2014年9月13日土曜日

大江 健三郎


つい最近、『大江健三郎自選短篇』という岩波文庫の本の広告を見て、買おうか買うまいか、悩んでおりました。と言うのは、大江健三郎の短編集は、6~7冊持っているからです。新しく買うより、もう一度読みなおした方がいいかもと。しかし、昨日、決心して名古屋では大手の本屋さんに立ち寄ったところ(文庫本なのでアマゾンで買うと送料が発生するから)、置いてないとのこと。「えっ、この頃大江健三郎は、読まれないのッ。」って、ちょっと、ブルーな気分です。

 

考えてみたら、わたしが大江健三郎を読んでいた時期も偏っていました。最初は、高校生の時から大学生の時。その頃、わたしもなんとか小説を書けないものかと思っていましたので、大学生で小説家デビューを果たした大江健三郎に「恐れ多くも」嫉妬していたのです。そして、なぜあんなことを思いついて書けるのだと。今考えると、大層な事を私は思っていたもんです。しかし、彼の発想の原点はわたしには謎でした。

 

そして、次は、30歳前後。この時も大江健三郎の本をたくさん買いました。この頃は「真面目に」会社に勤めていたので、懐具合も良好で(経済的にはわたしの黄金期でした)、文庫本でなく単行本を買えました。

 

大江健三郎の本を再び買おうと思ったきっかけは、彼が、彼の長男が知的障害者だと公にしたことにありました。彼が学生で小説家の時に、同時に障害のある息子を持っていたのでした。なぜか納得しました。論理的ではないと思いますが、「だから彼はあんな小説が書けたんだ。」って。

 

彼がそのことを公表してからの作風は変わりました。何か静かな雰囲気で、落ち着いた私小説のようになりました。彼の息子は「イーヨー」となって、彼の小説に現われます。現実世界では、彼の息子はクラシック音楽の作曲家です。

 
 
 

わたしがその頃に買った本は、

 

『「雨の木」を聴く女たち』

『いかに木を殺すか』

『新しい人よ眼ざめよ』

『河馬に嚙まれる』

『静かな生活』

 

です。

 

その後また、大江健三郎の本とは御無沙汰しております。なぜなら彼の作品の中で、段々政治が前面に出てきたからです。小説と「理性」は別々にしてもらいたい……、と思っています。

 

 

『大江健三郎自選短篇』は買えなかったので、もう一度「家にある本」を読みなおそうかあ~~~。







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