2013年8月13日火曜日

正しいこと、正しくないこと



以前、文化教室でハイデッガーの『存在と時間』の講義を受けていると書きましたが、10回を終えて、卒業しました(継続しませんでした)。というのは、その講義は、『存在と時間』をドイツ語で読むというのがメインテーマだったからです。大学の第二外国語はドイツ語でしたが、そんな原語で読むなんて芸当はとんでもない・・・程度のものだからです。みなさんの質問も内容ではなく、この場合、この単語はどのような意味で使われているのかというようなドイツ語に関することが主でした。



それで、今回は「やってみよう!―――哲学の論争」というのに挑戦です。初めは聞いているだけでもOKとありましたので、気楽に出席してみようと。教科書は『哲学の基礎』ナイジェル・ウォーバートン著です。第一回は「神の存在は証明できるか」です。ここでの神は、西洋哲学ですから、キリスト教の神です。これは、わたしには関係ないはと聴講のみ。しかし、出席してみると、教科書には関係のない、「神」の話でした。これならわたしにも意見を言えそうな感じでしたが、一回目なので沈黙(言い訳です)。わたしの意見はまたの機会に書きたいと思います。



二回目のテーマは「正義とは何か」、「功利主義に対してどのように批判するか」です。教科書に沿って考えをまとめなくてもいいなら、わたしの意見はこうです。



前回書きましたように、「アイデンティティと暴力」という本を読み終わりました。簡単に言うと、著者の言いたいことは、人は単にひとつのアイデンティティを持っているわけでなく、同時にたくさんのアイデンティティを内在している。そして、人はその時々の局面でどのアイデンティティを選ぶかという権利と自由を持っている。また、そう言う自由を認める社会でなくてはいけない、ということ。というのも、往往にして人は他者の目で選ばれた自分の中のアイデンティティを押し付けられるからです。例えば、前回も書きましたように、テロをイスラム教と関連づけること。イスラム教徒は自分の中からイスラム教徒というアイデンティティだけを取り上げられて、キリスト教と対峙させられる。どちらの側からも、です。つまり、アメリカそしてイスラム原理主義者の両方から同じように自分のアイデンティティを利用されてしまいます。あるいは、民族しかり、文明しかりです。



わたくし、その時に読んだ本にすぐ影響されちゃうので、「正義」しかりです。つまり、宗教、文明、民族などを拠り所にする正義が求められる。ひとつのアイデンティティを掬いあげられて、他者から押し付けられた正義。「~~~だから、こうあらねばならない」ということ。伝統なんかもそうですね。伝統だから、女は相撲の土俵に上がってはいけないとか・・・。その時、わたしは「日本人である」(伝統を重視する)アイデンティティと「女権拡張論者」であるアイデンティティとどちらを優先するか。その優先順位を付ける自由はわたしにあります。正義は人それぞれで違う・・・、相対的であらざるを得ないと言うことでしょう。



しかし、『アイデンティティと暴力』の著者であるセン氏は、われわれが持ついろいろなアイデンティティを抹消することなく、グローバルなアイデンティティを持つこと、グローバルな正義を持つことは可能であると言っています。「人々が『共感』に基づく意志決定をする限り、そこには社会的アイデンティティの存在を認めざるをえない」と。つまり、絶対的な「正義」があると言うことか。



前回、この「共感」とは何かと書きました。シンプルに「人間」と言うことかと。わたしが言いたかったことは、「生物としての人間」です。生物は基本的に種の保存と繁栄を目指しています。この意味で単純に「正しいこと」と「正しくないこと」が判断できると考えますが、いかがでしょうか。







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