったのだが、さあ大変、「人の在り方」を問う深い内容だった。とは言え、難しい本ではなく、甲野氏はただご自分の日々の修行のことを語っているのである。そして、甲野氏に圧倒された各分野の一流の人たちの彼に対する証言である。例えば、元巨人軍桑田真澄氏、コンテンポラリー・ダンサーの山田うん女史、フルート奏者の白川真理女史そして介護福祉士の岡田慎一郎氏などなど。

 




 

感銘を受けたところは多々ある。しかし、一番は「人間は自分の身体の使い方を忘れてしまった」ということ。わたしも常々、科学の進歩で「人間」は何かヤバいことになっていると、うすうす感じていたが、実際にどうなのかということが語られていて、わたしが感じていたこともあながち間違いではなかったと思った。

 

日本における最初の変化は、やはり「黒船来航」によるものだ。西欧人を見た日本の「偉い人たち」が、日本人の身体が西欧人と比べて貧弱であり、動き方も洗練されていないと感じたのだ。もうひとつ、日本の近代化を促進する為の富国強兵に携わる軍隊が、日本人の身体行動パターンでは成り立たないということ。つまり、日本人は近代的な行動科学に基づく動きをしていなかったということ。もちろんそれは日本人にとっては、理にかなった動きであったのだが。

 

近代医学で身体の構造を示されれば、なるほどそれは解剖してみればその通りだ。しかし、こういう構造だから、身体はこのように動いていると概念化されても、ところがどっこい、身体はそのように動いていないらしい。「医学的にあり得ないことが、我々の日常の暮らしである」と、著者は言っている。例えば、プロ野球でバッターがボールを打つことすら、情報の神経伝達の早さを考えると「ありえない」ことであるという。

 

いろいろな物が近代化されるまでは、我々人間は、身体を使って仕事をしていた。それが、今考えれば重労働のようであっても、当時の人々は、その仕事に合った身体の使い方をしていたのだ。その頃は、人の身体の動き方で何の仕事をしている人かがわかったという。そして、今の人が考えるほどの重労働ではないということ。日本人がアフリカの国々に行って、日常生活を体験するというテレビ番組がよくある。そんな中で、日本人はアフリカの辺境に住む人々の身体能力に驚いたりする。明治以前の日本においても、そんなことが想像される。

 

著者によると、日本人の身体の動かし方はアジア人と比べてみても特殊だったらしい。しかし、例えどの国であっても(西欧でも)近代化される以前は、人は生活にあった動き方をしていたのだ。科学的思考により、身体はこう動くと概念化された。それにより、人は自分の自然な動きではなく、そのように概念化された動きに支配されるようになった。この書ではこのように述べられている。

 

「近代には、人々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある体である。その理想像の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体である。(中略)。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働と無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。」

 

 

冒頭でも紹介した違った分野で活躍する人々は、甲野氏の講演や実技に接触し、衝撃を受ける。そして、その一部でも自らの仕事にフィードバックできた時、彼らは「自分が持っていた感覚がよみがえった」と感激する。自分の持っている感覚を目覚めさせればいいんだと。フルート奏者の白川真理女史は言う。

 

「音楽大学というのは、昔なかったんですよね。音楽は、本当に才能があって神様に選ばれた様な人だけがやっていた。それがフランス革命とかで市民階級が台頭して、その後有産階級の子弟が入れる学校ができて、ようするにお客さんになっちゃった。そうすると。大勢のほどほどの人が、そこそこのことができるようにしないといけないから、マニュアル化していった。」

 

だから、そこで才能がない人をそこそこにする教育ではなく、才能がなくても身体の感覚を磨けば可能性が広がるということを、彼女は言いたかったのだ。マニュアル化する=学校の存在は、資格制度の構築。そしてそれは、利権の棲みかでしかない。だから、人は自分の能力を取り戻すしかない。自分の身体に聞いてみること。自分にとって何が正しいのかを。「生きているものとして在ること」、「生きている身体を取り戻すこと」…、そんな感想。

 

 

その他にも、もっと「そうだ!」と思う記述もありました。それは自我あるいは個人について。西欧とその他の国での違いはindividuality をどう見るかと言うこと。キリスト教文化と仏教文化の最たる違いは此処にあると思う。この古武術を習得するにも、先ずは、意識を消すこと。己を消すこと。身体を自然な流れに任せ、意識せずに身体を動かせるようになること。

 

う~~~ん、これは、打ち破りがたい相克でしょうね。

 

 





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2014年4月21日月曜日

カート(覚醒効果植物)について


『謎の独立国家……ソマリランド』について以前書いた時に、最後に、こう書きました。

 

著者は「ソマリランドのディアスポラになってしまった。」と告白しています。それで、わたしはルワンダのディアスポラ達のことを思い出してしまいました。それから、著者が、ルポ中に常用していた「カート」についても興味あります。そんなお話はまた次回に…ということに。

 

つい最近、こんな記事を目にしました。ひとつは、「『カート』、イエメンに影」。4月1日の朝日新聞の記事です。カートとは、覚醒効果のある、植物の葉です。もうひとつは、「楽しむ大麻 合法化の波」です。同じく4月16日の記事。―――趣味で吸う娯楽大麻の販売がコロラド州で1月、全米で初めて解禁された。6月ごろにはワシントン州が続く。という、記事。

 

カートに関する記事では、「カートと呼ばれる覚醒効果のある葉の過剰消費が、人々と社会をむしばんでいる。」という論調。大麻のアメリカでの解禁を告げる記事では、「若い頃に大麻を常習していたオバマ大統領は、ニューヨーカー誌のインタビューで『たばこと似た悪癖と考えている。アルコール以上に危険だとは思わない。』と、両州での合法化を容認。」と、けっこう寛容に扱っています。同じ「覚醒効果のある植物」であるのに、記事での取り扱いのこの違いはどうよ、と。

 

それで、「カート」について、書こうと思います。

 
 
 
 

 

『謎の独立国家……ソマリランド (そして、海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア)』の著者である高野秀行さんは、冒険家のようです。人の行かないところに出かけて行ってレポートあるいはドキュメントをものにするのが、生き甲斐の様子。ソマリランド及び内戦状態であるソマリアの首都やその周辺をルポルタージュするのにたいへんな時を過ごします。

 

ソマリ人との文化風習の違いなどでインタビューが上手くいかない状況で、強い味方は、「カート」。彼の言によりますと、「カートとは、我々のアルコールだ。」と言うこと。つまり、イスラムの国では、お酒は禁止です。アルコールばかりでなくカフェインなども。その変わりをするのが「カート」。ソマリランドでは、毎晩のように皆がカート・パーティを開いています。といっても、ただカートを持ち寄ってたむろし…、そうそう、著者によると我々の「居酒屋」状況。そこで、ワイワイいろいろなことが話され、討論されると言うわけ。酒飲み話か。故に、彼の格好の情報収集場所に。

 

また、情報収集の手段だけでなく、彼自身にも「カートがなければ、やっていけない。」という環境。毎晩、カートをむしゃむしゃ口に頬張り、それをコーラで流し込み、仕事に励みます。カートがお酒で、コーラが「おつまみ」なんだとか。以前、エジプトに行った時(ツアーです)、エジプトの航空会社でした。機内でアルコールが提供されないと飛行機に乗る前に言い渡されました。持ち込むのは禁止ではないので、空港内で買ってくださいと。わたしは、ワインを買って持ち込みました。その他、レストランでも外国人には提供するところと、まったく旅行者にも提供しないところがありました。もう「なんでやネン」という心境でした。でも、これでわかりました。彼らには「カート」があったんだ!

 

イスラム原理主義の「アル・シャバーブ」が戦闘で地域を占領すると、彼らは厳しいイスラムの戒律を住民に押しつけます。カートもアル・シャバーブは、最初禁止しました。しかし、その禁止だけは長く押し付けられなかったと、著者は書いています。どの国でも禁酒法は成立しませんよね。

 

カートの弊害は、便秘になることだそうです。彼も便秘に苦しむが、どうしてもカートをやめることができない。それで、らくだの乳を飲んでやり過ごそうとします。それでも、うまくいかない。それで、友達に聞いたところ、「らくだの乳は効かない。牛乳を飲むんだ。」と教えられ、試してみると、一発で出たとのこと。

 

彼が書いている「カートについて」は、こんなユーモア溢れるものです。わたしもこの本を読んでいなければ、「カート、イエメンに影」という記事を鵜呑みにして、「カート=悪」という公式を導き出していたでしょう。実際、どちらが正しいとはわかりませんが、カートは、コカインや覚醒剤などの国際的な禁止薬物とは違います。嗜好品としてイエメンでも法律で認められています。カート自体を悪いものと決め付けず、貧困とか飢饉とか、食料不足との関係でどうかということを討論すべきと思います。実際、そう言う問題から免れている先進国では、お上品な「娯楽大麻」が合法化されているのですから。







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2014年4月19日土曜日

ラテンアメリカ文学・・・『百年の孤独』など


この17日、ガルシア=マルケスさんが他界した。87歳とのこと。1982年に『族長の秋』でノーベル文学賞を受賞した。わたしが学生の時は、ラテンアメリカ文学の巨匠ボルヘスを読むのが流行っていた。そのノリで、他のラテン文学の小説も読み漁っていた。ガルシア・マルケスは「族長の秋」「予告された殺人の記録」「エレンディラ」「ママ・グランデの葬儀」を、バルガス=リョサは「緑の家」「パンタレオン大尉と女たち」、そして、ちょっと志向が違うがプイグの「蜘蛛女のキス」、数十冊のボルヘスの本である。

 

マルケスの本で「予告された殺人の記録」「エレンディラ」は、すぐ読めた。「予告された殺人の記録」はアランドロンの息子の主役で映画化された。単純なミーハー的興味から「読んだ」と言える。「エレンディラ」も映画化されたが、夜中にテレビで放映されたものを見た。一生懸命、眠たいのをこらえて起きて見たのを思い出す。つまりこちらも軽いノリ。

 
 
 

バルガス=リョサの『緑の家』は、若い時分はトライしたが、読みこなせなかった。最近、本の整理のために昔買った本で読んでいない本を再び読み出して、手に取ったのがバルガス=リョサの『緑の家』。読んでみたら非常にワクワクもので長い本がすんなり読めた。

ラテンアメリカ文学は自然なストレートな感情を小説の中に残していると思う。「小説は終わった。が、ラテンアメリカ文学にのみが体現している。」と言われる。19世紀から欧州で発達してきた成熟した市民生活を表現する術が行き詰まりになっているのだ。

 

彼が育ったペルーは、アマゾン川流域の原始の世界から→中世、近世、現代までを含むさまざまな文化を内包している。『緑の家』もその要素が複雑に絡み合って、時の流れも過去と現代がこんがらがっていてストーリーそのものは単純ではないが、人間の感情はストレートだ。それに引きかえ欧米諸国の文学は人工的な技巧に頼っている。複雑な精神障害の世界だ(それも好きなの)。

 

マルケスの『ママ・グランデの葬儀』は短編集である。おとぎ話のような奇想天外なエピソードの羅列だ。しかし、やはりここにも物語がある。人を感傷に誘う物語だ。とは言え単なる単純なお話で終わってはいない。現実と対比する夢や希望といった虚構の世界が微妙に溶け合って退屈させない。

 

この『ママ・グランデの葬儀』の中の数編の短編は、マルケスの代表作である『百年の孤独』のエピソードの支流であるらしい。彼は『百年の孤独』で、架空の土地マコンドのブエンディア一族の百年に渡る出来事を、数多くのエピソードから構成している。以前、この本を買っちゃおうかなとチェックすると、まだ文庫本は出ていなかった。わたしが買ったとたんに、何故か文庫化されそうな気がして・・・少し躊躇したが、結局買った。

 

グーグルで検索したら、「『百年の孤独』を文庫化したら読もうとしている人は、損をしている。今すぐ買って読む価値はある。」という、コメントがあった。わたしも、この本は、それほど素晴らしいと思う。

 

粗筋は以下の様。ウィキペディアから。

 

ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランを始祖とするブエンディア一族が蜃気楼の村、マコンドを創設し、隆盛を迎えながらも、やがて滅亡するまでの100年間を舞台としている。

 
コロンビアのリオアチャにあるコミュニティでは近い血縁での婚姻が続いて、豚の尻尾が生えた奇形児が生まれてしまった。それを見たウルスラは性行為を拒否し、その事を馬鹿にされたため、彼女の又従兄弟で夫のホセ・アルカディオはその馬鹿にした男を殺してしまう。その殺された男が夫婦の前にずっと現れ続けたために、ホセ・アルカディオ夫妻は故郷を離れてジャングルを放浪した末に新しい住処「マコンド」を開拓する。そして、ウルスラは「豚のしっぽ」が生まれないように、婚姻の相手は血の繋がりが無い相手に限定する、という家訓を残した。様々な人間模様や紆余曲折がありながら「マコンド」は繁栄していったが、しかし、ウルスラが残した家訓は玄孫の代に叔母と甥の恋愛結婚という形で破られ、「マコンド」は衰退と滅亡へ向かっていく。

 

 

もちろん、あらすじなどでは語れない小説であるが、この設定を見ただけでも興味津津なのでは。いかが。






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2014年4月18日金曜日

『A Prayer For Owen Meany』 John Irving


読み終えました。。。

 

A Prayer For Owen Meany』(John Irving著)、やっと読めました。この本の中で、John(この本の主人公)が何の本だか忘れましたが、「二十歳から読み始めて、ようやく40歳で読み終わった」と書いているので、わたしも、「まあ、いいか」っと。多分、足掛け2年くらいかかっていると思います。読んだり、読まなかったりしていたので。

 

アーヴィングのいつもの如く、30年以上にも及ぶ人々の「生き様」の物語です。と言って、歴史的系列で出来上がっている物語ではなく、一つ一つのエピソードが積み重なっていって、気がついたら三十年に及んだみたいな…。そして最後の章が圧巻です。今までのエピソードが総て重なり合って、クライマックスにもつれ込みます。不思議な相貌を持ち、全然身体的に成長しない、そして、すべての人を虜にするような才能と機知を発揮した幼なじみのOwen Meanyが「何者であったのか」が解き明かされます。ここで、言わない方が良いのではと…、あえて、書かないことにします。

 

とても宗教的な(キリスト教)内容ですが、既成の宗教という感じではなく、すべての人の心にある「何か」を表現しているのではと感じます。

 
 
 
 

こんなエピソードがあります。Owen Meanyは身長5フィートくらい。それ以上成長しませんが、Johnといつもバスケットのダンクシュートを練習しています。JohnOwenを投げあげて、Owenがシュートします。

 

When it was so dark at the St. Michael’s playground that we couldn’t see the basket, we couldn’t see Mary Magdalene(聖像です), either. What Owen liked best was to practice the shot until we lost Mary Magdalene in the darkness. Then he would stand under the basket with me and say, “CAN YOU SEE HER?”(彼のセリフはいつも大文字です。彼のこどものような特異な声を表わしています)

“Not anymore,” I’d say.

“YOU CAN’T SEE HER, BUT YOU KNOW SHE’S STILL THERE---RIGHT?” he would say.

“Of course she’s still there!” I’d say.

“YOU’RE SURE?” he’d ask me.

“Of course I’m sure!” I’d say.

“BUT YOU CAN’T SEE HER,” he’d say---very teasingly.

“HOW DO YOU KNOW SHE’S STILL THERE IF YOU CAN’T SEE HER?”

“Because I know she’s still there---because I know she couldn’t have gone anywhere---because I just know!” I would say.




“YOU HAVE NO DOUBT SHE’S THERE?” he nagged at me.

“Of course I have no doubt!” I said.

“BUT YOU CAN’T SEE HER---YOU COULD BE WRONG,” he said.

“No, I’m not wrong---she’s there, I know she’s there!” I yelled at him.

“YOU ABSOLUTELY KNOW SHE’S THERE---EVEN THOUGH YOU CAN’T SEE HER?” he asked me.

“Yes!” I screamed.

“WELL, NOW YOU KNOW HOW I FEEL ABOUT GOD,” said Owen Meany. “I CAN’T SEE HIM---BUT I ABSOLUTELY KNOW HE IS THERE!”

(彼等の高校時代の話です。)

 

 

引用が長くなりました。しかし、Johnは彼の言った意味を最終章の大団円のあとで深く噛みしめることになるのです。

 

わたしは無神論者です。でも、そんなこともあるだろうと思います。近代になって「神」が死んで、「科学」が神の地位を手に入れました。しかし、「科学で総ての事を証明しなくてもいいんじゃないか」というのが、今のわたしの心境です。「科学」と「神」は違う次元のことであるばかりでなく、我々はたくさんの違う次元が寄り集まった世界に住んでいるような気がするからです。






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2014年4月13日日曜日

『ソマリランド』――読み終えました。



『謎の独立国家……ソマリランド』について、以前に取り上げました。こんな感じです。

 

「今年最高の本」、「本屋さん大賞」と「講談社ノンフィクション賞」を受賞。「三冠制覇!」と帯に謳われています。わたしは、そんなことはどうでもいいのですが、同じ帯に書かれている「西欧民主主義、敗れたり!!」に惹かれて買いました。というのは、近年思うこと、「(西欧)民主主義って絶対なの?」からです。

 

 

しかし、もっとも興味ある「西欧民主主義、敗れたり!」の部分が書かれている最終章をその時まだ読み終えていませんでした。最終章を読んでみて、やはり著者の結論は論理的なものではなく、冒険旅行から得た感覚的な結論でした。もちろん、わたしが違う方向性でこの本を読んだだけの話で、それは著者のせいではありません。感動的な物語だった、と言うことは確かです。

 

彼は西欧諸国の民主主義に対して、ソマリランドの民主主義を「ハイパー民主主義」と表現しています。彼は、その土地にはその土地なりの発達の歴史があるので、西欧諸国で発達した「民主主義」そそのまま移植されても、反発されるのは必至であると記しています。わたしもその点は大賛成です。しかし、その他の独自の民主主義(アジア民主主義、アフリカ民主主義、イスラム民主主義など)が、今の世界の主流である西欧民主主義とどのように折り合いをつけられるかが問題です。なぜって、彼等は西欧民主主義以外の民主主義を民主主義をと認めそうにないもの。

 

 

著者の結論を言いますと、ソマリランドの民主主義は、氏族民主主義です。彼の言う氏族とは、日本で言う藤原氏とか平氏とか時代を下れば武田家とか上杉家とかいうもの。簡単に言うと、西欧の民主主義が「個人」を基に構築されているのに対し、「氏」というものを単位に構成されているということでしょうか。ソマリランドには憲法もあり、議会も日本のように二院制です。大統領も公選で選出される、立派な立憲民主主義国家です。

 

二院制のひとつは、グルティと呼ばれ、日本の参議院のようなもの(ただし、著者によれば日本の参議院より、よほど真っ当)。日本の参議院は、一応有識者からなるとなっていますが、グルティは氏族比例代表制です。氏族の規模に応じて議席数が決められます。アフリカにはもともと「国家」というものが存在していなかったので、国家の範囲と言うものがあいまいです。よって、国の範囲=参加氏族の範囲となります。とても理にかなった制度です。つまり、西欧に押しつけられた国家像に依らず、歴史の流れによる国の造りとなっていること。

 

問題点は、西欧民主主義に慣らされている我々が、個々の権利ではない「氏族」の縦社会の原理をどう感じるかと言うことです。実際、個人とか自我とかいう概念は西欧諸国以外の国には馴染みのない概念だとわたしは思います。日本が民主主義国家であるとは言え、個ではなく、「家族」とか「村」の意識が強い。それはそれで、「日本の民主主義」なのかなあと。つまり、社会の形態はどうあれ、全ての人の「自由」が保障されることに価値があるのでは。西欧諸国の人々のすべてが、その民主主義により個人の権利や個人の利益を保障されているわけではないのですから。

 

スピノザは言います。「もし人間が自由なものとして生まれついていたら、自由であるあいだは、ひとびとは『いい』とか『わるい』といったことについて、なんの概念も形成していないことだろう。」と。

 

ヒトの存在自体は、何にも妨げられない「絶対的な」存在であります。それが、何者かが恣意的な社会を創作し、ヒトはその恣意性に翻弄されているということです。

 


 
 

 

最後に、著者は「ソマリランドのディアスポラになってしまった。」と告白しています。それで、わたしはルワンダのディアスポラ達のことを思い出してしまいました。それから、著者が、ルポ中に常用していた「ヵート」についても興味あります。そんなお話はまた次回に…ということに。






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2014年4月12日土曜日

続・恐怖記憶

以前、「恐怖の記憶は遺伝する」という記事についてUPしました。今回はその続編のような記事を見つけました。

電気ショックを与えたマウスのこどもは、その親の記憶である「電気ショックによる記憶」をDNAと通して受け継いでいるという研究だったんですが、最近読んだ記事は、恐怖の記憶はDHAを摂取することによって改善されると言っています。イワシやサバに多く含まれていると言う、あのドコサヘキサエン酸ですよ。

DHAにはオメガ3という多価不飽和脂肪酸が含まれているそうです。そのオメガ3を多く含むエサを与えられたマウスは、恐怖記憶となる電気ショックに、より長く耐えられるとの実験結果。恐怖記憶が作られる時には、脳の扁桃体の活動が活発になりますが、DHAでその活動が抑えられるという訳です。





そんな実験で、恐怖を植え付けられたり抑えられたり、実験に関わるマウスは結構大変そうですが、この実験が不安障害の予防につながると期待されています。つまり、不安障害が食事療法で緩和されると言う意味。

科学の進歩に幸いあれ!なんてネ。





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2014年4月7日月曜日

小栗 虫太郎


最近人生の整理をした方がよいかと、本の整理を始めた。そしてまだ読んでいない小栗虫太郎の本を手に取ってみたところだ。彼の本としては「人外魔境」と「日本探偵小説全集・・・小栗虫太郎集」の二冊を持っている。あとは復刻版「新青年」の中に掲載されている作品のみ。

 

若い頃、大正・昭和時代の日本の探偵小説、冒険小説にはまって、谷譲次や夢野久作、久生十蘭そして小栗虫太郎等を読み漁っていた。山田風太郎の「明治かげろう車」の類のものも読んだが、彼の場合は小栗虫太郎などとはちょっと違うジャンルではないかと思う。

 

久しぶりに彼の本を手に取ってみて、とても驚いた。大正、昭和初期の話なので当然と言えば当然だと思うが、此処かしこに差別用語が散りばめられていると言うこと。つまり、その頃は差別用語と思われるものが「差別用語」ではなく単なる日常の言葉だったのかという思いである。

 

もちろん、小説に差別用語を使うことに反対はしない。ずいぶん前に筒井康隆さんの作品がその中に差別用語が入っているために出版が差し止めされた経緯がある。彼はその言葉を使わなければ彼の言いたい事を表現しえないと法廷まで行って戦ったが、結局負けて自分の書きたいように書けない状況では小説は書けないとして筆を折った。(今はまた書き始めているのだが)。

 

わたしも彼の意見に賛成である。読者が著述の意図を理解すればそれが差別用語であろうとなかろうと問題はないと思う。それほど「強い感情」があるということを表現しえるのはその差別用語を使うことのみなら致し方ない。

 

 

もうひとつ驚いたのは、小栗虫太郎の博識振りである。わたしの読んだ「『完全犯罪』の初出は昭和八年・「新青年」である。その時にもう彼は「共感覚」の概念を知っていた。

 「音を聴いて色感を催すと云う、変態心理現象があってね」

 「ウンそうなんだ。脳髄の中の一つの中枢に受けた刺激が、他の中枢に滲みこんで行くからだよ」

と表わされている。そして、この概念が殺人者を露見するヒントのひとつとして利用されている。

 

 

今でもこの「共感覚」という言葉は、一般的なタームではないと思うので、「昭和の始めをや」である。それともその頃の教養ある人々には常識的なことだったのであろうか???。第二次世界大戦でそれまでに日本人が培ってきたモダンな思想や教養が、すべて崩壊してしまったのであろうかとすら邪推される。

 

 


 

とにかく、本の整理をしてみて、まだ読み切れていない本や読んでいてもその内容を全然理解していなかったと感じられる本が、ワンサカあるなと深く反省した次第である。

 

 




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2014年4月5日土曜日

レイ・ブラッドベリー


毎月一回英語による読書会を開いています。といっても、英会話学習の一環ですが。毎回、10ページ程度の小編をもちより、感想を言い合います。生徒が3人、先生が1人の小さなクラスです。

 

次回の分をコピーして全員に渡します。それで、今月はわたしの当番なので、先月にコピーを皆さんに渡し済みということになります。毎回、自分が選んだ本が気に入ってもらえるかとドキドキします。と言うのも、なんと表現したら失礼でないかわかりませんが、わたし以外の人は、「まじめで、真っ当な」人々だからです。先生も含めて(イギリス人の若い女の先生は、敬虔なクリスチャンのよう)。オーソドックスな人々と言えば、いいのかしら。彼女たちの選ぶ本は、ヘミングウェーとかスタインベックとかなのです。

 

今まで、わたしの当番は3回ありました。一回目は、開催の最初の回だったので、以前、文化教室で買わされた本からにしました。つまり、わたしの趣味ではないということ。『Irish Short Stories』からの一遍です。その時は、自分で選んだのではないということで、気楽な気分でした。二回目は、J.G.バラードの『The Drowned Giant』でした。『The Best Short Stories of J. G. Ballard』から選びました。このお話の感想は、2013年の9月にUPしましたので、興味がある方は読んで下さると嬉しいです。三回目は、『The Complete Short Stories of MARK TWAIN』からの『The Canvasser’s Tale』。

 

この二冊に対して、皆さまは「おもしろ~~~い!」と言っていましたが、ほんとかなと思っちゃいます。ところどころ感想がちぐはぐだったからです。特に、マーク・トウェインの話は、「やまびこ」をコレクションするという内容で、まるで落語の世界でした。まじめな彼女たちは、「これは本当の話なの。こだまを買うことができるの。」と聞かれちゃいました。

 

で、性懲りもなくわたしが選んだ次の本は、レイ・ブラッドベリーの短編集『10月はたそがれの国』から『UNCLE EINAR』です。原題は『The October Country』。今回はおとぎ話のようなファンタジーなので受け入れやすいのではと…思っているのですが…。しかし、少々毒あり。なんせブラッドベリーなのですから。実は、フィリップ K・ディックとかジーン・ウルフ、ラヴクラフトなどの作品を読みたいのだけれど、からの…少々妥協案です。

 

とは言うものの、ブラッドベリーはわたしの大好きな作家です。高校生くらいから読み始め、日本語に翻訳されたものはほとんど持っています。そのうちの『たんぽぽのお酒』などは、わたしの「青春の書」であります。今回もう一度彼の作品を調べ直し、わたしの本棚の彼の小説を眺めていると、「これらの本をもう一度読み直せば、わたしの余生は充分楽しくなるな。」と感じました。一番好きな本は、『火星年代記』です。英語版も持っていますが、これは彼女たちには到底受け入れられないであろうと、自主規制しました。

 

 

 

この読書会の結果は、またのUPということで、

 

今回、もう一度ブラッドベリーのことを調べて、わかったことは、

 

彼は、2012年に長い患いの後、亡くなりました。その時、オバマ大統領がコメントを発表しているのです。

 

For many Americans, the news of Ray Bradbury’s death immediately brought to mind images from his work, imprinted in our minds, often from a young age, His gift for storytelling reshaped our culture and expanded our world. But Ray also understood that our imaginations could be used as a tool for better understanding, a vehicle for change, and an expression of our most cherished values. There is no doubt that Ray will continue to inspire many more generations with his writing, and our thoughts and prayers are with his family and friends.

 

 

その他、スティルバーグとかスティーフン・キングも弔辞を述べています。長い間現役でテレビ・映画・劇作そしてもちろん小説・詩などなどに活躍した彼に対しての惜しみない賛辞です。

 

 

ブラッドべリーに栄光アレ!




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