思うに、日本の文化の特徴のひとつは、「公」と「民」の異常な隔たりである。日本の「官」は伝統を重んじるばかりのうちに膠着化している。それに引きかえ民間は、猥雑でなんでもありのPOPな状態。古代から明治・大正・昭和初期にかけて、公は漢文を尊び、民間は和文を利用する。そんなところにも、官が自らの立場に権威付けをする意思がみえる。
江戸時代の絵画、「官」で登用された狩野派と庶民の浮世絵にもこのことは見て取れる。また、現在の絵画で言うと、「~~~会」という権威ある集団。茶道や華道、その他諸々の「~~~道」のお家元制度。そして、庶民のコミック、コスプレ、オタク文化の隆盛。これらの庶民の文化は、昔から日本人にとっては芸術ではなく、日常の楽しみであった。それを「芸術だ」と指摘したのが、いつも西洋の人々であったことは興味深い。
と言って、わたしは日本人が日本の文化を正当に判断できないと言っているのではない。日本には別の価値基準があるのではないかと思うのである。「文化」とは、西洋から入って来た造語である。世の中は、西洋のエンライトメント運動と第二次産業革命以来、西洋の価値基準がまるで世界の(グローバルな)基準の如く、基準を一本化していっている。今、徐々に西洋で学んだ第三世界の学者の間からその矛盾点が指摘されつつある。
さて、こんなことを書き始めてしまいましたが、わたしが書きたいことはそんな芸術の事ではなく、日本の発明についてです。つまり、日本の発明についても同じような事が言えるのではないかと思うのです。「公」の技術革新の膠着化ではなく、民間の研究者はほんとに荒唐無稽の研究に日々取り組んでおります。1991年にアメリカでイグノーベル賞が選出され始めて以来、日本人が毎年のように受賞の栄誉を受けているように。
実は、次回の英会話クラスのプレゼンの「お題」なのです。『日本人が発明した一番重要なもの』。わたしは、それで、「ミドリムシ」のことについて述べようと計画しています。
次回につづく・・・
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