2013年8月13日火曜日

パラダイム・シフト



今まで読んできた本を総括して、ちょっとわかったことがあります(ほんとは大袈裟です。ある日、ちょっとした考えが浮かんだということです)。影響を受けた本は、



『世界史』マクニ―ル

『現代思想史入門』

『アイデンティティと暴力』アマルティア・セン

『ナショナリズムと想像力』スピヴァク

『In Other World』スピヴァク

『コモンウェルス』ネグリ&ハート

『ベーシックインカムは究極の社会保障か』



『In Other World』と『コモンウェルス』はまだ読みかけですが。



人類が狩猟採集生活に決別して文明社会を築きあげ始めた時、はじめは君主制でした。君主とその取り巻き、そして市民あるいは奴隷で成り立つ世界です。その時、その制度に誰も(ちょっとオーバーですが)疑問を持たなかった。君主は神からその地位を与えられた者であり、支配される民衆も奴隷も自分たちに支配されない権利があるとは思っていなかった訳です。そして、そのような文明はマクニールによると四つあった。その他、その周りの類似の文明を考えると、多くの種類の文明があったということです。それぞれは、まあ、お互い領土拡大の戦いなどあったものの、独自の文明を発達させていったのです。



それが15世紀、16世紀・・・、大航海時代の到来。西洋諸国が世界に乗り出します。その時代もまだ君主制です。そして、植民地支配の始まり。いろいろな文明が西欧社会に飲み込まれていきます。ここでモダニティは西欧の専売特許と見なされてしまいます(もちろん実情は違いますが、良い物は皆西欧発現ということ)。そして、産業革命、アメリカの独立運動、フランス革命などなど。「文明国」は共和制へと移行します。



さてここで問題なのは、実際共和制は「自由と平等」を体現しているのかということ。君主はいなくなった。しかしそれはただ支配者層の種類が変わったと言うだけで、なお自由と平等は支配者層にしかないのです。君主制の時代はそれがはっきりしていた。支配者層はそれを自覚していた。しかし、共和制では誰も(支配者層は自覚していると思いますが)自覚していない。皆、自由で平等な世界に住んでいると思っている。特に西欧諸国以外の国、特に第三世界は圏外に追いやられている。



ネグリは「共和制の憲法や法律はただ私有財産制を守るためにある」と言っています。財産を所有する事と「自由」は矛盾しています。つまり、他の人の自由を侵しているという意味で。同様、ネグリは「初期の共和制は奴隷制度を容認していた」と言っています。そこに、自由と平等はないでしょう。そして、彼は、西欧諸国(共和制)はハイチ革命を無視していると。ハイチ革命こそが、純粋たる「共和制」を体現していると。それは、奴隷であった者の支配者(西欧)から逃れる革命であったから。西欧諸国は、所有物である奴隷が所有物でなくなる事に反対したのです。ネグリが言っているのよ。わたしにそんな見識はないです。



共和制が排除しその外部にあると見なしている貧者(奴隷とかプロレタリアート)は、実際にはその内部に位置しています。彼等には同様、逆説的に自由と平等がある。なぜなら彼等は何も所有していないから。その彼等の「抵抗」が共和制に自由と平等を持ちこむ原動力になるのだ…by ネグリ。



我々中産階級には「自由と平等」があると思っているでしょうね。しかし、中産階級とは、お互いに搾取し搾取される存在なのです。この階層が、資本主義社会の矛盾を見えなくしてしまっているのです。支配者と何も持たない労働者のみの社会では、その階級差が歴然と見えるでしょう。



であるから、福祉とか社会民主主義を考える時、いまある社会の論理を越えることはできない。フェミニストであり、マルキシスト、脱構築論者であるスピヴァクは同時に、フェミニスト、マルキシスト、脱構築論者に反対の立場をとっています。それは、彼等が現状の社会の中でのみ彼等の考えを展開しているからです。彼女は、第三世界のサバルタン(インドのアンタッチャブルのような存在)について語ります。彼等は二重に疎外されていると。民主的でない社会の中での差別、暴力と、第一世界の人々が彼等の事を語るときの自分の立場でしか物事を語れない暴挙とからです。つまり、我々は文明社会の同質性からではなく、異質なアイデンティティを認識し、世界で平等ではなく「等価」を勝ち取らなければいけないということです。



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