2016年3月18日金曜日

追記エピソード


AIが囲碁で人間に勝った件で、囲碁のわたしの先生に聞いてみました。彼は、なんだか有名人なのです。もちろんアマでプロではありません。が、「アマ十段」と聞きました。つまり、アマ棋士で日本一になったことがあるということかなあ…。羽根直樹九段も、彼が子どもの時に教えたとか。その他の現プロ棋士でも、幼い時、「面倒を見てやってくれ。」と言われ、指導していたようです。

 

わたしは単に、いつも行っているスポーツクラブの道筋に、「囲碁」という看板を見つけて覗いてみただけなのです。行ってみると、「何故ここに来たんだ。」との、先輩の言。で、わたし、「看板を見てきました。」と言うと、「君はラッキーだ。」と。そんなに有名な先生のようです。その他、「だから来た。」という人々の声も聞きます。わたしにとっては、単なる「おっさん」なんですけどネ。

 
 
 
 

で、先生に聞いたみた訳です。なんだか曖昧な返事だったので、「興味なさそうですねェ。」と言うと、その対戦の棋譜は全部検討したとのこと。「興味は、アルよ。」と。

 

で、「なにか得るところはありましたか。」と聞くと、「美しい碁でなくても勝てるんだと思った。」と。井山名人は、「人と違う大局観を持っている。」と言っています。

 

囲碁では強い棋士の棋譜は美しい形をしているとしています。それは、日本の美学かもしれません。韓国や中国ではそうでもなさそうなので。でも、「美しい形」とAIの棋譜…、はちょっと興味引かれる課題です。わたしの今回の興味は、囲碁よりもAIなのですから。それから、ちょっと先生の言に刺激されて、「感情の無い知性はどのように進化するのか」と思ってしまいました。モチベーションがないのですから。

 

 

そんな感想です。







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2016年3月13日日曜日

人間、負けちゃたヨォ――


グーグル傘下の英国企業が作ったAIについに人間が負けました。人工知能「アルファ碁」と韓国のプロ棋士、それもトップクラスの棋士がこの数日対戦をしていたのですが、昨日プロ棋士の方が三連敗で負けてしまいました。五番勝負だったので、一勝もできず大敗したことになります。

 

今回AIが囲碁で勝つことができたのは、プログラムの作戦を変更したからだそうです。今までは、過去の対戦棋譜が入力され終局までの道筋を勝つ確率が高い手を計算推論して打っていました。つまり、一手一手計算していたことになります。AIの計算能力に頼った力技だったのです。が、今回は、AIが自ら学習しているのです。過去の棋譜をインプットする点では変わりありませんが、そこからAIは碁の打ち方を学習し、自分の中で自分自身と対戦することによって、単なるデータの写しではなく自分で考えた手を打っているのです。自己大戦を三千万回コナシタとあります。とても「人間業」ではありませんネ。

 

日本の棋士の第一人者、井山裕太名人は、AIの安定感と人間とは違う判断力に注目しました。

 

「人間は直前に打った手など、石の流れで打つ手を決めたり、流れを感じながら形勢を判断したりする。アルファ碁は流れにとらわれすぎない。大局観、形勢判断という部分が人間とは違うと感じた。」

 


 

ついにAIが自ら考えて判断する時代が来たのです。これは画期的なことかもしれませんよ。「人工知能にとっての有効な学習方法が示されたインパクトは大きい。」と大学教授も述べています。

 

AIは、人類が発明した最後のものでかもしれないと、誰かが言っていました。名前は忘れましたが。つまり、これから先は、人間が考えなくてもAIが考えてくれて、人間社会は発展していくのです。まだまだ先の話かとは思いますが、流れはそんな様。先日UPしたことと関連し、人間社会はどう成っていくのだろうと懸念します。よく言えば、興味津津。AIが人類の究極の進化系かも…、とも思う今日この頃です。

 

妄想はどんどん広がっていくのですが…、

 

人間はAIに職業を奪われる。実際人類の歴史は、第二次産業革命から、機械に職業を奪われていく歴史です。すべての仕事をAIがしてくれるようになった世界はどうなるのか。先ず資本主義経済体制はどうなるのか。人が物を買って消費することによって、社会は発展してきたのですから、人間は職を奪われてモノを消費できない存在になるのか。あるいは、全ての必要な物を供給されて「生きていく」存在になるのか。これは果たしてユートピアなのかディストピアなのか。

 

人類そのものがそんな社会に不必要になるとも。そして、全てに満たされた人類は精神的に退化していくかも。原始の社会に戻って、動物のように何も考えなくてよい「幸せな」日々を送れるようになるかもしれない。

 

人類が衰退してもAIがその後の世界を引き受ける。そして、AIの中に人類はヒトとしての足跡を残しているのだから、AIが人類の発展系として君臨していくことに人類としての価値・幸せを感じることができる…のだ。








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2016年3月12日土曜日

もはや生物じゃない―――序



ヒトはなぜ働かなくてはいけないのか、つまりなぜ職業を持たなければいけないのか、ということはわたしの研究課題(?)ですが、近頃はそれに関連して人間はどうしてこのような社会を作り上げてしまったんだろうかと言うことを考えています。人類は、今、地球上で動物界においては一番繁栄していると思われるので、ストラタジとしては成功しているのだろうと思いますが。

 

ペナンで読んでいた『高い城の男』の中に、1960年代の頃のお話なのですが、世界の人口が30億とありました。最近の統計では70億を超えたとWHOが2~3年前に発表しました…、と思います。なので、この50年で人口は倍以上に増えたことになります。

 
 
 
 

わたしが思うことは、人は他の動物と全く違う進化をたどっているなあ、ということ。つまり、人は動物としてしなければいけないことをドンドン切り捨てていっているのではないかと。動物は「生きる」ということが個で完結しています。餌を取る、巣を作る、子どもを育てる、身繕いをする等など。人はそうではない。もちろん人間は「社会的動物である」と言われるかもしれませんが。しかし、人の社会での職業の細分化は、もう度を過ぎています。

 

だから、なぜ人は職業を持たなければいけないのか…、と言うことに。一人の人が、一つの仕事に従事するために、そのサポートをする人々の職業が生まれる。そういう現象が積み重なっていくうちに、人間の働く意味がどんどん薄れていくわけです。もう人は、自分が何を目的に働いているのかわからなくなっていきます。「人の役に立っているのだ」という思いだけです。もう自分で餌を狩猟採集しない。何を食べなければいけないのかの知識も薄れ、「身繕いをしなければいけない」意味ももはや忘れられている。

 

そしてその人が従事するひとつの職業は、お金で評価されるのです。報酬です。以前、ニュージーランドの英語学校に行った時に、「医者と配管工」とはどちらが必要かという命題が出て、若い学生たちがなんの躊躇もなく、「それは医者でしょう。配管工は誰でも良いけど、医者は知識が必要だから。」と。つまり、医者の報酬が配管工の報酬より高い事には、なんの疑問もないということです。

 

とどのつまり、医者であれ配管工であれ誰でも何でも交換可能です。その人でなければいけないという立場は、ほんとに天才の一握りの人でしょう。しかし、人が生きるということは、「生きる本人」にしかできないこと。

 

こんなことを考えつつ、次は、iPS細胞のことやロボットスーツのことを考えて行きます。








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2016年3月5日土曜日

ペナン島から帰りました。


先週木曜日に帰国しました。「帰国」なんて大袈裟だけど。何事もなく無事到着です。帰って来て、自分がどのように日常を暮らしていたのかが、ちょっとボケボケ。1カ月、ホテルに滞在していて、朝食はビュッフェに降りていけば食べられたし、部屋の掃除をしなくてもいいし、身の回りの品の整理と言っても、スーツケース1個分なんですから。

 

朝起きてからわたしは何をしていたのでしょうか。朝起きて、1階の台所に降りていって、真っ先にすることは、洗濯物を洗濯機に入れることでした。これは順調にこなしました。それから、何をしたんだっけ。顔を洗う?食器を洗う?新聞を取りに行く?

 
 
 
 
 
 

この1週間のリハビリで、ルーティーンを取り戻しました。でも少々順番が変わりましたが。それから、1ヵ月間郵便物を止めていたので、帰国の次の日には、郵便がドッサッと来ました。そのチェック。早く処理しなければいけないものを選り分け、処理に励みます。今回のペナンの目的の一つに、「囲碁の勉強」というものがあったので、囲碁自習の成果が上がったかどうか、囲碁クラブに2回、日本棋院中部に1回行き、勝負してきました。成果はイマイチ。どうも本を読み過ぎて、「自分らしさ」をなくしたようです。こちらも徐々にルーティーンを取り戻しつつあります。

 

もうひとつすぐに慣れなかったのは、新聞です。1カ月新聞を読んでいなかったので、朝、新聞を新聞受けに取りに行くのをついつい忘れてしまいます。取って来ても、読むのを忘れたりしちゃいます。ほんとは新聞なんてなくても暮らしていけるのかも。

 

囲碁クラブに行って、井山裕太九段が離婚したことを聞きました。知らなかった。新聞読んでないしい~。でも、そんなこと新聞には載らないか。芸能人じゃないんだから。棋院に行って、以前同じクラスの仲間に会ったので、「離婚したんだあ。」と聞くと、「その後連勝してるよ。」との返事。「ふ~ん。ストレスがなくなったのかなあ。」なんて、勝手な事を言っておりました。

 

また、新聞を読み始めますと、iPS細胞から人の耳を再生することができるようになったとか。実験用ネズミの身体からヒトの耳が再生している様子の写真が掲載されていました。世の中まるでSFの世界です。新聞を読んで、何かを感じるというルーティーンも戻りつつあるようです。

 

また一年頑張ります。とか言って、次はどこに行こうかと、頭の中をよぎっているところであります。






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2016年2月23日火曜日

『高い城の男』 フィリップ・K・ディック著


ペナンの旅ももうわずかです。木曜日に帰ります。『高い城の男』は、この30日余りの旅に持ってきた本の1冊です。フィリップ・K・ディックは大好きな作家で、日本語に翻訳された彼の本はほとんど持っていますが、読んでいない本もあります。若い時分から読める時に読もうと買い漁っていたからです。そしてこの本もそのひとつ。

 

しかし、この本はあまり読む気がしませんでした。それは、彼が、第二次世界大戦で「日本とドイツ」が勝った世界を著しているからです。アメリカをドイツと日本が二分割しています。ドイツはナチスが、日本は天皇を頂点とする軍部が政権を握っています。その設定に何も文句はありませんが、いくら天才とはいえ西洋人が日本のことを著すと日本人としては、「ん?」と思うところが出て来ます。それが、読んでいる時に小説の内容を邪魔するからです。

 

なぜ、それならこの本を持ってきたかと言いますと、ひとつにはいつかは読まなければいけないという強迫観念、二つ目は、ラジオ番組の「すっぴん」で高橋源一郎さんが推薦していたこと、そしてフィリップ・K・ディックを知っていた稀少的な存在の英会話の先生が(不思議なことにフィリップ・K・ディックを知っているのは、カナダ人です。)、「『高い城の男』がディックの一番の傑作だ。」と言っていたからです。高橋源一郎さんもそう言っていました。ほんとにそうだろうかと。





 

読みだしたところ、やはり想像通り「ほんとにそうだろうか。」でした。どうして、彼らはこれが彼の最高傑作と言うのだろうか。彼の作品は、3~4のエピソードがそれぞれ独立して語られてそれが微妙に交錯し、大団円を迎えるというパターンが多いのです。今回の『高い城の男』もそんな感じでした。が、一つ一つのエピソードが中途半端で大団円になり切っていないのです。それはこの作品が彼の過渡期の作品だからかもしれません。初期のハチャメチャなコミックブックのようなSF世界と彼の後期の宗教的境地に入っていく境の作品であるとどこかで読みました。

 

彼の後期の作品は、キリスト教的ですが、キリスト教でもない異教徒系キリスト教とでもいったような世界です。実際、『高い城の男』は、「易経」が主要な位置を占めています。登場する日本人や「日本側」のアメリカ人は、易で大事なことを占って行動を決めたりしています。

 

肝心なことを書き忘れていました。この「高い城の男」とは、この本の中で日本とドイツが第二次世界大戦に勝ったのではなく、「アメリカとイギリスが戦争に勝った世界」を描いた本の作者で、その本は『イナゴ』という題です。その本はドイツ側の世界では発禁となっていますが、日本側では買うことが出来ます。この本の著者はドイツの暗殺を恐れて、高い城のような鉄条網で囲われた場所に住んでいるといううわさなのです。わたしは、フィリップ・K・ディックの著書『ジョーンズの世界』のように、この「高い城の男」がメインとなって話を引っ張っていくのかと思っていましたが、全く違いました。この男は最後に出てくるだけで、なにかごく普通の平凡な男でした。

 

では、なぜ皆この本を彼の最高傑作と言うのか。「訳者あとがき」によりますと、

 

フィリップ・K・ディックの数多い長編のうち、どれを最高傑作とみるかは好みの問題で、論議の別れるところだが、すくなくともアメリカやイギリスでは、『高い城の男』を押す人がかなり多いようである。この小説がヒューゴ最優秀長編賞に選ばれた事実もさることながら、ディック作品にありがちなプロットの破綻が見られず、むしろ普通小説を思わせる筆致で、じっくり書き込まれている点が高く評価されたのだろう。

 

訳者はあとがきの中で、この本の内容を分析していません。書かれているのは「易経」の説明。想像するに、彼はこの作品をあまり評価していないのでは。

 

 

わたしは、彼の作品のハチャメチャなプロットが好きです。そのハチャメチャが微妙に絡み合い一つ一つがより複雑な高度な話に発展していくところが。『火星のタイム・スリップ』、これがわたしの思う彼の最高傑作です。









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2016年2月20日土曜日

ガーニーへ行く


木曜日、ガーニーに行ってきました。ガーニー・プラザ。ショッピングモールです。ペナンで一番西洋的な場所と思います。ここに行きたくて行ったわけではないのですが、この場所を起点として、ホンセン・アート&クラフツというお店に行きたかったのです。プラナカン陶器を扱うショップです。プラナカン陶器は中国製陶器ですが、ペナン育ちです。色彩が鮮やかで、見ているだけでワクワクします。

 

しかしながら、このお店のマップを見ると、大きな通りに面していません。で、大丈夫かなあ、と思ったのですが、その通り辿り着けませんでした。もう一度ルートを変えて挑戦してみるか、あるいは、行ってもお値段が高くてどうせ買えないのだからと思って諦めるか…、です。小さなコヒーカップでも2万円程しますから。

 

目的のひとつは「歩く」ということですので、この目的は達成しました。約8000歩です。東京で皇居も周りを1周した時より多い歩数でした。ガーニーに引き返しました。いつもなら、ここで「ビール」という事になるのですが、今回は我慢しました。ビールカウンターのあるお店を尻目に、スタバに入って、カフェラテを飲みました。

 

ガーニー・プラザは概ねブランド・ショップなので、わたしは興味がありません。でも。冷房が効いていて心地がいいので、ちょっとブラブラと。ブラブラすると間違いは起こりますね。何かを買ってしまうだろうと恐れていましたが、その通り買ってしまいました。しかし、マークス&スペンサー。どこへ行ってもケチ根性がしみ込んでいるわたしなのでした。Tシャツを買いました。グレーのTシャツです。どこでも買えそうなものですが、シルエットが気に入りました。ピッタリと体型をカバーするものはなかなか見つかりませんからね。

 

 

それでホテルに戻ったのですが、滞在はあと5日間。もう一度トライしようかどうしようかと迷っているところです。










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2016年2月17日水曜日

ホワイト・コーヒー


コムタに行って、ホワイト・コーヒーを買いました。お土産に。ホテルの部屋に帰って、よくパッケージを見たら、ビックリ。ホワイト・コーヒーは、インスタントコーヒーだったんです。でも、ペナンの特産品。そして、価格に関しても1パッケージ当たりの値段は高い。でも、お土産だから。お土産にインスタントコーヒーをもらったらどうしますか。

 

買う時から少々疑問でした。パッケージにMILD SUGARと書いてあったから。だから、スタッフに聞きました。ホワイト・コーヒーとは、SUGRRが入っているという意味ですかと。で、彼女は、「いいえ。ミルクが入っています。」と言いました。で、マイルド・シュガーの文字を指摘すると、砂糖が入っているのとノー・シュガーがあるのだと。なるほど、ノー・シュガーはありました。それからガイドブックには、ココナッツミルクが入っていると書いてあったので、メイク・センスと思ったわけです。でも、インスタントコーヒーとはね。

 

もちろん、わたしとしてはインスタントコーヒーはありですよ。でも、コヒー好きの人はどうでしょうね。内容はわからず、インスタントか、と思うのでは。そんな人と付き合うなという声が聞こえてきそうですが、それは囲碁の先生なのです。仕方ない。わたしは囲碁の保守的雰囲気に迎合していきますよ。強くなるために。

 
ということです。

 



 

もうひとつビックリしたこと。朝市に行ったと書いたのはいつでしたっけ。その時トマトを買いました。冷蔵庫に保存していました。1個はすでに食べたのですが、もう一つを今日食べようと。ナイフで半分に切るとビックリ。内部のトマトの種からすでにアルファルファのような芽が出たいたのです。恐るべし、ペナンのトマト。早く食べなければいけませんでしたね。

 

ここで見るNHKのニュースでは、日本の野菜を海外に売り込もうとか。TPPですか。日本の野菜は見かけは立派で見事です。でも、死んでいるような野菜…、印象だけで、その後長続きするでしょうかね。ペナンの野菜は生きていました。

 

こんなところで、また!







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