2020年9月1日火曜日

読書導入剤……思いつくままに

 




最近根気よく本を読むことが出来なくなって来ました。問題は、頭がちゃんと働く時間帯は、囲碁の勉強をしているからです。つまり囲碁以外の本は、夜ビールを飲んだあとに読むので、頭に入って来ません。そこでどうしようかと。

 


 



学生時代の本を読む習慣を思い出しました。学生の時はどうしても研究書とか専門書を読まなければいけませんでしたが、取っ付きにくいもの。それで、いつも、先ず推理小説や怪奇小説SFなどの本を2~3冊読み、その後にふつうの小説を読みます。そして、エンジンがかかって来た頃に学術書を読んでいました。

 

 

と言うことで、ビールで頭が働かない時に、いわゆるエンターテイメント小説をよもうと。そして、本を読む習慣を取り戻そうと。

 

そこで購入したのが、『クリーピー』です。本のカバーが西島秀俊、竹内結子、香川照之だったのです(映画化の時の配役)。これなら買ってすぐに読めそうだと直感。

 

 

読み終えました。「クリーピー」と言うのは、虫が這いまわる…、転じて「気味が悪い」とか「背中がぞくぞくする」と言ったような意味です。「虫唾が走る」と言うことでしょうか。主人公のお隣さんが、いつの間にか入れ替わっていた(ようだ)という設定です。映画は見ていませんが、そのお隣さんがたぶん香川照之なのでしょう。そして、過去の未解決殺人事件と現在の連続殺人事件の絡み合い――です。

 

ミステリーなので、あらすじを書くのは難しいですが、感じたことは、この頃のこの手の小説はほんとに「過激」だなあ、と言うこと。たいてい複数人が殺されますし、殺され方も「半端じゃない」…よね。これでもか、これでもかと、恐怖をたたき込むのは何時頃からの流行でしょうか。。。

 

 

著者は、前川裕氏です。2011年、第15回日本ミステリー文学大賞新人賞をこの本で受賞したとありました。新人らしくちょっと文章が熟れていないところがありますが、スラスラと読み進められます。解説によりますと、この手の作品は「変格探偵小説」と呼ばれるそうです。「本格探偵小説」との対比です。

 

謎解きよりも怪奇幻想性やエロ・グロ、SF的要素になどに比重を置くものと定義されていました。1920年代の「変格探偵小説」群は、現代日本のエンターテイメント小説に多大な影響を与えているとのこと。江戸川乱歩、夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎、国枝史郎などの著作者の名が挙げられています。

 

これを読んで納得です。これらの作家の本は、わたしの本棚の定番です。高校生時分からの愛読書。わたしがスーパーの本屋さんで『クリーピー』を手に取ったのも正しい選択だったと言うことでしょうか。

 

 

その後の作者の著作は、『アトロシティー』(2013年)、『酷 ハーシュ』(2014年)が刊行されているようです。「本書を気に入ったかたは、ぜひご一読を。」と解説の最後で推薦されていますが、わたしが読むかどうかは、どうでしょうか。またのお話です。

 





2020年8月24日月曜日

思いつくままに③、かな?


 この頃、朝目覚めると、


「新しい朝が来た!」と思うんです。何故かなあ?

これには、肯定的意味と否定的意味があります。

今日も、新しい日だ!…… 頑張ろう!

と言うのと、

ああ、また、一日が始まるのかあ~~~、

と言うもの。


そして、思うのは、人類始まりの時は、時間の観念がなかったこと。現在、(多くの)我々は、「一日が過ぎて、新たな一日が始まる。」と思うと、思います。

が、

原始は、「一日」と「次の日の一日」には、「時間の経過」観念がなかったという事。

同じ一日なのでした。だから、「年齢」という観念がない。現在、いわゆる未開(ゴメンナサイ、表現の仕方がわからない。)の人々は、自分が何歳かの自覚がない。


という事で、わたしの「新しい一日」とは、何か?何故、頭の中で渦巻いているのか?


という事です。


2020年8月17日月曜日

G・ドゥルーズがスピノザを語る幸せ。。。

 

 

『スピノザ――実践の哲学』  G.ドゥルーズ

スピノザは言う。

もし人間が自由なものとして生まれついていたら、自由であるあいだは、ひとびとは「いい」とか「わるい」といったことについて、なんの概念も形成していないことだろう。


そうだよね~~~。他の生物は、良いことも悪いこともしていないもんネ。ただ生きているだけ。生きることに善も悪もないんだ。

G.
ドゥルーズの解説は、

「善」も「悪」も、単なる思考上の存在。想像上の存在にすぎず、さまざまの社会的標徴や、褒賞と懲罰から成る抑圧の体制に、全面的に依存しているのである。


やはり、誰かから見た「善と悪」ということか。あらゆる事に「恣意性」は宿っているのね。

 



2020年8月15日土曜日

今日の(思いつくままに)……


 最近のニューズから、

米国の中国叩き。

いつの事だったかなあ???

アメリカが、日本叩きをしていたのは?

日本がアメリカのGDPを脅かそうとしている時でした。

何か、かんか、日本の企業を叩くとともに、日本政府の経済政策にも口出しをしていました。地方の商業地区がシャッター化したのも、一部分はそのせいか?

アメリカ企業がTik Tokを買収するというニュースも、何か、胡散臭さが。


もちろん、日本と中国の思想体系が違うからという側面もある。


が、わたしは、アメリカの中国叩きが始まった時、「中国は、日本のように柔ではないからなあ。」と、


中国どう反撃する…と、


興味津々でした。



2020年8月13日木曜日

思いつくままに・・・・・・・・


 囲碁を始めてから、ブログにUPする回数が減りました。このことは、数回投稿しています。


何故か、


投稿する文章を書くのに、いろいろ構想を練って、文章を構築するのに、時間がかかって、その間にも、囲碁の事が頭を横切るし、布石とか定石とかが、頭を横切るし・…・…こんな事していていいものかと。


だから、何も考えずに、思いつくままに文章を書いてみます。という訳で、書いています。


が、何故UPすることが必要なのでしょうか。


それは、囲碁を研究しているだけでは、精神が満たされないからです。文章を書いて、昇華するのと、囲碁で昇華するとは、違う次元なのでしょう。


突っ込まれると、困るけど。なぜなら、思いつつくままに書いているから。



2020年7月12日日曜日

『家族制度』という、古~い、古~い、本……







先日、朝日新聞の書評欄に、『悩む「フルキャリ」女性』というタイトルで、2~3の本が紹介されていました。「フルキャリ」とは、『フルキャリマネジメント』という題名の本から来たようで、「子育てにも仕事にも前向きな働き手(女性)」を指します。

女性達にとって、職場の環境は徐々に変わってきてはいるものの、まだまだ、家庭では育児と家事を女性である自分が主に担わなければならないという親世代からの引き継いだ性別役割分業意識が残っています。

60年前に書かれた本、『女と文明』からの引用です。

「一個の人間であるところの女が『母』で勝負しなければならないということは、やはりたいへん非人間的なことのようにわたしは思う」「母と言う名の城壁のなかから一個の生きた人間としての女をすくいだすには、いったいどうしたらよいのだろうか」

これは、高度経済成長期以前の1959年に書かれたものです。フルキャリ女性達の悩みは、60年以上経った今でも、未だに続いているという事です。





それで、自分の本棚を探索してみたら、ありました、その手の本が。『家族制度』と『女性解放と現代』です。『家族制度』の方は、昭和33年に第一刷が発行され、わたしが買ったのは、第13刷の昭和46年のようです。つまり、1971年でしょうか。アマゾンで検索したところ、古本で「1円」で取引されていました。ほんとに、ほんとに昔の本です。

内容も少々古くなっておりましたが(パラパラと斜め読みしただけですが)、真実は変わっておりません。以下、わたしの考察です。


「家族法」(いわゆる家制度)とは、下級武士の「革命」で創立された明治政府が定めた法律です。その時、制度の近代化を図り、欧米列強諸国と肩を並べるために、法治国家となることが必要だったのです。「法律」という近代的な衣を着てはいましたが、所詮市民革命を経てできた国家ではありません。内容は、前近代的なものです。

どんな政府にも、人民をまとめ上げる理念が必要です。そのため、当時、武家社会の伝統と天皇制を合体し、「家制度」を確立したのです。「家を守ること」=「祖先を守ること」=「天皇を祭ること」、そんな構造です。国家統一のセオリーとして、「天皇を日本の父として万民が等しく天皇の臣下である」という確認です。

そのため、家長は、家の財産を守り、家族を統率する責任を祖先に対して(ひいては天皇陛下に対して)負っている。家長の財産は個人のものではないのです。家のものです。責任と義務の在りかを明確にする為です。それが、国に対する責任と結びつきます。

第二次世界大戦後、新しい憲法ができました。その後の為政者はそれを受け入れなくてはいけない。旧来の家族法もなくなりました。それ以前には、「家に個人の権利」を入れないことにより、明確な上下関係の秩序を保っておりましたが、戦後の憲法では、「個人の権利」が明確に担保されました。

為政者は、家族法にも個人の権利を入れない訳にはいきません。財産も平等に分けられますし、責任も平等です。そこで、為政者は、その「家長の権威、服従関係」が法律で否定されたことに対し、その事を「家族の情」まで否定するものと、問題をすり替えたのです。「子どもの親に対する道義はどうなる」と言うことです。それが、道徳教育による「家制度」の教えです。家族の中に「権利意識」が芽生えないようにとの試みです。

戦後でさえ、家族の関係は非合理な関係であり、家族法は他の法と本質的に異なるとする傾向にあります。家族の対立を権利の対立と考えないで、家族全体の幸福を図ると言う「和の回復」で処理しようとする傾向です。つまり、誰かが犠牲になって、「家」を守るという意味(多くは女性の犠牲)。民主的な家庭ではなく、それは「家制度」の名残りによる「家族の和」の押し付けかもしれないのです。

個人の利益主張は、それが自己の権利であるのか、それとも限界を超えた要求であるのかを客観的にとらえることが重要です。同時に、家族制度を壊す要因を科学し、その対策を社会で構築する事の必要性があります。つまり、社会保障や経済問題(労働問題)の解決です。

日本では「和の精神」以来、人間関係に適応する事が「無条件に価値がある事」と見なされる伝統があります。そのため、客観的な個人の権利主張も「こうあるべし」という倫理的命令の前で降伏せざるを得ない状況になることもあります。権利主張の正当性を認める民主主義を取るなら、個人が自主的に権利放棄をしない限り、その権利を認めるべきです。

誰も人に自己犠牲を強いることはできない。権利を主張することをやめさせるのは、家族への愛からだけ。「家族愛」を存続させるために、道徳教育と言う名を乗せて、政府が介入し無理強いしてはならないのです。あくまでも、愛は自主的であるべきです。

現在の状況を見ると、日本版NSCや特定秘密保護法、福祉の見直し、道徳教育の復活など、徐々に時代に逆行していくかの感があります。個人の権利を基礎とした家族の在り方を探る必要性があると言えますが、逆に、「家族とは何」とも考えてしまいます。

世界的に見て先進国では、「家」(制度としての)の崩壊は始まっています。ひとつには、「家」を維持する必要性がなくなってきたことがあるのでは。つまり、今、仕事は個人単位であります。昔ながらの農家、家内工業においては、家の団結が経済的に必要だったかも知れませんが、現在、人は個々に会社に行って働いて給料をもらってきます。

「家」は真に愛情だけが宿る場になったのかもしれません。愛情とは常に「不確かなもの」。その「愛」を堅固にしようと画策する「家族法・結婚制度」という法的手段は、もう要らぬお世話かもですね。




2020年7月3日金曜日

NEWSを見ていたら。





このコロナ禍とか、過疎化とか、諸々で、人が手抜きしたら、自然は猛然と襲ってくるね。

と、思った。


鳥とか、熊とか鹿とか。日本ではね。

もちろん、植物も。