2013年8月13日火曜日

わからないなりに・・・、



「哲学で話そう」という文化教室の講座を取って(8回)、終わってみて、少々「哲学」というものがわかってきました。あくまでも少々ですから、どこかに誤解があるかもしれませんが。



先ず、哲学の考察課題は主に「神、善悪、政治、実在論、科学、心、芸術」であるようです。そしてこれをそれぞれの主義によって論じるわけです。よって、もし自分がドイツ観念主義を信奉しているなら、総ての課題に対して自分の主義で矛盾なく語らなければならないということ。神についてはこの主義、善悪についてはこの主義と、異なった観点から問題を取り組んではいけないのです。もちろん、論理的矛盾が出て来て、一貫性が保てなくなりますからね。



総ての課題について、自分の基礎となる立場から矛盾なく語りつくすということには賛成です。しかし、その立場というのが、メチャメチャ正統的なものしか、示されていないんですよ、と言うか、その他のものは完全に無視されています。講師が大学の教授という事なので、アカデミックであるだろうとは予測していましたが。わたしも一度だけ発言しましたが、「それは西洋的論理主義の立場ですね。」と言われ、唖然としてしまいました。つまり、わたしにはそんな意識はなかったのです。



「正統的」な主義と書きました。それはどうも近代西洋哲学までの話。その後の1900年、19世紀末マルクスからの、サルトル、レヴィー=ストロース、ベンヤミン、フーコー、デリダ、ロールズ、ネグリ、ハートなどはまだまだ正統とは認められていないようです。わたしはもちろん現代に生きる人間として、「その後の」思想の方に興味があります。近代西洋哲学の正統的論理で、今のこの複雑な社会状況を思考することは到底できません。話題も現代に関係ある物を望みます。



例えば最後の「芸術」についてでは、近代西洋哲学の理論では、ダダイズム以降の芸術の流れについては語れない。ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』で写真芸術、映画芸術について語っていますが、そのようなことは、正統理論では語れません。(だから、ベンヤミンが語ったんだろうという話です。)だから、この文化教室の大学教授は、古き良き時代の哲学的問題を、まるでパズルゲームを解く如く語り続けるのです。もちろん、純粋学問としては面白いでしょうから、そのように割り切って学ぶことはできます。



近代哲学は「神は死んだ」とキリスト教の影響から逃れようと戦ってきた戦利品です。そこから、理性的な近代が始まったという事。しかし、近代西洋哲学は単にキリスト教の神と入れ替わっただけという印象も受けます。もはや、現代社会には古すぎる思想となった今も、その権威を捨て切れずにしがみついているだけなのだと。





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