『化け物心中』
江戸時代、文政年間のお話です。舞台は、江戸の芝居町、役者とその贔屓筋が蠢く町です。
わたしは、江戸時代の末期あるいは明治初期が舞台の物語が好きです。何故でしょうか?思うに、「近世」と「まだまだ西洋の合理主義の洗礼を受けていない」時代の混沌とした世界が好きだからではと。理性と迷信が混ざり合っています。
この作品もそんなところです。余計なことですが、明治初期が舞台の作品としては、山田風太郎の『警視庁草子』や『幻燈辻馬車』などが好みです。言い忘れましたが、全てミステリー、推理小説の類の作品の事ですから。
さてお話は、役者6人と座元が集まって次回の演題の前読みをしていた夜の事。突然、蠟燭が消え暗闇の中で嫌な音が響き生首がゴロリと。そして灯りが点されたときには、生首はなく血の溜りと肉片が残されていました。
この時代の電灯がなく、いつも薄闇が拡がっているという雰囲気も良いですね。
これは、役者のなかの誰か一人が鬼に食べられて、その鬼が食した者と入れ替わっているのだと座元が推察します。そして、鬼は誰に入れ替わっているのかという探索をある人物に委託します。
それが、かつて一世を風靡した人気女形役者の白魚屋田村と魚之助。コンビを組むのは、鳥屋の藤九郎。魚之介は、舞台で教条的なファンに足を斬りつけられ(なぜなら魚之介の名の由来は、その足が白魚のように美しい事。)、両足の膝から下を切断する破目になったのでした。
魚之介は、藤九郎の背中に負われ彼を足代わりに犯人捜しです。魚之介と藤九郎の関係性もこの話の伏線です。
藤九郎は、大店の鳥屋の息子。彼は家業を助けながらも、暇な時間を町中ですごしています。江戸時代に「鳥屋」があったと言うのも少々驚きですが、世界でも一番の人口を抱える江戸の町、どんな道楽があっても不思議はないですね。
わたしの興味は、この「働きながらもブラブラしている」江戸時代の町人の生きる姿勢です。日本人の仕事は効率が悪いと言われても、「ブラブラ働く」という文化があるんですよと言いたい。
どんどん話が逸れていきますねえ。
藤九郎と魚之介の出会いは、藤九郎にとっては良いものではありませんでした。魚之介が鳥屋からカナリアを買います。その数日後、カナリアが病気になったから見に来てくれと鳥屋に連絡が入ります。そこで、藤九郎が様子を見に行くと……、
魚之介の家の座敷の畳の上に、カナリアが転がっていました。藤九郎が見ると、カナリアは両翼の骨を折られていたのでした。藤九郎は、鳥をとても可愛がっているので、この魚之介の行為に我慢できません。
カナリアを引き取って治療しますが、カナリアは命は取り留めたものの飛べなくなってしまいます。
こんな仕打ちをされた藤九郎は、なぜ魚之介の手助けをするのか?藤九郎の人の良さもありますが、このエピソードもお話の横の糸です。魚之介の気持ちがカギです。
そんなこんなで魚之介は、鬼に代わられたのではないかという6人の役者たちの一人一人を訪問、詰問します。その6人6様の「役者魂」が浮き彫りにされ、一人一人の「役者である事」の苦悩が強烈に話を支配します。
しかし、藤九郎はお芝居に関心なし。そんな藤九郎の狂言回しも面白い。
わたしは、ホントに鬼の仕業なのだろうかと疑って読んでいました。江戸時代でもホントに鬼が犯人なの?と。役者が鬼の仕業と仕組んだ殺人なのではと。
しかし、書いていいかどうかはわかりませんが、本当に鬼の仕業でした。闇に隠れて生きる鬼が、なぜ役者と言う一番人の目に触れる存在と成り替わったのか?
最後の謎解きは、鬼の心情となぜ『化け物心中』という題名なのかという理由を明かします。また、魚之介の女形である事と「男である」という苦悩の吐露、そして、藤九郎の純粋な気持ちの発露……泣いてしまいました。すぐ泣く人でスイマセン。
とにかく、楽しめました。
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