2013年8月13日火曜日

『日本の歴史をよみなおす』(2)





以前、この本について書きました。その時、「つづく」と書いた行きがかり上、(2)を書くべきかと。しかしながら、まとまりがつきません。わたしが関心ある点がふたつあります。



��.15世紀あたりが、人類の転換期であること。



この本にも書かれています。「13世紀以前の問題は常識では及びもつかない」と。つまり、13世紀以前は、古代に近く、精神的にかなり今とは異質な世界だったのではということ。例えば、盗みや人殺しは、許容はされていないものの、日常的に起るものだったとか、幽霊とか妖怪が普通に信じられていたとか。



モノとモノの交換については、このように書かれている。物と物を交換するというのは、贈り物でしかあり得なかった。商業的な意味を持たせてはいけないという事だ。贈り物ではなく商品として交換する場合は、その物を日常の世界から切り離し、「無縁」のものとしなければならない。つまり、「市場」。市場は神の世界と人間の世界、聖なる場所と俗界の境に設定される。モノを世俗の縁から切り離し、交換を可能にするのである。



従って、商品の交換に携わる「人」自身も「世俗の人」であってはならない。12~13世紀の商工業者や金融業者は神仏天皇の直属民と言う地位を持っていた。それが14~15世紀に変化する。商人などは、「世俗の人」以下に賤視される様になったのである。



世界的に見ても、15世紀頃が近代精神の幕開けと言った感がする。私が言いたいことは、学校の授業でこのような基本的な事柄を学べていたら・・・ということ。古代・中世の人の「人間観」がわかっていたら、歴史の理解がもっとスムースにできただろうと思うし、また、興味もより湧いただろうと感じる。





��.日本の文化の二面性について



日本の文化は「公」と「私」で相当の違いがあると思う。それは何故だろうか。この本を読んで、唐から無理やり「律令制」がもたらされたことが関係しているように感じる。遣唐使によってもたらされた中国の文化である。天皇家の食事のメニューも唐の皇帝と同じものが供されたようだが、ほかの本で、唐の衰退で影響力がなくなると、もとの「日本食」に戻ったと読んだ。よって、「無理に」と思った訳。



この頃から、「公」は中国式ということが定石になったのでは。公文書は漢文で書かれていたし、また、漢文は貴族の嗜みであった。後に武士の嗜みでも。民間はひらがな、はなし言葉。ここで、文化は公と私に分化される。民間の文化が本来の日本の文化なのでは。



とにかく、「おおやけのもの」は難しい。わざと難しくしているのではないかと勘ぐってしまう。言文一致運動もようやく明治に入ってから起った。しかし、明治維新は、「中国」から「西欧」に変わっただけで、日本独自の文化を取り戻したわけではない。21世紀にはいって、やっとわたしたちは「日本文化」を取り戻しつつあるのではと思う。つまり、ジャパン・ポップアートの幕開けである。







う~~~ん、ちょっとナンセンスかな~~~。これが、冒頭で書いた「まだ、まとまっていない」の言い訳です。







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