どこまで芸術家は自分の「思い」を表現して良いのか。
芸術家の表現の自由の問題が、たまにメディアに取り上げられ議論される。例えば、写真家アラーキーこと荒木経惟(よしのぶ)の過激なエロスの表現。又、写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』では、妻の死に顔を写真に撮り、それを発表した事が問題となった。ちなみに、2006年9月にベルギー・シャルロワの写真美術館で荒木経信が古典を開催した際、美術館外壁に貼られた女性の写真に火炎瓶が投げつけられる事件が起こっている。
映画界で言えば、大島渚監督の『愛のコリーダ』が挙げられるだろう。彼は検閲制度に対する激しい批判精神から勢いハードコア・ポルノグラフィー表現へと傾斜し、公権の干渉を避けるために日仏合作の手段を選んだ。撮影済みのフィルムをフランスに送り現像と編集を行なったのだ。しかし、日本公開では大幅な修正を受けることとなった。現在でも日本ではオリジナル作品を観る事は出来ない。
文学界では筒井康隆が断筆した事が知られている(現在では、また小説を発表しているようだ)。1993年、角川書店発行の『無人警察』が高校国語の教科書に載る事になった際、「癲癇」の記述が差別的であるとして抗議を受け、交渉決裂。のちに角川書店が無断で『無人警察』を発禁処分にした事に怒り、筆を折る事を宣言する。
最近、新聞で見かけたのは、マーク・トゥウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』のこと。この中でマーク・トゥウェインがニガーという差別表現を再三使っている事が問題となっている。アメリカ文学の傑作だが、この言葉がもとで学校では教えられないとか図書館から追放されるとかの問題が生じている。また、学校用にこの言葉を「奴隷」に置き換える動きがあるが、2011年にはすべて置き換えて出版された版も現れた。
このように芸術家は自分の表現をどこかであきらめなければいけないものなのだろか。彼等は何も世間を騒がすことを目的で過激な表現をしている訳ではない。彼等自身の思いを表現する為には、そうすることが必要だったのである。今話題になっている『ハックルベリー・フィンの冒険』に関して言えば、この小説は南北戦争以前のアメリカ南部の話が描かれている。その時の「ニガー」は、もちろん差別的である、が、歴史なのである。ニガーが奴隷ということばに置き換えられれば、その時の時代の雰囲気を表わすことはできない。言葉を変える事によって歴史を変える事は出来ないのだ。
アメリカでもこの変換によるメリット、デメリットの議論が喧しいが、「ニガー」と変換する言葉もさまざまなものになって来ている。ひとつ目についた一文を紹介しておきたい。
“Thanks to Editor Richard Grayson, the adventures of Huckleberry Finn are now neither offensive nor uncool.”
これは、”nigger” を “hipster” と置き換えて出版された本の解説文のようだが、詳細はわからない。伝聞である事をお断りしておくが、ここまで行くと変換というより改竄としか言えないと思う。ほかに「ロボット」と直しているものもあると言う。
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