2014年11月26日水曜日

「終活」を考える


先日ラジオを聞いていましたところ、パーソナリティは津田大介さんでした。ジャーナリストの金髪の津田さんです。特にIT産業関連のエクスパートのようです。その時は、「終活」について話しておられました。

 

「終活」とは、人生最後の身辺整理のことです。津田さんは特にSNSのサイトを死後どのように処理するかという事について述べていました。死後も自分の書いた文章はあるいはフォト、その他諸々のものが残っていたら個人情報という観点から問題があるのではと。また、自分だけの問題ではなく、本人に関連した人々の情報もネット上に漂い続けると。アンカーの藤井さんも、父親が弁護士だとかで、依頼人の情報がネット上に留まっている事になると……、「そんなことになったら大変ですね~。」と、同感していました。

 

津田さんも言っておられましたが、わたしも新聞などで読みました。ヤフーなどSNS系サイトでは、契約をしておけば死後に本人のサイトを消去してくれるところもあると。津田さんの上げた例では、ヤフーは本人が死ぬ前に自分の葬儀などの手順を葬儀屋にあらかじめ契約しておく。すると、本人が亡くなった時に、その葬儀屋さんからヤフーに連絡が行きヤフーがそのサイトを消去するというシステムになっています。

 

お話はごもっともなんですがね~~~、わたしは、常々違う事を考えておりました。考古学についてです。あるいは、古書の研究などについて。今までは、土を掘ったり、古文書を研究したりでしたが、これからは、ネットを「掘る」時代が来るんだろうなあと。

 
 
 

 

最近、見かけた新聞記事があります。ひとつは、「『まめだ』直筆原稿発見」です。『まめだ』という落語の出しものは、人間国宝の落語家桂米朝さんが1968年に初演し、昭和生まれの古典落語となりました。作家の故三田純市書いたと言われていましたが、長らく行方がわからなくなっていたそうです。今回、原稿が見つかった事で、米朝さんの高座がどんな意味を持つのかという事がより一層明らかになり、それが貴重な資料となったわけです。

 

これは原稿としてあったペーパーが失われて、今回出て来たということです。もし、これがネット上にあって、死後消去されたのであったなら、貴重な資料が……と思うのです。もちろん、この原稿は私文ではなく、公にされたものでありますから、もし、消去されたとしても、どこか他の所で生き延びているかもしれませんが。

 

それでは、もうひとつの記事はいかがでしょうか。「谷崎、『何卒お側に』妻に忠誓う――愛つづる288通発見」。作家の谷崎潤一郎が妻「松子」や妹らと交わした未公開の手紙288通が見つかったということです。谷崎と松子が出会った1927年から晩年までの36年間にわたる書簡です。東京都内に住む谷崎の遺族が保管していました。内容は、谷崎が、3番目の妻となる松子に送った結婚誓約書など二人の激しい恋愛模様を伝えるものです。これこそ、本人にとっては、消去してもらいたかったものでしょう。それがやはり谷崎の世界観を研究するに貴重な資料となるのです。早稲田大学の千葉俊二教授は、「『細雪』や『春琴抄』だけでなく、晩年の作品全体の読み直しが必要になる」と語っています。

 

つまり、「終活」で貴重な文化的財産が消滅してしまうこともあるかもと。その他、作家自身が、死後には廃棄するようにと家族に依頼したものを家族が残しておき、貴重な資料になったという例もあります。カフカも作品は全部焼き捨てるようにと遺言して死んだんじゃなかったっけ……。また、サリンジャーのスキャンダラスな手紙も、過去、オークションで高値を付けていましたね。

 

自分では、失敗作で恥しい作品も家族やら親族やらが、死後保管して大金に変えているんだ。なんて言う事は、話題が段々ズレてきましたねえ。ちょっと、興奮してしまいました。

 

とにかく、やたら消去しないで、未来のネット探索者の手に委ねようじゃあないですかあ。







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2014年11月23日日曜日

水中都市構想


英語クラスの「トピック紹介篇」は失敗しました。クラスの3人が、それぞれトピックを持ち寄って話し合うというコンセプトでした。わたしは、プライベート・レッスンではないので、あまり、自分の関心事ONLYではいけないと、いろいろ悩んで、考え抜いて持っていったのですが……。

 

わたしのトピックは、先回UPした、「男らしさ・男の社会的役割」です。わたしは、世間で、女性の社会進出・女性の活力を生かそう等などと言われている折、全くの「普通の話題」と思っていたのですが、全然受けが悪かった。つまり、男の役割・女の役割と日本社会で一般的に言われている事を、皆さん当然の如く受け入れていたのです。「それ何?」、「それがどうしたの?」ってな感じでした。

 



 

それで次回はどうしましょうかね~~~。「女性の社会参画問題」も思想的な事になるんだったらどうしようかと悩んだ末、面白いものが良いだろうかと考えました。前述した、男の役割の問題でも、高校生が男女で制服を交換するセックスチェンジ・デイを紹介した時が唯一受けた時だったからです。

 

最近おもしろかったニュースを探ってみると…、「水中都市」なんていいかなって。清水建設がこの18日に、水中都市を建設するという構想を発表したのです。水深3~4千メートルの海底からそそりたつ未来都市です。海底とはスパイラルな建築物で海上とつながる構想です。約5000人が暮らし、海水の温度差で発電をするとか海底の微生物でメタンガスを発生し、燃料とするとかして独立性の高い都市となります。2030年に実現する予定とか。そんな先の話ではありませんよね。

 

「オーシャンスパイラル」と名付けられた都市は、海面から500メートルの所に建てられた水球上の都市から下向きにらせん状に通路が海底までのび、その海底には、メタンガス製造のなどの工場群が置かれます。そして、途中のスパイラル部分に発電所や海底調査の基地が置かれます。水球の中心が住居やホテルとなります。いかがですか。魅力的ですか。

 

清水建設は、海底は地震などの災害の影響を受けにくいことと、地球温暖化で海面から沈みつつある島などの助けになると踏んでいます。つまり、そんなところに営業を掛けると言うことですかね。また、コンクリートのかわりに樹脂を使い3Dプリンターで製造すると言っていますよ。技術の最先端を駆使するんですね。

 

 

そこで、これに関係しブログを発見しました。海外の人に「オーシャンスパイラル」について、リサーチを掛けているのです。以下の解答はすべてそこからの引用です。興味深いものだけ拾ってみました。

 

★5千人の人が海底に暮らすっていうのがいまいち理解できないな。確かにこれは技術革新だし、進歩と思うけど、それ以上の意味は見出せない。

 

★怪しい話に聞こえる。

 

★こんなものが実際に建設されるのは馬鹿げている。

 

★水素自動車という史上最も馬鹿げて物を持ち込んだ日本人のアイディアだものな。驚きはしないよ。

 

★僕は地上でハッピーです。

 

★月に住むよりはましだろうね。

 

★宇宙人が人類に気付かれることなく、数100年前から海底都市を作り続けている。

 

★良い考えだけど、安全性に疑問が残るね。

 

★テロはどうする。

 

★月とか火星に住むよりは実用的だね。コストもずっと安いだろうし、水も大量にあって、美味しい魚も食べられる。

 

★これにはバッドエンディングしか思い浮かばない。魚雷で攻撃できるだろうし、そうしたらみんな溺れちゃうね。考えは好きだけど、怖すぎる。

 

等などでした。

 

 

わたしは、安部公房の『水中都市・デンドロカカリヤ』を思い出しました。もういちど読み返してみようかな~~~。

 








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2014年11月18日火曜日

(女)男が生きる―――らしさって?



新聞記事のタイトルです。二日連続の特集でした。一日目は、トランスジェンダーに関しての記事、二日目は、「社会における男」の役割です。トランスジェンダーのトピックは前回書きましたが、少々複雑で重たかったので、英語クラスのトピックとしては、二日目の「男の役割」の方を選びソフトに書いてみました。

 

「男らしさ」と同時に「女らしさ」も存在しますが、「男としての成功像」を生きること、あるいは社会が求める男を演じる方が女性の場合より、よりタフなようで、男性の自殺死亡率の方が多い傾向にあります。(しかし、先進国で比べると、日本の女性の自殺率が高いのは特殊な部類に入るらしい。その他の先進国に比べ日本の女性に対する抑圧は高いとも言えるだろう。)

 

英国では、20歳から49歳の男性の主な死亡原因は自殺が占め、癌や交通事故を上回ります。そして先進国では、男性の自殺率は女性に比べ3~4倍になっています。

 

ネットからの引用:

 

「男性に自殺が多い:これもまったくその通りで,ほとんどの国で男性の方が女性よりも自殺率が高い。日本でも男性の自殺者は女性の2.5倍である。現在のように中高年の男性自殺者が急増する前(例えば1997年)はだいたい2倍だった。男性が女性の2倍というのは世界的に見ると小さな数字だ。先進国ではやや特殊な部類に入る。米国では男は女の4.2倍,英国は3.6倍だ。日本では女性の比率が高いことがわかる。実際,WHOが把握している99カ国の自殺率を男女別に比較すると,日本は男性では世界12位,女性では5位になる。日本でも男性の方が自殺者は多いが,日本は女性の自殺率が高い国といえる。」

 
 
 
 

 

それでは、男は、どんな「男らしさ」を社会から強要されているのでしょうか。

 

1.中高年男性のセミナーの場合

 

オランダ生まれの作家レオ・レオニ作の絵本『ひとあし・ふたあし』という本を読み聞かせます。

 

動物の大きさを測る冒険を続ける小さな尺取り虫は、最後に鳥から「わたしのうたをはかってごらん」と言われます。出来なければ食べてしまうと。それで、尺取り虫はどうするのかという答えをセミナー参加者に問います。

 

中高年男性参加者の答えは、「仲間を集めて知恵を絞る」、「歌を採点する」など。どう解決するかを考えます。しかし、絵本の答えは、「逃げる」でした。「理不尽なことがあっても立ち向かう。逃げる発想なんてなかった。」と社内のトラブルの責任を問われて47歳で辞表をだした男性が述べていました。

 

2.高齢男性者向きの料理教室にて

 

最高年齢者は89歳の男性は、一昨年妻に先立たれました。一人で暮らし始めると、普段の生活がスムーズにいかない。妻が、「料理や掃除は大変だ。」と言っていたのを思い返した。女として当り前と思っていたが、稼ぐこと以外しなかった自分を思い、頼っていたのは自分であったと思い至る。そして、生活面で自立してこなかった自分に向き合うのです。

 

 

「男性が稼ぎ女性は家事」という枠組みは、近代以降の産業化で作られたもの。家族を養う責任を男性が担うと同時に、「男性優位な」労働市場が出来上がったのです。しかし、経済の成長が行き詰った時、男性がひとりで家族を養う事が難しくなった。つまり「男らしさ」を維持し続けることが難しくなってきているのです。しかし、未だに男性は男性中心の家族観や男女観から抜けきらないという実情。その矛盾の中で心を病む人々の問題がクローズ・アップされてきています。

 

 

3.制服を交換

 

男女の制服を交換し、最も身近な「らしさ」から離れてみる試み。山梨県の高校において、今月11日に催されたセクスチェンジ・デー(sex---exchange)。男子生徒・女子生徒の希望者がお互いの制服を交換しました。

 

制服交換に参加した3年生の男子生徒は、

「高校生の僕に男らしさがプレシャーになることはありませんが、小さい時に『男の子だから泣かないの』と言われたことを思い出す。社会に出たり家族を持ったら稼ぐことや家族を養う事に責任を強く感じるようになるかもしれない。大人になって、『らしさ』のプレシャーにとらわれてしまう時こそ、今日の体験が役に立つだろう。」と語りました。

 

 

 

他者から期待されたり、自分で規制したりし、自分が何かの役割を演じていると気付く事が大切です。一日目の「トランスジェンダー」の問題にも関連し、ヒトは決して「男と女の2種類」しかない訳ではない。男・女に関係なく、何事からも自由な心を目指していきたいものです。







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2014年11月16日日曜日

「男として生きる」・・・…とは。


英語のREADINGのクラスが月1回あります。生徒3人とイギリス人の先生を囲んで「なんちゃらかんちゃら」とお話しする会です。その中の一人が(もう10数年来の英会話友達なんですけど)、月にもう1回クラスを持ちたいと我々に持ちかけました。READINGは、本を読むのが大変だから小トピックを持ち合って、ただ話すだけのクラスはいかが、とのこと。それで、とりあえず試してみようということになり、来週集まります。

 

3人でひとつずつトピックを持ち寄ります。まあ、ひとり20分の持ち時間という事で、話題の説明ですね。何を持って行こうかな~って、思うこの頃です。で、READINGの時、度々「男と女は違うから」と発言する人がいて、わたしはいつも「なんなんや」と聞いていたのでそのことにしようかなと思いつきました。というのは、わたしはナチュラル・ボーン・フェミニストを自認してますから。でも、最初から討論をしようなんて気はありませんよ。この手の討論は不毛に終わることが多いので。経験上そう思います。よって、ソフトに話題を提供するだけです。ちょっと、笑いも入れといてなんて。

 

最近、おもしろい新聞記事を見つけました。「(女)男が生きる――らしさって?」という題です。2日間連載の記事でした。一日目は、「性別が『自分』を奪った」という副題で、性が身体と心で一致していない人、あるいは同性に愛を感じる人の話でした。そういう人たちにとって「男らしさ・女らしさ」はどういう意味を持つのでしょうか。

 

例として取り上げられていたのは、心は男なのに女の身体を持って生まれた人の話でした。その人は吐瀉物をのどに詰まらせて21歳で亡くなったそうです。不安定な状況で、薬物の異常摂取の結果です。「死んでもいい」と思っていたとも。

 

性同一性障害に生まれて、高校2年生で男性の制服を着られるサポート校に転校しました。それから、男性ホルモンの投与を受け、その後、3回の手術を経て男の体を手に入れます。戸籍上の性別も男性に変更しました。

 

彼のブログにこう書かれていました。

 

「自分らしくの前に、男/女らしくにこだわってしまう。性別なんて……そう言っている当事者が一番性別のことを気にしている……。」

 

つまり、「ふつう」に生きたかったのに女の身体を持ったゆえに「女らしさ」を強要され、それに反発して「男らしさ」を普通以上に求めて苦しんだ、ということです。どこまで行っても「ありのまま」を手に入れることができないのです。男の体を持った心は女の人は、「女でありたくて」より「女らしく」振舞う努力をする。その反対もまた然りのようです。

 

アマルティア・センの『アイデンティティと暴力』を思い出しました。人は一つのアイデンティティで生きているのではないと。一人の人間の中にいろいろなアイデンティティが存在している。その中の一つだけを取り出して、議論することはナンセンスと思いますよね。

 
 
 
 

もうひとつ思い出しました。映画Boys Don’t Cry. です。女の身体で男の心を持った少女の話です。アメリカの田舎町ではホモセクシャルなんて、犯罪ですから、彼女は常に男の子の服装をし、ばれないように男の子のように振舞っていました。好きな女の子もいて、彼女とのセックスも男としてうまく振舞っています。しかし、だからといって、彼女は純真な心を持っている訳ではない。好きな女の子がいるけど浮気もいっぱいしているような人物です。そして、男の子が好んでするような度胸試しのような悪さにも積極的に係わっていきます。走っている車の屋根にどれだけ長くしがみついていられるかのような。

 

調べてみましたら、これは実話のようです。ここでも、自分を生きられない悲劇が描かれています。わたしは、泣きましたね~~~。しばらくは、この映画を思いださないようにしていました。泣けちゃうから。以下は、ウィキペディアからの引用です。話の筋を知りたくない方は読まないでください。

 

 

Brandon Teena is a young female-to-male non-operative transgender man, whose birth name was Teena Ray Brandon. When Brandon is discovered to be anatomically female by the brother of a former girlfriend, he becomes the target of physical threats. Not long after, he is involved in a bar fight and is evicted from his cousin's trailer. Brandon moves to Falls City, Nebraska, where he cultivates friendships with ex-convicts John Lotter (Peter Sarsgaard) and Tom Nissen (Brendan Sexton III), and their friends Candace (Alicia Goranson) and Lana Tisdel (Chloë Sevigny). Brandon becomes romantically involved with Lana, who is unaware of his biological sex and troubled past. The two make plans to move to Memphis, where Brandon will manage Lana in a karaoke career.

Brandon is detained for charges that arose prior to his relocation and placed in the women's section of the Falls City prison. Lana bails Brandon out. After Lana asks why Brandon was in a women's prison, Brandon lies to her, saying he was born a hermaphrodite and will soon receive a sex change. Lana declares her love for Brandon, "no matter what he is." Tom and John become suspicious after they read a newspaper article about Brandon that refers to him by his birth name, Teena Brandon. Tom and John force Brandon to remove his pants, revealing his genitals. They try to make Lana look, but she shields her eyes and turns away. After this confrontation Tom and John drag Brandon into Lotter's car and drive out to an isolated location, where they violently beat and rape him. Afterward, they take Brandon to Nissen's house. Though injured, Brandon escapes through a bathroom window. Having been threatened by his assailants and told not to report the attack to the police, a distressed Brandon is nonetheless convinced by Lana to file a report.

One evening, John and Tom get drunk, and decide to kill Brandon. Despite Lana's attempts to stop them, John and Tom drive to Candace's remote house where they find Brandon, who has been hiding in a shed on Candace's property. John shoots Brandon under the chin, and Tom shoots Candace in the head while Lana fights them and screams for them to stop. Tom stabs Brandon's lifeless body and then he attempts to shoot Lana, but is stopped by John. John and Tom flee the scene, while Lana lies with Brandon's dead body.

The next morning, Lana wakes up on Brandon's dead body. Her mother arrives and takes an emotionally wrenched Lana away from the scene. The film ends with Lana leaving Falls City while a letter Brandon wrote to her is read in a voice-over.

 

 
英語クラスのトピックとしては重すぎましたね。違う話題を考え直します。
 

二日目の副題は「『逃げる』を選べぬ夫」でした。このお話はまたの機会に。






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2014年11月13日木曜日

第1稿 「はじめに」


わたしの基本的興味は、「この世界がどうして今あるように存在しているのか」ということです。なぜ、宇宙はこのようあるのか。地球上の生命はなぜこのような状態で存在しているのか。人間はなぜこのような社会を形成し地球上に生きているのか。わたしは、もちろん科学者ではありませんので、自分で理論を構築する力はありません。それでも、わたしなりの感想は書けるだろうと、本の感想文を書くことにしました。それこそわたしの理解の範疇ではないかもしれませんが、「宇宙のはじまり」に関しての考察を、いろいろな本を参考にして、わたしが書きたい事の「はじめに」にしたいと思います。

 

 

わたしたちの宇宙は、約137億年前に生まれました。約138億年という説もありますが、ほとんどの人にとって、大した問題ではないと確信いたしております。物質も空間も時間もない「無」の状態でごく小さな宇宙が生まれたり消えたりをこれまで繰り返していましたが、その一つがなんらかの理由で消えずに残ったと言われています。これも一つの説ですが。スティーヴン・ホーキングは、この宇宙が始まる以前に16~7次元に折りたたまれていたものが、ある瞬間に開いたため、宇宙が無から生まれたように見えると言っています。

 

誕生直後の宇宙は10のマイナス35乗メートル。その宇宙が、10の36乗分の1秒の瞬間に膨張し、宇宙は3ミリメートルとなります。この瞬間のインフレーションの膨大なエネルギーが熱に変化して、ビッグ・バンが引き起こされました。インフレーションの原動力になったのは、「右巻きニュートリノの超対称性パートナー」かもしれない……と、村山斉氏は言っています(『宇宙になぜ我々が存在するのか』)。ガモフがビッグ・バンの名残りである「宇宙背景放射」の存在を予言していましたが、1964年にはそれが発見され、1970年には、「ビッグ・バンが起こったという説」が広く認められました。

 

ビッグ・バンにより、大量の素粒子が生みだされます。それは、ビッグ・バンの瞬間から3分間で起りました。3分間で宇宙を構成する総ての物質の基となる素粒子が生まれたのです。素粒子には、粒子と反粒子が存在しますが、この二つがぶつかると消滅します。南部陽一郎氏によりますと、粒子よりも反粒子の方が10億個に1個ほど少なかった。そこで、反粒子はすべて消滅し、残った粒子が現在の宇宙の物質の素になったということです(自発的対称性の破れの発想)。

 

宇宙誕生の3分後までに、陽子2個と中性子2個がくっつきヘリウムの原子核ができます。では、陽子と中性子はいつできたのでしょうか。コンピュータのシミュレーションによりますと、陽子や中性子は2兆度で溶けます。よって、宇宙の温度が2兆度以下になった時に陽子と中性子が存在可能になると言うことです。それは、宇宙誕生から5万分の1秒後となります。ついでながら、2000年からの米国での実験では、4兆度に達した時、陽子と中性子が溶け、クォークが現われました。

 

さて、ヘリウムの原子核ができたのは、宇宙の温度が10億度の時でした。それからも宇宙は膨張を続け、38万年後に約3千度まで冷えます。この時までに生まれた原子核の92%が水素原子核、8%がヘリウム原子核、プラスわずかなリチウム原子核です。つまりこれまでの過程をまとめると、クォークが強い力で閉じ込められて陽子や中性子となる。そしてそれがくっつき合い、ヘリウムの原子核や水素原子核となりました。

 

宇宙の膨張のために宇宙の温度が下がっていきます。温度が高い間は電子が飛び回っているので、光(PHOTON)は電子にぶつかってまっすぐに進めません。温度が3000度まで下がると、水素の原子核の周りに電子が捉えられるようになります。宇宙が100億キロメートルくらいになった時です。つまり元素として安定しました。ビッグ・バンによって生みだされた素粒子が元素として安定した結果、光が直進できるようになりました。「宇宙の晴れあがり(Transparent to radiation)」と呼ばれています。宇宙誕生から38万年後のことでした。つまり、我々が光を捉えることができるようになって、宇宙を見ることができるようになったということ。「宇宙が晴れ渡った」のです。この時、宇宙の大きさは1000万年光年でした。これ以降の現象を我々は38万年後から来る光を観察することによって研究できます。言い換えれば、宇宙の誕生から38万年後の間の事象を我々は観察することができないと言うことです。それ以前の宇宙を見るには、光以外の何かを利用しなければなりません。

 

宇宙の誕生後10億年しないくらいの間に、最初の恒星が輝き出しました。大雑把に言いますと、クォークが強い力で閉じ込められて陽子や中性子となる…、中性子はすべてヘリウムの原子核に取り組まれる…、原子核と電子がくっつき原子となる…。エネルギーの濃い場所の重力に原子が引き寄せられて、星となる。そして、星が集まって銀河となるのです。ロマンチックですよね。天の川銀河の中で46億年前に原始の太陽が出現したのでした。

 

水素原子とヘリウム原子から星になりますが、中心部が密度の高い状態になると核融合が始まります。そして、周囲に熱や光を放出します。このため、現在、原子番号が振られている原子が生みだされていくのです。水素、ヘリウム原子、炭素原子、酸素原子、ネオン、マグネシウム、ケイ素、鉄……です。そして、恒星が星の形態を維持できなくなった時に爆発し、そこで生みだされた原子が宇宙に散らばっていきます。超新星爆発です。我々が、『僕らは星のかけら』と言われる所以ですね。

 

46億年前に太陽が出現し、我々の地球は、46億年前に生まれました。そこで地球上に生命が生まれるにはあと6億年かかり、40億年前に地球上で生命が誕生するのです。そこからのお話は、第1章『ミトコンドリアが進化を決めた』に続きます。

 

 


 

参考文献:

『宇宙は本当にひとつなのか』

『宇宙になぜ我々が存在するのか』

『オリオン座はすでに消えている?』

『真空のからくり』

『超弦理論入門』






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2014年11月11日火曜日

ラジオインタビューからの・・・…


先日ラジオを聞いていたら、関口知宏さんがインタビューをされていました。関口さんのことでわたしが知っていることと言ったら、関口宏さんと西田佐知子さんの息子だということだけです。俳優かタレントかそんな人と思っております。聞いていると、基本的に「理屈っぽくて、鬱ッとおしい奴」だなあと。この人は万人からは理解されないだろうなあと。だから、おもしろかった…です。

 

このインタビューのメインの目的は、旅人としの関口知宏さんが著した『「ことづくりの国」日本へ――そのための「喜怒哀楽」世界地図』の内容紹介のようでした。ラジオから察するに、世界の国を「喜怒哀楽」で分析し、どの国がどの感情を主に持っているか…というようなこと。そこで興味深かったのは、彼が、日本を「楽」、中国を「喜」と分析し、エピソードを紹介していたことです。次のような事を述べていました。

 

 

例えば、中国のホテル等に行くと、とても豪華そうなソファーがありますが、きまって座り心地が悪い。他の場所でもそうです。それは何故かと考えると、彼らは、「坐り心地」なんか考えていないのです。つまり、重要な事ではない、関心事ではない。しかし、日本では、見かけより、坐り心地が大切。この事に気付いて、わたしは、中国では、ゆったりリラックスしないで、彼らのように活動的に動き回って、「喜」に努めました。それで、中国では、とても、歓迎され受け入れられました。

 

 

……どうですか。わたしもそう思います。わたしたちは、日本に閉じこもっていると、日本の価値観が唯一の価値観、それに合わない行動を見ると、批難する傾向にあります。これはマスメディアの責任でもあると思います。日本を褒め殺しにしている最近のTV番組の多いこと多いこと。そして、それに引きかえ「中国人はこんなんだあ~」と。

 

わたしもエピソードをひとつ。

 

2003年から約2年間、上海に暮らしていました。仕事の関係で。中国人の友達と商売をしていたのです。彼女は、わたしをいろいろなところに連れて行ってくれました。ある日、少し郊外のレストランで彼女と彼女の友達、そしてその友達たちとお食事(宴会)をしました。夏の暑い日で、屋外のテーブルでビールを飲んでいました。

 

ビールと枝豆です。わたしは、枝豆の莢を自分のお皿に置いていました。そこで、彼らを見ると、テーブルの上に散らかし放題。または、テーブル付近に落としています。わたしは、心の中で、「えっ、そんなことしていいの。」と思って彼らの顔を見ると、彼らこそ、私の方を見て、顔をしかめています。「えっ、わたしがいけないの。」と友達の方を見ると、彼女は、みんなに日本人はゴミを自分のお皿に戻すのが礼儀なんだ…、と説明している様子。つまり、わたしはわたしで、ゴミを散らかし放題にして、なんて不潔なんでしょうと思っていた所、彼らは彼らで、「ゴミを自分の皿に戻すなんて、なんて不潔なんだろう」と思っていたようです。まったくの真逆です。「良い悪い」の問題ではないのです。単なる文化、慣習の違いです。中国の道は汚いけど、彼らの部屋はきれい。日本人のお家の周りはきれいだけど、部屋の中は…、という状態もままあること。どこに重きを置くかは人それぞれということでしょうか。

 
 
 
 

 

日本が「楽」であるということについては、

 

基本的に賛成します。以前、「なぜ、日本でラーメンが発達したのか」という記事を新聞で読みました。著者は、アメリカ人のラーメン研究家ではありましたが、江戸時代まで日本人は、一日三食という食事形態ではなかったと言っています。日本人は、お腹が空いた時にスナック的に食べ物を「ついばんでいた」ということです。そこで、明治になって、海外の人が日本で働くようになった時、まともな食事…ガッツリした食事、がなかった。で、中国人のアドバイスにより日本のラーメンが発明されたのだと。「楽」の感覚ではありませんかあ。

 

現在、日本人は勤勉だとか言われていますが、何か「意味の違い」も思ってしまいます。日本人は勤勉です。が、同時に怠惰です。今、日本人は残業が多過ぎる、もっと、機能的に働けよ…、などと言われますが、わたしはそれが日本人なのだ、と言いたい(なんだか、調子にのって来ましたね)。日本人は、元来、ノンベンダラリンと働いていたのです。「楽」です。江戸時代、奉公人は、盆と正月しか休みがありませんでした。住込みで働いて、朝から晩まで働いていたと思いきや…、それなら、なぜ、江戸の文化が花開いたのか。歌舞伎や浄瑠璃、相撲、落語などいろいろ、昼間から多くの人が演場で観賞していた。それは、みんなサボっていたからです。昼間からサボって観賞していたのです。

 

しかし働く時は勤勉です。それは、お金を稼ぐと言う領域を超えていますよね。日本人は、仕事を通して「修行」しているのです。自分自身を磨くために仕事をしているのです。寿司職人は、ひとつのにぎり寿司に使う米粒の数が同じです(ほぼ。一粒くらいの違い)。旋盤工は、0.何ミリの世界で勝負しています。する必要はないのに。

 

 

そんなことを、あれこれ考えていると、やはり、「楽」かなあと。ふ~~~ん、伝わったでしょうか。いまいちかなあ。






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2014年11月9日日曜日

ノン・タイトル


来週、わたしの誕生日が来ます。その前の誕生日に「この一年内にすること」という「誓い」をたてたのですが、「なんだかなあ」という結果に終わりそうです。ひとつは、「まともな文章を書くこと」でした。まだ、書けていません。計画だけは立てましたが……。

 

もうひとつは、囲碁で5級になることです。こちらの方は、達成できたのかどうか微妙なところ。実は、囲碁の「NHKテキスト」の中にある「段・級認定テスト」というものに応募をして、二段の認定を受けました。40点満点のテストを受けます。4回応募して、合計120点以上取れれば二段なんです。詰碁が2問、各10点。ですから、この2問は、正解かどうかのもの。つまり、0点か10点です。あとの2問は、「次の一手」です。打つ場所は、4カ所指定されています。その中から、どこに打てばいいかを選びます。しかし、点数は10点、8点、6点、2点とそれぞれもらえます。ですから「0点」という事にはなりません。最低2点は確保できます。

 

それで、見事4回で126点取れました。二段です。申請すれば日本棋院の二段の免状が頂けます。が、実力は、五級から六級というところ。つまり、「ペーパー二段」なんです。堂々と、大声で「二段だ~~~」と、叫べません。この差が、今のわたくしのストレスなんです。

 

 

囲碁クラブに行って、二段の人と対戦します。もちろん置き碁です。それでも負けます。だいたい今の60歳以上のおじさんは、女性に対して「上から目線」です。とりわけ、闘いの世界では。彼らが勝つと、たいていご高説が始まります。説教まじりのご教授です。わたしは内心「わたしだって二段なんだ」と思います。でも、言いません。己を知っていますから。……そこのジレンマなんですねェ~~~。

 

次の一年で、最悪、初段の実力が得られるよう希望します。なんて、希望しても何にもならないので、励むのみなんですが。








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2014年11月1日土曜日

『LOOKING BACK』  モーパッサン著


今回の英語・読書会の本はモーパッサンの『LOOKING BACK』です。この作品を選んだ人は、いつも「世界の名作短編集」から小編を持ってくるので、フランス人のモーパッサン著ということになったのでしょう。英語への翻訳は、Translated by H.N.P. Sloman となっていました。

 

わたしは、世界の「名著」というものにほとんど興味がないのであまり読んでいませんが、モーパッサンの『女の一生』は、読みました。母が、わたしが中学生の頃、世界文学全集というのを、どういう訳か全部買ったのです。本棚一つ分くらいの量でした。河出書房の緑色の箱に入ったたいそうな全集でした。わたしは、心の中で「グリーンの本」と読んで、あまり近づかないようにしておりましたが、少しは読みました。その中の一つが『女の一生』だったのです。

 

高校生の頃読んだと思います。考えるに、その頃日本に伝播してきたアメリカン・ウーマン・リブに感化されていたので、題名に惹かれて読んだのでしょう。あるいは、世界最初の「意思を持った女」の本という宣伝文句に依るのかもしれませんが。しかし、わたしには、読んでいるうちに異様な匂いを感じた鬱陶しい本という感想しかありません。

 





 

今回この『LOKKING BACK』を読んで、臭いこそしませんでしたが、同様に鬱陶しい本でした。よくこんな暗い本を書けるなと。そしてまた、それに共感してしまう「自分」もいるにはいるのですが。ついでに、英語の電子辞書についている「ブルタニカ百科」でモーパッサンを調べたところ、

 

1850年生まれ、1893年没。87年頃から精神錯乱の兆候を来たし、92年に発狂、自殺を試み、精神病院で死亡。生来の暗い厭世観と冷徹な観察眼を特色とし、フランス自然主義文学の代表者とされる。

 

とありました。

 

然もありなんです。今回の作品のように人生を送れば、精神に異常をきたすか、自殺するは……、と。

 

 

内容は、この時代の特色でありますが、やはり、司祭が出てきます。それから、お城の持主である老婦人。この二人は、長い付き合いで、何でも話せる気心の知れた間柄。ある日、この老婦人が、司祭になぜ司祭になったのかと尋ねます。「結婚もしないで、子供もなく、人生の楽しみを全て捨てたような生活を」と。

 

“Come, M. le Cure(司祭の名前がM.), tell me about it; tell me how you made up your mind to renounce all that makes the rest of us love life, all that comforts and consoles us.  What decided you not to follow the normal path of marriage and family life?  You are neither a mystic nor a fanatic, neither a kill-joy nor a pessimist.  Was it something that happened, a great sorrow, that made you take life vows?”

 

この質問に答えるように、司祭Mの一人語りが始まります。

 

彼の両親は成功した小間物問屋で、彼をとても小さい時から寮のある学校に入れます。彼によれば、そんな小さな時から家族から離されて一人で暮らし始めれば、とても感受性の強い子供にとっては、考えられないような猛烈な苦痛を感じるのだと。たとえ短期間でも、抑圧が回復不可能なダメージを与えるのだと。

 

彼はそこでの学業を終えてから、これからの人生を考えるために6カ月の休暇を与えられます。彼は、彼のとてつもないSHYと感受性と抑圧からひとり自室に引きこもって過ごしていました。そして、ある日、散歩に出かけて時、小さな犬に出会います。彼は、その小さな打ちひしがれたような存在に出会って、自分の姿を見たように感じ、家につれて帰ります。それから、彼は、唯一その小犬に心を開き、いつも一緒に過ごすようになります。またある日、いっしょに散歩をしている時に、馬車が道の向こうからやって来ました。小犬は、その音に驚いて彼の方に庇護を求めるかのように向かってきました。その時、馬車に轢かれて死んでしまいます。

 

また、その描写の凄まじいこと、

 

I saw him roll, summersault, get up and fall again amid the forest of legs; the whole bus gave two great bumps and I saw behind it something writhing in the dust. He was almost severed in two; his belly was torn open and his entrails were hanging out, spouting blood.  He tried to get up and walk, but he could only move his fore legs, which scrabbled at the ground; his hind quarters were already dead. And he was howling pitiably, mad with pain.

 

それで、彼は、悲しみの内に部屋に閉じこもってしまいました。彼の父は、彼のその態度に怒り、「そんな犬が死んだことぐらいでそんなに悲しんでどうする。君の奥さんや子供が死んだとしたら、どうするんだ。」と言います。

 

“What will you do when you have a real sorrow, if you lose a wife or children?”

 

その時、彼は気付きました。自分は痛みに弱いことを。

 

わたしの感想ですが、

 

彼は、自分が傷つかないために、「人のためにつくす」道を選んだのではないか。自分を捨てる(自分の感情を殺して人につくすこと)ことで、「人との距離を置く」と言うこと。彼は、「人を助ける」ために司祭になったのではなく、司祭という役柄を選んだ。つまり、人に感情移入してしまう自分を恐れ、自分の感情に重石をつけて、奥底に監禁してしまった。

 

そして、彼は「平穏な」日常を手に入れた。大事な存在を失うという恐怖もない、極めて平坦な人生を手に入れた。

 

この告白を聞いた老婦人は次のように言います。

 

“As for me, if I had not got my grandchildren, I don’t think I should have the courage to go on living.”

 

 

彼は、もう一言も発せず、夜の道を自宅へと帰っていったのでした。

 

 

以上です。







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