2021年12月29日水曜日

『折々のことば』からの………思いつくままに。。。



折々のことば(朝日新聞のコラムです。)


不知為不知、是知也、   孔子


「知らざるを知らずと為せ。これ知るなり。」


自分はこういう世界、このような問題があることをこれまでずっと知らなかったのかと、愕然とすることがある。「知らないことは知らないとする、それが知ることだ。」。限界や輪郭を知ってはじめて人はおのれの知のありようを知る。謙虚という徳が知恵の裏張りをなす。


『論語』からです。(金谷治訳注)



最初にこの言葉を読んで、わたしは解説にあるような哲学的な思考を持たず、もっと卑近な例を思ってしまいました。というのは、「知のありよう」等という哲学的言葉ではなく、


そうだねえ~、ほんと、自分が知らないことを自覚しなければ、碁の対局に勝てないなあ~、って。


つまり、自分は何でも知っていると思っている人に「進歩はない。」という事。何を知らないかとわかったこと自体が、進歩なのである。知らないことを「知るところ」までもっていかなくても、もちろん「持って行った方」が良いが、それだけで、一歩前進したのだ。


と思いました。


そして、わたしは、その知らなかったことを解決すべく日々努力しているわけです。努力している間に、また知らないことが湧き出してきますが。


自分に知らないことがあると知ることは、偉大な事です。


話はズレるかもしれませんが、いつも感じていることです……、

「何を悩んでいるのかがわかれば、悩みは解決したも同然。」


何かに悩んでクヨクヨしている時は、徹底的に「わたしは、何を悩んでいるのだろうか。」と考えます。たいていは、極くだらない事、悩んでも解決できない事、等々。それを知ったら、後は無視して「悩みは解決した」と同然……では?


ストレスもそうです。何かにストレスを感じている時、何がストレスになっているのだろうか?と考えると、自ずと解決します。


そんな妄想回路でした。





2021年12月13日月曜日

戸籍から犬神家の連続殺人事件を探る……という事です。



 


『犬神家の戸籍』

 

 

ご存知、横溝正史の『犬神家の一族』、―――この怪奇な連続殺人のドロドロ劇を冷静に「戸籍」の観点から分析しています。著者は遠藤正敬氏。専門は政治学、日本政治史です。「戸籍」というものにこだわりがあるらしく、著書は、たいてい「戸籍」という単語が入っています。

 

わたしがこの本を読もうと思ったのも「戸籍」に興味があるからです。ナチュラルボーン・フェミニストとしては、「戸籍」はまさに差別の温床と思われるから。遠藤氏も同じ意見のようです。

 

もうひとつ、もちろん推理小説のファンだからです。と言って、私、横溝正史の本は一冊も読んでいないことに今回気付きました。映画やテレビドラマでこれでもかとばかりに流れていたので、すっかり読んだ気になっていたのでした。

 

『犬神家の一族』も石坂浩二さんの金田一耕助から古谷一行の金田一耕助、その後の現代的バージョンの金田一まで、フルバージョン見ている気がします。

 

 

さて、原作を読んでいないわたしとしては、映像の『犬神家の一族』しかわからないのですが、それぞれの監督の思惑として細かい部分が改変されているらしい……。政治学者としての遠藤氏はその辺のところに「疑問アリ」のようです。というのは、第二次世界大戦の前と後で「戸籍制度」が変化しているから。ですから、この事件が民法の改正前に起こったのか、後に起こったのかで遺産相続の状況が変わって来ます。

 

『犬神家の一族』は、家長のワンマン佐兵衛がとんでもない遺書を残して亡くなったことにより起こる連続殺人事件の顛末です。

 

先ず、佐兵衛は、天涯孤独の身。両親が誰かもわからず、孤児として育ちます。という事は、彼の戸籍はいつ作られたのか?彼の系譜も不明です。そして、彼は一回も結婚をしていません。三人の娘がいますが、それぞれの母親が違う婚外子の子供達です。そして、その配偶者はすべて婿養子。ここで、戸籍に関連して嫡子・庶子の問題、養子の定義等々が浮上します。

 

「本編の遺産を巡る連続殺人事件」にこれらの戸籍問題はまったく関連してこないのですが、科学系ではよくある「ウルトラマンが現実の地球に現れたらどんなことが起こるか。」とか、「ドラえもんのタケコプターは、現実にはどうなるか。」とかの人文科学系版と言えますか。

 


 

私事ながら、今年の初めに父が亡くなりまして、遺産相続の煩雑さに辟易しました、父の生まれた時からの戸籍を揃えなければいけなかったのです。

 

98歳でなくなりましたので、その間のです。しかしながら、あまりの古さに最初の2~3年の戸籍は廃棄されていました。その分がいるなら、廃棄されたという証明書をもらう必要がるという事でしたが、なんとか「無し」で済ませてもらえました。

 

その膨大な戸籍にはいろいろな情報が入っています。その情報は一般に公開されていたようです。民法の改正により徐々に誰でも見られるものではなくなってきていますが、まだまだ問題も有りそう。

 

「夫婦別姓」が議論されている(されているか?)昨今ですが、なぜ、「戸籍」が必要なのかという問題も国会で議論してもらいたいものです。

 

 


2021年12月11日土曜日

今日の一冊 ②


『かざる日本』です。


毎週土曜日は、新聞に読書欄、本の紹介があります。『かざる日本』は、その紹介の中の本ではなく、下段にある本の広告欄にありました。


「この世ならざるもの」を招き寄せ、日常を異化し、聖化するーーー<かざる>という営みには、私たちの心をざわめかせる不穏な力がそなわっている。美術・工芸はもちろんありとある領域に分け入り、<かざり>の術式を解明する。


と、ありました。




「日本の美」は「様式美」です。ほんとに日常的なものを様式化し美術にまで昇華させます。海外の旅の経験により、日本のこだわりというものに気が付きました。


少し話はズレるかもしれませんが、ハワイ島でコースターを買ったとき、「包みますか?」と聞かれたので、「そうですね。飛行機で帰るので包んで貰った方が安心かも。」と軽い気持ちで頼みました。日本と同じようにさっさっさとすぐ包んでくれるだろうと思ったのです。


それが、新聞紙に無造作にぐちゃぐちゃと包まれて、6枚のコースターを包むのに10分くらいかかりました。現地の友達にも何を頼んでいるのだと言わんばかりに、睨みつけられました。


そうなんだと、日本のこだわりって、こんなことなのだと。


この本に興味が湧いたもう一つの理由は、この頃、本を読む根気が薄れてきたので、こんな、綺麗な写真が載っていそうな本を、フワリフワリと眺めていたら幸せかも……と。


章立てには、


組紐

室町将軍の座敷飾り

石清水祭の供養神輿


などなど、あります。


一興でしょうか。





2021年12月7日火曜日

ほんの少~~~し、暮らしやすくなった気がします。



それは、最近「当然の事」と思われていたことが、差別であると認識されてきたからです。私の場合は、女なので、「女は~~~、云々かんぬん」に関してですが。


当然のことーーー例えば、女性が家事をする、育児をするから始まり、男性を立てるとかなんとか、カンとかです。


大学時代にフェミニスト活動をしていました。その時、社会で活躍している女性をよんで講演会の如きもの(たいしたものではありませんが)をした時、その女性が、「家族が協力してくれているのでわたしが働ける。」というような意味の事を言いました。


わたしが、「なぜですか?家事は女性の仕事と決まっている訳ではないでしょう。」と言うと、理解されず無視されました。


テレビ番組などでも、出演してコメントを言ったり、司会者、専門家…、と言ったような人々は、すべて中年以上の男性。高価そうなスーツを着て、偉そうなことを言っておりました。


が、最近、少々様子が変わってきました。意見を言う女性も偉そうなファーザーズ・ペットのような人々でしたが、最近は、若い起業家とか、NPOで活動しているような人々が出てきました。


男性も、おじさんばかりでなくスーツを着ていない人々も。



一番良かったなあと思うのは、囲碁の世界。男性棋士と同格に戦う女性の棋士も出てきました。若いリベラルな男性棋士が活躍するようになり、雰囲気も変わってきたところもあるのでしょう。


これは、AIの出現の賜物とか。自分自身でAIを活用して勉強できるようになったからです。男性中心の勉強会で女性は小さくなっていましたが、そんな所で無視されても自分の力で研究することが出来るようになったからです。


私自身も、今までは男性ジイサンに、鼻であしらわれていました。彼等は、わたしが負けたら威張って蘊蓄を語りだしました。こちらが勝つと、不機嫌になって怒鳴ったりする人もいました。


この頃は、女性も自分に勝つという事が解って来たらしく、まあ、ムッとする人もいますが、だいたいは笑顔で検討など致します。


そんなこんなで、ほんの少~~~し、生きやすくなったネ、という事です。




2021年12月3日金曜日

今日の一冊

 



『蜘蛛女のキス』です。


昨日の夕刊にホリプロの「蜘蛛女のキス」のミュージカル版の記事が載っていました。「懐かしいなァ~。」と思って本棚を探しました。ずいぶん昔に買った文庫本を発見。


確か、ウィリアム・ハート主演の映画があったはず。もちろん見ました。


1988年に購入しています。アルゼンチンの作家、アヌエル・プイグの作品。ブエノスアイレスの刑務所の監房で出会ったホモセクシュアルと革命家の「お話」。


ホモセクシュアルの彼を忌み嫌う革命家が、同じ監房で過ごすうちに彼への気持ちが軟化していきます。


二人の不思議な愛情物語は、涙なしでは語れませんよ~~~。




2021年12月1日水曜日

12月になりましたァ~~~。

 



以前にUPした紅葉の件ですが、カエデの葉は落ちてしまいました。

オレンジのままで。


最初の年に見たように「真っ赤」にはならずに。もう一度見たいものです。


モミジは、色づいてきました。




2021年11月23日火曜日

夏目漱石の解答

 

以前『コンゴ・ジャーニー』で書いたことです。


これは、1990年ごろのthe People’s Republic of the Congoのお話です。今は少々事情が違うかもしれません。でも、彼等の伝統的考え方(一番金持ちの人が他の家族を養う事は当然…と言ったような)と新たに入ってきた文化(個人の権利か?)の間での苦悩がうかがい知れます。これをどのように受け止めるかは、ちょっと悩ましいところです。

 

つまり、「文明」はどこまで「伝統」に関与できるのかという意味で。


先頃の朝日新聞のコラム「折々の言葉」で夏目漱石が語っていました。


二つの要求を較べると明らかに矛盾である。ーーーここまではよろしいのです。


解説は鷲田清一。

「二様になる方がかえって本来の調和」なのだと作家は説く。大事なのは表面上の無矛盾ではなく、「無理のない型をこしらえる」こと。形だけの整合性にこだわる固陋をこそ廃すべしと。


という事です。「文明と伝統を無理なく調和させる」という「ありきたりな」ものが解答のよう。アマルティア・センが『アイデンティティと暴力』で書いているように、ひとりの人間の内にも多々な異なったアイデンティティが共存していて、その調和を日々しているのである。。。か?




2021年11月22日月曜日

紅葉




 4~5年前に、お庭屋さんがサービスで小さな楓を植えてくれました。

その年は、小さいながらも綺麗に紅葉して、周囲の大きな緑の木と対比してとても綺麗な風景を作ってくれました、


その後は、紅葉する前に葉が落ちてしまって、残念な風景。


しかし、今年は、葉は持ち堪えています。黄色に色づいてきました。もう少しで真っ赤になりそうです。このまま行ってくれたら……、と。


この楓は、一度、台風で倒れそうになりました。が、少し元に戻し、根の部分をしっかり押さえました。わたしのいい加減な処置ですが、少し曲がりながらも幹は安定し、根付いているようです。少し倒れたまま育っています。


フォトが撮れたらUpしたいのですが、どうですか???




2021年11月20日土曜日

ジャニス・ジョプリン

 



TVコマーシャルでジャニス・ジョプリンの歌声が流れてきました。


ああ、ジャニス・ジョプリンだあ。。。と思い、


心にズシーンと来ました。ずいぶん昔に彼女のCDを買いました。

家に帰って、すぐ聞くと、涙が流れてきました。


それで、懐かしいなあ~~~と、


また、聞いてみようかあ???


でも、今、わたしはCDを――運転中かお風呂に入っている時しか聞いていません。


運転中に泣くか、お風呂で泣くか?


まだ、決心がつきません。




2021年11月9日火曜日

Congo Journey

 


コンゴ・ジャーニー

 

今、『Congo Journey by Redmond O’Hanlon を読んでいます。これで3度目の挑戦。この本自体は第一刷が1996年、日本語に翻訳されて出版されたのが2008年です。わたしは、その書評を読んで英語の方の本を買ったので、たぶん2008年以降にこの本を買いました。

 

もともとノンフィクション物はあまり好きではないのですが(人の人生にあまり興味がないから)、思想が入らない本ならシンプルで英語の勉強になるかもと。それから、ノンフィクションとは言え、内容がちょっと荒唐無稽そうでおもしろそうでしたから。

 

つまり、コンゴ川上流の湖に恐竜が棲息しているというピグミーの言い伝えに誘われて、全財産をなげ打って旅に出たイギリス人の探検家Redmond O’Hanlonとアメリカ人動物行動学者Lary Shaffer とコンゴ人の生物学者Marcellin Agnagnaの何やら怪しげな旅行記なのです。

 

一回目は、まだまだ英語力不足で少し読んで断念。二回目は、そこそこは読めたのですが、普段なじみのないアフリカのお話なので、内容がこんがらがってしまって断念。そして三回目です。今回は読めそうな気がしてきました。今、「アフリカと英会話」というオープンカレッジの講義を取っているからかもしれません。地名だけでも、アフリカのだいたいどの辺と見当がつくようになったからです。それから、ほんの…、ほんの少しですが、アフリカの歴史などもわかってきたからです。



この本は、1990年ごろと思われるアフリカのコンゴ人民共和国(現コンゴ共和国)に広がる未開のジャングルを探検し、幻の恐竜モケレ・ムベンベがいる湖Lake Tele を探し求める旅です。

 

当然のことながら、アフリカはもう西洋のコロニーではなく、彼ら自身の政府があり、ポリシーがあります。つまり、探検をするなら、それ相当の手続きが必要という事。ビザとか、どのルートを通っていいかとかの許可、検疫・・・、諸々です。その一つ一つの交渉を、政府の各役人としなければいけないという事ですが、西洋のルールでは通用しないものを含んでいる。それから、白人という事の逆差別も有り。

 

「ほんとうにLake Tele に恐竜がいると思うか」と政府の科学技術庁の長官にたずねると、

It is only white men who laugh at Mokele-mbembe(恐竜の名前です).  We Africans know there is something there.

 

と、返されます。

 

遠い過去のアフリカの話ではなくほんの10年か20年ほど以前のアフリカです。町に行けば道路があり、タクシーが走っている。近代的な建物があり、雑貨屋があり、貨幣経済が成り立っていてふつうに買い物をすることができる。飛行機も飛ぶし、空港もある。兵隊は銃で武装しており、役人は賄賂で私腹を肥やしている。

 

しかし、そうしたきわめて現代的な光景と同時に、呪術や霊、占いといった存在がふつうに信じられている世界が息づいてもいます。西洋の理性とか合理主義を体現していそうなイギリス人の探検家やアメリカ人の生物学者が、彼らもまた、呪術や霊といった不合理なで非理性的な存在に振り回されると言う「楽しさ」がこれから読み進んでいく興味を誘います。

 

 

グローバライゼーションの時代ですが、インターナショナルな一つの基準、一つの物の見方にとらわれることなく、少し見る角度を変えて、どうしてそうなのだろうかと考えれば違う事実が見えてくるかも……と思うのです。

 

コンゴの原始林に幻の恐竜を探し求めるイギリス人の探検家レドモンド・オハンロン、彼の友達のアメリカ人の動物行動学者ラリー・シャファーとコンゴ人の生物学者、マルセリン・アグナグナの三人の探検記です。

 

レドモンドとラリーは友達のようです。レドモンドのコンゴのテレ湖に生息する幻の恐竜を探さないかと言う提案に、ラリーがコンゴの原生林に棲む生物を観測したいとの思いから乗っかったというところでしょうか。わたしの推測ですが。

 

しかし、コンゴの生物学者マルセリンは、レドモンドに同行を頼まれただけのようです。レドモンドは、Roy Mackal著 “A Living Dinosaur? – In Search of Mokele-Mbembe”(1987年)を読んだ時、この本のAPPENDIX にコンゴの生物学会をリードするマルセリンが、秘境の湖テレで、それらしき生物を目撃したと書いてあったのを知りました。それで彼を仲間に引き入れたのでしょう。


コンゴ人のマルセリンは、キューバで学んだ科学者で、博士号も取得しています。そしてコンゴに戻ってからは、動植物保護省のトップに収まります(the head of Ministry for the Conservation of Fauna and Flora)。また、何カ国語も話せる教養人です。マルセリンは、彼の政府の権威ある地位と態度で探検の間に、さまざまな困難、問題を解決します。しかし、レイモンドとラリーの考えるその権威に見合った態度を示しはしません。

 

レドモンドとラリーが初めて彼に会った時、彼は若い女性と一緒でした。ラリーは奥さんですかと、聞きます。その時のことが、こう書かれています。

“She’s not my wife!” shouted Marcellin, pushing Lary’s hand away. “And she doesn’t speak English!”

   “Is your wife joining us?” said Lary, fuddled with embarrassment.

   “Of course not!” Marcellin yelled into Lary’s ear. “She is pregnant!”

   “Pregnant?”

   “She’s having a baby!” explained Marcellin, slightly louder. “I have one daughter already! And now my wife --- she is pregnant again!”

   “Congratulations,” said Lary, bemused, his eardrum probably beginning to malfunction. “Well done. Congratulations.”

   Marcellin sat up. The girl withdrew her hands as if he had slapped her. “Look!” he shouted, his chin jutting forward. “Let’s get one thing straight, shall we? Right at the start. This is not England! This is not small-town America! My wife is pregnant. So we can’t have sex. So here is Louise, who finds it hard to stop having sex. Okay?”

 

 

また、マルセリンはレドモンドに同行の報酬を求めます。

   “You’ll pay me my Government salary. Thirty pounds a day.”

   “But I’ve already agreed to pay Ngatsiebe (the Cabinet Secretary to the Ministry of Scientific Research) 1000 pounds.” I said, with reflex annoyance.

   “It’s bribery,” said Lary. “It’s corruption.”

   “It’s Africa,” said Marcellin. “How else is he to make up his salary? Those jobs don’t last long. They’re just a political favour. In and out every four years. Even I can’t count on my salary, as a government employee. Some mouths I’m paid, some months I’m not. At least with you, Redmond, I know I’ll get my money.”

 

探検の始めに彼等は船でコンゴ川を遡りテレ湖の近くの町まで行くのですが、マルセリンはその船について語ります。

 

  “These are poor people. Traders. Village people. Third-class passengers. They will sleep in the open for two weeks, maybe three. Some of them will die. One or two very young children will roll over in their sleep and disappear down the gaps, into the river. It always happens. There are 3000 people here, maybe more.”

   “No handrails,” muttered Lary. “Even at the edges, there are no handrails.”

 

実際に、ラリーは船から人が落ちるのを目撃します。しかしマルセリンは黙っていろと言います。何も起らなかったんだと。目撃したのは君だけだと。

 

  “So, he’s drowned,” said Marcellin, looking out across the water at a village on the opposite bank. “This is the best-governed country in Africa, our people are the best educated. There’s no war, no famine. But it’s still Africa. Where we’re going---you’ll hear wailing women all day long. If you make a fuss like that every time someone dies, my friend, you won’t last. You’ll be wasting my time. We won’t complete our mission.”

 

イギリス人のレドモンドは、一歩引いて、達観して「アフリカ」を見ているような気がします。そして、アメリカ人のラリーは、ひとつひとつ、アフリカでの出来事に反応します。時折、過剰に。

 

   “Lary,” I said, as we walked downtown that evening for supper, “Why do you think Marcellin’s a creep?”

   “I’m sorry,” he said, quickening his pace across the railway-track, “It’s just a prejudice I have. I know it’s not fashionable, but I can’t help it, perhaps It’s genetic---I believe in trust, fidelity, call it what you like. I just don’t think he should cheat on his wife. What’s the point of marriage all those promises, if you don’t intend to honor your partner? Jesus. And she’s pregnant.”

   “Maybe it’s different here.” (Redmond said.)

   “Well, yeah, I don’t go along with all that either. I don’t agree it’s okay to cut a young girl’s clitoris out simply because you’re a Muslim or a Seventh Day freakshow or a Born Again butthole or whatever. I really don’t.”

 

しかし、マセリンには彼なりの理由があります。アフリカ人は家族ためにお金が必要なんだと。

 

“Most everyone has a family.” とラリーは答えます。

 

“No, no, my friend---not your kind of family, with two children and a car and a dog and a house full of machines. I mean an African family. It’s hopeless. It’s the cause of all our problems. Lary Shaffer, I’ve heard you talk about corruption. You call it corruption but that is not the case. The true explanation is this: the African family. I myself---I have a wife and two children just like you do in the West; but my mother, she has fifteen children, six from my own father and nine from Kossima, the husband she took when my father left her in Impfondo and moved to Brazzaville. I am the eldest son. I went with him.

 

そこでの彼の暮らしは貧しく電気もなかったが、彼は一生懸命勉強をしたと言っています。15歳のときにはアフリカで一番の高校に入れた、そして奨学金をもらってキューバの大学で学ぶことができたと。

 

“I got away! I escaped!”




 

少し訳してみますと(意訳です)、

 

わたしはスペイン語を1年語学学校で学んだ。それから大学で生物学を学び、動物学で学位を取った。そして奨学金を得て、フランスで学ぶことができたんだ。そこで博士号を取った。

 

“I do not deserve to be poor.”

 

わたしは科学者で、スペイン語も英語もフランス語も話せる。それで、何が起こったか。コンゴに帰ったら、家族の長になったんだ。そんなものにはなりたくなかったのに。

 

科学省で職を得た。サラリーを得て家も借りた。そうしたら母の15人の子供たちがやってきたんだ。そして、彼等の妻、子供たち、親戚たち。また、新しい父親の親戚たちも。いとこやなんかもね。

 

わたしが仕事から家に帰ると、私の椅子に彼等の誰かが座っているんだ。冷蔵庫から食べ物を取り出して、食べたりしている。そして、わたしに言うんだ、ドクター・マルセリン、あれが欲しい。これが必要だ、って。信じられないだろうが、タクシーが欲しいと言ったものもいた。タクシーだぜ。

 

それで、思ったんだ、なぜ?なぜだと。彼等となぜ分かち合わなければいけないんだ。私が一生懸命努力して得たものを。そして、彼等は感謝すらしない。当然のように受け取るだけ。

 

 

これは、1990年ごろのthe People’s Republic of the Congoのお話です。今は少々事情が違うかもしれません。でも、彼等の伝統的考え方(一番金持ちの人が他の家族を養う事は当然…と言ったような)と新たに入ってきた文化(個人の権利か?)の間での苦悩がうかがい知れます。これをどのように受け止めるかは、ちょっと悩ましいところです。

 

つまり、「文明」はどこまで「伝統」に関与できるのかという意味で。

 



2021年11月2日火曜日

生命40億年の全史---追記 

 


LIFE------An Unauthorized Biography, written by Richard Fortey によると、この地球に生命の種が蒔かれてからその芽は以下のような発展の段階を経ている。

 

原始スープ→炭素化合物→細胞膜の発生→リン酸化合物が生命の自己複製のエネルギーを供給→代謝に必要な酵素の発生、DNAは自己増殖とタンパク質合成を保証するものとなる→光合成のできる生物の誕生→細胞の捕獲(細胞のサイズと複雑さの増大)→性の分化

(遺伝子情報を半分ずつ持ち寄って次世代に伝える仕組み)

 

この「光合成のできる生物の段階」までは、生命は自分自身で生きるエネルギーを生み出していた。つまり植物は太陽のエネルギーを吸収する光合成により「生」を維持し、そこで自己完結していた。

 

次に高等な植物から動物への発展が促される。この分岐の初期の段階では植物・動物の境界線は曖昧なものではあったが、動物になると生命は自分の体内で必要なエネルギーを作り出す道を失ったのである。

 

つまり「捕食」が、エネルギー獲得の手段となる。動物は生きていくために、食物の確保と言う難題を抱えることになった。

 

Richard Fortey は言う。「植物は独力で成長と増殖のための栄養分を作り出すが、動物は自分の食い扶持を他人に頼る居候のようなもの。共生による太古の平和を粗野なやり方で掻き乱す真の動物、性的な衝動や攻撃的な性質に満ち満ちた捕食者あるいは搾取者の誕生。」

 

しかしこの「捕食者・被捕食者」の関係は、それ以前の時代に比べ飛躍的に生命の進化を推し進める原動力となった。いかにして食べられないか、いかにして効率よく捕食できるかのメカニズム、軍備拡張競争がもたらした進化。

 

はじめは、捕食者・被捕食者の関係は植物対動物の戦いであったが、すぐに動物対動物の戦いに発展していく。植物も負けてはいない。植物も捕食の道を模索し始める。こうして豊穣な多種多様な生命が地球上にもたらされたのだ。



このようにして我々人類はこのヒエラルキーの頂点に達したが、動物である以上この「生のメカニズム」から脱け出すことはできない。しかし、ここに興味深い研究がある。それは、「人類は自分自身に光合成のメカニズムを取り入れることができるか」である。

 

元来、遺伝子は親から子へと代々受け継がれていくものであるが、近年他の方法でも遺伝子が移動していることが明らかになってきた。遺伝子が「種を超えて水平移動する」と表現されている。

 

例えばウミウシである。ウミウシの祖先は巻貝の一種だった。今から三億年ほど前に貝殻を捨てたらしい。貝殻を作るエネルギーを使わないでふつうの貝より早く成長し、早く子孫を残す道を選んだと言われている。

 

そしてその脆弱な体を守るためにある種のウミウシは「不味い体になる」という防御策をとる。自分の体の中に外敵が食欲を失うような忌避物質を溜め込むのだ。またあるものは餌であるウミヒドラから毒針を摂取しこれを自分の背中の突起に溜め込み武器として使う。

 

そして葉緑体を溜め込むものも発見された。本来は植物が持ち、葉緑体が光合成するのを助ける遺伝子をこのウミウシは受け継いでいたのだ。詳しい仕組みはまだわかっていないが海藻の遺伝子がウミウシに取り込まれた可能性があるという。

 

この種のウミウシは餌を与えなくとも太陽の当たる位置に水槽を置いた場合、何か月もの間生き延びたと報告されている。その他、体内に藻を共生させ光合成を活用している動物も多くみられる。

 

例えばミドリゾウリムシは葉緑体を持つクロレラを体内に飼っている。このよう光合成によりエネルギーを確保している動物は多く地球上に存在する。ある学者は「他の動物が実現している能力ならば原理的には人間にとって不可能ではない」としている。

 

さて、「人類が光合成の能力を獲得したら、光を浴びながら暮らせるのか」と言う試算がある。光合成を行うために必要な表面積と人間が一日に必要なエネルギーを考慮した場合、人間が光合成で全エネルギーをまかなうには光を受ける面積が16平方メートル必要。

 

日本人の平均男性の体の表面積は1.61.7平方メートル。人間が光合成の能力を得たとしても体の表面積を10倍以上にしなければいけないようだ。また、植物は光合成を獲得したが、運動によるエネルギーの消費は大きいので「動かない」という戦略を選択した。

 

つまり人類はエネルギー溢れる野蛮でビビッドな生命を生きるべきか、あるいは静謐で緩慢な生命を選択し「捕食者・搾取者」という汚名を返上すべきなのか。

 

 


2021年10月25日月曜日

『生命40億年全史』


地球に生命が誕生してからの40億年の歴史であるが安直な通史ではなく、生命の激変と絶滅のダイナミックな考察である。


この本は題名の如く、生命が初めて地球に誕生してから人類に至るまでの壮大な歴史物語である。わたしは基本的には、いつの時代にどんな生物が生存していたかとか、どのように絶滅したかという歴史については興味はない。


興味があるのは、無機物しか存在していなかった地球から如何にしてはじめての生命が生まれることができたのか、そしてそれがどうして動き出すことができたのかなどである。そのような類の本を読んだこともあるが、この本は前半で時系列的にこの問題を説明しているので頭の中がスッキリしたように感じる。

 

それから現在に生きる人類の業のようなものがどのように生物の発達と関連あるのかがところどころに散りばめられていて、時々哲学的な夢想に引き込まれた。


例えば、「動物は自分の食い扶持を他人に頼る居候のようなもの。植物は独力で成長と増殖のための栄養分を作り出している。」とか「共生による太古の平和を粗野なやり方でかき乱す真の動物、性的な衝動や攻撃的な性質に満ち満ちた捕食者あるいは搾取者」という動物の定義である。


もうひとつ、「捕食者が現れ、またその捕食者の捕食者が現れ、捕食者・被捕食者の関係が生物の新たな進化を推し進めていく」と、あった。


捕食者の頂点に位置する人類の運命に、う~~~ん、と唸ってしまった。




2021年10月23日土曜日

囲碁ネタです。

 



先日の『折々のことば』に


失うことや死を恐れたら、片一方の生きるってことがみみっちくなる。  相米慎二


と、ありました。


自分は、人の死というより、人が「綱渡りの」のようにして生きるその姿を描いてきたと、映画監督は言う。それを「みみっちく」しないためには「愛と勇気の物語」を紡ぐことしかなかった。が、そんなことをしているとなんか悲しくなってくる。「人にはもっと頽廃とかもあるのに」と心が反撥する。そんなふうに心はいつももつれると。


遺文集『相米慎二 最低な日々』から……だそうです。


もっともな事です。

何か、「一生懸命生きている人々のお話は、お金の心配もなく頽廃的に生きている人々の話より上等だ。」というような風潮がありそうです。今回のノーベル文学賞も「虐げられた人が、懸命に生きる」というようなお話の様です。わたしは読んでいませんが。


昨今思うのは、「SDGsなどで皆が幸せになる時代が本当に来るのなら、その時、文学とか哲学とか芸術はどうなるのだろうか。」という事。人が苦しむところから、いろいろな事が発生すると思いますが、皆が「のほほん」と暮らしていると、何が題材となるのでしょう。





という事は、今は置いておいて、


わたしが、この「折々のことば」を読んだ時に感じたことは、


そうだよねェ~、囲碁の先生がいつも言う、『石が死ぬことを恐れていたら、勝ちはないぞ!』という事。


囲碁の境地「肉を切らして骨を断つ」。自分の石が死ぬことを恐れず、ギリギリまで自分の石を働かせて、相手の石を窮地に追い込むのだ。


みみっちく生きてはいけないよ。人生、大胆に切り込んでいこうよ。




2021年10月13日水曜日

先日の『折々のことば』



 

朝日新聞のコラムです。


「たまたま出てきた染みみたいなものの形が面白いねとか、そういうことではないかと思う。」


書いた人は、吉村萬壱という作家らしい。解説は、鷲田清一さんです。


解説;

自分が綴っている言葉は元々人様から授かったものだし、自分が物語る思想も所詮は誰かのそれの焼き直しのようなものでしかないから、と作家は言う。作家のこの言葉、きっと私の文章のことを言っていると思う人も少なくない。それだって「染み」であるはずなのに、各人がこの自分に宛てられた言葉だと思うところが、面白くて深い。




まあ、解説はともかく、わたしも「自分で考えた事など何もない。」と常々お思っているものですから、「この言葉」に引っ掛かってしまったのです。


わたしが言うこと・書くことは、どこかで読んだ・誰かが言っていたことの記憶でしかありません。自分で考え付いたことは100%ありません。自分で必死に悩んで考えたと思ったことも、すでに誰かがどこかで言っています。


よく、「いろいろなことを知っているね。」と言われますが、それは、単なる何か読んだ物の記憶です。「記憶力が良いね、と言ってください。」てなことです。


そんないろいろな記憶を自分なりに組みなおし、とっかえひっかえ組みなおしていくと言う試みです。つまりそれが、「染み」という事でしょう。


それなりに、面白い形の「染み」を作っていくしかないのです。




2021年10月8日金曜日

軽自動車はどお?

 



昨今は、素敵な軽自動車がたくさんあります。でも、「わたし」は、買いません。


何故か?


それは、あのナンバープレートの色です。これでもかと言わんばかりの黄色です。すべての他の色を台無しにしてしまいますよね。軽自動車の関係者の方は、政界に進言しないのでしょうかね。


ずいぶん以前に、「軽自動車どう思う。税金も安いし軽に乗るべきじゃないの?」と聞かれたことがあります。


わたしは、即、「ナンバープレートの色が嫌いだ!」と応えました。「あんな色じゃあ、絶対買わない!」と。


その人も、「政府は馬鹿だねえ。色を変えるだけで軽を買う人増えるのにね。」と。




軽自動車のコマーシャル・メッセージを制作している人は、そんなことご存知と思います。なぜなら、公道を走る軽自動車のTVコマーシャルは、黄色のナンバープレートに会う色の車しか使っていないからです。クリーム色とかライトグリーンとか。


その他の「かっこいい車」は、公道を走っていないか、止まっています。そして、プレートはたいてい黒です。黒に白抜きの文字です。きれいなワインレッドの車にあの黄色のプレートが付いているところを想像してください。「素敵だ!」と思いますか。または、コバルトブルーの車にあのダサいプレートは?


という訳で、どんなに軽自動車がカッコよくても、性能がよくても、安価でも、わたしは買いません。





2021年10月6日水曜日

もう一つの趣味


 


囲碁の他に読書と言う趣味があります。こちらの方の年季は古いです。


4~5歳の時、名古屋に引越してきました。その前の記憶がチラホラとあります。そこに本を読んでいた記憶もあります。


小学生の時は、「不思議な話」ばかり読んでいました。中学生では、ハードボイルドや推理小説、SFなど。高校生になると、それにプラスしてシュールレアリスム小説。大学生でプラス哲学書、その他社会科学関係です。


囲碁を始めてからは、読書する間がありません。読書感想文を書くサイトにも顔を出しています。そこで1級になるまでは(1級が最高)、それでもいろいろと書いておりました。


今、イタロ・カルヴィーノの『最後に鴉がやってくる』を読んでいますが、なかなか進みません。




昨日の新聞広告で道尾秀介の『N』という本を見ました。アマゾンで調べて「立ち読み」をしてみました。何だかすぐ読めそうな内容。こんな本を読むと、すぐ読めて感想文をサイトに投稿できるなあ……と思いました。


が、それは本末転倒ですね。読みたい本を読んで、感動して感想文を書いてみる……ですね。


そのサイトに感想文を投稿できないのには、もう一つ理由があります。それは、わたしが書きたい本がなかなか登録されていないのです。一々登録してくださいと頼むのも……何だかなあ、と。


イタロ・カルヴィーノの本もあまり登録されていないのですが、『最後に鴉がやってくる』はありました。先ずは、こちらの方を読み進めることに致します。




2021年10月5日火曜日

夢で見る。



私、興味のあるものに憑りつかれる傾向にあります。


それが夢にまで出てきます。夢に現れるとその事がうまくいくことがあります。それが、囲碁にも当てはまりました。囲碁の対局をしている夢を見ました。


小学生の時、自転車の走行をマスターしたかったのですが、母が古い人間で「女の子は自転車に乗ってはいけません。」というスタンスでした。自転車は買ってもらえませんでした。それで、友達の自転車を借りては練習していました。友達もそうそうは貸してくれませんでしたが。


しかし、夢中で練習していると、「その通り」夢の中に現れました。夢の中でスイスイと自転車に乗っているのです。それで、現実でも自転車に乗れるようになったとさ……です。


また、英語の勉強を一生懸命していた時も、夢に現れました。夢の中で、ペラペラと英語を話しているのです。そのシーンが長く続き、自分でも「英語で話している」と夢の中で思った次第です。そして、その後、そこそこ英語は話せるようになりました。




そして今回、素晴らしい夢を見ました。「これが囲碁の真髄だ」と夢が教えてくれたのです。起きてから、反芻しました。が、その後の対局でそれが活かされたわけではありません。


しかし、対戦成績はグッと良くなりました。その「教え」を守っていくつもりです。




2021年10月3日日曜日

決心しました。




 

囲碁の話です。


8年くらい前に囲碁を始めました。その時の目標が『10年で五段になる』でした。五段は、ちょっと、はったりです。五段と言っておけば、「三段くらいにはなれるかなあ。」と。


しかし、あと2年余りです。今の実力は、たぶん初段くらい。三段になれるかどうかも微妙な情勢になってきました。


10年と決めたのは、何事もいっちょ前になるには10年かかるという事。そして、10年経って気持ちが楽になったら、違う事にも挑戦しようと思っていたからです。今の心境では、それは俳句です。





が、決めました。これからも囲碁をメインに戦っていきます。俳句を始めると、それなりにまた10年はかかります。俳句は諦めてあと10年、囲碁を頑張っていった方が、充実した生活を送れるかもしれないと。


と言うのは、


家での囲碁研究もしますが、その成果を発揮するために、碁会所、棋院などに対戦相手を求めて出かけます。俳句人口と囲碁人口のどちらが多いかは微妙ですが、取り敢えず今出かけるところがあるのは貴重です。


もうひとつ、


囲碁は、あと10年やろうが20年やろうが、「先が見えないゲームである」という事。飽きることは無いでしょう、と。


以上、今の心境です。