2020年1月25日土曜日

たまには、超有名な本も読んでみよう―――








太宰治。ご存知の通り、超有名な作家です。しかしながら、わたしは、太宰治の本はあまり読んでいません。が、一冊だけ持っていたのを思い出しました。『人間失格』です。本棚の隅から探し当てました。薄い文庫本です。若い時分に読んだことは覚えていますが、いつ買ったのかなと奥付を調べてみると昭和四十四年。価格は八十円でした。



内容は覚えていません。「理解できなかった」という記憶のみです。多分、突っ張っていた時代ですからタイトルに惹かれて買ったのでしょう。(『蟹工船』も、以前は「持っているだけで警察に捕まった。」、ということだけで買ったのですから)。それでもう一度読み返してみることに。読んだのは先週の事です。



で、この一週間憂鬱な沈んだ日々を送っていました。









「解説」を読んでみると、太宰治はこの小説を書き上げてすぐ投身自殺したそうです。三回に分けて雑誌に連載されましたが、その最後の掲載の前に自殺したそうです。読者にとっては、最終章は死者からの手紙という事でしょうね。



では、何故わたしは一週間落ち込んでいたのか。



今回は充分理解できたからでしょうね。それだけ人生経験を積んだということか。この主人公の葉チャンは世間との付き合い方がわからず、自分を演技することでしか人との関係を結べません。自分が道化になって人に笑われること、そうすることによって自分の本心を見せない。そうやって、自分と「世間」の位置を測って生きてきました。



しかし、「第三の手記」(最後の手記です)で、ある人に「・・・これ以上は、世間がゆるさないからな」と言われた時、「世間というのは、君じゃないか」と気付きます。



人は「世間が」と世間をバックにしてものを言うが、言っているのはきみ自身じゃないか、個人じゃないか、という思い。「世間とは個人じゃないかという、思想めいたものを持つようになってから自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。」と書いています。



汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ!・・・・・・と。



つまり「世間」という大きな怪物は実はちっぽけな個人の集まりであるという事を発見し、少しは対抗できるものと思う事ができたということでしょうか。葉ちゃんの絶望が解消されたということではありませんが。



わたしも若いころ(高校生くらい)から「世間」とは「自分と相・対立するもの」、わたしは「世間の外にある」と思っていました。そして、三十代の初めに会ったボーイフレンドが、わたしのボーイフレンドにしては珍しくノーマルでうまく人生を歩んでいる人だったので、聞いてみました。



「あなたにとって、世間とは何なの。」と。



彼は、



「自分の属している社会かな~。」と。



わたしは、心の中で「オー、マイゴッド!」と叫びましたよ。世間を素直に受け入れている人が居るのだと。それも、自分がその一部として・・・つまり属しているのだと。



そしてその後、わたしは理解しました。そういう人たちがマジョリティでわたしがマイノリティーだったのだと。で、みんな、ちゃんと社会でふつうに生きて行けているのだと。



それからわたしは多少世間というものを理解し、多少折り合いをつけながら生きてまいりました。が、どうなんでしょうねェ。・・・ということをこの一週間考えてきて、憂鬱だったという訳です。







2020年1月1日水曜日

新年早々、生意気なことを……書いてしまいました。







『When We Were Orphans』



Kazuo Ishiguroさんは、ご存知のようにノーベル文学賞を獲得しました。わたしは、この本を彼が賞を受賞する前に読みました。と言って、彼への評価が変化するわけでなく、感想は、以下の通りです。



文化の観点からみた場合



KAZUO ISHIGUROについては、ただ単に彼の名前を知っていただけでした。それがどうして彼の作品を読んでみようという思いに至ったかと言うと、先ずは「英語と日本語の違い(文化の違い・含む意味の違い)」がわたしの永遠のテーマであることです。



たまたま彼のインタヴューが新聞記事の中に引用されているのを読んだ時、自分の作品を書く時にあいまいな言葉は使わないという事を言っておられました。つまり、日本人である彼が英語では書きえない感情は書かない。あるいはその言葉を使って表現すれば翻訳される時に誤解を産む可能性があると思うような言葉は書かないという意味かと思いました。



実際のインタヴューを読んでみると、記事が引用したものと「彼の言」には、少しニュアンスの違いがあるようです。彼は言語、地域に関係なく全ての人が理解できるテーマでの小説を目指しているらしいのです。



彼は五歳の時イギリスに来て以来、ずっとイギリスで暮らしています。今はロンドンに居を構えイギリス人の奥さんと二人の子供がいます。彼は早い時期からが英語で小説を書き始め、若くしてイギリス文壇に受け入れられました。彼は、その理由を自分のバックグラウンドからだろうと分析しています。



つまり、自分としては「自身インターナショナルな存在」と思ってはいないが、イギリスの文壇がインターナショナルな傾向を求めていることに合致したのではと。



イギリスが大英帝国であったときはイギリスイコール世界であり、イギリスの特殊な事象が世界のテーマになり得ました。しかし、植民地支配体制が崩れた時、イギリスも世界の中の一つの国にしかすぎなくなりました。ヨーロッパの辺境の小さな国の小さな出来事は、もはや他の国の人々の関心を引かない。



そして、「インターナショナルな傾向」とは、彼が特殊なテーマではなく、誰もが関心を示せる普遍的なテーマに目を向けているところです。



蛇足ながら、彼は自分が使用している英語自体には何ら感慨はないようです。英語は彼の自然な言語であり利便性に関しても不都合な点は感じていないように思われます。









「小説」の観点からみた場合



全体的な印象としては、フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」の感じですか。もちろん内容とかストーリーとかは全然違いますがなんとなくそんな感じがしました。



わたしの感想では、純文学(?)とエンターテイメント小説の中間でしょうか。彼の三作目の『日の名残り』はブッカ賞を受賞。また、アメリカで映画化もされています。アンソニー・ホプキンス主演。だから彼の立ち位置はこのゾーンということですか。



わたしは、彼の言う小説の「普遍的テーマ」に異議があります。つまり、平均ゾーンにいるすべての人を読者として求めなければ、特殊な事を題材としても、狭い読者層の範囲内で純粋な小説として成り立つ。



例えば、バルガス・リョサの『緑の家』。ペルーの「狭い範囲」の小説です。ペルーのいろいろな状況にある人たちの入り組んだ人間関係そして過去と現在も見事に入り乱れて不思議な空間を作り出しています。



この本が「外的な支えが何もなくても文体の内面的な支えだけで独り立ちしている作品」と評されているように、例えイギリスの片田舎の金持ちの男性と貧しい境遇の若い女性の恋のような使い古されたシチュエーションの小説であっても、描写によってはどんな国の人にも共感を得ることができる作品がいくらでも書ける。



グローバライゼーションとは、逆に辺境の地を蘇らせるとも言えます。つまり、辺境のマイナーな地域はより大きな地域への統括によりそのアイデンティティーを失っていったが、統括された地域がもう一つ大きなものに飲み込まれる時(グローバル化)、先に飲み込まれた地域が吐き出されます。中間層がアイデンティティーを失うことによる辺境の復活です。



わたしはこの濃密な空間の小さなお話の方が、グローバル化で薄められた得体のしれない誰にでも通用するようなお話より、よほど好きです。



このグローバル化していく世界を牽引している英語、そしてその英語を使って小説を書くことは、はじめからアドバンテージを享受していることになり、逆説的に中身の濃い小説を書くためにはより多くの努力が必要となるのではと、思います。





追記



この本は、サンフランシスコの友達の家に滞在していた時に読んでいました。本は置いてきてしまいましたから読み直すことは出来ません。後に、友達からメールが来て、彼女の評価は、「普通の小説だ。」でした。