2013年8月13日火曜日

文化教室の為の下書き



とりあえず西洋哲学の表相を、ほんとに極々表面であるが、大雑把に辿ってポストコロニアリズムのスピヴァクまで行き着いた。現代思想によると、哲学は、「理性により総てを捉えることができるというのは、幻想であり驕りである。語ることができない物を語ろうとしているのだ。」という事。それで次のような言質を得た。



マルクス:

「考える私」(自我)に普遍的に内在する「理性」を信頼することによって成り立つ「哲学」という営み自体が怪しくなる。



フーコー:

「人間」というのは、十九世紀になって成立した近代的な「知」の中心概念として形成されたものであって、決して普遍的なものでなく、近代知の有効期限が切れつつある現在、その役割を終えようとしている。



テオドールW. アドルノ:

「思考の力で現実をあまねく全体として捉えることができるという幻想」を放棄し、主観的理性が世界の構成者であるという傲慢を捨てなければならない。



と言う訳で、意見を言いやすくなった。わたしが自分の意見を言うと、周りの人は「白眼視」とまでは言わないが、まるで「雨の中に打ち捨てられた子犬」、わたしを「イデオット」とでも言わんがばかりに見つめるのである。





西洋哲学は、自身の中の自然なものを「理性」によって押しつぶそうとするものである。―――by popon.





今回のお題は「外界の存在はどのように証明できるのか」であるが、そもそも「自己」と「他者」には明確な境界線などなかったと思う。近代啓蒙思想は、「自我」を発明し、個人の権利・平等の概念を作り出した。そして、それまでの虐げられた人々を支配者(王族、独裁者)から解放する根拠を与えた。しかし、それは同時に人々がそれぞれに緩く結び付いていたものまで、「自我」という柵で囲い込んで、断ち切ったのではないか。



つまり、自己と他者、個人を第一義的に尊ぶのは近代以降の西洋社会のみではないかと考えるのである。アジア、アフリカ、イスラーム世界は、自己よりもしばしば共同体の方が優先される。自己と他者は共同体の中で溶け合っている。それは西洋諸国以外の国の特徴ではないかと思っていたが、案外、西洋社会もそうかもしれない。彼等は理性に囚われている。そしてそこに自らの優位性の拠り所を置いている(個人などないと言えば、この資本主義社会は成り立たないしネ)。自己主張を尊ぶ彼等のなかで、「誰が自分の意見など持っているものか。たいてい権威ある者の受け売りなんだよ。」という人物に遭遇した。彼等は自分の意見を持たなければいけないという強迫観念に束縛されているだけなのかも。だから、現代思想は、そこから脱け出すための新たな理念になるのか。



そこで現代のネット社会である。今、我々はネット(SNS)という共同体を再び手に入れた。それはもう一地域の話ではない。全世界に繋がる共同体なのである。人は自己のアイデンティティを確保しながら、仮想空間で自己を放出できる。この仮想の共同体が現実社会にフィードバックされる日が来ることを強く望むものである。



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