2015年11月10日火曜日

上海での一ヵ月の生活は…、  (ワンダーランド上海2003-2005)


わたしは上海で1ヵ月間何をしていたのでしょうか。

 

先ず、三人の生徒に銀粘土を使ってアクセサリーを作る方法を教えました。銀粘土とは、発明された当時は60%の銀のパウダーと40%のその他の物、例えば銀パウダーをお互いに結合させるグルーです。それで粘土の形態になっているというわけ。それで形を作って、専用の焼成窯で焼くと銀以外の部分が燃え尽きて銀だけが残る…、というもの。焼きあがりは白色なので、その後磨く必要があります。この「研磨する」という部分に、わたし独自のスキルがあるのです。

 

彼らは、自分のお店を出すという意志があるからかもしれませんが、とても優秀な生徒でした。概ね日本の生徒に比べ上海の生徒は「かしこいclever」という印象です。彼らはホントにお店を出してしまいました。都心からは離れた場所でしたが、若者が集まる副都心をいった所です。実際にお店を経営するのは、もう大学を卒業していた男の子でした。そのお店に寝泊まりして、朝から晩まで働いている様子でした。

 

デモンストレーションをしましたが、その反応はまだありません。

 

そして、日本人居住地に売り込みに行きました。日本人居住地とは、主に日系の会社に勤めている人達、そしてその家族のためのマンション群です。上海には三箇所ほどあります。それはそれは、素晴らしい設備です。施設の中に保育園あり、レストランあり、コンビニありのスポーツ・ジムありです。そして、わたしたちの目的の文化教室。いろいろな趣味のお稽古ごとの教室で、その中に「銀粘土教室」を作って下さいとお願いする作戦です。これだけあれば、ここから一歩も外に出なくともこの場所だけで暮らせそうでした。実際、上海にウンザリしたどこにも出かけない奥様たちがいるようですよ。しかし、上海中心街に行くシャトルバスが出ているので、外へも気軽に出かけられます。

 

メイはその内のひとつに以前勤めていました。その設備を運営し、そして住人のお世話をする部門です。海水浴に一緒に行ったジョさんは、メイのその時の先輩でした。彼女も東京に長く留学していましたから、日本語はぺラペラです。メイは、「彼女はわたしたち(顧先生)みたいじゃなく、ホントの大学で学んでいたね。優秀な人よ。」と言っていました。

 

中国文化のコネクションです。このコネクションの威力はすごいですよ。またの機会にお話しましょう。ジョさんは、この会社の「お世話部門」では、少々上の立場の人のようでした。それでとりあえず、銀粘土アクセサリー制作の体験教室を開くことになり、結果、生徒を募集して、一ヵ月後には教室を開設する段取りとなりました。

 


 

というわけで、わたしはいったん日本に帰って身辺整理をし、また上海に来ることになりました。そして日本に帰る前日にミーティングです。なんでいつも間際にミーティングするか、訳がわかりません。例の生徒の出店の時も、その前日に三人の生徒も含む皆でミーティング兼のお食事会。ワンさんが何やら演説をしていたのですが、中国語なのでわかりません。しかし、わたしの方をチラチラ見るので、わたしことを話しているのかと、メイに聞くと、彼女は「わたしが明日お店でデモンストレーションをする」と言っていたのでした。わたしはメイに、「そんな話、何も聞いてないよ。なんで突然言うの。わたしにもそれなりの準備が必要なのよ。」と言って、ワンさんに訳せと言いました。結果は、ご想像通りまるめ込まれて「やりました」よ。

 

そのミーティングで、ワンさんは労働契約書を出してきました。中国語で書いてあります。そして、これはほんとに正式なもののよう。その上、5年契約と書いてあります。中国語は分かりませんが、漢字で書いてあるのでだいたいの内容はわかります。

 

わたしは、「他に正式な物は何も無いのに、なんで労働契約書だけ正式なものを持ってくるのか。そして、中国語で書いてあるものにはサインしない。日本語の対訳を要求する。」と言いました。メイは黙っています。ワンさんは、「じゃあ日本に持って帰ってよく考えてきて下さい。」と。そして、おひらきに。

 

不思議に思われるかもしれませんが、わたしの気持ちとしては、「会社自体が正式なものじゃないのに、なぜ労働契約だけが法律に則ったものなのか。そんなものにはサインできない。」ということ。それなら何故そんなあやふやな仕事(会社)を選ぶかと言われれば、新しい空気が吸いたかった…、そんなところでしょうか。

 

 

003年9月末日、わたしは日本に帰ってきました。そして自分の工房の電話をキャンセルし、ガスも止め、工房を閉鎖しました。所属していたスポーツクラブもキャンセルし、Sにも上海で仕事するからサポートしてほしいと段取りをつけ、すべてクリアーして10月中旬再び上海に旅立ちました。

 

先回上海にいた時に、メイとわたしは上海に戻ってからわたしが住むアパートを探していました。上海に着いたらすぐにそこに行き、契約を交わし、とりあえず必要なものを買いに行く予定になっていました。そのアパートはメイのマンションの近くで、とても素晴らし所でした。新築同然。シャワーだけでしたが、メイが風呂桶を買えば大丈夫と言います。その風呂桶も探し済みだったのです。もちろん家具付きです。ベッド、応接セット、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、何でもあります。新品の自転車も付いていました。そして家賃は会社持ちです。

 

 

そして、再び、上海浦東空港に降り立ったのですが……、ここで悲劇が……、次回につづく~。








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2015年11月8日日曜日

わたしの「お仕事」(2)――ワンダーランド上海(2003-2005)


さて、こんなようなお仕事で上海にいますが、ワンさんとは何の労働契約も結んでおりません。ただ、航空券代と家賃、そして食事代(昼食分ですが結構中国では上等の部類と思います。)が保証されているだけです。あとは、生徒の受講料の40%です。しかし、生徒は三人だけ。彼らはほんとうに2週間で銀アクセサリー制作を学んでお店を出すようです。上海では、普通の事と後で知りましたが。

 

そもそも「ワンさんとメイがどこでどうやって知り合ったか」という事を聞いた時、「そうか。アリか!」と思いました。彼女たちは、北京の講習会で知り合ったのです。色彩検定士の資格を取得する講習です。そこで上海から来た者同士ということで仲良くなり、二週間の講義の後、上海に戻って二人で会社を始めました、色彩アドバイザーのお仕事です。

 

SARSの流行の事、覚えておられますか。サーズ・ウィルスが中国で蔓延しました。2003年は、その勢いが少々衰えた頃です。しかしまだ、空港では体温チェックがありました。彼女たちは、そのSARSでお仕事が上手くいかなくなったと言っていますが…、疑わしい。2週間の講習で、色彩アドバイスの仕事をゲットできると思いますか。そこで、わたしがノホホ~ンと登場し、彼女たちは仕事を衣替えしようと考えたのだろう…、と想像します。

 



 

今いる三人の生徒のほかにも、ワンさんはいろいろ企画を考えているようです。その一つがデモンストレーション。人を集めて銀粘土の説明をし、そして制作過程を見せて銀粘土のお店の加盟店を募ること。その人たちに材料や道具を売り、加盟店のフランチャイズ・フィーを稼ごうというものです。この時の彼女たちのやり方にはホント恐れ入ります。さすが中国商売人といった感じ。

 

彼女たちが言うには、

 

「中国人こんなこと信じないね。」

 

つまり、見かけは全く「粘土」である「銀粘土」が焼成すると、銀になるという事を信じないということです。そこで彼女たちは焼きあがった銀粘土の作品をある研究所(?)へ持って行き成分を調べてもらいました。そして、それが「99.9%銀である」という証明書を獲得したのです。わたしは、「そんなこと必要なの。」と思いましたが、ほんとうでした。彼ら中国人はホント信じません。という事で、この「証明書」は、ものすごく有益なものとなりました。

 

それから、「わたしの存在」です。日本人…、日本人の偉い先生。彼女たちは、わたしのありとあらゆる有効なセールスポイントを洗い出して、宣伝に役立てました。わたしの作品の写真を撮ってパネルを作る、銀粘土の作品で賞を取った時の賞状の写真を撮る等など。名古屋でSと話し合った「わたしの周りの人や友達だけに教える」なんてことはどこかに飛んでしまいした。

 

 

そして、デモンストレーションです。そこにやって来た人々もたいした人々でした。実は上海に来る以前にサンフランシスコでもデモンストレーションをしたことがあります。友達が造形作家で自分の家で教室を開いています。そこで彼女が三週間ほど自宅に招待してくれました。そしてついでにデモンストレーションしてくれと言うことに。

 

その時は周一回で、二回開催しました。来てくれた人は、それぞれ10人くらい。皆、アーチストやアート関係の学生、ギャラリーのオーナー等です。皆、すごく関心を持ってくれました。それこそ「Oh,マッジクだ。素晴らしい。」と口々にいってくれて、ほんとにアートとしての関心を持ってくれたのでした。

 

そしてここ上海。来てくれた人々の関心は商売だけ。儲かるか儲からないかのみ。まったく銀粘土に興味がなさそうな人々もいました。メイに「あの人誰?」と聞くと、メイは、「あの人は、見学しといて興味ありそうな人を見つけたら、わたしたちに紹介して、紹介料取ろうとしてるよ。」っていう感じ。

 

しかし良かった点は、サンフランシスコでは英語で説明しなければいけませんでしたが、ここではメイが通訳してくれるので簡単。極端に言えば、「あいうえお、かきくけこ。」って言っていたっていいんです。一人が何か質問をし、メイがわたしに訳しました。「銀粘土は食べても大丈夫か、言ってるよ。」

 

なので、

 

「銀粘土は、間違って食べても害になりませんが、食べないようにと説明書には書いてあります。」

 

と言うと、ウケましたよ。

 

 

そして、ワンさんはその模様を撮影もし、デモテープも作ってしまいました。そのデモテープをあとで見せてもらいましたが、とても素晴らしいものでした。彼ら中国人の宣伝能力、アピール精神にはホトホト感心してしまいます。

 








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2015年11月6日金曜日

わたしの「お仕事」  (ワンダーランド上海 2003-2005)


上海滞在記は、ひょんなことから始まったメイとの上海での「会社経営」のお話なのですが、そもそものわたしの仕事の事をお話したいと思います。

 

その頃のわたしの職業はと言うと、フリーのジュエリーデザイナーです。二十年位前わたしは彫金師になりました。銀のアクセサリーを主に創っています。そして、銀のショップやギャラリーに作品を置いて貰ったり、展示会を開いたりしていました。個展は年に二回、開催していました。名古屋での事です。もう今回で個展はやめようと決心した最後の個展でSと会ったのでした。今から八年位前のことです(2003年の)。

 

彼女は「三菱マテリアルの銀粘土」の中部地区販売代理店をしている会社で働いていました。実は彼女はその会社の社長の娘だったのですが。彼女は、その頃まだ世間に認知されていない銀粘土を広めるためにわたしに手伝って欲しいと、わたしの個展会場を訪ねてくれました。それから、わたしとこの「銀粘土」と「彼女」との付き合いが始まりました。(彼女ネタは一杯ありますよ。「三菱マテリアル」「銀粘土」「彼女」についてはまた今度。)

 

それ以降、わたしの活動は「彫金」から「銀粘土」中心になりました。もちろん銀粘土という材料で何かを制作する際には、彫金の技法や知識も使います。その点がわたしの強みでもあります。銀粘土は十数年前に三菱マテリアルが発明したもので、当然特許も取っており、そして銀粘土の普及方法は、三菱マテリアルに従わなければいけません。一応、表向きは「協会」があって、そこが普及活動をしていることになっています。わたしも初期の会員です。そこで問題がひとつ。三菱マテリアルは中国で銀粘土を普及することをまだ認めていません。つまり、中国ではまだ特許を取っていないという事なのです。

 
 
 

2003年8月、わたしが観光のため上海に初めて来た時、ワンさんとメイにはめられて上海で仕事をすることになったのは、この銀粘土のお仕事です。わたしは、彼女たちのために、ただ銀粘土でアクセサリーを制作する方法を教えるデモンストレーションを頼まれただけと理解していました。しかし、上海に行くと、三人の生徒がもう待ち構えていたという訳です。そして一旦名古屋に戻って10月にまた上海に行くということになったのですが……、

 

そのことをSに相談すると、

 

「それはまずい。三菱マテリアルは、銀粘土の中国での販売をまだ認めてないよ。」

わたし、

「どうしよう?」

 

「でも、個人でするなら問題ないよ。個人で周りの人や友達に教えるのなら誰も止められないし、銀粘土が売れれば誰も文句は言わないでしょう。三菱マテリアルの営業に電話して了解取るよ。」

 

と、その場で電話をして、了解を取りました。この「中国で銀粘土を売った」ということが、後にたいへんな問題に発展します。が…、ハッハッハー、今のところ「Sが三菱マテリアルの営業に電話して了解を取っておいた」という事実が、後々に大いに役立ったと言うことだけご報告しときます。

 







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2015年11月5日木曜日

タツノオトシゴ (ワンダーランド上海 2003-2005)


中国人の胃袋は真に恐ろしい。わたしが始めて上海空港に降り立った時、メイが迎えに来てくれました。ホテルまでメイの運転で送ってくれチェックインもしてくれて、これで今日は「さようなら」でまた明日、「旅の疲れもあるでしょうから、ごゆっくりお休みください。」ということになるのかと思ったら、レストランを予約してあるから、荷物を部屋に運んでちょっと休憩したらすぐ行こうと、部屋まで付いてきました。中国では、予約と言っても誰かが先に行って、席を取っておかなければいけないようです。他の人がもうレストランで待っているからということ。

 

レストランに行くと、「メイの弟」という人とその奥さん、メイの息子のトニーが待っていました。「メイの弟」という人は、話が複雑になるのでまたの機会にお話ししましょう。上海では、たいていお客の中で一番年上と思われる人にメニューを差し出します。そして勘定書も。しかしこの場合は、店員はわたしが招待されている人と察したらしく、メイにメニューを渡しました。後で知りましたが、メイは全ての事をマネージメントすることが好きらしく、彼女の友達もメイを頼りにしています。

 

このオーダーの模様も圧巻です。客がメニューについて質問し、ウェーターが料理内容を得々と説明するフランス映画のよう。メイは、次々にメニュー内容を質問し、ウェイトレスは淀みなくその質問に答えていました。その後もこういう光景がたびたび繰り広げられましたので、ある時好奇心に駆られて時間を測ってみましたら、質疑応答は15分は続きましたね。この質問が繰り返されている間に、最初にオーダーしたものが運ばれてきます。

 

延々と続きそうなこのやり取りがようやく終わったかと思った時、メイが、「あっ、忘れたね。ビール、ビール。」と。わたしは彼女がビールのことを思い出してくれてひと安心。そして「乾杯!」で食事が始まりました。総勢五人ですが、だれもお皿に手を付ける気配がありません。それで「そうか」と。お客であるわたしがお皿に手を付けなければ皆さんは、食べ始められないんじゃないのかと。それで来るお皿来るお皿、わたしが一番に手を付けました。

 

そしてウェイトレスはというと、わたしのグラスが空になりそうになるとすぐにビールを注ぐ。Jは「もっと食べろ、食べろ。」とわたしの小皿に料理をのせてくれる。終わりの無い料理、終わりの無いビールでした。

 

この日は、上海最初の日だったので一生懸命食べましたが、とうとう耐えられなくなって、ある日メイに告白しました。

 

「上海のガイドブックを持ってきたんだけどその中に書いてあるのよ。中国の人はお料理をたくさん注文するけど、食べられなかったら断ってもいいんだって。日本人は出されたものを全部食べなければお行儀が悪いことになっているけど、中国では食べきれないほど注文するのが礼儀だって。わたしそんなに食べられないけど気にしないでね。」

 

「ほんとか。ガイドブックにそんなこと書いてあるか。わかった。」と言いましたが、その後もこの状態は続きます。ほんとのところは分かっていないみたいでした。メイはわたしに「もっと食べろ、食べろ」と言って、お皿にお料理を取ってくれます。だから、わたしはついにキレちゃって、「なんでそんなにお皿に次々と料理を入れるのか」って言いました。そうしたら彼女は、「まだ、遠慮してるから。」って言います。

 

「わたしは遠慮なんかしていません。遠慮してると言えば、メイがお皿に入れてくれるから、わたしは遠慮して無理して全部食べてます。」

 

ついに彼女も理解したらしく、「わかりました。」と言って、その後はほっておいてくれました。でもホントにそうなんだ。ガイドブックに書いてあるだけと思っていたけど中国の人はほんとに食べきれないほど注文をします。全部食べきっちゃいそうになるとただ残すためだけに、新たに注文をすることもわかりました。お客が去った後には、山盛りの残飯が。

 

「う~~~ん、もったいない。」と、思いマス。

 
 
 
 

 

メイの友達のワンさんとジョさんとその子どもたちと一緒に船旅をしたことはもう書きました。トイレのお話もネ。もう少しこの旅のことにお付き合いください。

 

2003年8月11日。海に出発の日、メイがホテルまで迎えに来てくれました。3泊4日の旅行なのでホテルをキャンセルすると。メイがホテルのフロントと全部話を付けて、荷物もすべてホテルに預ける交渉も完了。トニーも一緒でした。船が出るのは夕方だったので、その前に少し豫園を見学し、それから船着き場に向かいました。

 

わたしたちが最初に船着き場に着きました。それからワンさんとその息子、中学生、そしてジョさんとその息子、高校生が順次集まってきました。中国の「一人っ子政策」により彼女たちは、ひとりしか子供がいませんがそれが不思議に総て息子でした。上海の若い男の子たちはとても優しい(上海の女性が世界で一番強いと言われていますが。)。それから、全員が一人っ子ということもあって、彼らはすぐにお互い仲良しになります。まるで兄弟のように。また、彼らは親の言うことにとても素直に従う。重い荷物も持つし、何か「買って来い」というと、さっと立ち上がってさっと従います。

 

8月12日火曜日、朝、普陀山の港に到着。ホテルにチェックイン。それからお寺に行きました。今回の旅の目的はどうもこれだったらしいと感じます。彼らはとても敬虔で、皆の将来の祈願と家族の健康を祈ります。祈願の仕方もちゃんと方法があるらしく、ここではこの色のお線香を使い、何度お辞儀をするとかどの方向を向くとか、とても細かいルールがあります。

 

日本でも祈ったことのないわたしがここで何を祈る?

 

しかし、彼女たちの手前チャンと祈る振りはしました。こんな無信心のわたしがいっしょで彼女達の願いは叶うのかと思いましたが、しかたがない。

 

午後から海に行きました。ホテルに戻って、その夜からお腹の具合が悪くなりました。その前から少々変だったのでまあこんなものかと思っていましたら、夜中にメイから部屋に電話がありました。彼女たちはわたしのことを気遣ってくれて、わたしだけが一人部屋だったのです。彼女たちは全員で2部屋。その内線でメイは「大丈夫か?」と聞きました。わたしは、なんでメイがわたしのお腹が調子悪いことをわかったのかと尋ねましたところ、メイは「食中り」だと。メイとワンさんとワンさんの息子が食中りで、ワンさん達は病院に行って、点滴を受けていると言います。メイは医者に来てもらって点滴を受けるのでわたしも受けろと言うこと。

 

わたしは、

「でも、いいよ。保険ないし、治療代を払えないよ。」

メイは

「大丈夫。3000円くらいよ。」

 

というので、受診することになりました。実際には、Jはもう医者を呼んでいたようです。わたしが気分を害するといけないので、一応、了解を得ようとしたよう。ホテルの部屋で点滴を受けるのは初めての経験、というか、点滴そのものも初めてでした。

 

メイ曰く、

「この辺の人は食中りに慣れてるから大丈夫よ。病院の先生も慣れてるからね。」

 

どう大丈夫なんだろうか?

 

その上、お医者さんが点滴をセットしてくれましたが、針を抜いたのはジョさん。ジョさんは、しっかりした様子でしたが、「わたし点滴の針は抜いたことがない(彼女は日本語を話せます。)。」と、ポツンと言いました。

 

翌日、点滴と薬が効いて調子はよくなりましたが少し不安。しかし、皆が行くと言うので、午前中に普陀山へ行きました。ここにはたくさんのお寺がありますから。午後からは買い物に行くので「一緒に行くか」と聞かれました。「昼食はホテルでする。理由は清潔だから。」と。

 

ホテルのレストランで、メイは「ホテルの人もわたし達が食中りしたことを知っているので慎重に料理をしている。」と言いました。というのは、メニューをみて、彼女達は厨房まで材料を見に行くのです。その時に料理人がそう言ったらしいのです。メニューを決めるのは、このようにここでもとても慎重でした。それから、注文したものを全部食べるのは恥と思っている事は、お話しましたね。なので、子供達が全部のお皿を食べ尽くしそうになると追加注文をします。結局、追加注文の半分くらいは残しました。

 

午後からの買い物はお土産を買うというので、どんなものが買えるのかなと楽しみにしていたら、いろいろな干物の類を買うだけでした。「食中り」の後だというのに、ホテルのレストランの事といい、お土産の事と言い、たいしたものです彼女たちは。彼女たちはひとつの店で、いろいろな干物やその他食べ物を山のように買い込みました。

 

そして、わたしはここでタツノオトシゴを見つけたと言う訳です。もちろん干物ですが。ワンさんが、「焼酎の中に入れて2ヶ月くらいで飲めるよ」と教えてくれました。関節炎と腰にいいそうです。医食同源。彼女たちは、オドロクほどこのような知識を持っています。

 

 

わたしはその干物のタツノオトシゴを綺麗なビンに入れて、焼酎を満たしました。そして、今ではこの上海のアパートの飾り棚に鎮座しています。旅の思い出として…。そして、それを眺めながら飲むビールの楽しみと……。

 








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2015年11月3日火曜日

「会社」とは? (ワンダーランド上海 2003-2005)


とりあえず、1ヵ月間は上海に住むことになりました。1ケ月の間にこれからの人生を考えようと思いまして。日本の自分の家に暮らしていると日々に追われるだけですから、何も考えずに一日が過ぎ去りますから。

 

ほんのわずかな時間しか上海に住んでいないのですから大きなことは言えませんが、上海の「会社」ってなんだろうと思いました。第一、中国は資本主義体制ではないのですから。まず気が付いたのは、上海の「小さな会社」は、政府に認められていないモグリの会社が多いという事実です。会社あるいはお店などです。

 

そのひとつの目安は、会社が発票(領収証)を出せるか出せないかです。領収証の用紙は政府が定めており、どんな用紙でも良いというものではありません。日本ではその辺の紙に書いても領収書として通用しますよね。上海では、会社はあらかじめ領収証の束を政府から購入するのです。つまり、政府のどの機関かは知りませんが、そこに登録していないと領収証を買う事が出来ないのです。

 

政府はこの領収証で税金の管理をしているということになります。上海のレストランで食事をした時、スクラッチ籤付きの領収書をもらったことはないですか。スクラッチを削ると10元とか5元とか、まれに1000元とかの文字が出ます。「謝謝(シェーシェ)」と書かれていたらハズレです。出た金額をレストランから頂けます。

 

つまり、客がレストランから領収書を受け取らないと売上とならないので、政府が税金を取り逸れます。籤が付いていると客は必ずレストランに領収書を要求するということですね。そう聞きました。例えば、上海はどこも込んでいるので駐車場を探すのもたいへんですが、道路沿いに日本でいうパーキングメーターのようなものがあります。ただし、機械ではなく人が料金を徴収しています。しかし、領収書をいらないと言うと安くしてくれます。徴収人がそれをネコババするのか会社がインチキをするのかは知りませんが。

 

 

結果的に、正規でない会社が横行しているということになります。会社を興すことはたいへんなことと想像しますが、上海ではそうでもないみたいです。簡単に創って、簡単に止めます。お店だったら、お店を借りて売るものがあればそれでOK。内装とかディスプレー器具などはお構いなし。利益が上がってきたら、徐々に整えていけばいいのです。だから、ダメなら即やめられます。

 

メイ曰く、「日本人完全主義者だから、考えられないでしょ。」

そうよねえ。出店するにしても、完璧に「自分の世界」を創造しようとしちゃいますよね。

 

会社に勤めるのも同じこと。会社に3年もいれば「長く勤めてるね~。」って言われちゃいますよ。会社に勤めている人も自分で似たような会社を作ったりして、会社のお客を自分の会社に引き抜いてしまうということが日常です。何のルールもありません。

 

思い出しました。ワンさんのコンス(会社)の近くに、メイの知り合いの美容室があって、ビルの中の一室で営業しているので美容院という感じではありませんが、メイに「行くから一緒においでよ」と言われ、社会見学のためにお供しました。

 

とても興味深いシチュエーションでしたが、そのお話はまたの機会にするとして、そのお返しかどうか、美容師さん(男性)がコンスに遊びに来てくれました。わたしの作品がケースの中に展示してあります。その中のバングルを気に入って、でも彼にとっては高価で、彼が言うには、「美容院のカット券と交換しよう。」と。カット券はいくらかと聞くと、とても安い値段。上海では、まだ技術料は高くなく、カットという技術は評価されていない様子でした。計算してみると1カ月に一回行くとしても、三年くらいかかりそうでした。それで、丁寧にお断りしたのですが…、なんと、彼、すぐその美容院やめちゃったんです。もし、これ、交換していたらどうなっていたのかと思うと笑っちゃいますよね。

 



 

そこでワンさんのコンスのお話です。わたしが帰る頃になって、ワンさんが突然日本語の通訳を連れてきました。メイはそのことは知りませんでした。当然です、メイが全て通訳していたのですから。他の通訳を連れてくるとはどういうことか?

 

ワンさんはメイの通訳を信用していなかったようです。メイとわたしで好きな事を話していると思っていたようです。つまり、これまで書いてきたように、経営者は従業員のことを全然信用していません。

 

ということで、通訳を通してワンさんとお話したのですが、その通訳が最低でした。彼も、「能力がなくてもすぐ商売を始めちゃう」という類のひとりだったのです。話は通じない、彼の携帯は話し中に鳴る、携帯をOFFにしろと言っても会社からの連絡だからダメと言う始末。メイは、初めのうちは彼の通訳を通訳していましたが、終いには怒って黙っちゃいました。

 

 

話していくうちにわかったことは、この会社の資本金は、ワンさんが80%、メイが20%と聞いていましたが、ワンさんの資本金のうち30%はオーストラリアに住んでいる友達が出資しているということ。こんな話、面白くも何ともないでしょうがもう少しだけ書かせて下さい。

 

日本で、わたしの友達の会計士に中国の会社について調べてもらっていました。それによりますと、海外の資本金が入る場合は用意しなければいけない資本金の額がすごく大きくなってしまうということ。とうてい我々には出せない額です。オーストラリアからの資本が入っているのに資本金の額が少ないということは、それだけでこの会社は正規のものでないとわかります。

 

ワンさんが通訳まで連れて来てわたしと話し合った目的は、どうやら、わたしに共同経営者になって資本金をだしてもらいたいということのよう。

 

メイに聞いてみたら、「日本人、金持ちだから。でも、ホントのことじゃないよ。ただ資本金、誰がいくら出したか紙に書いてあるだけ。やめた方がいい、受講料の歩合だけもらった方がいいよ。」とのこと。

 

それでわたしは、日本人の特質をいかして「考えておきます。」で話を終了。デタラメな通訳でも、通訳代は高いからワンさんのためにも「早く切り上げた方がイイよ。」と思った訳でした。

 








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2015年11月1日日曜日

ウラジーミル・ナボコフ


ナボコフは大好きな作家です。ミーハーの御多分にもれず、わたしが最初に買った彼の著書は『ロリータ』です。その後、目に着いたナボコフの本を買い続けたと言うところ。彼の作品はあまり日本語に訳されていなかったので、見つけ次第に買いました。

 

その中のひとつが、集英社が出版した『世界の文学―ナボコフ』です。この一冊に二篇の小説が入っています。『キング、クイーンそしてジャック』と『断頭台への招待』です。何時買ったんだろうか。1977年とありました。そのまま読まずに本棚の中という運命だったのですが、最近読みました。まだ『キング、クイーンそしてジャック』の方だけですが。

 

『ロリータ』は、1955年、ナボコフが56歳の時の作です。アメリカで出版することを拒否され、パリで出版しました。そして、この作品で彼は世界中で「有名作家」の仲間入りをしました。映画化もされましたよね(監督はキューブリックのようです)。『キング、クイーンそしてジャック』はそれ以前の、彼が若かった時の著作です。

 

ちなみにナボコフは、ロシアの作家です。1899年に貴族の家庭の第一子として生を受けました。つまり、1917年、ロシア革命でその地を追われた組みです。クリミアからギリシア、マルセイユ、パリ、ロンドンと流れ、ケンブリッジ大学で「フランス文学」を学びました。1922年、父がベルリンでロシア亡命者暗殺の流れ弾に当たり死去した後、彼もまたベルリンに渡ります。

 

この『キング、クイーンそしてジャック』はドイツ語で書かれています。1926年、初の長編小説『マーシェンカ』をベルリンで出版し、『キング、クイーンそしてジャック』は第二作目です。その他のわたしが持っている本は、割合後年に書かれたもののようです。

 

1937年に「ナチスドイツ」を逃れるために家族でフランスに移住しましたが、その後に書かれた物と言うことになります。彼は、まだまだアメリカにも渡り、アメリカの大学で講義などもしています。1945年、アメリカ市民権も獲得しました。と言う事で、彼の作品は、ドイツ語、フランス語、英語、そして母国語であるロシア語でも書かれているのです。ナボコフは、その言語の中でいろいろ格闘したようです。何語で書かれた彼の小説か。言語によってアイデンティティは、影響を受けますからね。そんな内容のナボコフも研究書も一冊所有しておりますが、未だ読まず。

 

 

さて、わたしが購入したナボコフの本はと言いますと、

 

『ロリータ』1977年――1955年にパリで出版されました。

 

『セバスチャンナイトの真実の生涯』1971年と奥付に書かれているが、古本屋で買ったような記憶がある。出版は、1941年アメリカ。

 

『ナボコフの一ダース』1982年。これは「サンリオ文庫」から出ているのだ。それがわたしの自慢です。1958年の作。

 

『ベンドシニスター』1986年。これも「サンリオ文庫」なのである。1947年の作。

 

『ロシアに届かなかった手紙』1981年。短編集ですが、ナボコフで著述する前の「V・シーリン」という筆名で書かれた物のようです。ロシア語で書かれたものを1976年にアメリカで英語に翻訳されて出版されました。彼の死の前年です。

 

『絶望』2013年。ロシア語原典からの初訳です。1936年、ベルリンで出版されました。

 

そして、『世界の文学――ナボコフ』です。

 



 

『キング、クイーンそしてジャック』を読み始めると、「えッ、これほんとにナボコフか。」と思いました。まるで、19世紀の古典文学を読んでいるようだったからです。しかし、途中からは、彼本来の色調になって来ました。

 

貧しい青年が金持ちになった伯父さんを頼って、ベルリンに出てくるのです。キングが伯父さん、クイーンがその妻である伯母さん。そして、青年のジャックです。そんな譬えです。若く美しい伯母さん(34歳)と田舎から出てきた青年の恋(?)。まったく純愛とは言えませんが。結婚に飽きた人妻と性に欲情する青年のお話です。

 

途中から異様な雰囲気になって来たのは、彼独特のリアリズムから離れて行く感じです。伯母さんと青年が伯父さんの殺人計画を立て始めます。その計画が現実と幻想のはざまでグタグタになっていくのが楽しめます。

 

最初の方が19世紀の古典小説のようだとわたしが思ったのは、わたしが全くと言っていいほど古典小説を読んでいないと言う無知から出た感想でした。「訳者あとがき」を読んでわかったことは、ナボコフが古典のパロディを表現していたと言うものでした。

 

こんな風に書かれています。

 

『キング、クイーンそしてジャック』は、男女の三角関係を基本的枠組みとする姦通小説である。文学的にすこぶる高度な達成を見た姦通小説と言えば、『ボヴァリー夫人』と『アンナ・カレーニナ』という、十九世紀後半を代表する二つの偉大な小説がすぐに思い浮かぶが、事実、この小説はその「まえがき」で作者自身が認めているように、これらの二大傑作への賛美の気持ちを籠めて書かれたものだという。

 

そして、とりわけ『ボヴァリー夫人』に賛辞を表わす如く、『ボヴァリー夫人』の中のシーンが、そのままパロディとして使われているようです。その2~3の例も「訳者あとがき」に紹介されていました。

 

 

とにかく、彼の「古典のパロディ」という意図は読み取れませんでしたが、彼のシュールな、そして滑稽な、ドタバタぶりを堪能致しました。

 








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2015年10月29日木曜日

トイレ事情   (上海滞在記 2003-2005)


みなさんは海外でトイレに困ったことありますか。国によってトイレ事情は様々です。インドネシアやマレーシアでは、トイレットペーパーはなくお水で洗うシステムでした。所謂シャワートイレなので清潔ではありますが、そこら中が水浸しのこともあります。

 

最初に上海にやってきた時、驚いたことのひとつはトイレでした。メイが船中泊を含む海水浴への小旅行に連れて行ってくれました。船で上海を流れる川から海に出て、普陀山に向かいます。有名なお寺があるところです。一緒に行ったメイとその友達たちの目的は、そのお寺をお参りすることだったようです。中国人は信心深いのでしょうか。あるいは、日本人が信心深くないのか。つまり観光でお寺参りをするのは、日本人だけじゃないかと思ってしまう事があるからです。メイはわたしには「海水浴に行くよ~。」と言っていたので、彼女たちの真摯な態度のお寺参りには少々面食らいました。

 

わたしは、海水浴です。八月のこと。先ずは船中1泊、そして現地で1泊、帰りの船中で1泊という予定です。夕方に船に乗って朝普陀山に着くというスケジュールで、今回のお話は、その船の中のトイレの事です。

 

 

船は大きくて設備も整っていました。レストランなどもあります。部屋は二段ベッドが2つあり四人部屋でした。彼女たちが(合計七人の旅。女四人、子供三人)言うには「日本人いっしょだから良い部屋とったよ。」ということ。しかし、部屋にはトイレはなく、共同のトイレです。そこに洗面設備もあり朝、顔を洗ったり歯を磨いたりもできます。

 

そして、当然のことながらわたしもトイレに行く場面に遭遇しました。トイレのある部屋のドアを開けました。「ぎゃ~~~、」心の中で叫びました。それぞれの個室のドアが腰の高さまでしかないのです。トイレの個室が並んでいる側のほうが少し高くなっているので、ドアが腰のあたりまでしかなくとも、トイレの順番待ちの人たちには、トイレの中までは見えませんが……。

 

覚悟を決めてドアを開けて中に入りました。溝が1本ありました。その溝をまたいで用を足します。5個ぐらい個室がありましたが、溝はひとつで5個の個室を貫いているのです。もちろん個室と個室を隔てる境の壁も腰ぐらいの高さです。だから前で「用を足している」人は丸見え。そして用を足した「もの」もその溝を順次流れてくると言うわけです。

 

最初に考えたことは、「どちらを向いてしようか?」でした。どちらを見られる方が恥ずかしくないか、です。

 

「そうだ!一番端の個室に入れば一方向しか見られないで済む。注意するのは、一方向だけだ!」

 

そして、顔を見合わせるのはどうも…、とも。わたしには「日本人か中国人か」をあまり判別できないのですが、彼らは判別できる様なのです。トイレの壁を隔てて顔が合うと、こんなところに日本人がいると、目がまん丸になります。

 

そんなトイレでしたが、その溝は水洗で十秒ぐらいごとに水が流れています。だから清潔は清潔です。だからこんな造りで清潔なトイレってどこが作ったんだろうと、ちょっと興味がわきました。辺りを見回したら、「TOTO」と書いてありました。さすがだね~~~。

 

バリ島のトイレも少々問題ありでしたが、(バリの公衆トイレはドアなし。穴だけ。レストランのトイレはビチャビチャ。紙ではなく水で洗うから)トイレに行かないでおこうと思えば行かなくて済みますよね。でも船の中となるとそうはいきません。

 

 

また次の日、普陀山でお寺巡りをした時にトイレに行ったら、個室の間の間仕切りはありましたが、ドアはなし。そしてもちろん間仕切りは腰までの高さです。わたしが、「ドアがな~~~い~~~!」と叫ぶと、メイは、「はい、はい。だれも見ませんよ。上海でも最近までそうだったよ。」と軽くイナサレテしまいました。

 


 

それでもう一つ思い出したこと。

 

メイとはイギリスの英語学校で会ったのですが、先生推薦の「イギリスの伝統料理」を食べさせてくれるレストランに一緒に行った時の事です。もうひとり日本人の若い女の子が一緒に行きたいと言うので三人で行くことになりました。その帰りのこと、三人でバスを待っている時、帰りのバス停を間違えたらしく、いくら待ってもバスが来ません。あたりは真っ暗に(海に面した小さな田舎町でした)。そしてその女の子がトイレに行きたいと。わたしたちは、いつものようにビールを飲んでいましたから。いろいろあたりを探しましたがトイレは見当たらず。そしたらメイが「その辺でしなよ。わたし見張っていてあげるよ。」と。

 

結局、その子は道端でしたらしいのです(わたしはバス停でバスが来るのを見張っている係りだったのでわかりません)。その時わたしは、メイは何て親切な人なのだろうと思ったのでした。でも、上海の経験で、「何だ!彼女はそういう事に馴れていたんだ。」と思い直しました。

 

上海のトイレ事情については、まだまだありますよ、御不快でなかったら。また次回のお話、と言うことにしましょう。







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