2019年6月23日日曜日

妄想してしまう・わ・た・し






以前、毎日ブログをUPしようと思った。と、書きましたが、未だ至らず。

毎日、「ネタ」は思いつくのですが、そのネタに対し、いろいろなことが頭をよぎるので、小文にまとまりません。

で、「妄想」の部分を抜きにして書いたらどうかと。

例えば、今日のテーマは、「『男の強さ』幅利かす世界とは」です。

「男の強さ」を重視する社会では戦士が特権を与えられ、結果として紛争の頻度が増す―――、というデータ分析の研究結果。

人類学者の報告です。

「男の強さ」とは、攻撃的な事、復讐が良いとされる事。つまり、「名誉の文化」です。そんなことが尊重される社会では(調査対象はマサイ族の戦士など)、隣人の部族との闘争回数が多くなるという研究。








そこで、わたしの妄想が動き出します。

つまり、男らしさを捨てたほうが、平和な世界が来るのか。それが、文明なのか。文明によって、男女の格差が軽減していくのか。という事は、社会は中性化していくのか。そして、男らしさの最後の砦が、「資本主義」ではないのか。

男が筋力を誇示するなら、毎日、外で戦って、獲物を捕まえて来いよ!仕事して金稼いでくるんじゃないよ。金なんか女性も稼げるのさ。

また、現在の男女格差は、「体格差」と「筋力差」。動物は、雌雄の権力の格差が激しいほど「大きさ」に違いがあるとか。その格差が無くなっていくのに連れて体格差が縮まっていくとか。今、一番格差のあるのが、「トド」です。

で、人類は、格差が縮まっているとか。欧米人を見よ!


という、妄想が広がっていくと、短く話がまとまらない訳です。



で、続きはまた。そして、UPは、妄想が始まる前に書くのを止めたい・……という話です。




2019年6月13日木曜日

嫌な予感。







今朝、探し物をしていて、冷蔵庫の上に置いてある籠の中身を調べていたら、冷蔵庫にたくさん引っ付いているマグネット(海外のお土産品)の一番重要な位置にあるものが、ちょっと触ってしまったので、落ちた。

それは、床に落ちて割れた。タイ空港で買った、ちょっと不思議な雰囲気の童女の人形のマグネット。だから、冷蔵庫の扉の一番上に飾って、他のマグネットを見下ろしている感じにしていた。

割れて首が落ちた。首だけ落ちた。不吉な予感。全く<迷信の>根拠はないものではある。

で、

数分後、玄関のチャイムが……、ピンポ~ン、ピンポン、となった。今日は燃えるゴミの日で、扉の前に置くシステムなので置いていたのだが、

チャイムを鳴らした隣の住人が、「お宅のゴミがひどいことになっているよ。」、と。スイマセンと言って、外に出たら、カラスのせいか、ゴミが散乱していた。ちょうど、そこにゴミの収集車が来て、事なきを得た。

次は、違う側の隣の住民が、玄関のチャイムを鳴らす。

エ~~~、何事?また、何かあったの?(今までも、いろいろ言われている。)

この数日の雨で雨どいからの雨水が隣の敷地に落ちて、苔が生してしまったとの御宣託。これは、雨どいの方向が悪いので、何とかしてほしいとの事。

彼女は、いつもそんなにキツイ調子ではなく、スイマセンがと言う態度なので、そんなに「困った」という感じではない。でも、解決しなければならない。そして、そのついで(こっちの方が目的か)わたしの近況とか家族の近況とかを聞いてくる。今日は、「いつも何をしているの?」と聞かれた。


まあ、あれやこれや……、と口を濁すと、「そうね、このお家を維持するには、いろいろやることもあるよね~~~。」と言って去っていった。

やれやれだけど、またひとつやることが増えた。






2019年6月10日月曜日

ちょっと、嬉しくなったので。。。





昨日の本の書評です。

アンソロジスト 東雅夫 という人が、誰だか知らないが、こんなことを書いていました。

世界三大異界散策小説(短編限定)といえば、英国の神秘小説家アーサー・マッケンの「N」、ベルギー最大の怪奇小説家ジャン・レイの「闇の路地」、そして我が泉鏡花の「高桟敷」であると、ひそかに信じて疑わない私でだが、このほどその一角を脅かしかねない凄い作品に出逢ってしまった。

わたしが、喰いついたのは、「アーサー・マッケン」。もちろん彼は評価はされているが、こんな大新聞社の書評では、ついぞ、名前はでないです。

彼は続いて、英国出身作家メトカーフの作品集『死者の饗宴』に収録された「悪い土地」と謎の覆面作家・服部独美のデビュー作『教皇庁の使者』を挙げています。

両方とも、ソソラレルケド、出版社が国書刊行会だからなあ~。高いんだろうなあ~と、考慮中。




2019年6月2日日曜日

名古屋の位置は?




ニュース番組とか、ワイドショーの最後には、必ず天気予報のコーナーがありますよネ。

その時に、東京キー局と大阪キー局で、名古屋の位置が違います。東京では、名古屋が西日本になります。大阪では、名古屋は東日本になります。

で、それは何故か。

名古屋の位置が微妙なんだなあ~と、思っていました。名古屋は、アイデンティティを主張できないのかと。名古屋キー局頑張れよ。

よくありますよね。日本の東西の境目。美容院や理髪店で、洗髪の後、「痒いところはありますか?」と言うと、東京は、「ありません。」と応える。大阪は、「ある。」と応える。冗談交じりに。「背中。」とか、「鼻のあな。」とか、あとで、「先きの質問まだ有効ですか?」とか。

そして、名古屋は中間なんです。50%、50%.。イエスかノウかがね。

名古屋頑張れよ!主張しろよ!と思っていましたが、





これは、画面の問題があるんじゃないの?、って。

つまり、西と東に日本を分ける時、大阪では、名古屋を東にすると、大阪は、画面の一番上に来る。東京が、名古屋を西にすると、東京が画面の一番下に来る。

という事は、

両方とも、一番目立つ……という事か?


今の結論はそんなところです。


どうでしょう。






2019年5月19日日曜日

今日の新聞広告の本






新聞の本の広告を見るのは、まあまあの趣味です。

今日は、

『思考機械』
『美しく呪われた人たち』
『科学tの女性差別とたたかう』

すべて作品社の出版です。

まだ内容をチェックはしていませんが、すべて「そそられる」題名です。





『思考機械』は、あの『ホームズのライバル」のというタイトルの短編を含む本邦初翻訳の50篇の短編集だそうです。

『美しく呪われた人たち』は、あのフィッツジェラルドの本邦初翻訳だそうです。

『科学の女性差別とたたかう』は、最近流行の『妻のトリセツ』などの似非科学本の反論のようです。旧来の科学の偏見に挑むとあります。ーーー是非反論してもらいたい。


以上。





2019年5月16日木曜日

お隣はデニソワ人




以前、『我々はなぜ我々だけなのか』という本の感想をUPしました。現在人類は我々「ホモサピエンス」」だけの存在ですが、過去にはいろいろ多種多様な「人類」が生きていました。

特にアジアには消え去った多様な人類がいました。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人の研究が盛んです。アジアにおける旧人類の研究はまだまだです。そんな中で、この本はアジアにおける人類たちについての研究成果を報告しています。





と、ここまでは、導入部です。私、この本を読んで「デニソワ人」にいたく興味を持ちました。と言ってもその名前の「響き」だけの事ですが。何かそそられませんか。同じように「ガニメデ」という言葉にもいたくそそられています。木星の月の一つの名前です。フィリップ・K・ディックもこの名称が好きらしく彼の作品によく出てきます。

それで、デニソワ人ですが、息子にメールをして、「『お隣はデニソワ人』という話はどお?」と言ってみました。彼は漫画家です。返事は、「あなたが原作を書いて、気に入ったら描いてもいいよ。約束はできないけどね。」というもの。

正直、こんな返事が来るとは思いませんでした。いつものように無視されるか、鼻で笑われるか……を想像していたのです。それで、少々考えてみました。





いろいろな人類が存在していて、我々ホモサピエンスとも「彼ら」は交雑しています。我々のDNAの中に彼らの存在が刻印されています。しかし、交雑によるハイブリッドの子孫は生まれなかった模様。ラバに子孫ができないように。

しかし、デニソワ人にだけは出来た……という設定はどうか。そんな集落があって、その集落に知らずに引っ越してしまった主人公、どお?あるいは、反対に主人公のお隣に、デニソワ人が引っ越して来た、どお?

デニソワ人のDNAで何が起こるのかは知らないけれど、漫画なんだから(お話なんだから)『らんま1/2』のような事が起こってもいいんじゃないの?性別がなくて、出会った人により性別が決まるというような。ミミズのように。

主人公とその妻によって、その性別が変わるのだ。ミミズは、土の中でミミズ同士の出会いが少ないので、そのまれな出会いを有効に活用するようにミミズには性別がなく、出会った瞬間に「どちらがどちらか」が決まるそうです。

つまり、数少ないデニソワ人の存在がこんな風にデニソワ人がなった理由だ、というのはどお?


という事で、また、思いついたら続きを書きます。




2019年5月10日金曜日

読んでいない本の感想文です。








新聞の広告欄を見て興味を持った本です。今回は3冊興味のあるタイトルの本がありました。



1冊目は、『シンギュラリティは近い――人類が生命を超越するとき』です。キャッチコピーは、「2045年、これが私たちの衝撃の姿だ!」。または、「『ポスト・ヒューマン誕生』のエッセンスを集めた決定版!」。



先ず、「シンギュラリティとは何か。」と考えました。Singularの名詞形だなと。だから、単数、単一の意味かと。で、ふだんわたしが考えていること―――、『人類はサイボーグ化している。』つまりiPS細胞からの身体の再生や、コンピュータ制御の人工四肢や人工耳、人工眼、その他諸々で、人はもう自然界から遠い存在。SFの世界の「機械人間」です。この調子で行くと、人は死ななくなる。もはや生殖活動は必要ない。と言うことで、人類は単細胞生物のように「不死」となり、「性生殖」を失うということかなあと。つまり単一性。――シンギュラリティの意味の話ですが。



しかしアマゾンで検索したところ、どうも違うらしい。「特異性」という意味らしいとわかりました。「人類は生命を超越する」です。「AIが人類の知性を上回り、私たちは生物の限界を超えてついにシンギュラリティへと到達する──。」と紹介されていました。つまり、人類はAIのおかげで「生物」を越えてしまうということでしょうか。



著者は、「未来学者として技術的特異点の到来をいち早く予見し、人工知能(AI)の世界的権威として現在はGoogle社でAI開発の先頭に立つレイ・カーツワイル」とありました。彼は、その状況を肯定的にとらえているようで、さすがアメリカ人の楽観主義かあ…、と購入する意欲が失せました。










2冊目は、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』です。これはわたしが普段から抱いている感想から興味を持ちました。それは、「人は人ひとりで完結していない」ということです。たいていの生物は、他の仲間の助けを借りなくても一個体で生きていけます。しかし、人の生活は全てが細分化されており、もはや生活に必要な事を自分自身一人で出来なくなっています。それが、「社会生活」と呼ばれる人類発展のストラタジーなのだ……です。



この本は、都市でもできる狩猟採集生活――、つまり、都市でもひとりで人生を、生活を、完結することが出来る指南書なのかと思い、アマゾンで検索したところ、都市で暮らす路上生活者のお話のようです。



わたしの思いとちょっと違うなと。路上生活者は都市の「特異」です。物が溢れている都市だからこそ、お余りをお裾分けしてもらって生きていけると言うわけです。全ての人が貧乏な何も持っていない社会では、路上生活者は生きていけません。



アマゾンのカスタマーレビューに「普通、わたしたちは働いて金を得、その金でものを購入し消費する、その繰り返し、そのサイクルの中で生活し、またそれ以外の生活は考えられない、というより考える事もないわけだが、本書によるとその生活は一つの観念に過ぎないのだ。つまり、わたしたちはあまりにも一つの生き方に縛られ続けている。本書の一番のウマ味はその〈気づき〉にあると個人的に思う。」と書かれていました(引用してすいません)。また他のカスタマーレビューでは、「『<都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる唯一の革命なのだ』(本書P148)。」とありました。



わたしはもうそのことに<気付いて>いるからこの本は購入しないことにしました。



その観点では、『増補 サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか』と言う本も良いかも。日本海から北アルプスまでを、米と調味料だけを持ち縦断した記録、とあります。他の食料は現地調達し、自然の中で眠る生活というような感じでしょうか。「自然にじかに身体をさらすことで、おぼろげな個人の輪郭がはっきりとしてくる。」と書評にありました。でも、これも都市生活から一歩身を引いて、自分の生活を見直してみると言うことですね。



お金を払わなくてもいろいろなものが手に入るという「田舎暮らし」はまだまだ存在しています。そんな田舎の人々には、どうでもいいことでしょう。しかしこれはGDPの増減を気にしている政府にとっては、とんでもない行為でしょう。お金で物を買わなければGDPに換算されませんからね。



人の行動をいちいちお金に換算することは、もうやめようよ~。










三冊目は、『QJKJQ』。「2016年江戸川乱歩賞受賞作!」とありました。「17歳の女子高生。亜李亜の家族は全員が殺人鬼。ある日、兄の惨殺死体を発見する。亜李亜は父に疑いの目を向けるが、一家にはさらなる秘密があった――。」と。



有栖川有栖氏が、「これは平成の『ドグラ・マグラ』である」と批評しており、その「ドグラ・マグラ」に魅かれ目にとまった訳です。ご存知、夢野久作の『ドグラ・マグラ』です。わたしの本棚にもありますが、内容はすっかり忘れています。



アマゾンで検索したところ、あまり評判はよくなさそう。これは『ドグラ・マグラ』ではない!という一文も目に入りました。それで、即、購入はしないことに。



そのかわり、本棚にある『ドグラ・マグラ』をもう一度見てみました。その解説は「精神操作の恐怖と自由の問題」という題が付いていました。精神操作には、マインドコントロールとルビが打たれています。わたしは、昭和52年にこの本を買いました。しかし、発表されたのは1935年です。その時代に「マインドコントロールとはね。」と興味が湧きあがりました。



この作品が発表された時、多種多様な評価を受けたようです。



狂人自身が書いた狂気の世界――江戸川乱歩

思想の容器として独自の位置を占めている――鶴見俊輔

弁証法の傑作――森秀人

ありうべからざる幻想世界を通じて、ありうべき社会を予言した、狂気のアポカリプス――塚本邦雄

家父長への怨念小説――水沢周

物神崇拝の恐怖の中に人間の自由の問題を描いた作品で、日本推理小説史上の傑作――権田萬治

奔放な空想の極致を示す狂気の文学――荒正人



などなどです。



と言うことで、相当分厚い本で、今では、古くてカビ臭いのですが、読みなおしてみようかな、と思った次第です。



いろいろ迷走した挙句の「これらの本は買わない。」という結論でした。