2017年7月28日金曜日

A PRAYER FOR OWEN MEANY(by John Irving)  



やっと読めました。この本の中で、John(この本の主人公)が何の本だか忘れましたが、一冊の本を「20歳から読み始めて、ようやく40歳で読み終わった。」と書いているので、わたしも、「まあ、いいか。」っと。多分、読むのに足掛け2年くらいかかっていると思います。読んだり、読まなかったりしていましたから。

アーヴィングの、いつもの如くの、30年以上にも及ぶ人々の「生き様」の物語です。と言って、歴史的系列で出来上がっている物語ではなく、一つ一つのエピソードが積み重なっていって、気がついたら三十数年に及んでいた、みたいな…。

JohnとOwenは、幼馴染です。Johnは、土地の名士の息子でお屋敷に住んでいます。Owenは、石切場で働く父親を持ち、母親の方は少々精神に問題があるような人物です。Johnの母親はOwenのことをとても可愛がり、Owenに奨学金を与え、Johnと同じ小学校に入れます。Owenはとても才能ある子どもだったのです。

しかしながら、ちょっと変わったところもあり、自分がこの世で何をしなければいけないのかを「知って」います。そして、自分が「いつどこで」死ぬのかも。

そして最後の章が圧巻でした。これまでのエピソードが総て重なり合って、クライマックスにもつれ込んでいきます。不思議な相貌を持ち、そして全く身体的に成長しない、しかしすべての人を虜にするような才能と機知を発揮した幼なじみのOwen Meanyが「何者であったのか」が解き明かされるのです。この事は書かない方が良いのではと…、あえて、書かないことにします。

とても宗教的な(キリスト教)内容ですが、既成の宗教という感じではなく、すべての人の心にある「何か」を表現しているのではと感じます。


こんなエピソードがあります。Owen Meanyは身長5フィートくらい。それ以上成長しませんが、Johnといつもバスケットのダンクシュートを練習しています。そのダンクシュートとは、JohnがOwenを投げあげて、Owenがシュートするというものです。

When it was so dark at the St. Michael’s playground that we couldn’t see the basket, we couldn’t see Mary Magdalene(聖像です), either. What Owen liked best was to practice the shot until we lost Mary Magdalene in the darkness. Then he would stand under the basket with me and say, “CAN YOU SEE HER?”(彼のセリフはいつも大文字です。彼のこどものような甲高い特異な声を表現していると思います。)

“Not anymore,” I’d say.
“YOU CAN’T SEE HER, BUT YOU KNOW SHE’S STILL THERE---RIGHT?” he would say.
“Of course she’s still there!” I’d say.
“YOU’RE SURE?” he’d ask me.
“Of course I’m sure!” I’d say.
“BUT YOU CAN’T SEE HER,” he’d say---very teasingly.
“HOW DO YOU KNOW SHE’S STILL THERE IF YOU CAN’T SEE HER?”
“Because I know she’s still there---because I know she couldn’t have gone anywhere---because I just know!” I would say.



“YOU HAVE NO DOUBT SHE’S THERE?” he nagged at me.
“Of course I have no doubt!” I said.
“BUT YOU CAN’T SEE HER---YOU COULD BE WRONG,” he said.
“No, I’m not wrong---she’s there, I know she’s there!” I yelled at him.
“YOU ABSOLUTELY KNOW SHE’S THERE---EVEN THOUGH YOU CAN’T SEE HER?” he asked me.
“Yes!” I screamed.
“WELL, NOW YOU KNOW HOW I FEEL ABOUT GOD,” said Owen Meany. “I CAN’T SEE HIM---BUT I ABSOLUTELY KNOW HE IS THERE!”
(彼等の高校時代の話です。)


引用が長くなりました。しかし、Johnは彼の言った意味を最終章で深く噛みしめることになります。

わたしは無神論者です。でも、そんなこともあるだろうと思います。近代になって「神」が死んで、「科学」が神の地位を手に入れました。しかし、「科学で総ての事を証明しなくてもいいんじゃないか」というのが、今のわたしの心境です。「科学」と「神」は違う次元のことであるばかりでなく、我々はたくさんの違う次元(アイデンティティ)が寄り集まった世界に住んでいるような気がするからです。





もうひとつ、些末なことではありますが、「なるほど」と思う個所がありました。

I was the only one who needed anything; I “needed” a newspaper, I’m ashamed to say. Needing to know the news---it’s such a weakness, it’s worse than many other addictions, it’s an especially debilitating illness.

この本の主人公であるJohnが、カナダのGeorgian Bay に同僚やその子供たちと休暇に来ている時の話です。毎日何か買う必要のあるものが出てくるので、買出しに行くのだが、この日に限って、他の人には必要な買物はなく、彼にだけ必要な買物があった。それは新聞だ――というお話です。

1987年、彼は、ベトナム戦争の兵役から逃れるべく、カナダに移民したのですが、未だに、アメリカのニュースに囚われていると。

I live in Canada, I have a Canadian passport---why should I waste my time caring what the Americans are doing, especially when they don’t care themselves?



作者の意図とは違うわたしの反応と思いますが、「新聞を読むことがほかのどんな中毒より悪い」と書かれていることに、なんだか唸ってしまったのでした。自分のことを思ってしまって、そうかもしれないな、と。

毎日、新聞を読んで世界中の事を知りつくそうとするのは、自分のWEAKNESSからかもしれない。到底そんなことができるはずもなく、彼同様、無駄な時間を過ごしているのかも。空っぽな自分を何かで満たそうとするのだが、それは自分自身で創造したものではなく、ただゴミを溜め込んでいるだけなのかも。

と言って、このADDICTIONから逃れる術もなく、これからも新聞を読み続ける「わたしである」でしょうけど。








 

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2017年7月14日金曜日

The Pillars of the Earth written by Ken Follett



983ページの本です。翻訳ではなく、オリジナル本を読みました。イギリスの1123年から1174年までの話。内容はヴィデオゲームのロールプレイゲームのような話です。ワクワクします。いろいろな人が「複雑に絡み合い」とは常套句ですが、この本の場合は「簡潔に絡み合い」といったところ。しかし、簡潔な故に素晴らしい物語構成と成っている・・・とわたしは思います。



話の筋に興味はおありですか。登場人物をグループに分けると、



1.Tom Builder 家族。Tom 夫(父)、Agnes妻(母)物語の初めですぐ死にます。 Alfred 長男、 Martha長女

2.Prior Philip 良い人

3.Ellen(母)、Jack(息子)森の中で暮らしていた少しミステリアスな人たち。EllenはのちにTomと結婚。

4.Earl Bartholomew の家族。Aliena姉、 Richard弟。Earl であるが、謀反にあって没落。その再興を願う。父Bartholomewは牢獄で死ぬ。

5.Hamleigh 一家。悪い貴族。Bartholomew を落とし入れる。息子WilliamAlienaに付きまとう。

6.Waleran Bigod 悪いBishopPhilipに悪感情を持ち常に陥れようとする。



と言ったところでしょうか。



こんな羅列では話の内容まではわからないと思いますが、それはともかくとして、ひとつ興味を持ったことは、



Christians can’t charge interest. です。イスラム教は人にお金を貸して利子を取ることが禁じられているので銀行はないと聞きましたが、中世のキリスト教徒も利子を取ることを禁じられていたのですね。まだまだ、キリスト教の思想が残っていたのでしょう。この本の中では、ですからJewが人々にお金を貸しています。だから、Jewが代々金持ちになったのかあ?



もうひとつは、Philipです。フィリップは敬虔なクリスチャンでPriorにまでなります。彼は何の野心もなく、ただ神に仕えます。反対にWaleran BigodBishopという地位にありながら自分の私利私欲のためにいろいろな策略をめぐらし、もっと高い位置に登りつめようとしますし、また豪華な服装、住まいなどを求めます。



対して、フィリップは「善」そのもの。すべては神のため。物事がうまくいかなくともそれは「神のご意思」、うまくいっても「神の思し召し」。自分の地位とか自分の利益のために何かをしようという考えは全然ないのです。が、その考えが人々を巻き込み人々を不幸にしていくのです。というのは、「神」を人々に押し付けるから。自分がそれを良いことと信じて疑わないから。彼の心は純粋だけど、それがイコール「良いこと」とは成り得ない。人々の生きる目的は「人それぞれ別」だからですよね。わたしの「生きていく」ひとつのポリシーは「人に影響を与えない」と言う事です。いかに自分が良いことと思っていても、それが他の人にとって「良いか悪いか」は謎です。フィリップの場合は彼が「純粋」であるが故にそのことを「理解し得ない」という不幸です。











最終的には、全てが収まるところに収まって、メデタシめでたしと言うところです。悪い奴は全部死んだり、遠くに追いやられたりしてキングスブリッジの町に再び平和が訪れました。メインの登場人物たちは自分たちの夢をかなえ、その子供たちは自分のやりたい道(夢)を突き進み始めました。



お話はいろいろな要素が含まれていますが―――例えば、王家の陰謀、教会の腐敗、ペスト、階級差別あるいは男女差別―――ちょっと盛り込みすぎと言う感が。その一つ一つで一冊の本が書けそうです。つまり、具だくさんで味が薄い感じ。



その中で男女差別について、



その時代の(14世紀のイギリス)男女差別について全然文句を言うつもりはありませんが、その時代の女主人公が今と同じことで悩んでいる(小説だということは重々承知の上です。)とはね。著者も何故このことをメインのストーリーとして取り上げたのかが少々疑問です。つまり、この話にはいろいろなカップルが現れて、それぞれがそれぞれの道を歩んでいく道程が描かれているのですが、一貫して登場するメインのカップルの女性の方が、「なぜ女は結婚して夫の言う事をきき、子供を育てるために自分のやりたいことを我慢しなければいけないのか」という疑問で結婚に踏み切れずにいます。



男の方Merthin は二人が愛し合っていることは確かなのになぜ結婚できないのかと恋人Carisに迫ります。Carisは医者になりたいのですがその時代は男の人しか医者になれません。薬にも携われません。彼女は町の薬剤師Mattieに薬草の知識を教授されますが、そのMattieに魔女の嫌疑がかかり(薬草を扱って人の病気を治していたが故に)出奔してしまいます。Carisはやりたいことはあるのに「女である」ことで望みが叶えられません。



MerthinCarisに何がしたいのかとききます。Carisは「わからない」と答えます。では、「やりたいことがわからない=無い」のに、何故結婚できないのかとMerthinは彼女に迫ります。



そして彼の夢はイギリスに世界で一番高い塔(カセドラルの)を建てること。Carisは自分のやりたいことがないなら、彼と結婚して彼の夢を支えなければいけないのか。Carisは彼と結婚しても屈辱的に夫の言うことだけを聞く事にはならない――とはわかっています。彼は他の男と違うと。でも、再三再四の彼のプロポーズにも「イエス」と言えません。Merthinは一生彼女の愛人として過ごす訳にはいかないと彼女に伝えます。最後通牒です。結婚できないなら他の人と結婚して子供をもうけると言います。



Carisが結婚してもいいなと思うと何か事件が勃発すると言ったような感じで、この関係が続いていきます。Merthinは奸計に乗せられて他の女の人と結婚しますが、ふたりの愛情は変わりません。



わたしが言いたいことは、



男の人は、どんなに「いい人」でも「女が結婚できない」と言う事を理解できない。男にとっては「結婚=人生」ではない。女にとっては、「結婚=人生」にするしかない。つまり、子供を産み育てなければいけないから。男は自分に夢、やることがなくともお気楽に暮らしていくことができる。女は自分に人生の目的がないなら何故結婚して子供を育てないのかと言われる。



それならば、



何故、女は結婚して子供を産んでも、社会に貢献したと認識されず「生涯の保証を確保できないのか」?人類のサバイバルに貢献したのだから他の「偉大な」仕事を成し遂げたと同様に、その権利はあると思う。これはある意味反フェミニズム思想ではあるが。



で、ひいては男女問わず「人はただこの世に生きているだけで社会に貢献している。」――と、わたしは主張したい。





また、この本を読んでいると「作家は神である」と言う言葉を実感します。作中人物が作者の思惑で操り人形の如く翻弄されていきます。読んでいるこちらとしては、読み進むうちにワクワクドキドキするもののフラストレーションが溜まります。「まだ、引っ張るんかよ~~~」とか「も~お、チャンとみんな幸せにしてあげてよ」とか。とにかく、ワクワク、ドキドキしながらこの長いお話を読み切ることができました。最後の方はもう「根性、根性」という感じでしたが(英語だからです)。



蛇足ながらいろいろな小説を英語で読むと、その小説のジャンルにより学べる単語が違いますよね。今回は、十二世紀前半のイギリスの物語なのでキリスト教関係の言葉をいろいろ知りました。「キリスト教はね~~~、」とか議論する時に役立ちます。私は主に法廷ものとかサスペンス物を英語で読んでいるので、犯罪に関する単語はたくさんファイルできていますよ。英会話教室で最近のニュースとかを話し合う時に「お役立ち」です。でもほんとうに好きな本は、もっとシュールな幻想的な本なのです。ここで学ぶ単語は実生活にはホントに役に立ちませんですネ。





この本には、World Without End という続編もあります。










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2017年7月7日金曜日

昨日の新聞記事

『透明のマウス がん転移見えた』   東大教授ら治療効果の確認に道


マウスの体を透明化する技術を使って、がんが転移する様子を細胞レベルで観察することに成功したーーそうな。

2014年、脂質や血液の色素を取り除く試薬を使い、マウスを透明化することに成功したーーそうな。

今回は試薬を改良し、マウスを透明化することに成功したーーそうな。

赤く光るように操作した腎がんの細胞をマウスの腎臓に移植して透明化したところ、肺や肝臓に転移した様子を特殊な顕微鏡で観察できたーーそうな。

この技術を使えば、抗がん剤治療の効果を確認したり、がんが転移する仕組みを解明することにつながるーーそうな。

上田教授は、「がんだけでなく、再生治療や自己免疫疾患など、未発達の治療法や仕組みが未解明の病気にも貢献できる。」と話しているーーそうな。










また、新たなる技術を人類は手に入れて、人類は「幸せ」になるのでしょうか。もちろん、新技術は多くの人を救うでしょう。が、人類はその意味を理解して使用しているのでしょうか。

今日の新聞では、佐伯啓思名誉教授が、

「こうした先端技術は、こちらに人間という確たる『主体』があって、それが『客体』としての対象に働きかけるという近代の合理的科学の前提を大きく逸脱してしまった。」

と述べています。

つまり、今までの技術は、自然を管理するとか社会を便利にするというところで進歩していったが、今は、人間自身がこれらの技術の中に取り込まれていくという事。その結果を検証することなしに、事は進んで行くのです。

「その答えを近代社会は準備できていない。」との佐伯氏の弁です。










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2017年7月1日土曜日

香港返還20年

香港が返還されたときは、非常によく記憶している。

また、沖縄が返還された時も。
沖縄が返還されたときは、沖縄の道路の交通が、右から左に変わって非常に混乱した。また、「沖縄独立論」もあり、

若かったわたしは(たぶん20歳。ベトナム戦争終結と混同しているかも。)、この際、独立してしまった方が良いのではないかと思っていた。が、経済的問題などいろいろな課題があったのであろう。---沖縄は独立しなかった。

香港返還の時は、もう若くはなかった。

何故、よく覚えているかというと、

その翌日に英会話クラスがあったのだが、前夜、ベロベロに飲みすぎて、二日酔い状態。先生が、テキストを読めと言ったが、何かしゃべると吐きそうな感じ。それで、正直に、「話すと吐きそうだ。」と言うと、
「なぜ?」と。

で、

「香港返還を祝って、一晩中飲んでいたからです。」と。

先生は、イギリス人だったから。先生は、わたしをパスしてくれた。

もちろん、嘘である。






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2017年6月30日金曜日

『日本辺境論』について



著者の言う「辺境」とは、文字通り地理的な辺境のことらしい。日本では、国が始まった時から、「日本が世界の中心である」とは考えなかった。古代に文明が起こった国は総て自国が世界の中心であると位置付けて、自国を「主張」してきた。それに引きかえ日本は、はじまりから「中華があっての日本」だった。その根拠は日本の古代の支配者は、日本の支配者であることの承認を「中華」に求めに行ったからである。



で、この「辺境」であることでの「日本」の特徴は何か。たいていの国は自分の国を中心に置く。だが日本は常に「中心」をどこか他に見据え、そことの関係性をはかる。つまり自分を絶対視する「考え」がなく、自己主張はしないのだ。日本とはどういう国かという独自の発想がない。他国と比べることで、相対的に自分を語るのだ。



わたしは常々、日本はパラダイムを与えられたら非常にうまくそれに順応し物事を成功に導く事ができると思っていた。が、パラダイム自体をなぜ発信しえないのだろうか。この本を読んで、少し納得するところはあった。「よその世界の変化に対応する変り身の速さ自体が伝統化している。」と書かれている。時代の先端が何であるか感知し、それに向かってキャッチアップしていくことに長けているという事だ。



もうひとつ、日本人は何故権威に逆らわず、迎合してうまく振舞っていけるのだろうかとも感じていた。これについても同様、「自分自身が正しい判断を下すことよりも、正しい判断を下すはずの人を探りあて、その身近にあることを優先する」と書かれている。しかし、ここには少々トリックがあって、「自分は辺境に住んでいるので、そんなことは知りませんでした」という「作為的な知らないふり」が潜んでいるらしい。つまり、表だっては、自分が従いたくない基準に反対はしないが、知らないふりをして結局は「従わない」で済ますのである。少しは自己主張をしているようでもあるが、何にしても自分の望む自らの基準を新たに発信しない事は同じである。



このように、自己主張もしないでいつも周りとの関係性ばかり意識している国が、繁栄と没落をくり返している世界の国々のなかで、どうして今まで文明を発達させ、植民地化もされず、滅ぼされもせず、二千年も生き延びてきたのか。






この頃、「日本語」が滅びるとか「日本語」が生き延びるにはとかいう記事をよく見かける。なるほどこのグローバルな世界、英語がインターナショナル言語の地位を得てきて、世界で英語が優勢な地位を得てきている。それが「日本語」の滅亡とどう係わるのかはわか。日本人が英語をしゃべったからといって、日本語は死滅しないでしょう・・・という感覚だった。この本を読んで「ある言語が滅びる」とは実際どういう意味なのかが脳味噌に沁み込んだ。



我々が現在の「日本語」というものを手に入れたのは、さまざまな奇蹟があったからだと実感する。先ずは、中国語。漢字が日本に入ってきた四世紀頃には、もちろん我々の祖先は日本語を話していた。この時に、我々は漢字とともに「中国語」を受け入れるというオプションもあった訳だ。そこのところを我々の祖先は踏みとどまって、漢字と日本語の合体をうまくやってのけた。それから黒船来航。明治維新で外国の概念が一気に押し寄せた時、そのひとつひとつの概念を日本語に移し替えてくれた(その概念に合う日本語を作り出してくれた)明治の先人の意気地に多大なる敬意を表したい。その日本語が今あるから我々は自分の言葉で、現在、政治を語れるし、社会を語れるし、文学・哲学を語れるのである。



『日本辺境論』によると、帝国主義列強の植民地支配に屈していったアフリカ・アジア諸国では、母国語で国際政治や哲学を語ることはできない。生活言語としての土着語と知的職業の公用語の二重構造になっているらしい。「その中で、日本だけが例外的に、土着語だけしか使用できない人間でも大学教授になれ、政治家になれ、官僚になれます。」と書かれている。



しかし、これは何も日本人が偉かったと言うことではなく、もともと日本語が「日本語」と「漢字」の二重構造になっていたということである。つまり西洋の概念を日本語に移した時、使われたのは「漢字」であったということ。いうなれば、西洋語を漢語に移し替えたのだ。同じ漢字を持つ中国が「清朝」末になぜ西洋語を漢字に移し替えることができなかったのか。中国は日本が移し替えた「漢字」を流用することとなるのだが、その答えは、「心理的抵抗」らしい。つまり、中華思想を持つ中国は自国語にない言葉の存在を認め得なかったのである。ここに日本の「辺境人」としての特色が生かされたのだ。「外来の知見を正系に掲げ、地場の現実を見下す」という意味で。日本人は、はなから日本を「中心」とは考えていないので。



この「土着語だけしか使用できない人間」でも日本では知的職業に就けるということが、このグローバルな世界では逆説的に不利な状況を作り上げているとも言われている。(ガラパゴス、ニッポン)。現代は「とにかく」英語である。EU内でも英語が共通語として受け入れられている現状で、今、英語圏以外のEU諸国にも同じ問題が生じてきている(イギリスが去っても英語はEUの公用語であり続ける。)。つまり、フランスやドイツなどでも、彼等は土着語だけですべての事を語っていたのであるから。グローバル化に対応する言語戦略を立てなければいけない時である。フランスでは、フランス語の国際化戦略を推し進めている(フランス語での国際テレビ放送等)。



日本語に危機感を覚えている日本の学者たちもいる。彼等も「日本語が国際的な発信力を高める事、そして日本語が日本人でなくとも読み書きしたくなる言語であり続ける事」を唱えている。つまり、日本文化の魅力を伝えること等々。



現在、英語を日本語に置き換える教育が進んで行けば、「我々が我々の言語で我々の文化を語れない日」が来るやもしれぬ。







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2017年6月25日日曜日

『奇跡の大河』の感想


『奇跡の大河』   JG・バラード著





J.G.BALLARDの原題はTHE DAY OF CREATIONを読みました。バラードはわたしの大好きな作家です。この本は、昭和63年に買ったようです。そうなんですが、つい先日読み終えました。つまりこの本も「老後の楽しみ」のために買っていた本だったと言うことです。フィリップ・K・ディックの本も同様なんですが、目についた時にとりあえず買っておいた…、という事。



彼の初期の作品は、シュールレアイスティックな作風で、主に短編小説を書いていました。そのシュールな内容は、その頃のはやりでした。SF小説に分類されるものの、「現代小説」の風格がありました。そして、少々難解。しかし、少々、お話の方はわからなくとも、その奇妙な雰囲気は、十分に魅力的でした。



その後、彼は、長編小説を書きます。彼のテクノロジー長編三部作と言われる『クラッシュ』『コンクリート・アイランド』『ハイ-ライズ』は、内容は、かなりシュールであるものの、話の筋は簡明で理解可能です。





この『奇跡の大河』は、長編であるとともに、後者の流れをくむものと思われます。内容はとても奇妙だけれど、話の流れは、「冒険・探検」ものと言った感じです。舞台はアフリカ。サハラ砂漠の南の方と思います。ポール・ラ・ヌーヴェルと言う所です。名前の感じからも推測できるように、以前フランス領だった所。今は、「いつもの如く」、盟主国が去った後の政府とゲリラの内戦状態。主人公のマロリーは、WHOから派遣された医師ですが、なんやら胡散臭そうな人物。



彼は、干上がったコト湖を灌漑しようと努めています。そのため、フランス軍が置き去りにしていったトレーラーでコト湖を探索していた所、切り株に衝突し、トレーラーが地面に陥没します。そして、あ~~~ら、不思議、そこから、水が噴き出してきたのです。それは、あれよあれよという間に、大河になって、サハラ砂漠に流れ込んで行きます。第三のナイルの登場です。



主要な登場人物は、政府軍の将軍、ゲリラの親玉、獣医であるローデシア人の取り残された未亡人、ゲリラでマロリーを射殺しようとした13歳の少女、そして日本のテレビ局にドキュメンタリーを売り込もうとしているサンガー教授(オーストラリアの血を引くたぶんイギリス人)、その科学顧問インド人のミスター・パル、日本人の女性カメラマン、ミス・マツオカです。これらの人物が、雑然と絡み合って物語が進んで行きます。



マロリーは、政府軍の将軍から強制退去を命じられていましたが、船を盗み、自らが作り出した(?)川に逃げ出します。彼の目的は、この大河を抹消すること。川の源まで辿り枯渇させようとの思惑です。「なぜか」とは、聞かないでください。彼のあやふやな妄想から来たものなのかな~~~。そして、彼を殺そうとしている、13歳のゲリラの少女と付かず離れずの生活。お互いに惹かれあっているのか、目的が同じなのか???





粗筋を書いたところで訳がわからないと思いますが、思うに、以前読んだ『コンクリート・アイランド』の登場人物のように、人が文明から逃避するうちに薄汚れて行き、人の尊厳も無くなっていく……、そしてそこがその人の棲みかとなってしまう、ということでは。現実と妄想の世界も混濁し、どちらがどちらかわからなくなっていく……。もうひとつ、「残忍な少女」というのも著者のキーワードではないかと思います。少女と大人の間の微妙な生物。そして、若さ故の残虐性。






解説で浅倉久志氏は、次のように述べています。



「さて、この新作は、60年代の名作、『沈んだ世界』や『結晶世界』のころに回帰したような作品である。サハラ砂漠のまんなかに突如として出現した第三のナイルという魅力的な設定に加えて、砂丘や、熱帯の密林や、陸揚げされた船や、軍事基地の廃墟など、あの懐かしいバラード風景がぞろぞろ現われるのもうれしい。現実なのか、それとも高熱にうかされた主人公の幻想か、区別のさだかでない事件が連続するが、語り口は克明な写実描写で一貫している。これぞ魔術的リアリズムのラテン・イギリス文学という感じ。」



実際、わたしもこれを読んで、リョサの『緑の家』を思い起こしました。しかし、魔術的リアリズムといえど、ラテン・アメリカの得も言われぬ「どろどろ性」とは違った洗練された「イギリスの魔術」のような「さらっとした」趣ではありました。








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2017年6月16日金曜日

『ヒトの変異』について


『ヒトの変異』  アルマン・マリー・ルロ


著者は、ニュージーランド生まれ。国籍はオランダ。ニュージーランド、南アフリカ、カナダで少年期を過ごし、カナダの大学卒業後、カリフォルニア大学で博士号を取得。この本は何の分野に入るのでしょうか。ロンドンのカレッジの進化発生生物学部門リーダーを務めると紹介されています。



彼がこの本で一番言いたいことは「総ての人がミュータントである」ということだと思う。「第一章ミュータント―――はじめに」で、「わたしたちはみなミュータントなのだ。ただその程度が、人によって違うだけなのだ」と記載している。







人は自分が正常だと思って生きているが、多かれ少なかれ異常なところを持っていると思う。わたしが一番気に入っている話は、わたしの創作だが、『友達のさかなのペット』である。友達は珍しい魚をペットとして飼っているが、一匹だけとても凶暴な奴がいて他の魚を傷つけていると嘆く。わたしは、その魚が悪いのではなく、脳が傷ついているのかもしれないと言う。



近年、科学の進歩は目覚ましく、今までわかっていなかった事が徐々に証明されてきている。共感覚の人がいることや発達障害の子供の事、性同一障害など。これまでは、単なるその人の個性と思われてきた事が、実は彼等にはなんの責任もない遺伝的障害だったのである。人間社会がこれ程発達しなかったら、彼等も少々変わった人として認知され、彼等の真実は発見されず、「友達のさかなのペット」のように訳もなく批難されていたかもしれない。



日常生活には支障はないが、やはりおかしいという事もある。見過ごされているケースだ。例えばこの本で紹介されている例で言うと、肋骨が余分にある人は成人十人に一人、内臓逆位で生まれる人は八千五百人に一人。また、何らかの遺伝的障害によって発達が抑制されたり、逆に大きくなりすぎたりした事例のない器官はほとんど一つもないと述べられている。「筋肉が余分にあっても気がつかないからか、仮に気がついたとしても気に病むほどのことはないからか、記録はされていない」と。



また、祖先から代々変異遺伝子を受け継いでいても、劣性遺伝であるため表面には現れず、そのまま次世代にまた伝えている可能性もある。つまり、人間の完璧なゲノムなど存在せず、生きているほとんどの人がなんらかの変異(ミュータント)を持っているという事だ。





この本では、人が母親の胎内で胚からどのような過程を経て人になるかということが、とても丁寧に詳しく記載されている。わたしが述べていることは絶対的に正しいのだと言う押し付けがましさもなく、とても控え目で真摯だ。遺伝子がどんなに繊細な働きをして、わたしたちの体を作り上げていくのかが、すばらしく「美しく」語られている。これを書くためにどれだけの文献を精査したのだろうかと、素直に驚きと尊敬の念を持ってしまうほど。



ヒト胚から人になっていくのは、その遺伝子情報に基づいている。その遺伝子の意味を変える「変異」は、人が持つ遺伝子のすべての65%にそれぞれ少なくとも一つ発見されると言う。この変異のうちのほとんどは人の形成にほとんど影響を及ぼさない物だ。残りのわずかな数の変異が人の身体に影響を及ぼす。例えば、無頭蓋骨症、結合性双生児など。しかし、これらの変異は時が経つにつれて自然選択され消滅する。(つまり、次世代にこの遺伝子を伝えるまで生きられないということ)。そして、この人の形成に悪い影響を与えない変異が人間の多様性を作り出している。



著者は、人種と言われているものでの皮膚の色の違いとか骨格の違いがどのように遺伝子的に生まれるのかに深い興味を抱いているが、この多様性による遺伝子の違いは、伝統的・民族文化人類学的な人種とは一致しないと述べている。人種間で見られる遺伝子の違いは、同じ民族間でも同様に見られるものであると。さらに、人類の間に境界線は引かれない、遺伝子学者は「人種」それ自体に疑問を持っているとしている。



このような発生生物学に関連して、文化人類学的な事象を考察している点がさらに興味深い。他の例で言うと、老化。老化とは一つの遺伝子疾患と言うより遺伝的疾患の集まりであると述べられている。老化の引き金を引く遺伝子があると仮定すると、それは中年、あるいは老年期に現れるものであるから、自然選択(早死にするほどは悪い遺伝子ではないと言う事)を免れて子孫に代々受けて継がれていく。そして現代にいたるという事。つまり、総ての人が、その老化の遺伝子的疾患を持っているという事だ。



反対に長寿の遺伝子もあるようだ。自然選択により長寿なショウジョウバエをつくるとどうなるか。寿命が延びるにつれて(一匹のショウジョウバエではなく、寿命の長い種ができるにつれて)若い頃の生殖活動が鈍化する。生殖活動を控えるようになるにつれて、エネルギーを体内に溜め込み、脂肪と糖分を備蓄する。動きが緩慢になるので新陳代謝は低下。つまり、著者が言うには、老化は若い頃に子孫を残した代償である。将来、人類は好きなだけ長生きする為に、いろいろな事をするだろうがその代償は中年並みの精力と食欲と魅力しかない二十歳の若者だろうとは、著者の言。(どこかにそんな国があるような。)



また、「美」について。著者が知りたいのは「肉体的な美」についてだ。ここで彼は、哲学者の言を紹介している。「美は生殖を促す。美しいものを目にすると、体全体がそれを複製したくなるものだ」は、現代の哲学者エレイン・スカリー。プラトンはソクラテスとディオティーマの恋愛論を引いている。「簡単に言えば、ソクラテスよ、愛の目的はおまえが考えているようなもの、つまり美そのものなどではない」とディオティーマは語る。「それでは何なのですか?」「愛の目的は子をもうけ、美を生み出す事だ」「本当ですか?」「そうとも断言しよう」。ダーウィンはこう言う。「最も洗練された美とは、メスを引きつけるものであり、それ以外の何物でもない」。これが美の定義である。



著者の考えでは、「基本的に、美は生理的な条件に関連し、実際、健康の証明書である」という。美は健康を現わしている。きれいな肌、輝く瞳、白い歯は美と共に健康を示している。しかし現代、先進国では健康が行き渡った結果(基本的に)、総ての人が平均的に美しくなったのだろか。否、美は偏在する。これはある程度、美が健康の結果であると同時に富の結果でもあるからだ。では、総てが平等である社会を考えてみる。しかし、そこにも美の偏在はある。そこに、彼は遺伝子の変異を見る。わたしたちの顔は変異に非常に影響されやすい。奥深いところに現れた遺伝子の秩序の乱れも顔に現れる。



変異は人の意志ではどうにもできない、「運に左右されるゲームのようなものだ」と著者は断わってはいるが、美しいということは、遺伝的エラーが比較的少ないことを意味するのではないだろうか?と疑問を投げかけている。この疑問を証明するには至らないが、彼は例として血族結婚に見られる美の低下とブラジル人のように混血の祖先をもつ人たちの美しさの面で劣性の変異が出てこない有利さを例に上げている。わたしとしては、心情的に、そんなにスッキリ割り切れない気はする。





最後に、興味深かった事がひとつ。それは、いま現在生きている生物、人間も過去に絶滅した生物の遺伝子を受け継いでいるということ。度々、指が五本ではなくそれ以上を持つ動物(あるいはヒト)が現れる。これは遺伝子の変異による奇形だと思われてきたが、新しく発見された化石から、四肢動物すべてには多指の祖先がいたという事がわかった。三億六千年前ごろデボン紀の沼地に住んでいた三種類の両生類だ。それらは、それぞれ八本とか六本とか七本の指がある。つまり、多指の哺乳類は過去の名残を示しているという可能性が出てきたのだ。指のない魚からデボン紀の多指の両生類を経て五本指の四肢動物に至る五億年の旅。



如何に。









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