2013年8月13日火曜日

今日の新聞の書評を見て考えたこと



新聞の書評欄が好きです。ついでに・・・、下段の本の広告も好きです。



今日、目に着いた本は、『翻訳に遊ぶ』。木村榮一著。評者は小野正嗣。書評によると、著者は、ガルシア=マルケスの『コレラの時代』、バルガス=リョサの『緑の家』、ボルヘスやコルタサルの短編集など、スペイン語文学を翻訳してきた人。わたしも例に挙げられている本は大好きです。バルガス=リョサの『緑の家』は特に。以前、この本についての感想も書きましたけれど、誰が訳しているのかは念頭にありませんでしたね。



「翻訳者ほど文学に奉仕する者はいない。」とは、評者の言です。そうですよね~~~。特に日本は、翻訳文学と言われるように、さまざまな国の本を日本語で読むことが出来ます。訳者の努力には、頭が下がりますよね。しかし、彼らは別に世の中人のために翻訳業をしているのではありません。つまり、この著者の場合は、「文学に取り憑かれ、スペイン文学の道に進んだ」のです。翻訳していると、登場人物たちが動き始め、ともに同じ世界を生きている気がすると、著者は言います。評者も「この人にとっては、文学と生きることは同じことなのだ」と。



そしてもう一つ気になった本は、『ネトゲ廃人』。ネットのオンラインゲームにどっぷり浸り込んでいる人々達です。「リアル(現実)世界では得られない仲間や充足感。他方での、時間もお金も吸い取られる現実」との解説。ネトゲ廃人をルポした本です(著者;芦崎治)。





つまり・・・、何かに没頭しちゃうと言う意味では同じじゃないのと。では、どこが違うのか。一方は、自分で世界を作り出し、そこに自ら没頭する。他方は、違う人が設定した世界にのめり込んでしまう人。主体的と受動的ということか。でも、たいていの人が、主体的には没頭できないよね。鉄道マニアだって、既存のものを追いかけているのだし、歴史マニアだってそう。って、言ってしまえば、翻訳者だってそうか・・・とも思い始めた。



それでは、ネットゲームにはお金が絡むということか。ゲーム会社にお金を吸い取られているのか。でも、ミニカーを集めたりしている人も、次々と出るモデルにお金を注ぎ込んでいるのでは。つまるところ、成功者と非成功者ということか。ネットのオンラインゲームにどっぷりお金と時間を注ぎ込んでいる人だって、それで成功すれば世間は褒めるよ。一概に一つの事に絞って批難する事はできないということかな~~~。





まだまだ支離滅裂な感想段階ですが・・・、もう少し突き詰めて考えてみたい素材でした。



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