2019年10月12日土曜日

推理小説を英語で読む。










サスペンス小説『ROADSIDE CROSSES』を読みました。JEFFERY DEAVER の作ですが、主人公はあの有名な全身麻痺の捜査官ではなく、一度この捜査官が捜査要請をしたkinesics エクスパートのKathryn Dance です。



高校生のBOYが犯人らしく(大どんでん返しがあるかもしれない―――必ずやあるだろう。)、コンピュータゲームフリークでサイバースペース関連の用語や若者のブログ用語などが氾濫しています。そのような用語の解説が頻繁に出てきて少々鬱陶しいところもありますが、substitute the number three for “e” and four for “a” などの情報は興味深いです。例えば、”like really w4nt to learn, what can u t33ch me?” 等です。また、日本の漫画やアニメDVDのこと等も(Ghost in The Shell なんか)紹介されています。



で、思ったことは、実際、世界の「単一化」は進んでいるなァ~~~、です。わたしが十代、二十代にアメリカの推理小説を読んでいた時には、よく映画の題名などが出てきましたが、その題名を見てもさっぱりわからず、その3~5年後に日本でその映画が公開されるという塩梅でした。



この二十年くらいでしょうか映画がそんなに「時を待たず」に見られるようになったのは。たまには日本先行と言う事もありますしね。まァ、日本がハリウッド映画の市場として大きなものになったという事でしょうか。









もう一つ考えた事は、日本の文化力について。日本人が海外の映画祭で監督賞とかなんとかは、取ることが出来ますが、俳優が演技賞をとることはなかなか難しい。やはり“演技”も文化なのですから、その国の文化によってリアクションとか表現とかに差があるのでしょう。



では何故西洋映画、アメリカ映画が世界的に受け入れられているのか。それは彼等が、特にハリウッドは、ずーっと彼等の文化のコンテキストを世界中に送り出しているからだと想像します。



アメリカ人の演技がたとえ大袈裟で我々と違うなと思っても、アメリカ人とはそう言うものだという文脈がもうわたしたちの内に構築されているので理解できるのです。日本のコンテキストは、まだまだ世界の人々の内に構築されていません。



日本人の演技は日本人にとっては自然なものであっても、世界的に見れば「下手な不自然な演技」と映るのです。例外はあります。それは時代劇とか特殊な状況内容の場合。日本のサムライの演技が彼等の演技と違っても「それはサムライだから」として受け入れられます。日系アメリカ人がアメリカ映画の日本の時代劇で、日本人役を「日本人のふり」をして演じたらやはりなんか変です。



「特殊な状況」で言うと、そうですね、精神に異常をきたした人なんかどうでしょうか。ふつうでなく自分が見慣れていない演技でも受け入れられますよね。例えば、寺島しのぶさん、『キャタピラー』。



日本のアニメは、世界中で受け入れられています。登場人物の姿かたちは無国籍ですが、その精神はしっかり「日本」です。海外でのインタヴューで、各国の若者たちが「自国の文化と違う考え方感じ方に魅力を感じる。」と答えていましたよ。



このように、日本のアニメによって日本のコンテキストが世界中に構築されれば嬉しいなという思いです。そうすれば日本人も世界で住みやすくなるのではと。







2019年10月7日月曜日

体重計





体重計を買いました。と言っても、最近ではなく、たぶん、2年くらい前。

その前、体重計が壊れて、体重計のない時期が長くありました。で、2年前に近所のジムに通う事にして、体力測定をしたのですが、

が~~~ん、体脂肪率が多過ぎでる。で、体重計を買いました。メチャメチャ安かったです~~~。それまでは、体重計は高いと思っていたので。2千円以下で買えたと思います。スイマセン覚えていないので。

そういう器機は、安くなっているのですねえ。それも、体重だけでなく、体脂肪率、水分率、骨密度、筋肉密度、内脂肪率も提示してくれます。こんなことで感動するのは、最近事情を知らないゆえかもしれませんが。






それで、毎日計っていると、いろいろなことに気付きました。まさに、「脂肪は夜造られる」は正しい。晩御飯を食べた後に体重計に乗ると、まさに体重は食べた分だけ増えています。が、体脂肪率は最低値。そして、翌朝、測ると、体重は落ちているが、体脂肪率は増えている。

だいたい、2~4%は違います。起きてから、暫くして測ると、体脂肪は落ちています。まさに、体脂肪をエネルギーに変えて生きているのかあ???


それから、体脂肪と水分量を足すと体重のだいたい70%です。つまり、体脂肪が増えると水分量が減る。その逆もあり。ですから、体脂肪率を減らすことにどういう意味があるのかと。どちらで体の中に蓄えても良いでしょ?この点は、勉強不足で、何か理由があるのかも。

とりあえず、結論としたら、

体の中の水分と脂肪は率としては固定されているから、その時の体重によって、筋肉量と骨量が変化する。

そして、何が正しいかわからんーーーという事です。












2019年10月6日日曜日

ユビキタスーーUBIQUITOUS







UBIQUITOUS 私の好きな言葉です。好きな作家であるフィリップ・K・ディックの著作『ユービック』にも関連していますが、響きが何となく素敵でしょ。意味は、「至る所にある」です。

しかしながら、わたしが書きたいことは、「偏見はこの世の至る所に満ちている」という事。

よりわたしが関心のあるのは、女性に対する偏見。毎日見るテレビのコマーシャルでは、若いカワイイ女性が、媚びたような態度で何かを訴えかけている。また、父親と息子が外で野球などに興じて帰宅すると、迎えるのは母と娘。「汚い足で上がっちゃだめ。」とか、何とか言っている。また、建売住宅のコマーシャルでは、男が、「妻の喜ぶキッチンのある家」とかなんとか言っている。

こうやって、毎日毎日、女性の概念が固定化されていくのか。






少し前のニュースに、大学医学部の入学試験で男子学生が「下駄を履かせてもらっていた。」と言うのがあった。女子学生は同じ成績でも試験に合格とはならなかった。同じような現象は、社会の至る所に存在する。

わたしの趣味の囲碁の世界でも同様。女性が勝負に勝ったりすると、男性陣は(もちろん全ての男性ではないが)、気を悪くして、「囲碁をするより家ですることはないのか。」などと冗談交じりで言う。こうやって、女性は色々な機会を制限されているのだ。色々なことからシャットアウトされているのだ。

それが、元小学校の先生(何故か元・先生という人が囲碁界には多い)だったりすると、「ああ、この先生に教えられた女生徒は如何~。」と思う。

女性の方も、自分が強いとは言わない。反対に少々段位を落として自分の段位を紹介する。何故か?イジメにあうからだ。「わたしは、弱いです。だからイジメないで。」というアピール。わたしは、大きな顔をしているから風当たりが強い。






先月23日にあった、囲碁の第28期竜星戦で、年齢や性別を問わない一般棋戦で女性棋士が初めて準優勝した。上野愛咲美・女流棋聖だ。17歳。

そもそも女性棋士は、国内棋士481人のうち96人。そんな中で女性の上位進出が目立ち始めたのは、腕を磨く環境の変化がある。

日本棋院理事長である小林覚氏は、言う。

「昭和のころまで、研究会があっても女性は後ろに控えていて一言も発せず、男ばかりが意見を言っていた。それが近年は、男性のトップ棋士にもズバズバ意見を言えるようになった。男女の区別なく勉強ができるようになった。」

加えて、ネット対局の普及や囲碁AIの発達などで、自力で囲碁の腕を強化できるようになってきた。男性の「上から目線」に関係なく女性ものびのびと囲碁に勤しむことが出来る。


少しばかり、喜ばしい社会になってきたようだ。





2019年9月15日日曜日

今日の新聞





コラムで『折々のことば』と言うのがあるのですが、今日は、

あらゆることを勉強して一つの物を完成したというのが、本当の専門家だ。

です。

この言葉に対し、作家の荻野アンナさんが、

いまは、『千門家』ではなく、『一門家』になっているのですね。

と返しています。


実際、そう思います。「科学者は哲学者でなくてはならない。」とどこかで、読みました。あらゆることを考えて、一つの事を決定しなければ、それは偏向してしまう、と。






少し話は逸れますが、

最近、わたしの車がリコールされて、その修理、点検は済んだのですが、以前、何かおかしい。変なメッセージが出る。それで、もう一度クレームを付けたのですが、

「コンピュータが変なことがあると記憶していますが、何もメッセージはありません。」と。

あなた、メンテナンスとして、それで良いのか?と。自分で考えないのか?と。

AI時代、そんなことになってしまうのですね。「考えない人が増える」という事は、ちょっと危険なのでは。





2019年9月13日金曜日

『アナキズム』、流行遅れの感もしますが、私たちの日常に潜んでいますよ。








『アナキズム入門』を読んで



この本は、二年くらい前に読み終えたのですが、感想文を書く気がしなかったのです。というのは、「アナキズム」は私の中では完結しているからです。わたしは、「ナチュラル・ボーン・フェミニスト」と標榜しています。そして、高校の時に「アナキスト」となりました。



と言って、「アナキズムとは何か」という概念は全く知らなかったのですが。何となく、「わたしはアナキストだ。」と。違う本を本屋さんで探していた時に、たまたまこの本を見つけ、「何故、わたしは、わたしをアナキストだと思っているのだろうか。」というところをこの際はっきりさせようと、購入しました。



今回、書く気になったのは、著者である森元斎氏が「あとがき」で、『今、日本の政界でアナキストとして期待できるのは、山本太郎氏くらいだ。」というような意味の事を述べているので、時期を逸してはいけないと……、思いまして。



前置きが長くなりました。








さて、『アナキズム入門』は、アナキズムの始まりから、アナキストの活動を年代順に記述しております。第一章のプルードンから、第二章バクーニン、第三章クロポトキン、第四章ルクリュ、そして第五章マノフまで。



「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。」あるいは、「各人は能力に応じて働き、要求に応じて消費する。」―――この原理に基づいて、お互いの財産や能力を使い合う関係―――これがアナキズムであり、アナルコ・コミュニズムと言う事。



つまり、人は能力の成果分を受け取るのではなく、必要な分だけ受け取る事。どれだけわたしはあなたに贈与したか、そして、あなたはそのお返しにどれだけ贈与を返したかを計量しない事。



このような事は、資本主義の経済活動では全く意味をなさない事ですが、あらゆる人間社会では、日常的に行われています。あるいは、現在の会社の中でさえ労働には、このような原則が働いています。例えば、「ちょっと、ペンを貸して。」と言われて、貸したら見返りを要求するか?あるいは、「そこの本を取ってくれ。」と言われて取ってあげたら見返りを要求するか?



人類が誕生して共同生活を営んでいる限り、根底にはこのような関係が存在し、それが、アナルコ・コミュニズムなのです。「生そのものの在り方」が、そもそもアナルコ・コミュニズムではないのか―――という主張です。



文明の発達によってこの関係性が侵されてきた、―――アナキズムの歴史は、この関係性を

取り戻す歴史だと思います。近代国家では、「国民国家」という観点が鮮明になりました。アナキズム始まりのプルードンは、「人間に対する人間の統治は、いかなる名称を装おうとも抑圧である。」と言います。







彼の主張を簡単に列挙しますと、



国家制度がなくとも、あらゆる生物は生きていける。

所有、それはと盗奪だ。

所有権は自然県ではない。生きたいように生きるという平等の権利―――これが自由だ。

人間が自由に生きる平等な社会には政府は必要ない。



このような事から、アナキズムは「無政府主義」と訳されているのでしょう。その後のアナキスト達も同じような理論を発展させていきます。



しかし、アナキズムとは、そう大層な事ではなく、私たちが日々行っていることなのです。何らかの共同体の中で、私たちは毎日助け合って生きている。それに「気付く」だけなのです。最近の日本で起きている「過疎集落」対策においても実行されていることです。また、里山資本主義と呼ばれているものも、一種のアナキズムです。



第四章のルクリュは、「本当は、みんな優しい。ちょっと資本主義のせいで意地悪な気持ちになってしまっただけなのだ。ちょっと権力のせいで嫌な奴になってしまっただけなのだ。」と言いました。





国家なき社会を考えた時、どんな制度が必要か。その答えはこのように示されています。中央集権の国家ではなく、それぞれの自治体制の自主的活動、より小さな団体による自治。



アナキズムは永久の革命を促しています。革命により何かの体制が出来上がっても、その中で疎外される人は必ず出てくる。そこで、また、革命が起きる。起こすべきだ。そして、また……、と言った具合です。より小さな団体の自治であれば、軌道修正がより速やかにできると考えると、暴力革命なしに人類は自由で平等な社会に向かって行けるのではないかと思います。





自分がアナキストとは思わず、アナキスト的考えを持っている人はたくさんいます。考えてみると、わたしが好きな小説やその他ノンフィクションの本は、すべてそんなアナキスト的思考によって書かれてものではないかと思います。私は高校時代からずっとそんな本を選択して来たのでした。






2019年8月22日木曜日

わたしは、スピヴァクを推しています。









ずいぶん前の話ですが、ユニクロは英語を社内公用語にしました。『日本人の9割に英語はいらない』の著者である成毛眞氏とユニクロ社長の柳井氏は、英語を単なるコミュニケーションの道具だと位置付けています。グローバル化する世界で人々が思っている英語の位置付もそうです。人々はただ便利だから英語を使っているにすぎません。



わたしは、この事について、機会あるごとに英会話の先生に訊ねていました。「ネイティヴの英語スピーカーはそれでいいの」と。彼等は、一応に「英語は英語だ。これからの世の中、英語を話せなければ生き残れないよ。」と言います。なぜ、彼等はそれで平気なのだろうか。ネイティブでない人々が英語を単なる記号として使用することで、文化的要素が英語から取り除かれてもいいのだろうかと……、いつも疑問でした。








『ナショナリズムと想像力』と言う本を読みました。著者はGayatri Chakravorty Spivak です。インドで生まれ、カルカッタ大学を卒業後、アメリカで学び、今はコロンビア大学の教授です。比較文学のプロフェッサー。彼女の本を読んで、少しわかってきました。もともと、「西欧と白人と男性の優位性」を含んでいる英語という言葉は(スピヴァクの言です。わたしの言ではありません。念のため。)、その他の人々が英語をどのように使おうと関心がないようです。つまり、もともとの優位性があるからです(だから、その位置から追い落とされたフランスは、英語に反発しているのでしょうか)。彼等は(個人ではなく、顔のない集団として)、ネイティヴではない英語を話す人たちと、何も友達になることを望んでいる訳ではないのです。自分たちが話すことをただ理解できる人々を求めているのであり、自分たちがオーダーした答えを自分たちがわかるように返してくれればそれで事は足りるのです。



以前、こんなエピソードを新聞記事に見つけました。切り抜き記事が見当たらないので、詳細は覚えていませんが。ニューヨーク駐在の日本人記者の報告です。ノーベル平和賞受賞が発表されたリベリアの平和活動家リーマ・ボウイーさん(39)が、訪問先のニューヨークでノーベル賞受賞の感想を求められました。アメリカの記者は英語で話せと主張するのです。それで、日本人の記者がそれは失礼ではないのかと言うと、英語で話せば世界中に彼女の主張が配信されると。



しかし、その日本人記者が言うには、リーマ・ボウイーさんは、お国の言葉で話して、その栄光を国の皆に理解してもらい、分かち合いたかったという事です。「英語の傲慢さ」は、どうにかならないものかとその記事は結んでいました。



グローバライゼーションを既存の言語である英語が支えるなら、言語に付随する文化や思想も受け入れる事になります。英語スピーカーの『自分たちが支配者である』という思いをぬぐい去る事は難しそうです。もし、グローバライゼーションを無機質な功利主義的な世界としてもいいのなら、その言語も英語ではなく、もっと人工的な言語を作り、ただ記号としての会話をお互いに交換しあえばいいのです。



しかし、グローバライゼーションをもっと愛に満ちたものとして捉えるなら、例えその言語が英語であったとしても、その話されている英語の中にはその語り手(英語ネイティブではない話者)の違った文化が漂っている事を関知しなければいけない。特に英語ネイティヴは、それらの英語が単なる彼等が話している英語ではなく、「話し手の言語から翻訳されたもの」であることを感じ取らなければならないと思います。「愛」が必要なのです。違ったものであるが、それが「等価」であることを認識すべきです。決して英語への同化ではなく。



先に「英語スピーカーの自分たちが支配者であるという思いをぬぐい去る事は難しそうです。」と書きました。それを払拭する手段は何か。わたしは「愛」と書きました。スピヴァクは「想像力」と書いています。



マルクスの一節にこのような事があるとスピヴァクは書いています。「訳語を思い出さないでその言語を使えるようになり、それを使う際に祖先伝来の言語を忘れるようになったときにはじめて、彼はその新しい言語の精神を身につけたのであり、その言語を自由に使いこなせるのである。」―――翻訳者はまさしくこうあるべきでしょう、と。



彼女は、比較文学の教授です。そして、英国によって第一言語を押しつけられたインドの生まれです。「コミュニケーションの媒体は英語のままでいいでしょう。私たちは利便性を考慮して、英語と言う植民地主義からの贈り物を受け取ります。しかし、作品はさまざまな言語で書かれ、比較研究されなければいけません。」と、『ナショナリズムと想像力』の中で述べています。



少なくとも二つ以上の言語を学び、言語間の等価性を見つけ出すこと。そのようになされた比較文学研究によって鍛えられた「想像力」で「独占せよ」という魔法を解く。「グローバル」という感覚をつかむこと。わたしが理解できる限りでは、彼女はそのような事を言っています。比較文学の視点を導入することによって、民主主義の精神は強化されるでしょう、とも。



わたしたちは、せっかく英語を学んでいるのだから、文学とまではいかないまでも、いろいろな他国の人と接した時に等価性(違うものであるが同等の価値を持つということ)を訓練することでスピヴァクの言う『想像力』を鍛え、強い者が支配するグローバライゼーションを―――『違う』と否定する能力を持ち、愛に満ちた「地球」にしていきましょうよ。






2019年8月12日月曜日

ちょっと、親バカ……





息子の漫画です。

https://daysneo.com/sp/works/0b4344a32b9462f83a848ee997ea2949.html


息子は、エロ漫画家ですが、これは一般公開されているので、大丈夫。不愉快でなければ、ご覧ください。