2013年8月13日火曜日

英語のお話(2)



わたしの親の教育方針は、質問するなでした。簡単に質問する前に、自分で調べろと。で、わたしは(幼い私は)、「絶対質問してやるもんか」と思いました。



その後遺症が、ず~~~と、残っています。高校生の時、数学の問題を解いていて、やっと解を見つけ、模範解答を見てみると、なんだ、定理があったんだ・・・、です。素直に先人の言うことを聞いていれば、無駄に考える事はなかったのにと。



で、今、哲学(西洋哲学)をフォローしています。何かについて考えます。すると、わたしの考えたことなんか、ず~~~と前に、哲人が考えているんですね~~~。どうなんでしょうか。考える前に読むか。読む前に考えるか。





話は違う方向に進みますが、関連はしています。





英語です。英語を学びます。すると、学べば学ぶほど、英語圏から疎外されます。つまり、コミュニケーションの手段として割り切って学んでいればよいのですが、深入りすると、彼等が、その他の人々をどう考えているかがわかってきます。わたしの友達でも、周りの人たちでも、欧米で一定期間過ごしたほとんどの人は、自分たちが差別されていると感じた瞬間があるはずでは。日本で生活していると全然気がつかないことです。



日本はほんとうに恵まれた国だと思います。わたしたちは日本語ですべて表現できます。科学も、哲学も文化も。言いたいことは日本語で言えます。でも、そうではない国々の方が多いのでは。植民地化された国です。元々、言葉がなかった国、言葉はあったが西洋の近代化(?)された文化を表わす言葉を持っていなかった国。その言葉を自国の言葉に翻訳できなかった国は、英語、その他西洋の言葉をそのまま使うしかありませんでした。もちろん、ただ押し付けられた国も。第一言語が変わってしまった国々(民族、種族)です。



うすうす感じていたことがあります。この世は、西欧のルールで覆われているということ。非西欧諸国は、そのルールを学んで世界に挑んでいかなければならない(今、中国が不満を漏らしていることですが)。日本が唯一非西欧の国で、G7に入ったことはほんとに奇蹟に近いことです。と、日本の自慢をしている訳ではありません。だからこそ、気付かないことがあるのです。それをわたしは英語を学んだことによって知ることができました。



最近読んだ本に、『アイデンティティと暴力』と『イスラームから見た「世界史」』があります。著者は第三世界の人で、アメリカや英国で学んだ人です。そういう著者を選んで読んだ訳ではなく、興味ある本を買ったらたまたまそうでした。今、そのような人たちが世界の表面に出てきました。自国で学んでから西洋で学びなおす人、または移民した人。あるいは、親の世代が移民の第二、第三、・・・世代です。つまり、日本人はそのようにする必要性があまりなかった。日本国内で賄えてしまうからです。だから、世界の動向に遅れを取ってしまった。・・・と言うような事を考えていたら、すべて最近読んだ本に書いてありました。『現代思想入門』です。ポストコロニアリズム。



ポストコロニアリズムの出発点になったのは、サイードの『オリエンタリズム』だそうです(この場合のオリエントはアラブ諸国)。こう書いてあります。



サイードの提起は、そもそも人文学全体が孕んでいる西洋中心主義的な言説全体を問題にしたのだ。それは、歴史学、文学、哲学、社会学、文化人類学といったあらゆる領域における言説の権力の実践を批判的に検討することを要求したのである。



アメリカで高等教育を受けた非西欧の学生たちが、西洋・白人・男性中心主義の人文学の古典や正典に対する疑問を持ち始める。また、非西洋の思想家、あるいは歴史の中に埋もれた、名前を残すことのなかった無数の、断片化された思想を再発見しました。



ヨーロッパ、アメリカの経済が傾き始めた現在、世界が溶け出してきた感があります。その世界がまたどのように固まっていくのか、第三世界の学者たち、彼らの言動から目が離せない、興味津津の、ワクワク感でいっぱいです。



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