2013年8月13日火曜日
「思想」を考える
文化センターでハイデッガーの講座を受けていると書いた。半年間で十回のコース。まだ講義は三回開講されただけだが、『存在と時間』で彼が何を言いたいのかと考察する熱意がいまひとつ起こらない。その理由のひとつは、先生がハイデッガーの哲学に心酔していない事。名古屋大学の哲学の教授だが、彼はハイデッガーに影響を与えたフッサールの方により重きを置いている様子で、『存在と時間』が未完であることもあって(目次だけはあるので、ハイデッガーが何を書きたかったかは構築されていたのでしょうが、出版されたのは第一部だけのようです)、この書で書かれていることは哲学ではなく社会学だというスタンスだ。社会学として読めば非常に興味深く、人間存在の考察の新しい切り口が見えると言っていた。
もうひとつは、自分自身、なんかしっくりこないなと感じるから。自分の人生を考える上で、何か得るところを示してはいないと感じもする。それは何故かと考えると、ざっくり言えばこれは西洋哲学だからだ。日本人として育った私の思考経路に沿ってはいないという事。西洋哲学の流れとしてキリスト教の思想からの脱却は重要で難しかった事であろうが、そんな絶対的神に頭を押さえつけられていない日本人としての私には、自分の存在を主張する為にどうしても「そこから逃れなければならない」神という物が存在しなかった。また、神の似姿として作られた人間は自然界の中で一番でなければならないという思想、そしてその理想の神に近づくあるいは認められる為にどのように振舞わなければいけないかという原則がないわたしには、理想の姿、生き方をどのようにでも始められる。つまり、「神からの脱却プロジェクト」をパスする事ができるという事。
斎藤孝著『さっくり!西洋思想』によると、西洋哲学の始まりは知性と理性を推し進め「真理」を追求する事にある。その後はキリスト教に奉仕するものとなり、キリスト教の原理と合わない思想は排除されるという憂き目を見る。そして、物事を知覚する科学の発達を阻害する事になった。その後のルネッサンスで、思想は神の手から徐々に逃れ出る事となるが、培われた原則はキリスト教が忘れられた今もなお西洋人の血に脈々と受け継がれている。人は神によって「創造されたもの」ではあるが、イデアを探求する事で神の高みまで上りつめる事ができるという意識は、世界のすべてを原理的に説明したいという欲求を生み出し、西洋社会に「相手の言う事が正しくない」という事ができる白熱した議論の場を提供することになった。新しい原理(革新)とその否定による進歩である。
一方、東洋思想には経験的に知りたいという欲求がある。手間と時間と根気は必要だが結果は得られる。新しいものを求めて議論することではなく、昔ながらの原理を踏襲する事で統計学的な真実を得るということだ。正しいかどうかは証明できない。しかし、経験に裏打ちされている。つまり、お互いが相克しないことが求められ、協調して真理を、経験を次世代に送り続けることが重要となる。
「自分が正しいのだ、違うとするなら論破してみよ」とせまる西洋思想に「正しいのかもしれないと」東洋思想は沈黙するだけである。我々は正しいと「経験的に」知っていてもである。
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