2020年4月24日金曜日

Cakes and Ale を読んで










わたしは「古典」と言われているものは、とんと読んでいませんので、サマセット・モームの作品を読んだのもこれが初めてです。多分英語で読んだので最後まで読み通せたのでしょう。「何故か」と聞かれると説明するのは難しいのですが、「小説を読む」という楽しみと共に「英語を学ぶ」という楽しみがあるからでしょう。逆説的に、英文を理解するという難しさから、「読み通せる」と言うことでしょうか。



今回この本から得た英単語は、「shoot the moon」というフレーズです(夜逃げする)。最初どういう意味かわからず英会話の先生に聞いてみましたところ、彼も知りませんでした。つまり、わたしは英語で本を読んでいますが、もちろん全部を理解しているわけではありません。そして、英語を母国語としている人、然りです。考えてみれば、日本語の本を読む場合も書かれていることを全部理解することは至難の業であります。この「shoot the moon」の場合は単なるフレーズですが。





本の筋は理解できました。話の内容は、ある小説家がいて、その人物は「小説家」というにはふさわしくないクラスの出身でした(もちろん昔の話ですから)。



前妻はバーのメイドでした。その彼女は誰とでも寝るような人物なのですが、ある時他の男と駆け落ちしてアメリカに行ってしまいます。その後この小説家は失意のうちに病気になってしまいます。



そして伯爵夫人の庇護を得、彼女がつけてくれた看護婦と再婚します。彼女は、この小説家が亡くなるまで(相当の年の差はあった模様)面倒を見続け、小説家も大成し、彼が亡くなるころにはひとかどの有名人になりました。



そして、「この小説の語り手」と、もうひとりの小説家Mr. Alroy Kearが登場です。「この小説の語り手」は若い時にこの有名になった小説家に会っています。もちろん前妻とも。そしてMr. Alroy Kearの方は、小説家の没後に彼の後妻である御夫人から彼の伝記を書くことを頼まれています。そこでAlroy は、彼と以前会ったことのある「この小説の語り手」に、若い時の彼との出来事を教えてくれるよう頼む・・・と言った筋書きです。



「この小説の語り手」はこの有名になった小説家の作品をあまり評価していません。彼の小説の観照についての記述、そして「語り手」とAlroy の意見の交換は、理解するのに(英語を理解すること)難しいのです。



一方は、彼の小説を評価しないと言う。他方は、とてもいい小説だという。しかし、「この小説の語り手」は彼の小説の中の一冊だけ、唯一評価しています。その小説が、「小説家と前妻」の人生のすべての源泉だったのです。



何故、彼女は他の男と寝るのか。そのことを知っているのか、いないのか、この小説家は沈黙を守ります。何故、沈黙するのか。



最後にその秘密が明らかになります。わたしは、あぁ~~~あ、やっぱり、この「小説というものについての難しい語りの部分」を、もっと理解しとかなきゃいけなかったと思った訳でした。









この本で、とても気に入ったフレーズがあります。



Though I said that affection was the greatest enemy of love, I would never deny that it’s a very good substitute. です。



サマセット・モームは1874年生まれなので、日本で言うと明治時代の初めです。1897年に出版された小説で成功を収めます。一番有名な彼の作品の「月と6ペンス」は1919年、「Cake and Ale」は1930年です。1930年は昭和の初めですね。1965年没です。(ちなみに夏目漱石は1867~1916です。)



つまり時代背景からいくと、まだまだ古い観念をとどめているという事。御婦人は御婦人らしく、殿方は殿方らしく。時代のために人間模様も古いモラルに縛られているように見受けられますが、このフレーズです。それとも、だからこのフレーズなのか。



人は恋愛感情、つまり熱烈なパッションを感じて愛し合い、結婚に至りますが、その状態は決して長続きはしない。それはその愛がaffection へと変化していくからです。Love にとってこの affection は敵としか言いようがありません。



しかし、人はこのaffection を偉大なる代替品として受入れ、結婚生活を維持していかざるを得ません。ですから夫婦の間に確固たるaffection があっても、たまに「love」が主張しはじめる訳です。そして、物語の始まりです。



この時代のご夫人は、夫婦間にaffection があれば、夫の「ほかの女性へのlove」を当然のこととしてあるいは渋々と、受け入れました。今はどうかなあ。当然法治国家としての縛りもある訳ですしねえ。affectionを人間として最大の「美しい物」とみなして受け入れ、loveをその下に置くという解決か・な? loveを追求していけば平穏な暮らしは望めそうにもありませんからね。






2020年4月2日木曜日

「インドの時代」―― 中島岳志氏著










中国・インドの台頭は素晴らしい。インドの事は全くと言っていいほど知らないので、わたしもちょっとインドの「知識」も入れといた方がいいかなと、読んでみました。少々、古い本ですが、中島岳志さんが書いているので、手に取ってみた訳です。





初期の目的と離れて―――インドの現在の状況ではなく、「ホーッ」と思ったことが三つあります。








「使い捨て商品は<捨てさせるためのデザイン>によって装飾されている。」



インド政府はインドの衛生事情が悪いという悪評を払拭すべく、衛生プロジェクトを進行中とのこと。これが紙製品・プラスティック製品・ビニール製品などの使い捨て商品の大量生産・大量消費という形で表れた。



このことからインド13億人の民が使い捨て製品を使うとどうなるかという議論に進んでいくべきではあるが、わたしが驚いたのは「そうか、使い捨て製品には使い捨てさせる為のデザインが必要だったのね。」ということ。



あまりにも綺麗なデザインでは誰も捨てたりしませんね。必然的に凡庸で画一的でチープっぽいもの。人が破棄しても罪悪感を抱かない物であるべきなのです。その指摘に、うなってしまいました。



「<浄・不浄>の概念と<清潔・不潔>の概念」



インドには外部からもたらされた「清潔・不潔」の認識以前に「浄・不浄」の観念が存在していたという事。この2種類の概念は必ずしも一致しない。例えば近代的衛生概念では「不潔」であるガンジス川の水は伝統的には「浄」である。



洗剤できれいに洗った「清潔」なコップはもしそれがカーストの低い他人が使ったものであったら「不浄」である。この二律背反にもうなってしまった。もちろん近年、都市生活者中間層では事情は段々変わりつつあるようだが、まだまだ多くの人が口をつけるコップ等は「浄・不浄」の感覚から抜けきらないところもあり、紙コップなどの大量生産・大量消費に結びついているよう。



もうひとつ、どこまで伝統を守るべきかというテーマもありますね。伝統を大切にする日本もご同様に。



ヒンドゥー・ナショナリズムの運動」



都市の中間層はこのヒンドゥー・ナショナリズムによって自らのアイデンティティを確立しようとしているようで、アカデミー賞受賞の「スラムドッグ・ミリオネア」にも描かれていたようにイスラム教徒が迫害を受けていますね。



そのイスラム教徒は、カースト制の下部の人たちが、「ヒンドゥー教では一生階級制度に翻弄される。」と言う事で、改宗する人々でもあるとか。二重の迫害ですね。そこでこの本の著者が提示しているのが「多一論」です。



多一論:真理は絶対的で唯一のものであるが、地球世界におけるその現れ方は各宗教によってそれぞれ異なる。相対世界に現れた「多なる宗教」は「一なる真理」へと誘う確かな道である。



つまり、この世の中には色々な神がいますが、名前が違うだけで全部同じ神なのですよということ。それぞれの信じる神の教え・真理を学んでいけば同じ唯一の真理にたどり着く。ですから、真理に近づく過程は違ってもお互いその差異に寛容になり、共通の真理に辿り着くべく精進しよう・・・ということです。



これは、単に「宗教」についての議論ではなく「絶対真理」に関する哲学的考察ですね。





以上、三つの関心事でした。






2020年3月22日日曜日

コマーシャルから。。。







ポテトチップスのコマーシャルで、若い女性が、カメラ目線で、指をナメナメ、美味しいと、いう感じは、どうなんでしょうねえ?

なんか、男性目線を感じるは。

丸亀製麵のような、潔い女性を見せて欲しい。

キャットフードフードのコマーシャルで、男性がプロポーズをしているのに、女性が猫の餌を与える方を優先するコマーシャルでも、なにか、女性が、猫を愛おしいと思う視点と、男性が女性を愛おしいとする目線が同じで、気分が悪い。



わたしも読書しなければねぇ~






先日、別役実さんがお亡くなりになりました。訃報が新聞の一面に掲載されたのは流石です。

別役実さんは、わたしの好きな作家の一人です。青春の思い出でもあります。新聞に訃報が載ったあと、2~3の追悼コメントが出ました。それらを読みながら、「そうだ、そうだ。」と、わたしも一緒に追悼いたしました。

彼の本を5~6冊持っています。そのひとつに『数字で書かれた物語』があります。本屋さんで、ブラブラと本を眺めておりましたところ、数学の専門書コーナーで見つけました。

わたしは、内心、店員さんが間違えたんだあ~、と思いました。後に別役実さんが、「わたしが本屋さんに頼んでいろいろな場所に自著を置いてもらっているのです。」と書いておられるのを見ました。

「思わぬところに思わぬものが置いてある」という日常性を壊されたショックでしょうか?そう言えば、『虫づくし』という本も文学書ではない棚に置いてありましたねえ。






そして、わたしってこの頃本を全くと言っていいほど読んでないなあ~と、自覚したわけです。理由は、関心が囲碁の方へ向いてしまうから。読書から得られる「豊潤な世界」を横目に―――。

両方を得ることは出来ないものでしょうか。。。





2020年3月15日日曜日

『存在と時間』…ロマンを感じるわ~~~、









ハイデッガーの「存在と時間」を文化教室で学んでいると以前書きました。





わたしが学んだ限りにおいては、ハイデッガーのキーワードは「道具」と「配慮」らしい。「道具」と日本語で言うというと紛らわしいが、存在者(人ではなく物)・・・人を取り巻くものを道具と言っているようだ。現存在(人)が道具の存在を問う事により、現存在の存在を浮かび上がらせる。それが「配慮」ということ。



例えば、インクで書かれた三角形を見る時、我々はインクを見はしない。書かれた三角形を見る。だから、道具としてのインクが現存在によって配慮されることにより、三角形が浮かび上がり、またそのことにより、それを見ている現存在の存在も浮かび上がる。



もちろん、道具を見るということは単純に見るという行為ではなく、現象学的に見るという事なのだが、単純なわたしは先生のこの説明でいつも「道具はすべて完全に理解しつくされているのか」と思ってしまう。「理解できない道具は存在しないという事なのか」と。



つまり、現象学的に見ると、道具はそれ一つでは存在しない。一つの道具が違う道具との関連で解釈され、またその違う道具もまた違う道具との関連で解釈される。



これは永遠に起こりうる事で、そして、それが、世界が解釈されるという事。しかしまた、道具一つ一つはその関連によって小さいところから大きいところへと順次解釈されるのではなく、始めからひと塊として存在しているのであり、単純に一個体ずつ存在している訳ではない。



またここで、人間の現存在がその一つ一つの有用性を配慮することによって、道具・世界の存在が浮き彫りにされているということだ。



ここでまた、単純なわたしは考える。道具はその有用性によって世界と繋がっている、または世界に存在している。ならば、道具の有用性を間違える時、その存在性はどうなるのか。



例えば、インクが机の上にある。インクは机に置かれるという事で両者は繋がっている。また、その机は部屋にある。机と部屋はつながる。また部屋はどこかの建物の中にあらねばならない。部屋とビルディングの関連性。



そしてビルディングはどこかに建っている。永久に続きそうなこの関連性の中で、一カ所間違えたとしたらどうなるのか。



例えば、どこかの社会では机は部屋に置くものでなく海辺に置くものであったのなら。我々は、この一つの間違いで、まったく別の違った世界に導かれるのか。あるいは、インクは書くものでなく、花に与えるものであると誰かが配慮して、皆がその方向に進んだら。我々はまた別の世界を作り上げてしまうのか。



わたしの考えは、きっとハイデッガーには関係ないところに存在しているのだろう。たぶん、SFの世界。



先生に質問していいものかと・・・思うところである。









2020年2月28日金曜日

コマーシャルから。。。

学問を将来の経済活動とリンクするのは、どうかな?

それは、技術と呼ぶんじゃないの?

なんとか塾さん。

『動物が幸せを感じるとき』という題名は誤解を生むかも///









『動物が幸せを感じるとき』という題名。原題は『Animals Make Us Human』。ずいぶん違う題名のように思われます。



訳者は「あとがき」で次のように説明しています。



「グランディン(著者はTemple Grandin)が本書で訴えたいのは、私たちは、動物のおかげで人間として生きているのだから、動物に幸せな暮らしをさせる責任があり、どうすればその責任を果たせるかということです。原題には、動物に対する感謝の気持ちがこめられているのではないでしょうか。」



しかし、『動物が幸せを感じる時』という題名を見る時、わたしは単純に「動物はどんな時に幸せを感じるのかな~。」とか、「動物に幸福感を抱かせるにはどのようにするのが正しいのかなあ~。」とかの興味が湧いてしまいます。 



そんな興味でこの本を読むと、がっかりします。著者はなんでこんな題名を付けたのかと。しかし、よく考えてみると、この題名は著者が付けたのではなかった。著者は、『Animals Make Us Human』という題を付けたのでした。この題名は訳者の陰謀か出版社の陰謀です。



わたしは、動物自体にはあまり興味はありませんが、人間が絡んでくると話は別です。子供の頃に犬を飼いたくて、『犬を飼う知恵』という本を買って読みました。そうして相当な世話をしなければ犬は幸せにならないのだと理解して、犬を飼う事は断念しました。わたしには、自分の時間を割いて動物を世話すると言う「奉仕」の心がない模様。










著者は自閉症でした。成長して動物学者になったという経歴です。この本は彼女の二冊目の本らしく、両者とも全米ベストセラーになっています(もう一冊は『動物感覚』)。自閉症だったことから、自分の意志がわかってもらえない経験で、もの言えぬ動物の内面を推し測ることができるとか。



人間に飼われている動物がいかに不当な扱いをされているかを指摘し、そして人間が動物を飼う事をやめることができないのなら、動物の暮らす環境を少しでも向上させようというのが、彼女の意図のようです。



彼女は動物園などの環境整備のための仕事をしていますが、同時に精肉業界のためにも働いています。なぜ、そのような精肉業界の利益の為に働くのかと、動物擁護の団体によく批難されるそうです。しかし、彼女は業界で働く先進的な管理者、あるいは敬意と愛情を持って牛や豚などに接する作業員を見て、人々に肉食をやめるように説得する側でなく、業界を改善する側に従事しようと思ったのです。



「わたしは長年の間じっくり考えて、食料にされる動物と人間との関係は共生にちがいないという結論に至った。共生とは、ふたつの生物のあいだで相互に恩恵がある関係だ。人間は動物に餌と棲みかを与えそのお返しに、繁殖牛が生んだ子牛のほとんどを食料とする。」



著者が「あとがき」で述べている文章です。



本当にそうだろうか。自らが食べられるまでの間、餌と棲みかを与えられて、動物はありがたいと思うのか。成長する前に食べられてしまう命を与えられて、それが幸せなのか。典型的な功利主義かなと思う。幸せの量を計算し、より多くのものが幸せと感じる方を選ぶ。大多数の幸せのために、少数の不幸を考慮しないという事。もちろん、わたしも肉は食べる。しかし、動物との共生関係などとは考えない。我々はただ殺生しているのみだ。どちらが正しいのかはわからないが、「殺す」言い訳にはしたくないと思います。





「人と動物の共生」などとは、とても言えないよ~~~。





「人間」を神が作りたもうたこの世で最高の特別な存在とする文化と、アジアやアフリカ南米などの自然を畏怖する(アニミズム)文化の違いかなと思いました。とは言え、この本全体を通して批難しているのではなく、興味深く読みました。(ところどころ「???」という所はあるものの)。







内容は、



動物の幸せ





野生の動物

動物園







ニワトリ



という章立てになっています。



それぞれの章で、ふ~~~ん、なるほどと思う個所があります。特に「牛・豚・ニワトリ」の章は、「食べられるために飼育されている動物」ですから、その取り扱われ方に心苦しさを感じます。ニワトリの扱いは哺乳類でないため特にひどいのかも。



日本のことは知りませんが、この本によるとアメリカの精肉業界には「福祉監査」という制度があるようです。動物が適切に扱われているか監査するわけですね。著者もマクドナルド社に監査を頼まれて初めて出向いた時は、「ワァッー」と言うほどひどい環境だったと書いています。それでも、マクドナルドのような大手の会社が、取引先の監査を依頼すると、精肉業者は取引を打ち切られないように努力するので、環境が大幅に前進するとの事です。



ニワトリの場合はその生活環境という前に、直接身体的な苦痛を味合わされます。著者はそのことを三点指摘しています。



作業員の乱暴な扱い。業界の悪い習慣。粗悪な遺伝形質です。作業員たちが自分たちのレクレーションのためにニワトリを物のように投げ合ったりしている様子は、ユーチューブなどにも流れました。業界の悪い習慣とは、ひとことで言ってしまえば、作業の効率化や設備投資の経費節減のために起る粗悪な環境という事でしょうか。最後の遺伝子形質については、ほんとに、う~~~ん、と唸ってしまいました。



育種業者は最も生産性の高い(たくさん卵を生み成長もはやく体重も多い)遺伝子を選んでそればかり繁殖させるので、極端な選択による悪い結果が現れてきます。例えば、卵をたくさん産むように操作された雌鶏は自分自身のカルシウムを減らすので骨折が多くなります。



早く成長するように品種改良されたブロイラーは、骨が充分形成される前にどんどん成長するので、骨の形状に問題が起こり、生まれながらの奇形となります。ニワトリの餌には痛み止めの薬が処方されているようで、この餌を好んで食べるものも見られるといいます。



また、胸肉を大きくするように遺伝子操作されたオスは、巨大な胸がじゃまをして自然な交尾ができなくなる傾向にあります。七面鳥の場合は、すでにメスは人工授精を受けなければいけない状況です。豚の場合も、より大きくという選択で、体重を支えきれず脚の骨折が頻繁に起っているようです。「脚を引きずって歩く姿が多くみられる」と書かれていました。



ほんとに、人間はどこまで突き進んで行くのかなあと感じてしまいますね。著者のスタンスは、「人間は農場の動物を繁殖させ飼育しているのだから、動物が相応な生活をし、痛みのない死を迎えさせる責任を負っている。動物が生きているあいだは、物質面と精神面の欲求を満たしてやるべきだ。」というものです。



これは、「処理工場の設計をしているのに、よく動物のことを心配できますね。」としょっちゅう聞かれることに対する彼女の答えです。この辺のことは、少々判りかねるところもありますが、ともかく、彼女のおかげで動物たちの環境が向上していることは確かです。





動物に関係ない事柄に関しても、興味深い所は多々ありました。原題と日本語の題名が違う事で、著者に文句を言う訳にはいきません。その違いに翻弄されないように内容自体を読みましょう。わたしは、誤解して著者に怒りを感じちゃったので。反省します。