2015年8月30日日曜日

日本人と花火



先日の英語トピック教室は、楽しめました。3人のそれぞれの話題が興味深く話が弾んで先生のトピックの時間がなくなるほど。と言うか、我々は先生にトピックを持って来る事を別段お願いしていないので、先生のトピックは「おまけ」と言うことなんですが。先生も何か話したいようで持ってきます。「もちろん、YOU FIRST」と言っています。

 

トピックのひとつが「花火」でした。イタリア人の子どもから日本の花火の由来を質問された教授が答えているコラムからです。今では、花火はお祝いとかお祭りとか納涼のために打ち上げられていますが、そもそもは鎮魂だったとのこと。1733年、関西では大飢饉に見舞われ、江戸ではコレラが猛威をふるいました。その多数の死者の慰霊として、徳川将軍吉宗が隅田川の水神祭りを催し、合わせて大花火を披露しました。それから川開きのための催しものとなっていったようです。

 

それで、「イタリア」というところに引っ掛かり、わたしが「テレビ番組で見たよ~~~。」って。例の「日本のちょうちん持ち番組」のようなもののひとつです。日本人の花火師がイタリアに行って、花火打ち上げの対決をするというもの。イタリアは自国の花火に相当のプライドを持っています。日本人も同様。どの都市かは忘れましたが、大花火大会で有名なところです。

 

日本の花火師は材料を持っていくわけにはいかず、現地の材料で間に合わせて花火を作ります。花火の種類も違い打ち上げ方法にも多少の差があるイタリアで、どのようにあるものを使って自らの花火を1週間で作り打ち上げることができるのか……、そこがテーマです。彼等は苦労しながらも作り上げました。が、結果は打ち上げてみなければ成功するかどうかはわからないという状況です。

 

勝負の日、イタリアでは市長さんまで現れて大会を盛り上げます。イタリアの観客のインタビューでは、「イタリアが負けるわけがないだろう」という意見ばかり。まあ、日本のお手並みも拝見しましょうかという程度。この審査は観客が行います。100人の観客に投票権を与え、投票により勝ち負けを決めます。どうなんだろうと思って見ていると、日本の花火師の大勝でした。日本の花火はイタリアでも絶賛されました。わたしもナショナリストだったんでしょうかあ~、嬉しかったあ~。

 




 

もうひとつの番組は、所さんの番組だったと思いますが、「打ち上げ花火を打ち上げる時にどんな音がしますか」と言う質問を通行人にインタビューします。すると、外国人は、ただ「ボーン」とか「バーン」とか答えます。日本人はというと、全員が「ヒューッ、バーン」と答えます。この差は何かと言うと、日本の花火玉には、驚いたことに「笛」が仕込まれていたのです。笛の音でヒューッと、鳴っていたわけ。これには皆驚いたあ。

 

その理由は、日本の文化からとか。日本の文化は「間」が重要です。花火もヒューッと鳴って、少しの間があってバーンとくると、そこにインパクトや情緒が生まれるということ。わたしたち生徒は、アメリカ人の先生に「そこのところ」をとにかく英語で説明しました。先生も「う~~~ん」と唸って、「たしかに、アメリカではヒューとは聞いたことない」と納得。

 

 

わたしたち三人の生徒は、とてもハッピーな気分で教室を後にしました。






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2015年8月23日日曜日

さて、アスリートは機械化するのでしょうか――


来週は英語のトピック・クラスがあります。このトピックは、以前にも書いたことがあるのですが、その回のクラスが中止になってこの話題は宙ぶらりんになっていました。で、今回もう一度見直したところ、興味の対象が少しずれたので書き直してみました。

 

新聞記事などを題材にして話しあうクラスです。ですから、わたしが取り上げた記事は、朝日新聞のコラム「ひと」の中から伊藤数子さん(52歳)。題は『障害者スポーツをビジネスにする』です。

 

彼女の本業は、金沢市の企画会社社長。でも、NPO法人「STAND」を立ち上げ、障害者スポーツをネットで配信できないかと健闘中です。きっかけは、彼女の友達が障害者で電動車椅子サッカーの選手であったこと。2003年の大会にその彼が体調不良のため出場できなくなったのです。彼のためにその試合を見せたいとインターネットで中継しました。それが反響を呼び主催者から中継の継続を頼まれたのです。「障害者をさらしものにするのか」という批判もある中、彼女の思いは「迫力あるプレーは一般スポーツと変わらない価値がある」というもの。

 

福祉のイメージがある障害者スポーツですが、ビジネスとして成立すれば彼等たちの独立の基盤にもなるでしょう。あるいは誇りにも。彼女は大会の動画配信などで資金を集めます。広告や協賛金などで協力する企業も増えてきましたが、まだまだ黒字化は難しく、私費を投入している段階だそうです。

 



 

そこでわたしが気になるのは、かすかに記憶の片隅にある陸上選手です。彼は両足がないものの義肢を使ってのランナーです。その彼がパラリンピックではなくオリンピックを目指しているということ。それで、今回検索してみました。

 

彼の名前はオスカー・レオナルド・カール・ピストリウスです(現在は、残念ながら恋人を射殺した罪で服役中です。)。南アフリカ共和国のパラリンピック・オリンピックの陸上選手で、アイスランドの義肢メーカーが製作した刃のように薄い炭素繊維製の競技用義肢を使い、100m、200m、400mの世界記録保持者ということ。

 

彼は、2008年北京オリンピックに400mで出場することを目指していましたが、IAAF(国際陸上競技連盟)は、カーボン製の義肢による出場は協議規定に抵触すると決定。彼の出場は却下されました。しかし、彼はスポーツ仲裁裁判所に提訴し、結果、ピストリウスは健常者のレースに出場することができると裁定されました。つまり、彼の記録がオリンピックに出場できる基準に達していれば、なんの問題もなく出場は可能となりました。実際、2012年ロンドンオリンピックには400mリレーの選手として出場を果たしました。両足が義足の陸上選手が始めてオリンピックに出場したと話題になったことを覚えておられる方もいらっしゃるでしょう。彼はまた、オリンピック閉幕後のロンドンパラリンピックにも同時に出場しました。

 

彼のモットーは、

"You're not disabled by the disabilities you have, you are able by the abilities you have."(障害によって不可能なのではなく、持っている能力によって可能なのだ。)

ということ。

 

 

興味深い検索結果はもうひとつあります。ソニーコンピュータサイエンス研究所、義足エンジニアの遠藤謙氏です。彼は、最先端のロボット義足や途上国向けの安価な義足の研究で米誌『テクノロジー・レビュー』の「世界を変えるイノベーター35人」に選ばれました。

 

彼は、「身体障害と呼ばれてしまうのは代替技術がまだないからにすぎない。」と明言しています。彼は次のように述べています。

 

「メガネのことを考えてみてください。視力の低い人がつけると普通の視力になり、しかもほとんど人体の一部と化して、デザイン性も高い。目が悪いくらいで身体障がいとは言われませんよね。なぜなら代替する技術がすでにあるからです。」

 

また彼の考えでは、足がないことはそこに余白があるということです。その分逆に健常者がふだんできないこともできるようになる。そういう可能性もありえるということ。つまり、健常者より速く走ることができるということです。

 

再び彼の言(そのままの引用でゴメンナサイ)

 

「人間は走るとき、膝下がバネのような働きをします。だから、バネを足より軽いもので再現できたら、そのぶん健常者より速く走れるはず。そういった現象が、たとえばパラリンピックで起きるのではないかと思います。

ふたつの意味で、身体障害という言葉を技術でなくしたい。ひとつは、障害を技術で代替できれば、それは傷害ではなくなる。もうひとつは、技術で代替することによって健常者の能力を上回れば、かえって傷害には身体性を拡張する可能性があることになる。そこまでいけば傷害と健常の境目はなくなります。」

 

 

どうでしょうか。そこで最初のこのUPのタイトルに戻ります。『さて、アスリートは機械化するのでしょうか――』……。

 

人間の能力には限界があります。いくら頑張っても空は飛べないし、新幹線より速くは走れません。しかし、テクノロジーには無限の可能性があります。遠藤氏の言うように、障害者はテクノロジーの力を借りて健常者より能力を持つことが可能になるでしょう。disabled personabled personに勝るということ。この状況で「アスリートである健常者」は何を思うのでしょう。またひとつ不気味な未来が出現するのかも???






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2015年8月22日土曜日

(続)THE OTHER SIDE OF THE HEDGE


リーディング英語クラスは昨日無事に終了。皆さんのいろいろな意見を聞いて、考えが深まりました。やはり意見の交換は大切ですね。主人公のI(一人称のIです)が死んでいると思ったのは、わたしともう一人、これは白昼夢だと考えたのが先生ともうひとりの生徒でした。PEDOMETERが25と示していたのは歳の事だとは皆一致しました。

 

このIが死んでいないと考えた生徒は、とてもポジティヴな人で、人がそんなに簡単に死ぬことに納得できないのです。主人公は、人類の目的は進歩であると考えている同じくポジティヴな人。「進歩、前進を目指すこと」は、人類にとってはとてつもない苦悩を生みだす元凶だとは思っていても前に進むことを望む――だから「人」なんだという考えです。

 

この意見を聞いてわたしは「そうなんだ」と思いつきました。それは、著者であるFORSTERは、その「ポジティヴな考え」を明確に否定しているのではないかということ。最初の場面でIは歩くのに疲れ果てて、道端のマイルストーンに坐り込みます。この「歩くこと」が人生を意味しているという考えは皆が賛成でした。

 

At first I thought I was going to be like my brother, whom I had had to leave by the roadside a year or two round the corner, H had wasted his breath on singing, and his strength on helping others.  But I had travelled more wisely, and now it was only the monotony of the highway that oppressed me---dust under foot and brown crackling hedges on either side, ever since I could remember.

 

彼は彼の兄(わたしは兄と思います)を1~2年前に道端に置き去りにした。それと同じように今彼も道端に疲れ果てて坐り込んでいる。わたしは、この「置き去りにした」というのは、兄が死んでいくのをそのままに任せたという意味と思います。と言うのは、彼の兄は、歌ったり、人を助けたりして自分の人生を無駄に過ごしていたから。それに引きかえ「わたし」は、もっと賢く実際的に人生を過ごしてきた。しかしそれは「わたし」を押しつぶす単調な道であった。

 

この場面をわたしは、単に「兄が亡くなった」と捉えていましたが、実は兄が彼より先に死んだのは、兄が実際的な性格の人間ではなく自分が感じることをそのままに生きて行くことができた人だからではないかと思うのです。つまり、「死」=「天国に行く」と言うこと。彼は天国に行く資格があったのだということではないでしょうか。そして今、彼は自分の人生が単調であったことを悟った。天国に行く資格を手に入れたということでは。

 

My muscles were so weary that I could not even bear the weight of those things I still carried.  I slid off the milestone into the road, and lay there prostrate, with my face to the great parched hedge, praying that I might give up.

 

A little puff of air revived me.  It seemed to come from the hedge; and, when I opened my eyes, there was a glint of light through the tangle of boughs and dead leaves.  The hedge could not be as thick as usual.  In my weak, morbid state, I longed to force my way in, and see what was on the other side.  No one was in sight, or I should not have dared to try.  For we of the road do not admit in conversation that there is another side at all.

 

彼はマイルストーンから滑り落ちて地面に腹這いに横たわります。わたし、彼がこの時死の入口にいたと思います(彼が死んではいないと思ったクラスの人たちは、ここで意識が薄れ白昼夢を見だすと考えたようです。)。そしてちょっとした息吹を感じ、彼が目を開けたと思ったことは、死に直面した人々が見る幻影。The Hedgeは、天国に通じる道です。だから、彼はこのヘッジに入り込むことを恐れるのです。生きている人は、彼岸に入る道を進むべきではないと。しかし、はいっちゃうんですよね。

 



 

そして天国らしき所に行きつきます。前述した「著者であるFORSTERは、その考えを明確に否定しているのではないかということ。」を思って、もう一度読み返しましたところ、この場面に引っ掛かりました。

 

---when we passed some long grass from which came the voice of a girl singing exquisitely to herself, he said again: “There are no others.”  I was bewildered at the waste in production, and murmured to myself, ”What does it all mean?”

He said: “It means nothing but itself”---and he repeated the words slowly, as if I were a child.

 

ここでは人々は自分のためにいろいろなことをしています。他の人との戦いではない。走っている人も歌っている人も、他の人よりより速く走ろうとかより上手に歌おうとかは思っていない。子どものようにただ好きな事をしているのです。これこそ「ヒトの真の姿」ではないかと著者は言っているのでは。人は向上する事を求めて原始以来突き進んできたがそれは何をもたらしたのか。苦悩です。人には、進歩を求めないで「こどものように素直に生きる」また「他の動物のようにただ生きる」と言う道もあったはず。

 

「エデンの園」と言う言葉を思い出しました。ここは、エデンの園だったんですね。人々が幸せに暮らしていた場所。そして「欲望」を知って追い出された場所。だから、

 

It is through this gate that humanity went out countless ages ago, when it was first seized with the desire to walk.”

 

なのでは。

 

彼は、ここに留まりたくなかった。なぜなら、この場所はすべてが停滞した場所だから。彼は、いくら苦悩が伴っても前進することを望んでいた。

 

“Give me life, with its struggles and victories, with its failures and hatreds, with its deep moral meaning and its unknown goal!”

 

だから彼はここで供された夕食も拒否し何も食べませんでした。ここの物を身体に入れたらもう永久に元の世界に戻れないと思ったからでしょう。また、ここの住民は家畜のように眠ると彼が言っているのも印象的です。

 

But I was determined not to sleep in the country, for I mistrusted it, and the people too, for all their friendliness.  Hungry though I was, I would not join them in their evening meals of milk and fruit, and, when they gave me flowers, I flung them away as soon as I could do so unobserved. Already they were lying down for the night like cattle---some out on the bare hillside, others in groups under the beeches.

 

彼は自制心をなくし、側を通った男性から飲み物を奪い取り飲みほします。それはビールより弱い飲み物でしたが、疲れた彼の体には強烈で意識を失います。そして、その瞬間に彼がビールを奪い取った男性は彼の兄だったと気付くのでした。そして再びここがエデンの園ではないかという記述があります。

 

It was nothing stronger than beer, but in my exhausted state it overcame me in a moment.  As in a dream, I saw the old man shut the gate, and heard him say: “This is where your road ends, and through this gate humanity---all that is left of it---will come in to us.”

 

彼はビールを飲むことでこの場所に受け入れられた。彼はここで怠慢な幸せな生活を永久に送るのでしょう。それが、著者が望む「人間本来の姿」なのです。罪なき人々の。






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2015年8月15日土曜日

さわらぬ神に祟りなし


今年4月に1カ月ペナン島に行ってきました。また、来年2月に行こうかな~~~と言うと、「そんなに気に入ったならマレー語を覚えたら」と言う人がいました。マレー語はアルファベット表記の上に、単語も英語から来たものがあるから簡単に覚えられると。

 

で、そのメールに答えたわたしのメールはこうです。

 

 

「ペナンで中国系のガイドさんが、言っていた事を思います。

アルファベットだから簡単よって。これでタイ語を覚えるには文字から覚えなければいけないって。それでいいの?

自分の文字を失って国際的になって、それでいいの?

コンゴの英語の先生が、キリスト教会(カソリック)で英語を覚えられてラッキーだったって言っていた。それで良いのかと聞いたら、彼の卒論は、コンゴの文化と英語のことだと言っていた。自分の文化を失った事はわかっていた。イックスキューズだったんだ。英語を受け入れた事の。

;

なんでもいいよね。観光なんだから。」

 

 

このメールの返事はこうでした。

 

 

「文字は日本のローマ字と全く一緒です。英語や他の言語のように発音の例外はないと思います。

 

マレーシアやインドネシアは自国の文字を失ったわけではなく、フィリピン、ベトナムやアフリカの国もそうなように元から無かったのでしょう。

 

タイやビルマはインド文字から自国の文字を作ったわけだし、日本だって漢字からカナを作ったわけだから別に恥ずかしいことではないと思いますよ。

 

コンゴのことは知らないけど、多言語国家が統一の言語を使うとき旧宗主国の言語を使うのは自然でしょう。

 

日本などの単一民族で単一言語の国が世界的には珍しいわけだから、

 

ましてや欧米が勝手に国境線を引いたアフリカや中東の国家がひとつの言葉、文化、人種であるはずがないでしょう

 

シンガポールだって英語を公用語にして発展したしね。彼らはそれをシングリッシュと呼んでます。」

 



 

どうでしょう。

 

先ず、文字がなかったという事が間違いと思いました。「国」があって文字がないということはあり得ないからです。文字は、国家を維持する為にそもそも発明されているからです。文化のためではありませんよ。税収入の為です。TRIBE(部族)ならわかります。税収入はありませんから。

 

で、調べてみました。

 

「マレーシア語」

「マレーシア語」は、マレーシアの国語で、言語学的には「マレー語」と呼ばれます。マレー語は、マレー人の言語として発生し、系統的にはオーストロネシア語族西部マラヨ・ポリネシア語派に属します。マレー語の起源には諸説ありますが、現在のインドネシア、スマトラ島に端を発し、マレー半島、ボルネオ島に伝播したとする説が最も有力です。長い歴史の中で、マレー語は交易言語として用いられ、東南アジア島嶼部で広く用いられるようになりました。

現在、マレー語を国語とする国は、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシアの4カ国です。マレーシアの国語は「マレーシア語」とも呼ばれます。また、インドネシアの国語は「インドネシア語」と呼ぶのが普通です。シンガポールでは、シンガポール英語(シングリッシュ)や華語(北京語)が広く用いられるものの、マレー語はマレー人の言語として根強く定着しています。また、国語指定には至っていないものの、タイ深南部ではマレー語を母語とするマレー人が人口の大半を占め、マレー語が日常言語として用いられています。

東京外大で学ぶマレー語は、マレーシアで地域の差を超えて用いられる、標準マレー語(bahasa Melayu Standard バハス ムラゆぅ スタンダードゥ)です。マレーシアの標準マレー語は、シンガポールのマレー語とほぼ同じで、ブルネイでも通じます。インドネシア語とは、ある程度は共通ですが、相違点も多く、その差は年々広がっています。

 

文字

マレー語の表記には通常、ローマ字が用いられます。

マレー語には他に、アラビア文字をもとにして考案されたジャウィ文字による表記法も存在します。ローマ字採用(1904年)以前はジャウィ文字が主な表記法でした。現在でも、看板などにジャウィ文字表記を見ることがあります。また、マレー人の大半はジャウィ文字を学校で習い、基本的な読み書きができます。東京外大では、3年次以降の選択科目としてジャウィ文字を学ぶことができます。

 

 

文字はありました。例えアラビア語が基礎になっているとは言え、わたしたちが漢字を借りたように、彼等はその文字を歴史的に熟成していたのです。

 

 

そして宗主国の言語を引き継ぐというのはどうでしょうか。

 

わたしが英語を主に学んだ「マルタ」は、いろいろな国の植民地でした。最後の宗主国はイギリスです。彼等は、英語を公用語と定めました。が、独立後(1974年)自国語のマルタ語(マルティーズ)を公用語とし、学校ではマルタ語のみを使用することになりました。そして、支配時で学校に通っていた今は年配の人々は英語を流暢に話せますが、若者は英語離れしています。そして、彼等が誇りにしている世界ですこぶる古い劇場で、英語の公演でなく、自国語のマルタ語でシェークスピアを上演しています。

 

 

そんな宗主国の言語を受け入れるのが当然だと誰が言えるでしょう。それなら、韓国や台湾も日本語を公用語にするのでしょうか。そして、このメールの主は、兄です。兄とは根本的に考えが違います。が、思想的な事を話さなければ、関係性はスコブル良好です。だから、「さわらぬ神に祟りなし」と言うことで、彼の逆鱗に触れないように快適なリレイションシップを継続すべきとしている今日このごろです(わたしも老いたよね)。








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2015年8月14日金曜日

THE OTHER SIDE OF THE HEDGE --- by E. M. Forster


次回の英語読書会の課題です。ページ数が6ページ程でいつもより短いと思い、油断して読むのが遅くなりましたが、相当な難物でした。彼の代表作は、『ハワーズ・エンド』や『インドへの道』であるとウィキペディアにありました。両作とも題名は聞いたことがあるような感じですが読んではいないでしょう。古典は全然と言っていいほど読んでいませんから。

 

クラスメイトたちは、わたしが持っていくテキストが難しいと不満げな様子ですが、これはそれ以上に難しい。わたしのテキストの難しさは、彼女たちがその種類の本を読みなれていないという事にありますが、このお話は哲学的で難解です。ひとつの単語が何を意味しているのかを探るのが大変。ひとつ読み間違えるとお話が別物になっちゃいそうだからです。



 

 

話の内容は簡単です。男性が道を歩いていて疲れたので道端のマイル標石に腰かけます。WALKINGと書いてありますが、これは他に人との競争なのでしょうか。彼が腰かけていると追い抜いて行く人たちが、「頑張れ!」と声をかけていきます。

 

●ここで彼は、PEDOMETERを持っていたのですが、

My PEDPMETER told me that I was twenty-five; この「25」が何なんだろうと思いました。単に、「25歩」歩いたということか、あるいは、人生の万歩計で彼は今25歳という意味なのだろうかと。後の方を読んでみると、単なる万歩計のようでしたが??? でも、歩くという事を人生に譬えているような節もあります。それで人生に疲れ果てて坐り込んでしまったと。

 

At first I thought I was going to be like my brother, whom I had had to leave by the roadside a year or two round the corner.

これはどういう意味なのでしょうか。彼の兄は1~2年前に亡くなったということでしょうか。それを彼は、道端に置き去りにしたと表現しているのでしょうか。今の彼の状態のように。彼はマイルストーンに腰かけている。そして、人々は彼を抜き去り彼を置き去りにしているのか。

 

 

彼は坐っていたのですが疲れ果ててそこで腹這いに寝転がると、生垣が見えました。枯れ果てた生垣です。彼は、その中に入り込みたくなり進んでいくと蔦や棘に阻まれて前に行けなくなります。すると、突然は彼は水の中に。驚いて水面に浮かび上がり助けを呼ぶと、ひとりの男性が彼を助け上げます。そこが、”THE OTHER SIDE OF THE HEDGE” だったのです。

 

●彼は疲れ果てているのですが、これまでに持っていたものを道に落としてきたと言っています。

 

And I had already dropped several things---indeed, the road behind was strewn with the things we all had dropped; and ------,

My muscles were so weary that I could not even bear the weight of those things I still carried.

I slid off the milestone into the road, and lay there prostrate, with my face to the great parched hedge, praying that I might give up.

 

やはり、道を歩き進むことを人生に譬えていると思われるのですが……。

 

●生垣の中を進む時、彼はこうも言っています。

I should not have dared to try.  For we of the road do not admit in conversation that there is another side at all. 

I yielded to the temptation, saying to myself that I would come back in a minute.

 

ですから、「the road」が人生なんですよね。生きている時にもう一方のサイド(彼岸)に行きたいと思ってはいけないということですよね。

 

 

この場所は、光が溢れ清潔で彼が落ちたPOOLに囲まれた人工的な公園のような所でした。そこでは、人々が平和に楽しそうにそれぞれのしたい事をしています。彼が「ここはどこか」と尋ねると、男性は「NOWHERE」と答えます。また「彼等は何のためにそんな事をしているのか」と聞きますと、男性は「ただ好きな事をしているだけだ。子どものように」と答えました。彼は、それは人類の進歩に反すると抗議します。人は前進する為に何か懸命に行動しているのだと。

 

The blue sky was no longer a strip, and beneath it the earth had risen gradually into hills---clean, bare buttresses with beech trees in their folds, and meadows and clear pools at their feet.

-----and there was in the landscape a sense of human occupation—so that one might have called it a park, or garden, if the words did not imply a certain triviality and constraint.

 

●また、この楽園のような場所と幸せそうな人々についてこうも言っています。

But it was a barrier, and in a moment I lost all pleasure in the grass, the sky, the trees, the happy men and women, and realized that the place was but a prison, for all its beauty and extent.

 

 

ここから彼はこの場所と助けてくれた男性に違和感を持ち始めます。彼がもとの側に戻りたいと言うと、男性は立ち去る前にここにあるゲートを君に見せたいと言います。

 

”First, you must see the gates,” he replied, “for we have gates, though we never use them.”

 

 

しぶしぶ男性の後について歩いて行くとゲートがありました。ゲートは開いていて、その向こうに彼がいた場所が見えています。でも、男性はその場所は君のいたところではないと言います。よく似た場所のひとつだと。数えられないほど昔に人類がここから出て行ったゲートなのだと。

 

The gate opened outwards, and I exclaimed in amazement, for from it ran a road---just such a road as I had left---

He shut the gate and said: “But not your part of the road.  It is through this gate that humanity went out countless ages ago, when it was first seized with the desire to walk.”

 

 

とにかく彼はこの場所が気に入りません。停滞していると。人々は何にも貢献していない。人類の目的は進歩すること前進する事だと主張します。そして、夕方になります。彼はここに留まりたくないので、彼に供された食べ物も彼らが見ていない隙に投げ捨てます。お腹は空いていたのですが。

 

●彼は言います、

“Give me life, with its struggles and victories, with its failures and hatreds, with its deep moral meaning and its unknown goal!”

 

 

その時、男の人が彼に近づいてきました。彼はその男性から、持っていた飲み物を奪い取り飲みほします。それはビールより弱いアルコールでしたが、彼の疲れた体には強く、打ちのめされてしまいます。その薄れ行く意識の中で彼を助けた男性が言います。

 

As in a dream, I saw the old man shut the gate, and heard him say; “This is where your road ends, and through this gate humanity—all that is left of it –will come in to us.”

 

そして彼が飲み物を奪い取った男性は、彼の兄だったと悟ったのでした。

 

 

 

どうでしょうか。わたしの読み方は正しいのでしょうか。

 

男が道端で死にかけていた。生垣が天国に通じる道。彼はそれを自覚することなしに突き進んでいく。天国のような場所は、停滞していた。人は、苦悩の内に進歩を求めるが、楽園とは「苦悩」のない世界。つまり、人類が希求する「前進」の中に、人類のすべての災いの元があるということ。彼は最後にビールで癒されて、この楽園に満足するのでしょうか。兄と再会し、共に幸福なエンド(永久に続くエンド)を迎えたのでしょうか。







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2015年8月8日土曜日

最近ロボット事情


ロボットのお話は大好きです。人類とロボットあるいはAIの関係あるいは共生は、今までは夢の未来のお話でしたが、最近になって夢のお話ではなく現実性を帯びてきました。ソフトバンクの「製品」人と意志を通じ合える(感情を持つと言っているが)というのが売り物のペッパーは、第一弾売りだしと共に3分で売り切れになったとか。私は筑波大山海博士が開発したHALが世にデビューして以来、その他のロボットについても追跡しています。

 

数年前の名古屋トリエンナーレでは、ロボットが舞台に立つという実験演劇が催されました。ひとつは、見かけはロボット(ペッパーのような)であるロボットが出演します。セリフや動作はあらかじめプログラミングされており毎回同じように役をこなします。もうひとつは、見かけは人間の女性そのままのロボットが出演します(多分、NHKの藤井彩子アナをモデルに造られたもの)。こちらは、セリフは陰で俳優がしゃべります。なので、劇の進み方次第でセリフを変えることは可能です。で、どちらが観客の共感を得たかというと、見かけはロボットの方でした。観客はそのこどものようなロボットの見かけと拙さに感情移入したのです。この実験の目的は、人の日常にロボットが入って来た時、人はどのように反応するのだろうかというものです。

 
 
 
 

ロボットが日常的に人間の生活シーンの中に存在することはまだまだ先の話でしょうが、今日、興味深い新聞記事を見ました。それは車です。自動運転する自動車です。これは見かけはヒトではありませんが、まぎれもなくロボットでしょう。日産やホンダなどの主要自動車メーカーは2020年を目処に実現を目指しています。記事ではそのために高精細な地図作りが本格化していると伝えています。人間がハンドルを握らなくても目的地に着く自動車にとってはそんなデジタル地図は欠かせないでしょう。自動車メーカーは地図データを自動車運転の心臓部と位置付けています。地図大手の会社と提携する各社の攻勢も激化している模様です。

 

このような社会が現実のものとなってくると、どのような「現実」が現れるのでしょうか。ロボット法学会なるものが存在します。法学者や技術者、官僚ら約60人が参加しています。ロボットが引き起こすであろう問題点をあらかじめ研究しルール作りを図ろうという意図です。

 

例えば、

 

ヒト型ロボット(ペッパーのような)を公道で使うのは違法かどうか。

 

自動走行車が事故を起こした場合、責任は誰にあるのか。乗車中の人か、車のメーカーか、人工知能の開発者か。

 

人の動きを忠実に再現し、五感を共有できる分身ロボットで、海外旅行をしたら不法入国になるのか。その分身を拘束すると人権侵害になるのか。

 

念じた通りに動くロボット義手を壊したら、器物損壊か傷害か。

 

こんなところです。ハッカーが自動走行自動車をいかにハッキングするかのデモンストレーションをしていましたね。そんな問題も浮上するでしょう。

 

また、ロボットそのものが人に危害を加えないという安全性も問題でしょう。産業用ロボットは人と協同で働く場合、人の能力に合わせて能力をレベルダウンします。能力をそのまま発揮すれば、人間を巻き込んでの事故になる可能性があるからです。また、人とコミュニケーションをとるロボットでは、人との関係性が問題となります。ひとつは物理的関係性。人がロボットとうっかり接触すると骨を折ったりするかもしれませんからね。しかし、ロボットがその危険性を感知して頻繁にストップしていたら使い物になりません。そして心理的なものも重要です。ロボットが人と会話をし、もし人の感情を傷つけたら……。ロボットは、人が悲しみや嫌悪や怒りなどの否定的な感情を引き起こすことをしてはならないのです(話してはならないのです。)。

 

 

ひとつひとつ考えてみると、この問題点を潰していくのは相当たいへんで複雑でしょうね。人類はまた見切り発車をして、未来にその「付け」を残していくのでしょうか。








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