2015年10月18日日曜日

豫園 (上海滞在記 4)


2003年上海を訪問した時は、単なる3週間の観光予定でした。それが紆余曲折あって今に至っています。未だにわたしは何故上海にいるのかわかりません。時たま真夜中にムクッと起き上がっては、

 

Why am I here in Shanghai NOW ???

 

と叫んでいます。

 

 

といったような話はまたの機会にして、豫園の話をしたいと思います。豫園は上海の観光地の一つであるとともに大問屋街。いろいろなものが凄く安く売られている観光スッポトで、もちろんたくさんの国からの観光客もいますし、日本人の観光客もいます。ここでわたしが言いたいことは、物には値札がついているが値段は交渉次第であり、どうあがいても中国人が買うより安くは買えないということです。

 

 

わたしとわたしの友達も、時々ここに買い物に行きます。たいていは仕事のためのもの。銀のアクセサリーに使える目新しいチャームとか材料とか。時には、わたしが材料を仕入れるなどのビジネスをしている日本の会社よりもうんと安く物が手に入ります。友達は、「何か欲しいものがあったら、一緒に交渉してあげるね。」と言ってくれます。

 

それは何かわたしに物を買わせたいような雰囲気でもあり、

「ほしいものあるか?」

「これいるか?」

「いくらなら買う?」

と畳みかけます。

 

わたしが、「これこれの値段なら買う。」と言うと、彼女は交渉を開始します。彼女が交渉している様子は、とてもおもしろくまるでパフォーマンスを見ているよう。怒鳴りあったりして、けんかしているのかと大丈夫かと思っても、すぐにお互い笑いあったり、時には大爆笑しますから、「ああ、ケンカじゃなかったんだあ。」と。売り手の男性がわたしの方を見て、困ったような仕草をすることもままあります。アメリカ人なら多分ウィンクするところなんだろうと想像したりして。「どうだい、君の相棒は手強いぜ。参ったなあ。」なんて感じか。それでも値段交渉がうまくいかない時は、彼女は帰る素振りをします。「もういらないよ。」と言うフリです。が、敵もさるもので、引き止めないことが。

 

「あの人、引き止めなかったね。まあ、同じ物どこでもあるよ。」が、彼女の捨てセリフです。たいていは、買えなくてもどうという事はないのですが、どうしても欲しかったのにと思う事も。もうこの辺でいいから「買う」と言ってくれと、内心思う事もありますよ。

 


 

ある日、わたしたちは一芝居打ちました……、

 

いつものように彼女は「ほしいものあるか?」とわたしに聞きました。そこは、屋外の陶器屋さんで、何かのイベントでその時だけお店を出していたようでした。

 

「あるよ、あるよ。これ。」と言うと、

「これ300元(1元はその時約14円でした)と言っているね。わたしこんな陶器の値段わからないよ。」と。彼女にもそれがどれ程の価値がある物か見当がつかなかったのです。

 

それは、大小で対になった陶器の角のような形をしたもので、白い素地の上に文字やら記号やら絵やらがたくさん描かれていました。大きい方は高さが40センチくらい、小さい方はそれより5センチほど低かったです。わたしは現金をあまり持ち歩かないようにしていましたので、「300元は現金で払えないよ。カードならあるけど。」と彼女に言いました。

 

カードはその頃、上海ではめったに使えませんでした。有名レストランとかなら使えそうですが、デパートでも使えません。わたしのカードの使用目的は、銀行でお金を引き出すことです。「カードは使えないね。幾らなら売るかまず聞いてみよう。」となって、交渉開始です。

 

わたしは、中国語はわかりませんが、こんな感じです。

 

売り手:幾ら持っているんだ。

友達:100元。

売り手:冗談だろ。

友達:嘘じゃないよ。(ポケットを裏返して見せる。)

 

段々、人垣が出来てきました。上海では物見遊山で人が寄ってくるのはふつうです。好奇心が旺盛でたちまち黒山ができます。友達は、わたしに日本語で「いくらなら出せる。」と聞きます。わたしは「200元」とお金を出そうとすると、彼女は出すなという手振り。彼女は100元で交渉しているのだから、現金を見せるのは禁物でした。そして、また交渉開始。

 

友達:日本人、100元しか現金持ってないと言っている。(彼女はわたしの友達ではなく、わたしの通訳のようなお芝居をしています。)

売り手:それでいいよ。

 

すると、その妻とおぼしき女性の売り手が怒って、「100元で売るなら足りない分自分が20元払え。」と男に言いました。

 

どこでも女は強いですね。男性の売り手は友達の交渉にたいてい根負けして「もういいよ。」となりますが、女は手強い。友達は「かわいそうだからあと20元出して」と言うので、120元で交渉は成立しました。

 

わたしたちは、うまくいったと思って笑い出しそうになりましたが、彼女は、「笑うなよ!」と。ふたりとも笑いをこらえて、大急ぎでその場を立ち去ったのでした。









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2015年10月17日土曜日

ムカデ(上海滞在記 3)


友達と「銀アクセサリーの作り方教室アンド材料販売」の仕事を上海で始めました。わたしはそのために上海に来たのではなく、ちょっと友達に会いに来ただけの事でした。そこでいろいろな経緯がありこういうことになってしまったのです。なので、わたしは実はオブザーバー気分なのです。

 

しかし、彼女はどんな仕事も片っ端から受けます。夜遅くの授業も引き受けてしまいます。しかし、上海の人は絶対と言っていいほど約束の時間に現れません。その日も、会社終わりに教えてほしいと言う生徒の予約が入り、夕方7時の約束でした。案の定生徒は現れず。友達の携帯に連絡が入りました。9時にしてくれと言うオファーです。もちろん、彼女は引き受けました。

 
 
 

 

その日、夜11時過ぎに帰宅しました。真っ暗なアパートメントに帰り、灯りをつけるとベッドの上にムカデがいました。まるで、わたしの代わりに安眠を貪っているように。それもわたしのベッドで。辺りを見回すと新聞紙が目に入りました。サッとそれをわしづかみにし、くるくる巻いて棒状にすると、思いっきりムカデを叩きました。

 

それは一瞬の出来事でした。ベッドの上のムカデを見たとたん、わたしの頭は「怒り」で真っ白になってしまったのです。つまりわたしは何も考えることなく、一連の動作でこの仕事をやり遂げました。「怒り」はあったものの、頭は冴えていてとてもクールでした。感情なしに人を殺せるクールな殺し屋といったところ。そして、ベッドの上獲物を見下ろします。

 

ムカデは見事にバラバラに。ムカデはバラバラになった何百というその脚とひとつのボディとなってベッドの上にいました。わたしのベッドの上で……。わたしは同じくクールに傍のティッシュペーパーの箱からティッシュを一枚抜き出して、ムカデのボディをティッシュでつかみ近くのゴミ箱に投げ入れました。

 

さて、残りの何百本の脚をどうしたものか。先ずはティッシュで脚をベッドから払い除けました。何百ものムカデの脚は今、ベッドの下の床に散らばっています。その悲惨な状況を見たとたん、わたしに感情が戻ってきました。わたしの眼から静かに涙が流れ始めました。知らず知らずに泣いていました。何かがわたしの身体を満たすのを感じました。頭のてっぺんからつま先まで。

 

「わたしは、何故ここにいるの。」

「なんでわたしはここに居なければいけないの。」

「どうしてこんな事になってしまったの。」

 

わたしは、とにかく自分を落ち着かせようと試みました。ムカデなんてどこにでもいるじゃないか。日本にもいる。日本のわたしの家で見かけたことだってある。そして、ムカデはいつも不意に現れるもの。予告なんてない。何も今日の出来事が「特殊なんだ」、という事じゃない。そんな日常の一遍に、たまたま「上海」で遭遇しただけの話じゃないか。それだけの事だ。

 

わたしは涙を拭って、自分に語りかけました。わたしは自分の人生をどこにいても冷静に受け入れなければいけない。どんな時も。それは思っているより簡単なことかもしれないよ。わたしには出来るよ。結局、人生は単純なもの。生きていくだけの事だもの。

 

わたしは、床に散らばった何百ものムカデの脚をティッシュペーパーで掻き集めると、何もなかったように静かにベッドの下に滑り込ませたのでした。









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2015年10月16日金曜日

上海滞在記  ②


前回、都心から郊外に住居を移したと書きました。今日は、引越をした直後のお話です。

 

先ずわたしがしたことは、お店探しです。わたしの必需品の「ビールと水」を確保するため。ビールはわたしの生活に必ず必要ですがなくても死ぬわけではありません。しかし、水となるとなくてはならぬものです。上海では水道水は飲めません。料理にも使えません。お皿を洗ったりはしますが、洗ったあと置いておくと乾いた水のあとに黒い汚れが残ります。水道水の中の不純物です。顔は水道水で洗いますが、歯磨き後に口をゆすぐ時はミネラルウオーターを使います。洗顔後、最後にはミネラルウオーターで目を洗います。「こんな贅沢なことをしてゴメンナサイ。」という気分で。

 

上海のオフィースや通常の家庭には、大きなミネラルウオーターのボトルが器機の上に設置されていて、その装置には蛇口が二つ付いており、お水とお湯が出るようになっています。最近では日本でも水をデリバリーしてくれる会社がありますが、上海ではそれが日常でした。お水がなくなりそうな時は、ユーザーはそのようなデリバリーをしてくれる会社に電話をし、配達を頼みます。すると20リットルくらいの水が入ったボトルを二個くらい抱えて配達人が現れます。

 

わたしと友達が営んでいるオフィースも同様なシステムを利用しています。わたしは、友達に自宅にも水を配達してもらえないものかと言うと、彼女は「彼らがどんなに傲慢かわかっているのか。」と言います。つまり、彼女がデリバリーの会社に配達を頼む時、一回で素直に水が来ることはありません。また、約束の時間通りに来ることも皆無です。受付の人は「なんのかんの」と文句を言います。配達を頼む電話をした後の彼女はいつも不機嫌でした。上海では事がスムースに運ぶことはめったにありません。わたしの友達でさえ、あらゆる人を不機嫌にさせる天才なのに「その彼女をや」です。

 

彼女は言いました。あなたにそんな電話ができるわけはないと。たとえ電話ができたとしても、それはあなたを悩ませるだけだと。それに、配達してくれた時、あなたが家にいるとは限らないじゃないかと。いつ来るのかわからないのだから。結局彼女はわたしの代わりにデリバリーの電話を掛けてくれる気はないのだと悟ってあきらめました。

 



 

と言うわけで、わたしはお水を求めて近所の散策を開始したのです。わたしが引っ越したところは、一般の中国人が住む団地でした。日本人のためのレジデンスに住めば、幼稚園あり、ジムはあり、お店はありですべて至れり尽くせりなのですが、経済的にそうはいきません。

 

中国の団地は超マンモスです。たぶん400世帯くらいは優に住んでいると思います。その上、ひとつの住居に一世帯とも限りませんから。その大きな団地は通常塀で囲われています。そして、表と裏にゲートがあります。そこに守衛さんが常駐しています。だいたい、表のゲートには「便利屋」と書かれているコンビニエンスストアのようなものがあります。わたしの部屋は裏口に近かったのでコンビニエンスストアはありませんでした。しかしラッキーなことに、通りを隔てた向かい側に「便利屋」はありました。表門にあるコンビニに比べると貧相なものでしたが。とにかく、お水は確保することができました。

 

しばらくはそのお店で水とビールを確保していたのですが、そのお店の暗さに気持ちが塞ぎうんざりしてきました。店は見たところ夫婦で営まれていたようです。その二人もお店同様暗い感じでした。お店が煌々と照らされているのは、日本だけの現象なのですが、その頃はそんな風に自分を慰める気分にもならなかったのです。それで徐々にちょっと遠くではありますが、表ゲートのコンビニに買い物に行くようになりました。そこは日本のコンビニ同様の店構えで、店員さんも普通です(中国人の普通と言う意味ですが。彼らは絶対謝謝に(シェー、シェー)とは言わない)。気さくなおばさんも一人いました。

 

こうして2~3本のビールと4リットル入りのミネラルウオーターを買うのが日課となりました。ご想像通り大変疲れます。それからもうひとつ、わたしの中に絶えず「恐れ」があるのです。緊急事態が起きたらどうしようかという事。お水を買いに行けなくなったらどうしようと。で、ある日閃きました。お水を凍らしておいたらどうだろうかと。500lmか600mlのペットボトルに水を小分けして、冷凍庫に保存しておくのです。そして、常時5~6本のお水を冷凍庫に確保することに決めました。

 

 

そしてついにその日が来たのです。緊急事態発生です。風邪をひきました。疲れと寝不足のせいでしょうか。熱がひどくてベッドから起き上がれない状況です。もちろん、外出もできません。

 

保存していた冷凍のペットボトルの水を水道水で解凍しようと思い、実際そうし始めましたが…、「なんだ、馬鹿じゃないの」と気付きます。水で解かさなくてもなくてもわたしの頭の上に置けばいいんじゃないかと。わたしの熱で解けるよと。これが「一石二鳥」でなくして何が「一石二鳥」なんだって。

 

凍ったペットボトルを額の上に置いてベッドに寝転がると、突然笑いの発作に襲われました。驚くほどの大声で笑い始めたのです。映画のワンシーンが頭に浮かびました。「わたしはベッドに寝ている。体中をシーツでグルグル巻きして。私の眼は大きく見開いている。うつろに。口には体温計をくわえて。そして、わたしの額の上に凍ったペットボトルが突っ立っているのだ。」

 

映画のタイトルは何か。

 

The Life Is So Ridiculous !!!









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2015年10月15日木曜日

上海滞在記  2003~2005 ①


2003年の7月に上海の友達に招待されて上海にちょっとしたはずみで行きました。それが、なぜか上海で商売をすることになってしまったのです。そして約2年上海で暮らしました。今年は2015年。10年余り前のお話で現在の上海の実情とはだいぶ違っていると思いますが、その頃のことを思い出してここに記します。北京オリンピックや上海万博の前のことなので相当の変化があるでしょうが。

 

少し前テレビを見ていると、上海の地下鉄で事故があったというニュースがありました。ぼんやり眺めていると、豫園という駅での出来事でした。「あれッ、わたしがいた時は豫園に地下鉄は通じていなかったのになあ。」と。そこでこんな物思いに耽ったのでした。

 
 
 

 

『地下鉄の怪』

 

わたしが上海に滞在していた時は、地下鉄は三路線だけ。その他あちこちで工事中だという事は聞いていましたが。友達が自慢気に言っていたのを思い出します。「名古屋には地下鉄はあるの。」って。

 

地下鉄1号線と2号線は、人民広場という駅で乗り換えができました。地下鉄は、最初にできた路線が次にできる路線の上に位置します。最初の路線の下に第二の線路を敷設しますから。

 

上海滞在中に一度デパートでのイベントを持ちました。銀アクセサリー制作のワークショップです。上海で一番大きいデパートということで、上海自慢の最新のデパート。という事は、少々都心から離れているということ。そこに二週間毎日通うことになったのです。つまり、毎日人民広場で地下鉄を乗り換えたという事です。

 

その乗り換えがとても変わっていたのです。普通は新しい路線が下にあるので階段かエスカレーターで移動しますよね。それをひたすら歩くのです。100メートル以上は歩いたと思います。なぜ、歩くだけで乗換駅にたどり着くのかと不思議でしたが、その道はゆるい螺旋状になっていて、そして気付かないほどの傾斜があるのです。

 

最初のうちはとても面白く感じました。少しずつ下っているので、自然に少し早足になっていくからです。わたしの周りの人たちも普段より足早になっています。しかし、毎日同じようにその道を通っていると段々疲れてきました。上海のデパートは朝10時から夜10時までの営業。なので、わたしも営業時間中働いていたのです。その道を毎日通っていると、まるで地獄の底に吸い込まれていくようでした。老若男女、乳母車を押すお母さんも足早に道を下っていくのでした。

 

後に思いました。上海はどこもかしこも人、人、人。その人の流れを緩和するためにそんな方法が採られたのではないかと。逆の乗り換えには、階段がありました。その階段を昇ればすぐに第一路線の駅に着きます。帰りは簡単でした。

 

 

『第二話』

 

わたしが住んでいたすぐ近くの駅の話です。同じく地下鉄ですが、郊外に住んでいたので駅は地上に出ていました。ホームから階段を下ると道路に続く道に降り立ちます。階段を下りて道を歩いているといつも目眩がします。わたしはサングラスを掛けているからだろうかと思いました。それである日、サングラスを外してみました。しかし、相変わらずなんだか目眩が。なにやら変な感じです。後ろに倒れてしまいそうな気がするのです。

 

ちょっと立ち止まって周りの人たちを観察してみました。彼らはふつうに歩いています。が、通路をよく見るとほんのわずかに上り坂になっているようでした。ほんとに、ほんとにわずかなスロープです。だから、わたしは水平な道を歩いていると思いながら進んでいるので、意識と身体の動きの違いから目眩が生じるのではないかと…。遊園地にあるビックリハウスのような感覚です。まっすぐ立っていると思っていると、まわりの壁が斜めになっていて、実は、人は前かがみになっているのだというような。

 

実際のところ真実はわかりませんでしたが、ある日通路の壁と通路の作り出す角度を観察したところわずかながらの傾斜があったように思えました。しかし勘違いかも。真相は謎です。

 

 

『第三話』

 

最後の地下鉄の怪のお話は、上海中心街の地下鉄の駅のことです。わたしは郊外に住んでいると先ほど書きましたが、その前は上海繁華街のど真ん中に住んでいました。「Shangxin Nan Lu Station」は、わたしが住んでいた場所の次の駅でした。そこによく行きました。というのは、その駅の真ん前にParkson Department Storeがあったからです。イギリスのデパートで地下にスーパーマーケットがあり、日本で普段使い慣れているものが売られていました。シャンプーとかチーズとかです。

 

美味しいパンもおいてありました。日本にいると日本がいかに西欧化されているか気が付きません。その頃の上海は、まだまだ西欧化されておらず、町に喫茶店もありません。中国茶を飲む喫茶店はたくさんありますが、コーヒーを飲める喫茶店はなかったのです。上島コーヒー店は見られましたが、コーヒーを飲むところではなくお食事をする場所でした。イタリアンレストランやフランスレストランなどの洋食レストランはなく、ステーキハウスもありません。あったのはマクドナルドやケンタッキー・フライド・チキン、ピザハットです。あとは全て「中華料理店」でした。ですから、わたしは「パークソン・デパート」だったのです。

 

地下鉄の駅から階段を上っていくと、上から三段目のステップでつまずきます。それも毎回です。ある時何故だろうかと考えました。するとそこだけステップの高さが違うのです。少しだけ他のステップに比べ高いのです(高さの幅が違うというのでしょうか)。そこをわたしは同じペースでトントントンと上っていくので、つまずいてしまうというわけ。しかしそのことを気付いた後も、注意しなければと思いつつ、つまずいてしまうのでした。

 

 

 

中華人民共和国、万歳。








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2015年10月13日火曜日

ノーベル賞からの~、ひとりごと


今年も日本人がノーベル賞を受賞する運びとなりました。わたしの周りの人たちもいろいろと話題にしています。「日本人は賢い。」と言っている人もいました。今回は、中国の方も同時に受賞しましたが、韓国と中国は「なぜ、日本人がノーベル賞を我が国より多く取れるのか」ということを分析しています。そのひとつの答えは、「日本語」でした。

 

「日本人は、日本語でモノをなんでも考えることができる」これが重要な事です。中国や韓国は、もちろん自国語はありますが、学問をする場合多く英語で学びます。そのために自国語でなく英語で研究をしてしまうということです。その他、欧米以外の国では、自国語を棄てた国もあります。言葉を棄てると言うことは、その国の考え方を棄てると言うこと……言葉は、その国に必要な事を表わすために発展しているからです……、その国の伝統を棄てると言うこと……伝統は、その国の言葉でしか伝承されえないからです、つまり、その国のアイデンティティを棄てると言うことになってしまいます。

 

アフリカの多くの国は、英語やフランス語、ポルトガル語などが公用語となっています。もちろん彼等のもともとの言語もあります。しかし、西洋文明が彼等の国を襲った時、彼等は、その事象を表現する語彙を彼等の言語の中に持っていませんでした。アジアも同じです。フィリピンは、英語を受け入れました。それゆえに大学で物理や化学などを学ぶ時、それを表現する自国語を作り出せませんでした。もちろん、英語を受け入れてからの文化の熟成はあるでしょう。それは新たなるアイデンティティの創出と言えるでしょうが熟成の期間はかかります。

 



 

日本についても同じ事が言えます。俗に言う「黒船来航」です。しかし、日本の場合は、その前に、西洋の情報をたくさん仕入れていました。種子島の鉄砲伝来…でしょうか。西欧の第二次産業革命からの植民地支配の前に、日本は予備知識を獲得していたこと、それが日本がラッキーだったことなのでは。それは、日本人の探究心のたまものとも言えますが。

 

以前、『黒船来航――日本語が動く』という本の感想をUPしました。その時に述べたように、その時点で、日本人は蒸気船を知っていたし、彼等と意志を通じ合う言語も持っていたのです。また、誰が、その船のボスであるのかとか、どの船に重要な交渉相手が乗っているのかとかの情報は持っていたのです。

 

そして明治維新。西洋文化が、ものすごい勢いで日本を襲って来た時、日本の大学では、西欧の知識を日本語に翻訳したのです。翻訳できるボキャブラリーを日本語がすでに持っていたという現状はありましたが。生徒達は英語での授業の後で、翻訳の時間を設け、今日習得した知識をすべて日本語に変換したのです。この時変換された日本語が今の我々が日本語で新しい事象を表現できる基礎になっているのです。

 

(西欧文明が彼等を襲った時、中国は違っていました。中華思想です。彼等が中国より優れているとは思わなかったのです。西欧の知識を軽視しました。中国では後に、日本が翻訳した西欧の新しい語彙の翻訳を取り入れました。)

 

ですから、意味が少々違うこともあります。例えば、「神」とか「哲学」とかです。我々の「神」と彼等の「神」は全く違います。また、日本語に「哲学」はなかったと思います。あるのは「思想」でしょうか。しかし、quantumを「量子」として日本語で考えられるとか、その他、水素、原子、分子、などなど、我々は科学を日本語で思考できます。量子以降は日本語にはありませんが…。英語圏の特権ですね。
 
これをどう考えるかは…、「あなた次第」ということで。おヒラキ。







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2015年10月3日土曜日

英語学習に関する三つのエピソード


前回英語学習について考えました。関連して、わたしが興味を魅かれたエピソードを紹介したいと思います。すべて朝日新聞の記事からです。

 

一つ目は、『英語をたどって』という連載記事から。わたしが興味を持ったのはその中の一つ、北関東の男子高のお話です。

 

栃木県立宇都宮高校の英語部のこと。わたしは失礼ながらこの高校のことは知りませんが、記事から察するに有名進学校のようです。記事は少し古く2013年。この記事で「昨年12月の全国高校生英語ディベート大会で宇都宮高校が初優勝し参加250校の頂点に立った。」とあります。

 

その英語部の顧問であり英語教諭有坂由美さんは、三年前に(2013年の三年前)宇都宮高校に異動してきました。その時、外国語指導助手(ALT)が教える授業を見て驚きました。なぜかと言うと、中学生レベルの英会話をしていたからです。「今何時ですか」とかの類です。生徒達に感想を聞くと、「つまらない」、「息抜きの時間」との返事。そこで、ALTに彼等の知的水準に合わせた授業をしろと談判。そして、英語で議論をする授業が始まったのです。

 

彼等の知的興味を引く授業は大成功で、生徒の英語力はどんどん上がりました。ディベート大会に出場した生徒の中には、入学時には全然英語を話せなかったという者もおり、発音も日本人的な生徒が多く、帰国子女たちが多いディベート大会では不利かと思いきや…、優勝ということです。前副部長の小田君は、「言葉の情報量では帰国子女の英語には勝てない。少ない言葉で反論できるようにした。ぼくらは相手の主張の幹を切る。」と言っています。

 

そして日本で優勝を果たした彼等は、トルコで開催された世界大会に出場します(2013年)。その結果はどうだったのか。小田君は、「透明な壁にぶちあたったみたいでした。」と言います。相手にぶつかれないということでした。話すスピードや語彙が段違い。嵐のように主張が飛んでくる。

 

予選の相手国は、タイ、トルコ、チェコ、アラブ首長国連邦、スウェーデン、インド、レバノン、ボスニア・ヘルツェゴビナの八カ国。結果は、レバノンに勝って、1勝7敗。しかし、彼等の1勝は快挙で、日本代表では3年ぶりの勝ち星だったのです。

 

世界との差は何なのか。出場した生徒達の話です。「外国の高校生たちは議論するのが当然、主張するのが当然、という感じだった。でも僕らは日本でふだん、議論する必要がない。へたに議論しようとしたら、煙たがられる」。また、「英語部の中で議論するのはいいけど、教室でやったら友達がいなくなる。クラスの多数の意見なら違う意見は言わない。英語部では、気になることがあれば口にする」。

 

インタビューを敢行した記者の結論は、

 

「英語ができない」って何なのか。ひょっとして「議論ができない」ことを英語のせいにしているのではないのか。

 

 

と言うことは、つまるところ「文化の違い」と言うことでしょうかねェ。言語と文化は切り離せない関係ですから。この矛盾点を如何に克服するかですね。わたしも英会話クラスでは浮いていましたし、煙たがられていました…、今思うに。

 



 

二つ目の記事は、最近のもの(2015年8月)です。『いま、子どもたちは――英語ディベート』。同じく話題はディベートです。こちらは茨城県立竹園高等学校のお話。ディベートのだいご味はチームプレーだと述べられています。英語を流暢に話す生徒がたくさんいても、必ず勝てるわけではないと。

 

わたしが興味を持った点は、ディベート大会のために生徒がさまざまな話題を徹底的に調べることで、生徒達の進路選択にも刺激を与えているというところでした。

 

2年生の諸岡彩さんは、今年の話題である「PKO」について調べているうちに、日本の国際的な立場や国際関係をもっと知りたくなり、外交官を将来の視野に入れたそうです。また、ディベートで論理的な考え方を鍛えてもらっていると感じている上島さんは弁護士や検察官に興味が出てきたそうです。2年生の高橋さんは、原発の是非を調べて論じたことがきっかけとなり、大学では、環境系の学部で学ぶつもりだと言っています。

 

 

やはり英語を学ぶと言うことは「英語を学ぶ」と言うことでは終わらないと言うことでしょうか。単に「英語を学ぶ」と言うことは目的になり得ないのです。彼女たちもそれぞれの道を模索し、突き進みそしてその上で英語力が武器になればステキなことでしょう。(ちょっと上から目線でした。スイマセン。)

 

 

最後は2015年9月の記事から。『ひと』という毎日掲載されているコラムです。9月2日の「人」は、大場則之さん。海外留学のお話です。彼は、「ISC留学net」というネットワークを立ち上げました。留学の相談からアフターケアまでのすべての世話をしてくれるそうです。そのきっかけはこうです。

 

彼は慶応大学理工学部を卒業し、ベンチャー企業の雄、堀場製作所に入社しました。24歳の時、フランスの田舎町に赴任。その時は片言で英語が話せるだけでした。4年余り欧州で過ごしました。その後転職などを経て、6年前に死期を悟った学習塾の社長にあとを託され学習塾を営むことに。

 

そこでいろいろな問題を抱える親や子供に遭遇します。どうすればいいかと考えたところ、自分がひとり欧州で暮らした日々を思い出しました。日本人ひとりぼっちで暮らした忍耐の日々。しかし、仕事も生活も自分で決断することで「生きる力」ができたと。彼は、留学も人生修業だと考えました。迷える親子を「留学道」に誘おうと思ったのです。今では、年間100人ほどが一年間の海外生活に旅立ちます。親からも「見違えるほどたくましくなった」との声が聞こえます。

 

 

「留学道」とは興味深いですね。「道」とは、何かの技術に哲学的な意味が加わることと思います。剣術が剣道になったり、柔術が柔道になったりと。「術」はテクニック、「道」はその術に精神性を見出すこと。この三つのエピソードはすべて、英語を話すテクニックからの…、もう一段上の何かにスライドすることと思いますがどうでしょうか。








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2015年10月2日金曜日

英語学習について考える


英語の学習方法については、明治の頃からいろいろな意見があり紛争は未だに続いているようです。

 

明治時代から「西洋の文化や知識」を学ぶための実用英語が重視され、一部の小学校で英語が教えられました。これに対し、英文学者岡倉由三郎は、日本語を習得する途上のこどもにとって弊害になると批判しました。現代にも通じる議論ですね。

 

英語学習推進派は、主に経済との関連で動いているようです。英語が話せないと経済のグローバル化に乗り遅れるとの思いでしょうか。高度成長途上の1950年代には、日本経営者団体連盟が「役に立つ英語」を要望しました。2000年には経済団体連合会が小学校からの英語学習を提言。

 

しかし、「英語の学習開始が早ければ早いほど良い」という主張は実証されていません。米ペンシルベニア大学教育学大学院のバトラー後藤裕子准教授は、「幼くして英語圏に移住した子には当てはまるとする研究結果が少なくないが、日本語環境では『良質かつ大量の英語のインプット』がない限り、むやみに早期に導入してもあまり効果はない」と述べています。

 

『「日本人と英語」の社会学』という本の書評を見ました。寺沢拓敬氏の著作です。「なぜ英語教育論は誤解だらけなのか」という副題が付されています。彼は緻密なデータを基にして英語学習方法に関して言われている言説を否定します。まず「グローバル化の進展によって英語の必要性はますます高まる」と言うことについて、彼は、2000年代後半には英語の必要性は減少さえしていると言います。英語ができればいい仕事に就けるとか収入がアップするということも、同じように間違いであるとデータで示します。また、「日本人はアジアどころか世界でもっとも英語が下手である」とか「女性は英語学習への意欲が高い」という言説も間違いであると。そのような間違ったイメージに基づいて英語教育政策が進められるのは極めて思慮のない行為でしょう。

 
 
 

 

現在の状況として、2011年度に外国語活動(一応外国語活動ということでどの外国語でもよいのですが、英語です)が小学5~6年生で必修化されました。文部省は東京五輪・パラリンピックを視野に入れ、20年度までに「活動」を3~4年生に早め、5年生からは成績をつける教科とする方針です。

 

このような経緯を考えると「英語学習とはなんぞや」と思ってしまいます。わたしの考えは、「学校とは学問をする場所であり生活の手段を教えるところではない」というもの。保険体育や技術家庭などもそう思います。それらは単に技術を習得しているということではありません。

 

 

新聞紙上でいろいろな専門家や学者先生が、英語学習について意見を述べていますが、今まででただ一人、わたしが賛成する意見を述べている人がいました。関東学院大学教授金森強さんです。彼は、小学校で英語を教えることに不賛成である訳ではありません。その意義をこのように言っています。

 

「小学生に英語の表現を教えリピートさせる…、これが英語を教える事とは言えません。教室で外国語指導助手(ALT)と関わり、彼等と話せたという事が重要である。」

 

つまり、英語を話すとちゃんと言っていることが伝わるという事だと思います。日本人同士が英語を話して意味が通じあっても、なにか現実味がありませんが、外国の人と話して自分の言っていることが相手に伝わると、「オオッ、」と思ってしまいます。わたしの英語学習の原点でもあります。

 

「それから日本語と英語の違いを自分で理解すること。」

 

日本と違う言語があり、違う文化が存在するのだという「気づき」ですか。

 

しかし、金森さんは専門家の先生達から、「あなたがやりたいことは『英語の授業』ではない。」と言われたそうです。国際理解や言葉の教育なら、英語でやらなくともいいだろうと。彼は、日本語でなく外国が間に入るから、自分で気付くチャンスになると言います。

 

小学校で英語教育をするということは、以上の意味で大切なのであって、決して「小学校から始めたらこどもたちの英語力が一気にあがると言うことではない。そんな幻想は捨てた方が良い。」と。

 

もうひとつ彼は興味深いことを言っています。

 

「英米だけでなく様々な国から来たALTがいて、彼等に接してコミュニケーションをとることが子どもたちにとって重要だ。」

 

NHKの番組でこう発言しましたが、「おまえは子どもに偽物の英語を聞かせろと言うのか」という抗議の電話がたくさん来たそうです。実際、世界で英語を使っているのは英米人だけではありません。「隣の学校のALTは白人なのにうちの中学は違う」と抗議する親もいるそうです。これでは、もともとの「なぜ英語を学ぶか」という意味に反します。つまり、英語を通しての国際理解です。世界にはいろいろな人種がいる。いろいろな文化がある。そしてそれは等しく認められなければならない。多様性を認めること、それが「グローバル化」と言うことではないのでしょうか。

 

 




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