2013年8月13日火曜日

新書



近頃、小説ではなくノンフィクション例えば「新書」と呼ばれるものを手に取る機会が増えた。つまり、研究や思想の入門書の類である。それで気のついた事が一つある。最近は論文の書き方が英語圏の「論文書き方の教え」に非常に影響を受けているのだなあという事。研究論文を英語で書かなければ、「世界」に受け入れられないという実情もあろうが、多々ある「書き方の中」で多くの人が唯一つそれを選ばなければならないというのは、なんだかなあと思う。



わたしが教えられた事によると、英語論文はこれから何を書くかということを最初の段階で表明する。つまり結論を先ず示すという事である。読者にそれを読む価値があるのかどうかを知らせ、判断させるのである。最後の章までその価値がわからないのでは時間の無駄という思想だ。次に示された結論の検証である。一つ一つを具体的に証明していく事。そして最後に大団円を迎え、もう一回自分の言いたい事を強烈に印象付ける・・・である。



英語圏の合理性に非常にかなっているなあと思う。ヨーロッパ大陸には「大陸的論文の書き方」というものがあるらしいが、我々にだって独自の思考の流れに沿う書き方があるはず。「わたしはこれからこのようなことを書くつもりであり、それをこのように証明し、わたしの説が正しいことを示します」と、本の最初から言われたって、鼻白むだけ・・・なのは、わたしだけか。





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