「60歳までに小説を書く」と大豪語してだいぶ経ちますが、まだ、成し遂げず。もう後がないということで、書き始めました。小説ではなくエッセイまがいですが、UPしてみました。
��998年から海外の英語学校に行き始め、ほぼ毎年出かけています。最終的に2008年にアドバンスクラスに昇格できたところまでのお話です。というか、「を目指しています」。単なる、いかに英語を学んだかのお話ではなく、その時にわたしが通っていた日本の学校の話とリインクして、わたしが英語をどうとらえているか、とか、英語を話すとはどういうことかということを考えながら書きたいと思います。続けられるかどうかわかりませんが、努力します。
先ずは、序章から。そして、第1章は、1998年は、南アフリカ、ケープタウンへの旅です(予告です)。
『英語と旅する』
序章
中学で三年間、高校時代に三年間そして大学の教養部での二年間、計八年間英語を勉強してきましたが、大学卒業と共に英語の勉強は一切やめました。英語は大きらいだったんです。まず初めに英単語を覚えなくてはいけないでしょ。数学の計算問題なら考えれば答えが出る可能性もあるけれど、英語の単語ばかりは考えても出てこない。わたしの怠け者根性も相まって、どうしても英語は好きになれませんでした。高校時代の夏休みに、指定された英語の本を一冊読むという宿題が出されたことがあります。「休み明けのテストで、この本から問題を出すぞ」という先生の脅しとともに。わたしは一ページも読みませんでした。いくらテストに出ると言ったって、テスト問題すべてがその本からでることなどないだろうと高を括ったからです。ほかの問題が解ければ、テストの三分の二くらいはできるだろうと踏みました。それが散々の結果に。ほんとにその本だけからの出題でした(怨むよ、先生)。今でも英語は大キライです。それが突然、四十歳にして英語の勉強を再び始めることになります。不惑の年だというのにフラフラと迷い道に踏み込んでしまいました。
仕事は彫金師です。主にシルバーでアクセサリーを製作し販売もします。いわゆるフリーランスのジュエラーということ。英語への回帰は、そのわたしの展示会にふたりのドイツ人が現れたことに端を発します。二十歳代後半らしき女性たち。わたしの展示会の案内はがきの作品写真を見て来たのだと言われてとても感激しました。ひとりは英語を話しませんでしたが、もうひとりが英語でわたしに話しかけてきたのです。そして不思議に彼女の言ったことがわかってしまいました。「あれッ、わたし、英語わかるの」とびっくりです。映画が好きだったので、耳だけが英語に慣れていたのかもしれません。これは英語を勉強せよという「神のお告げ」かもと解釈した次第です。日本語を知らないそして話せない人と意思の疎通ができたということに、純粋に驚きました。
こんなことは多分単なるエピソードで終わってしまうことが普通でしょうが、たまたま新聞で「英語の授業が十回フリー」という広告を見たことで運命が変わりました。はがきで応募し、抽選んで当たれば十回の講義がタダになるという宣伝文句です。そしてフラフラと応募して、当選してしまいました。単に嵌められただけなのかもしれないという思いは今でもあるにはあります。
電話で問い合わせをしてみると、「一度説明を聞きに来てください」と言われました。その学校は某有名英会話学校という類のものではなく、ビルのフロアの片隅のこじんまりとしたもの。受付の男性は気さくな感じで、「うちの学校の先生は、みんなフレンドリーでやさしいからご心配なく」と言いました。初めての学校なので他の学校の事は知りませんが、「え~~~、不親切な先生なんてものが世の中にいるのだろうか」と不思議に思いました。しかし、まあ、とにかく一回目の授業の予約をしてみることに。十回のフリーの授業ということでしたが、実際には45分授業が二枠で、90分が5回ということでした。
つづく・・・
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