2024年12月23日月曜日

軽自動車



歳とともに車をどうしようかなあ~、と。もうすぐ車検なので、軽自動車にしようか~、と。友達に聞いたら、「軽は楽だよ。」と。 


以前、軽自動車について書いたことがあります。黄色のナンバープレイトはダサいと書きました。どんなステキな車でもあの黄色がダメにすると思っていました。


ちょっと検索してみたら、黄色のナンバープレートを避ける方法があるようです。もちろん料金はかかりますが、いろいろなプレートのデザインがあるようで、白をベースに黄色が少々取り込まれているような~。


隅に三角の黄色が配されていたり、黄色の小さな花が入っていたりーーーです。それから、来年は関西万博ですから、来年中は、万博に寄付をすれば白のナンバープレートに小さな万博のロゴが入っているものにできるとか。



しかしながら、


この頃、車で走っているときに軽自動車を観察しています。脇見運転はいけませんよ~と、唱えつつ。それで、黄色のナンバーも良いなあ~と。


なぜか考えてみるに、今までは「車はカッコいいもの」となんとなく思っていました。が、軽に日常的に乗るとなると、ふつうジャン!日常の道具ジャン!そんな気取ってナンバープレートをいじくらなくても良いジャン!


となると、黄色のナンバープレートも可愛いなあ~。人間(私)、どうしようもないですね。ホントいい加減なんだから~。


と言う訳で、「軽」に乗るなら変にカッコつけないで黄色のナンバープレートでいこ~、と決断しました。






2024年12月10日火曜日

今日の本


 新聞広告の本です。


『文学者とは何か』


超大物文学者の対談です。だいたい、対談とか人の経験談とか人生論などに全く興味がありません。(人のハナシなど、屁とも思っていないわたしのダメなところ。)


しかしながら、阿部公房と三島由紀夫と大江健三郎となれば、どうですか!


彼らが、「文学」・「文学者」を語るとなれると……興味アリ。


買うべきや否や。。。





2024年12月9日月曜日

検討(囲碁)


 

囲碁で対局の後に検討することは大事だ、ということは、重々わかっている。


でも、誰と?


同じような棋力の、「囲碁のイの字」もわかっていない者同士が、何を語る。先生のような存在の、信用・信頼している人なら、素直に教えを請おうというものだ。


そういう人は、なかなかいない。ただの上手(うわて)が対局後に、なぜわたしが負けたのかとか、どの手が悪いとか言い出すとムッカっと来る。それを、ウンウンと素直に聞いている人達がいる。なぜ?


ムッカと来るわたしが悪いのか?なんで、そんな「死者を鞭打つ」ようなマネができるのか、と。それに、負けた理由は本人はだいたいわかっているのだ。




で、先日のテレビの囲碁番組です。「検討」について話していた。リーグ戦のあとの検討はどう始まるのか…ということ。


ほぼ、負けた方から始めるという。勝った方は、負けた人がどういう心情でいるのかと推し測り、沈黙して見守っていると。どうしても「負け」から立ち上がれない敗者は、検討はしないで帰るという。


検討は敗者のためにあり、負けた理由を自分に言い聞かす時間、または納得する時間ーーーだそうです。


ならば、すぐ「なんのかんの」言ってくる人たちは、マナー違反の礼儀知らずではないのか。わたしが聞いてから言えよってもんです。


そんなわたしでも、スーッと入てってくることを言う人もいる。素直に「はいはい」と傾聴する。人の「心持ち」を慮る出来た人もいますよネ。


ということで、検討でなく「研究会」をする方がよいと思う。そんなことをわざわざする人はいないが。趣味なんですから。だから、日々私はひとりで研究に励んでおります。






2024年12月5日木曜日

新聞のコラムからのを~~~、


コラムの始まりは、「トランプ氏が大統領になるにあたり、いろいろな人を登用しようとしているが、共通項は『リバタリアン』である。」というようなことから、そして、「リバタリアンとクマ」を主題とする興味深い本を見つけたという事。


『リバタリアンが社会実験してみた町の話』という本。北米東部の小さな町で起きた実話だそうです。


リバタリアン;個人の自由を優先し、政府の介入を極端に嫌う人たち。そういう人たちが一団となって、自由な町を創るべく移住してきたというもの。そこにクマが現れて……、


人々はそれぞれの意思に従って、ばらばらに対応する。自由を追求するため役所にも届けない、クマの餌となってしまうごみ処理もバラバラ。結果、クマが増え移住者の内輪もめもあり計画は失敗に終わる。ーーーというものだった。




わたしはこれで、「自由と民主主義」といった方向に話が進むものと思っていたら、話は熊の方に向かってしまった。野生動物との共生の話、先日の「秋田市のスーパーに熊が立て籠もった」という話へ。


なんのこったい!!!


「自由」と「民主主義」は相反する概念だということを指摘してもらいたかった。人々が自分の権利である「自由」を少々我慢し、協力し合って「民主主義」を育てていくーーーというようなあ~。


銃を持つ権利を放棄して、警察に移管するとかあーーー。


だから、「自由民主党」とは、どういう意味なのだろうか?ーーーとかあ~。


そんなことです。。。






2024年11月26日火曜日

妄想 ②


 

谷川俊太郎さん追悼の続きです。言葉を疑っていた詩人はどのように詩を創造したのか。


詩人・吉増剛造さんが思いを述べています。吉増さんはアバンギャルドな実験的表現者の詩人だそうです。平易な言葉を使う谷川さんとは対照的な存在でした。


谷川さんの詩について、「ひとりぽっち性」と表現しています。「孤独」とは違う原始的で、無邪気で、純粋な魂と。


「平易」と「極端」とかけはなれた態でしたが、「ひとりぽっち性」というところは同じだと。



「一貫して学問や知識に頼らずに、裸で話していた。」と話されています。「意味」や「思想」から逃れようとなんて考えず、最初から一番最初から谷川さんは魂の中にそういう感覚があったと。


これが解なのではないかと思います。言葉を疑いながらも詩を創作できたこと。何も表現しようとせず、ちゃんと表現していた。言葉では表せ得ないものを。


吉増さんは、それを「骨の声」と言っています。頭ではなく、自然な、骨から出てくる声。そしてそれは人間だけでなく、動物・植物・鉱物さえ感じられるような感覚が息づくと。


「骨の声」、いい言葉ですね。脳からではなく体自身から出てくるような~。古武道の達人も言ってました。筋肉で動くのではなく「骨から」動くと。


ですから、超一流な人達は、捏ね繰り回したものからでなく、「無」から何かを取り出しているのでしょう。凡人が生意気ですが、そう思いました。






2024年11月25日月曜日

妄想 ①


 

谷川俊太郎さんがお亡くなりになりました。わたしは、彼の本を読んだことはありませんが、お名前は当然存じ上げております。


「詩」というものをどう読んだら良いのか、わかりません。引き込まれるきっかけがないからです。きっと理屈ではなく、感じるままに味わえばいいのではと、「理屈」ではわかります。


谷川さんは、「言葉」を疑い続けていたそうです。

「僕は詩を書き始めたときから詩を疑っていたし、言葉も疑っていた。」ーーー「言葉と世界はどうしてもズレがある。そのことを人はのんきに忘れて、言葉で何かを書けたつもりになっている。」




ほんとうにそうだと思います。ヒトは、便利な言葉や文字を手に入れたけれど、その代わりになにか大事なものを無くしてしまったと。「言葉や文字」は、普通の人にはとても有効で、知識を一般化しすべての人に恩恵をもたらします。


しかし、「普通でない人」は、その言葉のために葛藤します。自分の言いたいことが、言葉では表現できないから。「真実」伝えることができないから。


西洋文化は、音符というものを発明しました。音楽が一般化され普通の人も楽曲を楽しめるようになりました。しかし、音符で表すことが出来ない「音」を無くしてしまった。その音を表すため、♯とか♭などを発明し、より複雑な表現を模索します。でもダメです。


そんなようなことで、人は「無くしたもの」を見つけるためにもがき続けているのです。



そして、谷川さんはどうしたか。ーーー次回につづく。。。





2024年11月20日水曜日

ちょっと考えてみました。


 

現在、棋院と囲碁の同好会と、週一回のペースでで通っています。


わたしとしては、棋院のレーティングでの対局の方が性に合っています。同好会の友達は、「あんな陰気臭いところ嫌だ。」と言います。わたしが、棋院の方が気楽で良いと言うと、「えーっ!」と言います。


わたしは、棋院の対局者は何も言わないし、無駄なおしゃべりをしなくてもよいと。と言って、交流がないわけではなく、顔なじみの人も出来て気遣ってくれる方もいます。



それで思ったのですが、棋院はレーティング・クラスということもあって、全員が平等なのではないかと。同好会の方は、仲良し和気あいあいですが、上下関係が出来てしまいます。何かを争う同好会では、何によらず、どうしても上手な人と下手な人で上下関係が出来てしまうのではないかなあ~。


30数人いる同好会では、いろいろな人がいて、マウント指向の人もいるのです。対局途中に、その手はないと、わたしが打った碁石を返してきます。「うッ」と思って、投了してやろうかと思います。


紹介してくれた友達の手前もあり、強い行動はできません……のです。


なんで人が集まると上下関係ができるかなあ~。


囲碁界で女性が活躍できなかったのも、この目に見えぬ上下関係。AIの発展により、女性も(若い人も)一人でのびのびと研究できるようになり成績が伸びてきました。


わたしも、ひとり考えて囲碁研究に励みます。






2024年11月11日月曜日

『人はどう老いるのか』という本


 

この本は読んでいません。新聞の書評欄で見つけました。


最近、高齢者向きの本を多々見かけます。昔売れていた作家が、80代・90代になって自分の老いの生活を語ったりとか。たいていは、高齢になっても「若々しく、元気に暮らそう」というもの。


しかしこの本の著者は、それに反対のようです。著者は、高齢者向きクリニックで診察をしていた医師であり著述者です。


老いに抗おうとしても、結果的に抗しきれず高齢者の生活は「不満だらけ」のものになってしまうという主張です。できる限り死を遠ざけようとするよりも、老いとともに歩むこと、適当な時期に死を受け入れることーーーのようです。


書評では、そんな著者の思いに同意する人が多いので、この本が売れているのであろうと言っています。



大賛成です。。。


以前も書いたように、「身体の耐用年数を超えて生きているのは人間だけだ。」ということ。医学が進んで、生かして頂けるのはありがたいが、適当な時期に死なしてもらいたい。だから、病気のひとつは、治さずに残しておこうと思う今日この頃です。





2024年10月31日木曜日

思う事 ---②



 囲碁にはあまり関係ないですが、「思う事①」に続いて……、


一力が、久しぶりに囲碁世界一を奪還しました。逆転をものにするのが勝負強い中国の勝ちパターンだったのですが、中国囲碁協会主席の分析では、

「形勢がよくてもひよらない。明らかに日本の弱点を強化してきたイメージがある。」

です。


私が思うところでは(エヴィデンスなしの単なる思いです。)、日本・日本人には、オタク化あるいは何事も様式化する(様式美の追求)特徴があるのではと。

日本の棋士は海外勢に比べて囲碁を「芸」とみる向きが強いーーーとの観測もあります。


「井の中の蛙大海を知らず」という諺があります。が、このあとに「されど深さを知る」という言葉が続くという説もあります。


つまり、これがオタクだと。ガラ携だの日本のガラパゴス化という言葉がありましたが、この頃はあまり聞かれません。




その理由の一つに日本の「アニメの力」があると思います。日本あるいは日本人が、世界に受け入れられてきたのです。以前、アメリカのハリウッド映画のことを書きました。


世界は、アメリカの事を知らなかった。それが、ハリウッド映画の世界的席巻で、アメリカとは何かアメリカ人とは何かということが、知れ渡りました。「アメリカのコンテキスト」が世界に発信されたのです。


アメリカ人の変なところ(日本人と違うところ)が、「ああ、アメリカ人はそういう人たちだ。」と認知されたのです。(だから変な人たちではない。)


「日本のコンテキスト」も世界に発信されました。世界が日本人を理解してくれるようになりました。ここからが日本のチャンスと思います。理解された中で戦うのは、少し有利ですから。


これからが、大海を知らずに狭い事を掘り下げてきた日本が、世界に羽ばたくときです。日本基準が世界に受け入れられてきましたあ~。


上野愛咲美さんが、7番勝負で二日制にすれば虎丸も一力も井山も(敬称略)、中国勢に勝てると申しておりました。脳の体力が半端ないからと。


掘り下げてきたことが、稔る季節ですよ~。





2024年10月21日月曜日

『時間の謎』を読んで



『時間の謎』 ニュートンムック

 

 

「時間」にとても興味があります。が、量子論とか哲学の本を読んでもだいたい理解不可能な壁にぶち当たります。

 

今回は、ニュートンムックなので少々は理解できるかと。そして、「時間の問題」を物理学、生物学、心理学の方面から追究しているので、興味を引くところも多々あるかと。読んでみました。

 

ほぼ、今までに読んだことのあるような話でした(理解しているかどうかは別にして)。その中で、興味を引いたのは、「エントロピーの物理学」です。エントロピーは不可逆的だということ。

 

物理法則は、時間の符号の正負を逆にしても成立する。すなわち、時間の向きを判定することが出来ないということです。しかし、エントロピー増大の法則は時間の向きを区別します。エントロピーは、時間や生命等々の科学のさまざまな問題とも深く関係しています。―――ということです。



 

タイムトラベルとかパラレルワールドの問題も、相対論・量子論から語られています。この辺りはわたし的には保留として、他に興味があるのは生物学、心理学から見た考察です。

 

体内時計というものは、どんな動物、植物、細菌にもありますが、それは地球の周期と関連しているとのこと。だいたい24時間の周期に生物は反応し、行動していると。

 

各々の生物で、時間に関連している分子は違いますが、それは、各々の進化の過程で独自に体内時計を創造してきたからだといいます。ですから人の体内時計は変化していくかもしれないと言う事です。ライフスタイルが変化していますからね。

 

 

今回の収穫は、「エントロピー」の事と、この「生物学的に見た時間」という事でした。

 



 

2024年10月14日月曜日

思う事ーーー①



なんの「エヴィデンス」もない私の思いです。


9月に一力が、世界制覇を果たしました。囲碁の話です。19年ぶりの世界メジャーリーグで、優勝しました。 以前は日本が世界で優勢な立ち位置でしたが、今では中国・韓国の優勝者で占められています。


それが漸く日本復活の兆しが……。


多くのいごファンが快哉、雄叫びを上げました。が、世間的には無反応。藤井聡太さんの比ではない出来事ですよ。メディアは取り上げず、話題にもならず過ぎ去りました。


その後朝日新聞の囲碁将棋担当記者が、一文を寄せていました。オリンピックのフェイシングのように勝って話題になれば、次の世代が育つと。また、囲碁の見せ方も工夫して皆に判りやすいようにする。等々。



思うに一番の問題は、碁石に文字が書かれていないことです。将棋の駒やマージャン牌には文字や絵が描かれています。つまり石では感情移入が難しいということです。ただの黒い石と白い石を一つずつお互いに並べていくだけのゲーム。


抽象画と具象画のよう。具象画の方が取っ付き易いです。意味がすぐわかるから。と言って、具象画が単純と言っている訳ではありません。表しているものは、両者とも同じように深い。しかし、素人目には、ワカリヤスイ。判断を下しやすい(間違っていても)。


「取っ付きにくいものほどファイトが湧く」という人たちを育てていくことが肝要かも。。。





2024年10月7日月曜日

『タナトスの蒐集箱』ーーー耽美幻想作品集


 

前回に続き、「読んだわけではありません。」


新聞の広告で見ました。芥川龍之介や太宰治など幻想耽美小説のアンソロジーだそうです。メンバーを見ると、わたしの好きな作家ばかりですが何やら読んだものが多そう。


アマゾンを見てみました。


坂口安吾「桜の森の満開の下」/芥川龍之介「影」/江戸川乱歩「芋虫」/泉鏡花「浮舟」/折口信夫「身毒丸」/小栗虫太郎「白蟻」/谷崎潤一郎「刺青」/夢野久作「瓶詰地獄」/太宰治「駈込み訴え」/夏目漱石「夢十夜」


う~~~ん。八割がた読んだようなあ~。読んだけど覚えていないものもあるが~~~。

これだけの作品が一冊にまとめられているというだけで価値があるような気もするがあ~。



アマゾンのレヴューを見ましたところ、

「好きな方はもう見飽きた作品も多数入っていますので、バランスを考えて購入されることをお勧めします。個人的には買って良かったと思いました。」

とありました。


さて。。。





2024年9月30日月曜日

『サンショウウオの四十九日』


 

この本を読んだわけではありません。賞(これは芥川賞)を取った本はだいたい面白くないから(わたし的に)。でも、最近の『折々のことば』で紹介されていましところ…興味深いなあ~と。


「自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。」


鷲田清一氏によりますと、


「思考や記憶感情だってそうだと、『結合双生児』の一人、杏は言う。杏は5歳になってはじめてこの体を共に生きる瞬を見つけた。」

しかし、両親をはじめ周りの人は、そのことに気が付かないようです。

「もし人が誰かに見つけられることで『私』になるのだとすれば、誰の思いの宛先でもないのは、存在しないというに等しい。」


つまり、鷲田清一氏は、人は周りの人との関係性において存在しているのだと言っているのか?人は、人に見つけられない限り生きられないと言っているのか?ーーー彼が言っているのは、そんな単純なことではないとは思いますが……。



これに刺激されてわたしの妄想が広がっていくわけです。。。


誰かに存在を認められなければいけないの?ーーー人は、無の中では生きていくことが出来ないのか。


他の生き物を見ると、孤独に生きているものもある。例えば、ミミズなんかは土の中でひとり生きている。だからたまに仲間に会ったときに、生殖できるように雌雄同体なのだと聞いた。その時に、どちらかがオスになり、どちらかがメスになるのだ。


また、オオカミに育てられたヒトとかサルに育てられたヒト、ヤマネコに育てられたヒトというのが、極たまに話題になることがある。そのヒト達は、まわりの動物によって認められた存在(オオカミ、サル、ヤマネコ等々)によって「それ」になるのか。


そして人間に見つけられると、彼らは人という存在になる。


まあ、概ね生物は、おのれの存在などに気付いていないと思われる。ヒトは、「己の存在」に気付いてしまったので、複雑になり悩みも多くなったのでしょうネ。それが「吉」なのか「凶」なのか?



『サンショウウオの四十九日』読んでみようかなあ~。





怖いもの見たさ


 

自民党総裁選のことです。


私は高市早苗さんとは思想的に真逆ですが、高市さんの総裁そして総理大臣も見たかったなあ~と。


理由は、


1;女性が内閣総理大臣になるのを見たかった。


2;アメリカ大統領であるハリス氏との日米首脳会談を見たかった。(ガラスの天井を破った二人だ!)


3;衆院選では高市さんでは自民の中道保守が、中道保守となった立憲民主党にながれ、自民の過半数割れとなるやもしれぬ。政権交代を見たかった。


以上です。


野次馬根性ですが……。





2024年9月16日月曜日

こんな事を考えていたら、敬老の日だった。


 

最近、ボケボケで困ったもんだ。身体の耐用年数を超えても生きているのは、人間だけだ。と、ブツブツ言いながら暮らしています。


ドコモショップから、「ケータイの修理期限が切れました。」というお知らせが2回ほど来ました。買い替えろと言うのです。誰が買い替えるちゅーねん。と、思っていましたが、やはり壊れる前に買おうかと。


Yモバイルにしようかな。息子に聞いた見たら、「いいんじゃないの。僕もそうだし。」って、知らんかったわ~。Yモバイルだったんだ。


ということで、買い替えたら、さあ大変。メンドクサイ。



しかし、少々反省しました。そうだ、若い時は新しい物を手に入れたときは、喜んでいたはずだ。まるで新しいオモチャを手に入れたように!


そうだ、新しいものを楽しめなくなっているのね。反省して心を入れかえようと。これが、歳を取ったということなんだと。


ゆっくりでも良いから、前進するよう努めます~。






2024年9月15日日曜日

少し前の「折々のことば」です。


 

「観念は結局、観念のままにとどまり、詩にはならない。」  比較文学者:張競


何のことかと思ったのですが、


戦時中、与謝野晶子が一般誌に寄せた歌は、サークル内で詠んだ歌とはひどく「音階が違う」と張さんは言うと。



つまり、消費者という「読者」の存在を前提にする文芸は、民衆のその時の感受性によって破調すると。


つまり、時制とか民衆の要望とかに作用される歌は「詩」ではないということか。芸術には成り得ないのか。


前回の「現代川柳」に関連しての妄想でした……。





2024年9月2日月曜日

川柳について


 

過去二回ほど川柳(もどき)をUP致しましたが、「川柳とは何か」ということは、全く知りません。


で、先日、新聞記事で「現代川柳」のことを知りました。「現代」が付いているだけに川柳とは、違うとは思いますが…。


先ず川柳とは、「全く自由なもの」のようです。定義ナシ。俳句のように季語はいらないし、短歌のように情感もいらない。短歌や俳句は学ぶシステムが確立していて、集団の中でより高い評価を得るということが、頑張りどころとなります。現代川柳(川柳と現代川柳を混同しているところもありますが)は、違うようです。


現代川柳は、個人が勝手に活動しているようです(現代詩と同じ?なのか?)。そして、現代川柳は、一見意味が通らなかったり、読み手に不思議な感覚を与えるなど、共感を得る(与える)とは無縁のもののよう。


今、蔓延しているSNSで「イイね」を得るのとは無縁のようです。「共感」得ないということでは、現代芸術に通じるようで、難しい芸術論になりそうです。「異化」とか、ダダイズム、シュールレアリスムの「見る者」を拒否するとか。



しかしながら、「大衆」は共感し、感情を共有することを望むので、創作する方としては、たいへん困難な試みとなるでしょう。(というのは、間違いか。初めから共感を求めていないのだから。)。


「大変だ」ということは間違いないです。凡人は、すぐ情に訴えるから。わたしのことです。わたしだって、自分の心地よい言葉を並べて、情に訴えることなく、他者の心に響く音を紡ぎだしたい。です。ラップのように韻を踏むだけとか。。。


それでは、ひとつ…、


焼きピーマン

三個はきつし

一人酒


オソマツ。。。




2024年8月23日金曜日

今日の川柳(もどき)

 

Tシャツに

飽きて秋風

吹きにけり


おそまつ。



わたしのファッションは、20代から変わっていないと書きました。それは、アメリカン・ヒップホップです。ストリートファッション。夏は、Tシャツとぶかぶかパンツです。


しかしながら、少々飽きてきました。と言って、変わらないと思いますが・・・。


秋は、トレーナーとぶかぶかパンツとなるでしょう。