第1章 協力する人
ノルウェー、ベンゲル大学教授、クリストファー・ヘルシルウッド博士の案内による「ブロボス洞窟」(南アフリカ)についてからストーリーは始まっている。7万5千年前の地層から発見されたものは、赤い色をした酸化鉄の塊だった(オーカーと呼ばれる)。体に塗ったり、服を染めたり、化粧に使われる「おしゃれグッズ」だ。おしゃれという抽象的な概念の出現が垣間見える。
抽象性という事については、多くの専門家により言語との関連性が指摘されている。言葉がなければ抽象的な考えを他の人に伝えることは出来ない。また、言語によって意味を共有することができる。言葉の直接的な証拠は、書き言葉が現れるまで検証できないが、ホモサピエンスの黎明期(10万年前)から相当の言葉が存在していたのではないかという事で、専門家の意見は一致している。ホモサピエンスをホモサピエンスたらしめているのが、卓越した抽象的思考能力であったというのが第一の指摘事項である。
それでは、なぜその発現が「おしゃれ」であったのか、それが次の疑問である。
ヒトがサルから枝分かれして、森から平原に住むようになった時、獲物を捕食する事は相当な困難を伴ったと推測される。その困難さが初期ヒト科に「協力」という合い言葉を生みだした。それは協力して獲物と「戦う」という意味ではなく、得た物を「分かち合う」という事。また、二足歩行が出産を困難にさせ、一人では出産できなくなったこともあり、人類は他の人と助け合わなければ生き延びられないという状況が生まれた。
一方、おしゃれグッズであるビーズや化粧は自分を飾るという意味よりも、個人のアイデンティティと集団のアイデンティティを意味していた。つまり帰属意識。同じものを身につけることは「仲間」であることを示し、プレゼントしあう事で血族の証や「互いに助け合うという者たち」という印にもなった。狩猟の不首尾や気候の影響で食べ物が手に入らない時、贈り物を交換した相手を訪れると食べ物を恵んでもらえるという関係も検証されている。困難時にお互いに分かち合うことが、その「族」全体が生き延びるという術であった。
それでは、仲間の絆を大切に思う心、分かち合う心は人間に特有なものなのであろうか。
実験でチンパンジーも他のチンパンジーを助けるという事は実証されている。二匹のチンパンジーを別々の檻に入れて、堺をガラス張りにする。そこには小さな穴がある。一匹のチンパンジーの檻にはバナナが置かれているが、それを手に入れるのには何かの道具化必要という条件になっている。そして、他方の檻に道具が置かれている。この檻にいるチンパンジーは堺がガラスなので、隣の檻のチンパンジーに道具があればバナナが手に入るという事がわかる。すると、相手が要求した場合は、自分の檻にある道具を境のガラスにあいている穴から差し入れる。それで、他方のチンパンジーがその道具を受け取って、バナナを手に入れるという塩梅だ。しかし、これは助け合いではない。助けたチンパンジーは見返りを求めないし、助けられた方も獲得したバナナを分け合おうとはしない。チンパンジーはそれぞれ独自の存在で、他者との共同の利益は意識していない。
人間は自らが助けられる事があるから、他者を助ける。つまり、共感する能力があるという事。相手の幸せを目的として、親切にする意志が生まれる。すると助けられた方も共感し、自分が得た利益を分け与える。この人間の共感から志が生まれる。「志」を持って、他者に手を差し伸べるという美徳が生まれたという事。
しかし対立した時はどうか。
攻撃が致命的な段階までに進むことがあるのは、動物の中でヒトのみである。一見、「協力」ということと矛盾しているようだが、それは共感が誰に対しても起るわけではないと言う事で説明される。心理学的実験でふたりの人物を設定する。ひとりはどうみても公正な人。もうひとりは利己的で不公正な人。その二人に何かの「痛み」を与える。その時、それを見ている人はどう感じるかという実験である。結果は、公正な人に対する「痛み」には共感が生まれるが、不公正な人に対しては生まれない。つまり共感は恣意的なものなのである。またそれ以上に、不公正な人が痛みを感じた時、それを見ている人が快感を覚えるということもわかった。つまり、人類の脳に、不正な人に対する天罰の意識が組み込まれていると言う事だ。不正を働いた人が社会で勢力を持てば、協力という美徳が崩壊する。社会を維持し円滑に運行する為に、社会を保護する「罰」という手段が必要になるのだ。
人間は社会的な動物だからこそ、共感能力を研ぎ澄まし、非協力的な人を排除する(時には死に至らしめる)仕組みが「脳」に備わったのだ。ハーバード大学の進化生物学者、マーティン・ノワク博士は、「『協力』は突然変異や自然淘汰と並ぶ第三の進化の極みだ」と表現している。
こうして人類は、ヒトになった黎明期から、お互いに協力し共に生きるという、今なお人に存在する「美しい心」(そして報復として殺し合う心)を持っていたということになる。
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