学問を将来の経済活動とリンクするのは、どうかな?
それは、技術と呼ぶんじゃないの?
なんとか塾さん。
2020年2月28日金曜日
『動物が幸せを感じるとき』という題名は誤解を生むかも///
『動物が幸せを感じるとき』という題名。原題は『Animals Make Us Human』。ずいぶん違う題名のように思われます。
訳者は「あとがき」で次のように説明しています。
「グランディン(著者はTemple Grandin)が本書で訴えたいのは、私たちは、動物のおかげで人間として生きているのだから、動物に幸せな暮らしをさせる責任があり、どうすればその責任を果たせるかということです。原題には、動物に対する感謝の気持ちがこめられているのではないでしょうか。」
しかし、『動物が幸せを感じる時』という題名を見る時、わたしは単純に「動物はどんな時に幸せを感じるのかな~。」とか、「動物に幸福感を抱かせるにはどのようにするのが正しいのかなあ~。」とかの興味が湧いてしまいます。
そんな興味でこの本を読むと、がっかりします。著者はなんでこんな題名を付けたのかと。しかし、よく考えてみると、この題名は著者が付けたのではなかった。著者は、『Animals Make Us Human』という題を付けたのでした。この題名は訳者の陰謀か出版社の陰謀です。
わたしは、動物自体にはあまり興味はありませんが、人間が絡んでくると話は別です。子供の頃に犬を飼いたくて、『犬を飼う知恵』という本を買って読みました。そうして相当な世話をしなければ犬は幸せにならないのだと理解して、犬を飼う事は断念しました。わたしには、自分の時間を割いて動物を世話すると言う「奉仕」の心がない模様。
著者は自閉症でした。成長して動物学者になったという経歴です。この本は彼女の二冊目の本らしく、両者とも全米ベストセラーになっています(もう一冊は『動物感覚』)。自閉症だったことから、自分の意志がわかってもらえない経験で、もの言えぬ動物の内面を推し測ることができるとか。
人間に飼われている動物がいかに不当な扱いをされているかを指摘し、そして人間が動物を飼う事をやめることができないのなら、動物の暮らす環境を少しでも向上させようというのが、彼女の意図のようです。
彼女は動物園などの環境整備のための仕事をしていますが、同時に精肉業界のためにも働いています。なぜ、そのような精肉業界の利益の為に働くのかと、動物擁護の団体によく批難されるそうです。しかし、彼女は業界で働く先進的な管理者、あるいは敬意と愛情を持って牛や豚などに接する作業員を見て、人々に肉食をやめるように説得する側でなく、業界を改善する側に従事しようと思ったのです。
「わたしは長年の間じっくり考えて、食料にされる動物と人間との関係は共生にちがいないという結論に至った。共生とは、ふたつの生物のあいだで相互に恩恵がある関係だ。人間は動物に餌と棲みかを与えそのお返しに、繁殖牛が生んだ子牛のほとんどを食料とする。」
著者が「あとがき」で述べている文章です。
本当にそうだろうか。自らが食べられるまでの間、餌と棲みかを与えられて、動物はありがたいと思うのか。成長する前に食べられてしまう命を与えられて、それが幸せなのか。典型的な功利主義かなと思う。幸せの量を計算し、より多くのものが幸せと感じる方を選ぶ。大多数の幸せのために、少数の不幸を考慮しないという事。もちろん、わたしも肉は食べる。しかし、動物との共生関係などとは考えない。我々はただ殺生しているのみだ。どちらが正しいのかはわからないが、「殺す」言い訳にはしたくないと思います。
「人と動物の共生」などとは、とても言えないよ~~~。
「人間」を神が作りたもうたこの世で最高の特別な存在とする文化と、アジアやアフリカ南米などの自然を畏怖する(アニミズム)文化の違いかなと思いました。とは言え、この本全体を通して批難しているのではなく、興味深く読みました。(ところどころ「???」という所はあるものの)。
内容は、
動物の幸せ
犬
猫
野生の動物
動物園
馬
牛
豚
ニワトリ
という章立てになっています。
それぞれの章で、ふ~~~ん、なるほどと思う個所があります。特に「牛・豚・ニワトリ」の章は、「食べられるために飼育されている動物」ですから、その取り扱われ方に心苦しさを感じます。ニワトリの扱いは哺乳類でないため特にひどいのかも。
日本のことは知りませんが、この本によるとアメリカの精肉業界には「福祉監査」という制度があるようです。動物が適切に扱われているか監査するわけですね。著者もマクドナルド社に監査を頼まれて初めて出向いた時は、「ワァッー」と言うほどひどい環境だったと書いています。それでも、マクドナルドのような大手の会社が、取引先の監査を依頼すると、精肉業者は取引を打ち切られないように努力するので、環境が大幅に前進するとの事です。
ニワトリの場合はその生活環境という前に、直接身体的な苦痛を味合わされます。著者はそのことを三点指摘しています。
作業員の乱暴な扱い。業界の悪い習慣。粗悪な遺伝形質です。作業員たちが自分たちのレクレーションのためにニワトリを物のように投げ合ったりしている様子は、ユーチューブなどにも流れました。業界の悪い習慣とは、ひとことで言ってしまえば、作業の効率化や設備投資の経費節減のために起る粗悪な環境という事でしょうか。最後の遺伝子形質については、ほんとに、う~~~ん、と唸ってしまいました。
育種業者は最も生産性の高い(たくさん卵を生み成長もはやく体重も多い)遺伝子を選んでそればかり繁殖させるので、極端な選択による悪い結果が現れてきます。例えば、卵をたくさん産むように操作された雌鶏は自分自身のカルシウムを減らすので骨折が多くなります。
早く成長するように品種改良されたブロイラーは、骨が充分形成される前にどんどん成長するので、骨の形状に問題が起こり、生まれながらの奇形となります。ニワトリの餌には痛み止めの薬が処方されているようで、この餌を好んで食べるものも見られるといいます。
また、胸肉を大きくするように遺伝子操作されたオスは、巨大な胸がじゃまをして自然な交尾ができなくなる傾向にあります。七面鳥の場合は、すでにメスは人工授精を受けなければいけない状況です。豚の場合も、より大きくという選択で、体重を支えきれず脚の骨折が頻繁に起っているようです。「脚を引きずって歩く姿が多くみられる」と書かれていました。
ほんとに、人間はどこまで突き進んで行くのかなあと感じてしまいますね。著者のスタンスは、「人間は農場の動物を繁殖させ飼育しているのだから、動物が相応な生活をし、痛みのない死を迎えさせる責任を負っている。動物が生きているあいだは、物質面と精神面の欲求を満たしてやるべきだ。」というものです。
これは、「処理工場の設計をしているのに、よく動物のことを心配できますね。」としょっちゅう聞かれることに対する彼女の答えです。この辺のことは、少々判りかねるところもありますが、ともかく、彼女のおかげで動物たちの環境が向上していることは確かです。
動物に関係ない事柄に関しても、興味深い所は多々ありました。原題と日本語の題名が違う事で、著者に文句を言う訳にはいきません。その違いに翻弄されないように内容自体を読みましょう。わたしは、誤解して著者に怒りを感じちゃったので。反省します。
2020年1月25日土曜日
たまには、超有名な本も読んでみよう―――
太宰治。ご存知の通り、超有名な作家です。しかしながら、わたしは、太宰治の本はあまり読んでいません。が、一冊だけ持っていたのを思い出しました。『人間失格』です。本棚の隅から探し当てました。薄い文庫本です。若い時分に読んだことは覚えていますが、いつ買ったのかなと奥付を調べてみると昭和四十四年。価格は八十円でした。
内容は覚えていません。「理解できなかった」という記憶のみです。多分、突っ張っていた時代ですからタイトルに惹かれて買ったのでしょう。(『蟹工船』も、以前は「持っているだけで警察に捕まった。」、ということだけで買ったのですから)。それでもう一度読み返してみることに。読んだのは先週の事です。
で、この一週間憂鬱な沈んだ日々を送っていました。
「解説」を読んでみると、太宰治はこの小説を書き上げてすぐ投身自殺したそうです。三回に分けて雑誌に連載されましたが、その最後の掲載の前に自殺したそうです。読者にとっては、最終章は死者からの手紙という事でしょうね。
では、何故わたしは一週間落ち込んでいたのか。
今回は充分理解できたからでしょうね。それだけ人生経験を積んだということか。この主人公の葉チャンは世間との付き合い方がわからず、自分を演技することでしか人との関係を結べません。自分が道化になって人に笑われること、そうすることによって自分の本心を見せない。そうやって、自分と「世間」の位置を測って生きてきました。
しかし、「第三の手記」(最後の手記です)で、ある人に「・・・これ以上は、世間がゆるさないからな」と言われた時、「世間というのは、君じゃないか」と気付きます。
人は「世間が」と世間をバックにしてものを言うが、言っているのはきみ自身じゃないか、個人じゃないか、という思い。「“世間とは個人じゃないか”という、思想めいたものを持つようになってから自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。」と書いています。
汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ!・・・・・・と。
つまり「世間」という大きな怪物は実はちっぽけな個人の集まりであるという事を発見し、少しは対抗できるものと思う事ができたということでしょうか。葉ちゃんの絶望が解消されたということではありませんが。
わたしも若いころ(高校生くらい)から「世間」とは「自分と相・対立するもの」、わたしは「世間の外にある」と思っていました。そして、三十代の初めに会ったボーイフレンドが、わたしのボーイフレンドにしては珍しくノーマルでうまく人生を歩んでいる人だったので、聞いてみました。
「あなたにとって、世間とは何なの。」と。
彼は、
「自分の属している社会かな~。」と。
わたしは、心の中で「オー、マイゴッド!」と叫びましたよ。世間を素直に受け入れている人が居るのだと。それも、自分がその一部として・・・つまり属しているのだと。
そしてその後、わたしは理解しました。そういう人たちがマジョリティでわたしがマイノリティーだったのだと。で、みんな、ちゃんと社会でふつうに生きて行けているのだと。
それからわたしは多少世間というものを理解し、多少折り合いをつけながら生きてまいりました。が、どうなんでしょうねェ。・・・ということをこの一週間考えてきて、憂鬱だったという訳です。
2020年1月1日水曜日
新年早々、生意気なことを……書いてしまいました。
『When We Were Orphans』
Kazuo Ishiguroさんは、ご存知のようにノーベル文学賞を獲得しました。わたしは、この本を彼が賞を受賞する前に読みました。と言って、彼への評価が変化するわけでなく、感想は、以下の通りです。
文化の観点からみた場合
KAZUO ISHIGUROについては、ただ単に彼の名前を知っていただけでした。それがどうして彼の作品を読んでみようという思いに至ったかと言うと、先ずは「英語と日本語の違い(文化の違い・含む意味の違い)」がわたしの永遠のテーマであることです。
たまたま彼のインタヴューが新聞記事の中に引用されているのを読んだ時、自分の作品を書く時にあいまいな言葉は使わないという事を言っておられました。つまり、日本人である彼が英語では書きえない感情は書かない。あるいはその言葉を使って表現すれば翻訳される時に誤解を産む可能性があると思うような言葉は書かないという意味かと思いました。
実際のインタヴューを読んでみると、記事が引用したものと「彼の言」には、少しニュアンスの違いがあるようです。彼は言語、地域に関係なく全ての人が理解できるテーマでの小説を目指しているらしいのです。
彼は五歳の時イギリスに来て以来、ずっとイギリスで暮らしています。今はロンドンに居を構えイギリス人の奥さんと二人の子供がいます。彼は早い時期からが英語で小説を書き始め、若くしてイギリス文壇に受け入れられました。彼は、その理由を自分のバックグラウンドからだろうと分析しています。
つまり、自分としては「自身インターナショナルな存在」と思ってはいないが、イギリスの文壇がインターナショナルな傾向を求めていることに合致したのではと。
イギリスが大英帝国であったときはイギリスイコール世界であり、イギリスの特殊な事象が世界のテーマになり得ました。しかし、植民地支配体制が崩れた時、イギリスも世界の中の一つの国にしかすぎなくなりました。ヨーロッパの辺境の小さな国の小さな出来事は、もはや他の国の人々の関心を引かない。
そして、「インターナショナルな傾向」とは、彼が特殊なテーマではなく、誰もが関心を示せる普遍的なテーマに目を向けているところです。
蛇足ながら、彼は自分が使用している英語自体には何ら感慨はないようです。英語は彼の自然な言語であり利便性に関しても不都合な点は感じていないように思われます。
「小説」の観点からみた場合
全体的な印象としては、フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」の感じですか。もちろん内容とかストーリーとかは全然違いますがなんとなくそんな感じがしました。
わたしの感想では、純文学(?)とエンターテイメント小説の中間でしょうか。彼の三作目の『日の名残り』はブッカ―賞を受賞。また、アメリカで映画化もされています。アンソニー・ホプキンス主演。だから彼の立ち位置はこのゾーンということですか。
わたしは、彼の言う小説の「普遍的テーマ」に異議があります。つまり、平均ゾーンにいるすべての人を読者として求めなければ、特殊な事を題材としても、狭い読者層の範囲内で純粋な小説として成り立つ。
例えば、バルガス・リョサの『緑の家』。ペルーの「狭い範囲」の小説です。ペルーのいろいろな状況にある人たちの入り組んだ人間関係そして過去と現在も見事に入り乱れて不思議な空間を作り出しています。
この本が「外的な支えが何もなくても文体の内面的な支えだけで独り立ちしている作品」と評されているように、例えイギリスの片田舎の金持ちの男性と貧しい境遇の若い女性の恋のような使い古されたシチュエーションの小説であっても、描写によってはどんな国の人にも共感を得ることができる作品がいくらでも書ける。
グローバライゼーションとは、逆に辺境の地を蘇らせるとも言えます。つまり、辺境のマイナーな地域はより大きな地域への統括によりそのアイデンティティーを失っていったが、統括された地域がもう一つ大きなものに飲み込まれる時(グローバル化)、先に飲み込まれた地域が吐き出されます。中間層がアイデンティティーを失うことによる辺境の復活です。
わたしはこの濃密な空間の小さなお話の方が、グローバル化で薄められた得体のしれない誰にでも通用するようなお話より、よほど好きです。
このグローバル化していく世界を牽引している英語、そしてその英語を使って小説を書くことは、はじめからアドバンテージを享受していることになり、逆説的に中身の濃い小説を書くためにはより多くの努力が必要となるのではと、思います。
追記
この本は、サンフランシスコの友達の家に滞在していた時に読んでいました。本は置いてきてしまいましたから読み直すことは出来ません。後に、友達からメールが来て、彼女の評価は、「普通の小説だ。」でした。
2019年12月31日火曜日
昔の小説や映画が居心地よくなってきた、今日この頃です。
『小栗虫太郎全集』
最近人生の整理をした方がよいかと、本の整理を始めた。そして小栗虫太郎の本を手に取ってみたところだ。彼の本としては『人外魔境』と『日本探偵小説全集(6)小栗虫太郎集』の二冊を持っている。あとは復刻版『新青年』の中に掲載されている作品のみ。
若い頃、大正・昭和時代の日本の探偵小説、冒険小説にはまって、谷譲次や夢野久作、久生十蘭そして小栗虫太郎等を読み漁っていた。山田風太郎の「明治かげろう車」の類のものも読んだが、彼の場合は小栗虫太郎や夢野久作などとはちょっと違うジャンルと思う。
久しぶりに彼の本を手に取ってみて、とても驚いた。大正、昭和初期の話なので当然と言えば当然だと思うが、此処かしこに差別用語が散りばめられていると言うこと。つまり、その頃は差別用語と思われるものが「差別用語」ではなく単なる日常の言葉だったのかと思われるのだ。
もちろん、小説に差別用語を使うことに反対はしない。ずいぶん前の事であるが、筒井康隆さんの作品が、その中に差別用語が入っているという理由で、出版が差し止められた。彼はその言葉を使わなければ彼の言いたい事を表現しえないと、法廷まで行って戦ったが、結局負けてしまった。そして自分の書きたいように書けない状況で、小説は書けないとして、筆を折った。(今はまた書き始めているが)。
わたしも彼の意見に賛成である。読者が著述の意図を理解すればそれが差別用語であろうとなかろうと問題はないと思う。それほど「強い感情」があるということを表現しえるのはその「差別用語」を使うことのみであるのなら致し方ない事である。
もうひとつ驚いたのは、小栗虫太郎の博識振りである。わたしの読んだ「完全犯罪」の初出は昭和八年・「新青年」である。その時すでに、彼は「共感覚概念」を知っていたのだ。
「音を聴いて色感を催すと云う、変態心理現象があってね」
「ウンそうなんだ。脳髄の中の一つの中枢に受けた刺激が、他の中枢に滲みこんで行くからだよ」
等と表わされている。そして、この概念が殺人者を露見するヒントのひとつとして利用されているのだ。
今でも、この「共感覚」は一般的な語彙ではないと思うので、昭和の始めをや、と。それともその頃の教養ある人々には常識的なことだったのであろうか。第二次世界大戦でそれまでに日本人が培ってきたモダンな思想や教養が、すべて崩壊してしまったのであろうかとすら邪推してしまう。
とにかく本の整理をしてきて、まだ読み切れていない本や読んでいてもその内容を全然理解していなかったと感じられる本がワンサカあるなと深く反省した次第である。
2019年12月22日日曜日
己の意見を述べるには、先ず、「敵」の意見を知らなくてはね!
文化センターでハイデッガーの『存在と時間』の講座を受けていました。半年間で十回のコース。しかし、ハイデッガーが、『存在と時間』で何を言いたいのかと考察する熱意がいまひとつ起こりませんでした。
その理由のひとつは、講師がハイデッガーの哲学に心酔していない事でした。名古屋大学の哲学の教授ですが、彼はハイデッガーに影響を与えたフッサールの方により重きを置いている様子で、『存在と時間』が未完であることもあるのか(目次だけはあるので、ハイデッガーが何を書きたかったかは構築されていたのでしょうが、出版されたのは第一部だけのようです)、この書で書かれていることは哲学ではなく社会学だというスタンスでした。社会学として読めば非常に興味深く、人間存在の考察の新しい切り口が見えると言っていました。
もうひとつは、自分自身、なんかしっくりこないなと感じたからです。自分の人生を考える上で、何らかの得るところを示してはいないと感じもしました。それは何故かと考えると、ざっくり言えばこれは西洋哲学だからでしょうか。
日本人として育った私の思考経路に沿ってはいないという思いです。西洋哲学の流れとして、キリスト教の思想からの脱却は重要で難しかった事でありますが、そんな絶対的神に頭を押さえつけられていない日本人としての私には、自分の存在を主張する為にどうしても「そこから逃れなければならない」神という物が存在しません。
また、神の似姿として作られた人間は自然界の中で一番でなければならないという思想、そしてその理想の神に近づくあるいは認められる為にどのように振舞わなければいけないかという原則がないわたしには、理想の姿、生き方をどのようにでも始められる。つまり、「神からの脱却プロジェクト」をパスする事ができるという事です。
そこで、先ずは「西洋思想」のお勉強です。
斎藤孝著『さっくり!西洋思想』によりますと、西洋哲学の始まりは知性と理性を推し進め「真理」を追求する事にあります。その後はキリスト教に奉仕するものとなり、キリスト教の原理と合わない思想は排除されるという憂き目を見る事になっていきました。
そして、物事を知覚する科学の発達を阻害する事になります(中世ヨーロッパ)。その後のルネッサンスで、「思想」は神の手から徐々に逃れ出る事となりますが、長年にわたって培われた原則は、西洋社会に今尚存在すと思われます。
つまり、「相手の言う事が正しくない」という事ができる白熱した議論の場を提供している事。新しい原理(革新)とその否定による進歩の道筋です。
一方、東洋思想には経験的に知りたいという欲求があります。手間と時間と根気は必要ですが、結果は得られます。新しいものを求めて議論することではなく、昔ながらの原理を踏襲する事で統計学的な真実を得るという事。正しいかどうかは証明できません。しかし、経験に裏打ちされている。
つまり、お互いが相克しないことが求められ、協調して真理を、経験を、次世代に送り続けることが重要となのです。
「わたしが正しいのだ。違うと言うなら論破してみせよ。」とせまる西洋思想に、「正しいのかもしれないと」東洋思想は沈黙するだけなのです。東洋、はわたしが正しいと「経験的に」知っていてもなんです。
「ざっくり」と『ざっくり!西洋思想』を読んでの感想でした。
2019年11月22日金曜日
これから人類が突き進むべき道は、どう?
私の興味の一つに『現在の人が住む世界は、どうしてこうなったのか。』と言うものがあります。この観点から、『銃・病原菌・鉄』と『ピダハン』を読み比べてみました。『銃・病原菌・鉄』は、人類が世界に広がった後の一万三千年に渡る歴史が書かれています。『ピダハン』の方は、アマゾンに住む少数民族ピダハンの言語と文化について書かれています。
『銃・病原菌・鉄』の著者であるダイアモンド氏は進化生物学者であり、ニューギニアでフィールドワークをしている時、現地のニューギニア人のヤリという人物から何故現社会では「持つ者」と「持たざる者」の格差がこうもあるのかという疑問を投げかけられたのがこの本を書くきっかけであったと語っています。
人類が今のような世界を取りつつあった1万3千年前からの歴史を網羅し、ユーラシア大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸と扱う地域も膨大なものです。この時間的にも空間的にも、とてつもない量の情報をすべて深く均等に扱う事は並大抵のことではないでしょう。つまり、それぞれの内容に対する熟度にばらつきが見られます。しかし、とても興味深い事柄が示されている事は確かです。
狩猟採集生活から抜け出て貨幣経済にまで至った人々と、狩猟採集生活にとどまった人々がいます。その違いはもちろんその人々の能力の違いではなく、地形・天候といった自然環境の違いにもよります。
つまり、狩猟採集生活から脱け出せたのは、その土地に飼いならすことできる種類の動物がいた事実、そして栽培が簡単な種類の植物が繁殖していた事実からです。現代人には、動物の飼育や農耕は、狩猟採集生活より簡単で多くの収穫が得られると思われますが、実際は狩猟採集生活の方が簡単だとか。
とりわけその地域に豊富な獲物や植物が存在していれば、わざわざ苦労して畜産農耕生活を選ぶ必要はないでしょう。他の本(今、どの本だったかは定かでない。)では、植物栽培は非常な努力が必要なので、日常生活の食料として栽培していた訳ではなく、最初は、冠婚葬祭または集会といったような特殊な目的のためにされていたのではと指摘されていました。
「持つ者」と「持たざる者」の違いは、このように自然環境の違いによって始まったのかもしれません。しかし、その後は単純に自然環境の違いだけに理由を求めることはできないでしょう。長年の人類間の交流により、植物のタネとか飼育できる動物、そして本の題名のように「鉄、銃、病原菌」なども自然環境が良くない地域にも広まっていきましたから。
そして侵略も。
侵略等により同化を余儀なくされた人々がいます。または友好的な同化もあります。しかし、『同化』をかたくなに拒否している人々もいます。それが次の本『ピダハン』です。
ピダハンはブラジルのアマゾン河の流域に住む少数民族で、狩猟採集生活を営み、独自の言語を操っています。現在その使用者は4~500人。消滅の危機にさらされている言語です。著者であるアメリカ人のダニエル・L・エヴェレットは、その特殊な言語の研究のため彼等の村落に赴きフィールドワークを試みます。しかし、真の目的はキリスト教の布教でした。
先ずは著者の紹介から始めます。彼はもともと国際SILの伝道師として、聖書をピダハン語に翻訳すと言う使命を持って派遣されたのでした。著者は1951年生まれで1977年に初めてピダハンの村に派遣されてから、何度も一度に数週間から一年近く、三十年以上にわたってピダハンの人々と生活を共にし、ピダハン語を研究してきました。
その間に言語学の博士号も取得しました。今では、世界有数のピダハン語の権威で、その研究を通して今までの言語学の学説を揺るがしています。言語学の理論については私には理解不能ですが、彼はピダハンの言語を通してピダハンの文化を理解しました。その内容はとても興味深いものがあります(私は言語学にもとても興味があります。)。
実際、彼はピダハン語を取得し、聖書をピダハン語に訳すという使命をやり遂げました。しかし、その当人は、ピダハンの人々の文化・哲学に触れ、キリスト教を捨てて無神論者に転向してしまいました。啓蒙する目的が逆に啓蒙されてしまったようです。
ピダハンの最大の特徴は直接体験と観察に非常に重きを置いていることです。彼等が話すことに過去も未来もない。想像で物を言わない。ただ、本当に起った事だけが重要です。また、実際に経験した人から直接話を聞いた人物が、「生の形で伝える」ことだけに限られます。そんな人々は、直接経験したものではない聖書の話など当然受け付けられません。著者自身もそんな彼等の影響から聖書に疑問を抱き始めたのでした。
彼の観察によると、ピダハンには長持ちする物を作る技術は持っているものの決して作ろうとしない。道具を軽視していて、使い捨ての籠しか作らない。こういう事も、彼等の直接体験を重視する文化から来ていると言っています。
将来を気にしないと言う事に文化的価値があるようです。未来を描くよりも、一日一日をあるがままに楽しむ事。また、ピダハンは何をするにも、それに最低限必要とされる以上のエネルギーを注いだりしません。
少数語を話す人々は、たいてい経済的理由から公用語に転向していきますが、ピダハンにとっては、経済の問題も重要ではないのです。つまり彼等の生活は充実しているから。たとえ平均寿命が45歳で他の先進国の半分しか生きられないとしても、彼等は死を恐れてはいないし、彼等には天地創造の物語もなく、天国も地獄もないので救いを求める必要もない。ただ静かにこの世を去っていく、それだけ。そして何の不満もなく。
また、アマゾン川があれば、彼等は十分な食料を得られます。著者によりますと、漁や採集に費やされる時間は一週間当たり42時間。家族で分担すると一週間に15~20時間。まして、彼等にとってこれは労働の苦役ではなく、遊びに等しいと描写されています。
文化が変容し進化していくことが重要だと考える人々なら、そのために対立や葛藤そして難題を乗り越えていこうと言う精神が必要です。現在の生活に充足と安定を感じている人々には、そのようなものは必要ありません。
我々はもう進化の道に足を踏み入れてしまったので、後戻りするわけにはいきません。が、足踏みすることはできそうな気はします。「結局、人はどのように生きるのが幸せなのだろうか?」という疑問が湧いてきます。
我々は、ピダハンのような人々とどのように付き合っていくべきなのかは、相当複雑な問題だと感じます。しかし、現在の人類学のフィールドワークでは、「干渉しない」というのが原則のようです。我々現代人の「幸せ」を押し付けることは出来ませんからね。
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