2015年9月26日土曜日

A ROSE FOR EMILY by William Faulkner


次回の英語READINGクラスの短編です。三人のクラスでその中の一人が「やさしく書き直した」お話を持ってくることに、以前不平をこのブログで唱えておりましたが、ようやく原文のままの作品を持って来てくれることとなりました。フォークナーの小編です。

 

フォークナーの名前だけはよく知っていますが、彼の小説を読んだことはありません。本文に入る前にフォークナーの紹介文が少し掲載されていました。それによりますと、フォークナーは、1897年生まれ。アメリカ南北戦争が終わったあとの、「没落していく南部」と言う頃の作家のようです。

 

Faulkner depicts the particular psychological stresses associated with the decline of the South from its romantically glorious past.

 

 

この作品のエミリーも南部の没落貴族の一員で、頑なに南部の誇りを保ちつつも時代の流れに逆らえないと言ったところ。内容は、少々ホラーです。が、そんなに複雑なお話ではなく、現代の推理サスペンスのTV番組を見て育った私には、結論は想像通りというもの。実際、同じような結末のドラマを最近見たばかりです。



 

彼女の父親が亡くなってから(そう言えば母親のことは書かれていませんね)、一人ぼっちになった彼女は、一人で大きなお屋敷に住んでいます。黒人の男ひとりが彼女の世話をしています。彼のことはNegroと表現されています。おきまりの厳格な父親、男性は誰も彼女に近づかない、そして彼女は屋敷に閉じ籠もり、オールドミスの運命に。しかし、南部貴族のプライドは捨てません。そのエミリーが74歳で亡くなると、彼女がひとりで過ごしてきた秘密が暴露されるのです。

 

その秘密とは、……エミリーの父親が亡くなったのは彼女が30歳代の時。恋人もおらず孤独に暮らしています。父親の過去の栄光で、彼女は税金の支払いを免除されています。その頃、舗装工事が始まります。黒人たちが作業員、そしてその監督が北部出身の白人Homer Barron

 

The town had just let the contracts for paving the sidewalks, and in the summer after her father’s death they began the work.  The construction company came with niggers and mules and machinery, and a foreman named Homer Barron, a Yankee---a big, dark, ready man, with a big voice and eyes lighter than his face.

 

その彼が、エミリーの馬車に同乗している姿が見かけられるようになります。しかし、人々は「彼女が北部の男を受け入れるはずがない」とうわさします。が、その光景は頻繁になり、人々は「彼女はホーマーと結婚するのだ」と思い始めます。

 

しかしその頃、エミリーは、毒薬を購入する事を模索します。

 

“I want some poison,” she said to the druggist.  She was over thirty then, still a slight woman, though thinner than usual, ------,

 

ドラッグストアの亭主は、毒を買うには法律で何のために使用するか報告する義務があると言います。が、彼女は答えようとしません。亭主は彼女の頑なさと、彼女が醸し出す言いようのない畏怖から黙って毒を売ってしまいます。

 

The druggist looked down at her.  She looked back at him, erect, her face like a strained flag.  “Why, of course, “the druggist said.  “If that’s what you want.  But the law requires you to tell what you are going to use it for.”

 

次の日、人々は彼女が自殺する気だと推測します。それは良いことかもしれないと。と言うのは、彼女の彼ホーマーは、男が好きだから。かわいそうなエミリーと。嫉妬も込めて。ホーマーは、一度彼女の元を去りますが、また、戻って来て彼女の家に同居します。しかし、その後彼の姿を見た人は誰もいませんでした。

 

その後、彼女の家の近隣の人々が彼女の家からひどい臭いがすると市長に文句が入ります。しかし、市長はどうすることもできません。

 

A neighbor, a woman, complained to the mayor, Judge Stevens, eighty years old.

“But what will you have me to do about it, madam?” he said.

“Why send her word to stop it,” the woman said.  “Isn’t there a law?”

“I’m sure that won’t be necessary,” Judge Stevens said. “It’s probably just a snake or a rat that nigger of hers killed in the Yard.  I’ll speak to him about it.”

 

ある男性も同じように市長にクレイムをつけました。でも、市長は、”Dammit, sir,” Judge Stevens said, “will you accuse a lady to her face of smelling bad?” と言うのみ。

 

その後、彼女の姿はめったに見られなくなりました。代は移り変わって、市長も変わっていくと、彼女が税金を免除されていることが問題となって来ました。市の代表団が、税金を払うようにと促すために、彼女に会いに行くことになりました。彼女の父親が亡くなってから約30年後です。彼等が彼女の召使である黒人の男に家に招き入れられると、屋敷は荒れ放題。そして、エイミーも太って、「グレーの髪」の哀れな姿になっていました。しかし、彼女の尊大な態度は変わらず、代表団はただ追い払われる破目に。

 

They were admitted by the old Negro into a dim hall from which a stairway mounted into sill more shadow.  It smelled of dust and disuse---a close, dank smell.……, When the Negro opened the blinds of one window, they could see that the leather was cracked; and when they sat down, a faint dust rose sluggishly about their thighs, spinning with slow motes in the single sunray.

 

そして、いよいよ彼女に死が訪れます。お葬式の日、街の面々が彼女の家を訪問すると、年老いた二グロが彼等を迎え入れます。彼等を迎え入れると、彼は裏口から姿を消して、二度と戻りませんでした。

 

The Negro met the first of the ladies at the front door and let them in, with their hushed, sibilant voices and their quick, curious glances, and then he disappeared.  He walked right through the house and out the back door and was not seen again.

 

エミリーは、一階の部屋に寝かされていました。彼女のお葬式が終わり、エミリーがお墓の中に無事安置されると、彼等は長らく誰も招き入れられたことのない二階の部屋になだれ込みました。そして彼等が見たものは、

 

Upon a chair hung the suit, carefully folded; beneath it the two mute shoes and the discarded socks.

The man himself lay in the bed.

 

Then we noticed that in the second pillow was the indentation of a head.  One of us lifted something from it, and leaning forward, that faint and invisible dust dry and acrid in the nostrils, we saw a long strand of iron-gray hair.

 

 

こうして、ストーリーを書いてきましたが、お話の順番はまるっきり違います。フォークナーは、話を順番に進むようには書いていないのです。つまり時系列が複雑。最初は、エミリーが死ぬところから始まるのですから。それで、この話の時系列をはっきりさせようというところから始め、このようなストーリーに辿り着きました。

 

書き出しはこうだったのです。

 

When Emily Grierson died, our whole town went to her funeral: the men through a sort of respectful affection for a fallen monument, the women mostly out of curiosity to see the inside of her house, which no one save an old manservant---a combined gardener and cook---had seen in at least ten years.

 

 

いかがでしたか。男性に振り向かれないオールドミスと、曰くありげな恋人と、毒とSMELLとなれば、もう結論はおわかりだったでしょう。






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2015年9月19日土曜日

英語トピッククラスのために


次のクラスのために少々書き直してみました。

 

「折々のことば」という小さな囲い記事が朝日新聞に毎朝掲載されます。9月8日の言葉は「文明が進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す」でした。物理学者でエッセイストであった寺田寅彦氏の言です。

 

意味は、「洞窟の中で暮らしていた時代は、じっと潜んでいれば暴風雨を防げた。粗末な小屋に住んでいたなら、容易に立て直せる。それが、重力に逆らい、自然に抗うような施設を作るようになった時、建物の倒壊や堤防の決壊の被害は甚大になる。送電線が大規模に施設されると、被害は一地域の被害から広域の被害に増大する。」ということです。この場合は天災に関することですが、これを読んで科学の進歩もそうだなあと思いました。

 

 

例えば、自動走行車です。今年三月、自動運転車が過疎の街で公道を走り始めました。まだ実験段階ではありますが。石川県珠洲市は、人口およそ15000人。高齢化率は44%です。2005年に鉄道能登線が廃止され、珠洲市から鉄道が無くなったのです。バスやタクシーもドライバー不足です。そこで、20年を目途に自動走行車を高齢者の足として使うことを計画しました。

 

この車は、金沢大学でロボット工学を専門とする菅沼准教授が開発したものです。「目」の役割としてセンサーが回り、周囲の状況を車内のディスプレーに表示します。運転席に座り、目的地を設定しボタンを押せば、後は人工知能が判断して車が自分で走行するというもの。ハンドルやアクセルなどの操作は一切必要ありません。市では、タクシーやバスにも使用することを考えており、地域が抱える課題の解消につながると期待されています。

 
 
 

このニュースは現代テクノロジーの肯定的側面です。が、最近のニュースでハッカーがインターネットにつながる自動車をハックする実験が行われたと報じられています。アメリカの話です。ハッカーは手元のノートパソコンから車の制御システムに入り、遠隔操作しました。米国の高速道路を走る車がハッキングされ、運転手が何もしないのに突然ラジオが大音量で流れたりワイパーが作動したりしたそうです。エアコンの電源も入り、エンジンが切られたりもしました。

 

この車のメーカーはこの実験公開の三日後、ジープ・チェロキー2014年型140万台をリコールすると発表しました。同様な車を製造しているメーカーにも波紋が広がっています。実際にはハッカーの攻撃を受けていませんが予防措置でリコールを決断したということです。テクノロジーの負の側面ですね。人類は夢のような豊かな未来を手に入れるかもしれませんが、そこには同時に膨大なリスクも含まれているのです。

 

補足として、

 

このようなテクノロジーを現代社会に生かすためには、いろいろな面での法整備が欠かせません。例えば、自ら判断して走行する自動走行車が人をはねたら責任を負うのは誰なのか。乗車中の人か、車のメーカーかあるいは人工知能ソフトの開発者か。今月、G7の交通大臣会合がフランクフルトで開催され、自動車走行を普及するために必要なルールの国際基準化を進めるとしています。

 

またまた先進国が国際ルールを率先して決め、開発の有利性を目指しているということですか。出遅れた国々は、そのルールにのっとり開発を進めなければならず不利益を被るという構図ですね。

 

 

くわばらくわばら。







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2015年9月18日金曜日

国と文化とロボット


またまたロボットのお話です。また同じトピックですが、今、この問題に囚われています。今回は、ロボットがあたりまえに日常生活に存在する社会はどんなものか、です。ソフトバンクのペッパー君は、まだまだ公道には現れないわけですから、ロボットが普通に公道を歩いている現実は、まだまだ先の事とは思いますが。

 

先ず、ロボットは人間に危害を加えてはなりません。産業用ロボットで世界有数のシェアを持つファナックは、人と協調して働くロボット(産業用で人型ではありません)を製作しています。そのロボットは、アームに衝撃を吸収するウレタン樹脂をまとっています。また、人間に合わせて秒速25センチで動くようになっています。センサーの働きで、人間がどこに触れても自動で止まるようにもなっています。しかし、彼等は人間から離れてひとり作業する場合は、もっと効率よくスピーディに働けるのです。今現在、人間と協同作業をしている産業用ロボットは、そのパワーを制御されているという訳です。

 

1950年、SF作家アシモフが、その著『われはロボット(IROBOT)』で「ロボット工学三原則」なるものを示しました。

 

第一条、      ロボットは人間に危害を加えてはならない。人間の危機を看過してはならない。

第二条、      第一条に反しない限り、人間の命令に従わなければならない。

第三条、      第一条及び第二条に反しない限り、自身を守らなければならない。

 

つまり、第一条が最優先されるという事になります。このSF作家の原則を現実でも受け入れるようになるのかどうかはわかりませんが、人間が傷つかないというのは、プライマリリーでしょう。そして、人を傷つけるということは、なにも身体的な事ばかりではありません。「心」もです。人とのコミュニケーションを目指しているペッパーは、現に、その意味の備えも持っています。人に悲しみや嫌悪などの否定的な感情をロボットが引き起こさないこと、これも安全対策のひとつです。映像と音声から人間の感情をつかみ、幸せや喜びを感じられるように人工知能に学習させているのです。

 



 

ここで問題なのは、まるっきり感情のないパーフェクトに中立であるロボットに対し、人が恣意的に教え込んでいる、と言うこと。何が善か何が悪か、あるいは美とはとか真実とは何か…、こんな哲学的で人間も答えを得られていないことをどうやったロボットに教えるのでしょうか。

 

オックスフォード大学教授、ニック・ボストロムさんも人工知能が人間の能力を超える前にいかに制御するかを真剣に考慮しなければならないと言っています。

 

「真に知的な機械が安全かつ人類に利益をもたらすことをいかに保証するか。そのためには、たとえば正義、公正、美、幸福、喜びなど、どんな価値観を与えたいのか、どんな目的を持たせるのか、そしてそれらをどのようにコンピュータに組み込むのか。人工知能があなたが考えていることを単に理解するだけでなく、実際に行ってくれるように、どうやって動機付けをするのか。まだ解のない、技術的な大きな問題です。」(朝日新聞より抜粋)

 

ここでもうひとつわたしが言いたいことは、それぞれの国の文化です。彼が挙げている要素はすべて文化による違いがあります。もちろん人類普遍の「何か」も存在するのでしょうが、ロボットが活躍する日常生活においては細々とした違いがあるはず。例えば、EUEUは、ヨーロッパ諸国を統一する試みのためいろいろなことを共通にしました。でもできなかったことがあります。ユーモアです。テレビ番組の共通化でどうしても「お笑い番組」は共通化できなかった。それは、笑いの質が違うからでした。

 

ロボットは人間に危害を加えてはならない。人間の感情も傷つけてはならない。が、傷つくことは人それぞれ。そして文化による違いも。どこかの国ではユーモアになることも、違う国ではとんでもない屈辱になることがあります。ロボットのグローバル化を目指すなら、文化の均一化も必要になります。どこの国でも通用するロボットのためです。

 

現在の世界の力関係がこれからも同じように続いて行くなら、その均一化はどの国の文化によるのかは想像できそうですが、どうでしょう。あるいは、このロボットはこの国仕様とかになるのかな。

 

 

いつもの妄想でした。






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2015年9月11日金曜日

人間社会は、進歩するほどリスクが肥大するのだァ…


「折々のことば」というコラムが朝日新聞に毎朝掲載されます。9月8日の言葉は「文明が進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す」でした。さてその意味は、「洞窟の中で暮らしていた時代は、じっと潜んでいれば暴風雨を防げた。粗末な小屋に住んでいたなら、容易に立て直せる。それが、重力に逆らい、自然に抗うような施設を作るようになった時、建物の倒壊や堤防の決壊の被害は甚大になる。送電線が大規模に施設されると、被害は一地域の被害から広域の被害に増大する。」ということです。

 

この言葉は寺田寅彦が言いました。この場合は天災に関することですけど、これを読んで科学の進歩もそうだなあと感じたという訳です。この7月「変なホテル」というホテルがハウステンボスにお目見えしました。フロントでチェックインを接客するのが、恐竜や女性の姿をしたロボット三台です。そのロボットがチェックインのパネル操作のお手伝いをし、その後ポーター係のロボットが客室に案内するのです。荷物を預かるクロ―クではアーム型の産業用ロボットが手掛けます。これで人件費を抑え、ローコストのホテルを実現するそうです。

 

これらのロボットはまだまだ玩具程度の段階。しかし、実際にロボットと人間が共存する世界になるとどういうことが起こるのでしょう。「ずばり人工知能が人類を滅ぼす」という問題です。オックスフォード大学教授ニック・ボストロムさんの指摘です。人工知能が人間の能力を超える可能性を考え、今のうちに対策を講じておく必要があると唱えています。

 

真に知的な機械が安全で人類に利益をもたらすか否かは、今それに係わっている人々が人工知能をコントロールするために人工知能に何を教えるかに掛かっているということ。例えば、正義、公正、美、幸福、喜び。どんな価値観を人工知能に与えるのか、どんな目的を持たせるのか。彼は「たとえば30年後、人間並みのものができたけれどもそれをコントロールする方法がわからない、今となっては手遅れだ、なぜ早く研究を始めなかったのか、という状況にだけはなりたくないのです」と言います。

 

人はコントロールできないものを創ってしまうと言うことですね。それが人類の生活を豊かにするものであったとしても、いったん事が起った時の被害は、人類が恩恵を受けただけ倍返しで迫ってくるということです。

 




 

これはまだチョット先の話のようですが、自動走行車はもうすぐそこにあります。もちろん人型ロボットではありませんが、意味は同じです。コンピュータ制御でひとりで走ってくれるんですから。または、ソフトバンクの「ペッパー」、あるいはロボット義手など。これらが公の場面に登場してくる時、人類はまた複雑な問題を抱えることになります。

 

例えば、自ら判断して走行する自動走行車が人をはねたら責任を負うのは誰なのか。念じた通り動くロボット義手はモノか人か。その義手を壊した場合、器物損壊の罪に問われるのかあるいは傷害罪か。などなど。現に「ロボット法学会」なるものができて、このような問題に取り組み法整備を進めています。

 

最新のニュースでは、ハッカーがインターネットにつながる自動車をハックする実験が行われたと報じられています。アメリカの出来事です。ハッカーは手元のノートパソコンから車の制御システムに入り、遠隔操作しました。米国の高速道路を走る車がハッキングされ、運転手が何もしないのに突然ラジオが大音量で流れたりワイパーが作動したりしたそうです。エアコンの電源も入り、エンジンが切られたりもしました。この車のメーカーはこの実験公開の三日後、140万台をリコールすると発表しました。同様な車を製造しているメーカーにも波紋が広がっています。

 

 

人類は夢のような豊かな未来を手に入れるかもしれませんが、そこには同時に膨大なリスクも含まれているのです。








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2015年9月8日火曜日

"The Capital of the World" by Ernest Miller Hemingway


次回の英語リーディング・クラスのヘミングウェイの短編です。彼の作品は、と言うか、古典と呼ばれる純文学には興味がありませんが、以前(多分2001年)彼の息子のグレゴリー・ヘミングウェイ (19311112 - 2001101)が自殺したとの新聞記事を読み、彼のことを調べてみたのです。と言うのは、記事の内容が「彼の息子が女子刑務所で自殺した」とあったから。彼の息子は、女装して道でラリっていたところを警察官に捕まり、女子刑務所に収監されたのです。そしてそこで首を吊って死にました。息子は偉大な父、「パパ・ヘミングウェイ」の犠牲者でした。ヘミングウェイも自殺して最期を遂げますが、彼の家族もほとんどいっていいほど自殺して亡くなっています。

 

調べたところ、ヘミングウェイは戦争に参加したかったようです。どの戦争に参加したかったのかは忘れてしまいましたが、高校を卒業した後地方新聞の記者見習いとなり、その後やはり戦争への思いを捨てがたく記者を辞めて従軍します。わたしは、従軍記者と思っていましたが(十数年前に調べたので記憶があいまいです。スイマセン。)、ウィキペディアの英語バージョンによりますと、

 

Hemingway was raised in Oak Park, Illinois. After high school he reported for a few months for The Kansas City Star, before leaving for the Italian front to enlist with the World War I ambulance drivers. In 1918, he was seriously wounded and returned home. His wartime experiences formed the basis for his novel A Farewell to Arms (1929).

 

それから、スペイン市民戦争にも興味を持ち積極的に係わって行きました。彼の長編『誰がために鐘は鳴る』はスペイン内戦を主題にしています。

 

そこでこの短編です。彼はスペインに相当思い入れがあると思いますが、どうでしょうか。

 



 

The Capital of the Worldは、マドリッドです。主題は、このマドリッドにあるホテルLuarcaで起った出来事、一夜の出来事です。青年Pacoが主人公。彼の姉たちが先にこのホテルでメイドとして雇われ、弟をボーイとして推薦しました。彼等の住んでいた田舎町は、良い人材が豊富との評判でPacoもすぐに雇い入れられたのです。彼についてこのように描写されています。

 

He was a well built boy with very black, rather curly hair, good teeth and a skin that his sisters envied, and he had a ready and unpuzzled smile.  He was fast on his feet and did his work well and he loved his sisters, who seemed beautiful and sophisticated; he loved Madrid, which was still an unbelievable place, and he loved his work which, done under bright lights, with clean linen, the wearing of evening clothes, and abundant food in the kitchen, seemed romantically beautiful.

 

そのホテルには数人の人々が宿泊していました。

 

There were from eight to a dozen other people who lived at the Luarca and ate in the dining room but for Paco, the youngest of the three waiters who served at table, the only ones who really existed were the bullfighters.

 

え~~~ッと、「この世に本当に実存しているのは、闘牛士だけだ。」と言う事で、パコは闘牛士に憧れていると読んだのですがいかが。

 

宿泊人は、二人のピカドールと一人のバンドリヨン、三人のマタドール、そして二人の司祭とビジネスマン(the birthmarked-faced auctioneer of watches at the fairs and festivals of Spain)が一人です。彼等一人一人の描写、そしてその夜のそれぞれの行動描写がありますが割愛。

 

ウェイターのうちの一人が、その夜労働者の会合に出なくてはいけないので、パコがその代わりを引き受けます。そのウェイターが言うには、

 

There are the two curses of Spain, the bulls and the priests,

 

どうもスペインの三大要素は、闘牛、カソリックそして労働運動のよう。このウェイターの政治談議が少々あったあと、パコの感想は、

 

Paco had said nothing. He did not yet understand politics but it always gave him a thrill to hear the tall waiter speak of the necessity for killing the priests and the Guardia Civil.  The tall waiter represented to him revolution and revolution also was romantic.  He himself would like to be a good Catholic, a revolutionary, and have a steady job like this, while, at the same time, being a bullfighter.

 

やはり彼の中にもこの三大要素があるようです。

 

そしていよいよクライマックスへ。

 

食堂から宿泊人がすべて引き払った後、ウェイターたちも引き上げます。最後に残ったのは、キッチンで皿洗いをしていたパコより三歳年上のボーイEnriqueとパコ。二人で後片付けをしながら、パコは皿を拭いていたナプキンで闘牛士のまねごとをします。すると、エンリケが「そんなんでは闘牛は殺せない」と言います。その上、闘牛を目の前にしたら、怖くて震え上がるよ、と。パコはそんなことはない。僕はいつも練習しているんだと。「そんなの想像の世界でだろう」とエンリケ。

 

エンリケはそれでは震え上がるかどうか試してみようぜと、肉切り包丁を二本抽斗から出して椅子に縛り付けます。パコはエプロンを手に取り闘牛士、エンリケはその椅子を持って闘牛の役。パコはあまりに真剣にするので、エンリケは「これは冗談だよもうやめよう」と言ってもパコは聞かず。そしてとうとう、

 

Then the bull turned and came again and, as he watched the onrushing point, he stepped his left foot two inches too far forward and the knife did not pass, but had slipped in as easily as into a wineskin and there was a hot scalding rush above and around the sudden inner rigidity of steel and Enrique shouting .

“Ay, Ay, Let me get it out! Let me get it out!” and Paco slipped forward on the chair, the apron cape still held, Enrique pulling on the chair as the knife turned in him, in him, Paco.

 

パコの腹部から血がドクドクと流れ出します。エンリケはあわててナプキンでお腹を押さえるように言い、医者を呼びに行くからと。パコは心配するなとエンリケに言いますが、医者を呼びに行ったエンリケがいなくなった後、パコはこんなことが自分に起るとは信じられないと思います。最後に司祭に会いたいと。パコの最後です…、

 

“Oh, my God, I am heartily sorry for having offended Thee who art worthy of all my love and I firmly resolve…..” he felt too faint and he was lying face down on the floor and it was over very quickly.  A severed femoral artery empties itself faster than you can believe.

 

まるで演劇の一場面を見ているようです。スポットライトに浮かび上がるパコが、お腹をナプキンで押さえながら神に許しをこう。そして、息が途切れるとともに舞台は、暗転。

 

エンリケが医者と警官を連れて戻って来た時、パコの命はもう事切れていました。ヘミングウェイは、この事件が起きている間の他の登場人物の行動を描写しています。マタドールや司祭やビジネスマン、そしてパコの姉たちのことです。パコが死んだ時、彼の姉たちは映画館で、グレタ・ガルボ主演映画を見ていました。

 

……the two sisters of Paco were still in the moving-picture palace of the Gran Via, where they were intensely disappointed in the Garbo film, which showed the great star in miserable low surroundings when they had been accustomed to see her surrounded by great luxury and brilliance.  The audience disliked the film thoroughly and were protesting by whistling and stamping their feet.

 

 

そして、著者はこう書いています。

 

パコは死んだ。他の人々がそれぞれ好きな事をしていた時に。彼は若くして命をなくし、もう彼等たちが経験したことを経験することもできないのだ。そして自分がどうして死ぬのかもわかっていない。最期の懺悔もできなかった。グレタ・ガルボの映画に文句を付けることももう出来ないのだ。

 

The boy Paco had never known about any of this nor about what all these people would be doing on the next day and on other days to come.  He had no idea how they really lived nor how they ended.  He did not even realize they ended. He died, as the Spanish phrase has it, full of illusions.  He had not had time in his life to lose any of them, nor even, at the end, to complete an act of contrition.  He had not even had time to be disappointed in the Garbo picture which disappointed all Madrid for a week.

 

 

どうです。ステキでしょ。素敵な「犬死に」でした。。。







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2015年9月5日土曜日

わたしが英語の本を読むことになった理由(わけ)



次回の英語読書会は、わたしの当番でヘミングウェイの短編を選びました。ヘミングウェイは特に好きな作家ではありませんが、英語の勉強のために7~8年前に買いました。ヘミングウェイ・コンプリート・短編集です。コンプリートなのでとても分厚く、もちろん全部は読み切れていません。やはり、英語の勉強のために買ったという事で、意欲がわかないのかなあ。

 

そもそもわたしが英語の本を買い始めたのは、旅行のお土産のためです。自分へのお土産ですが。写真を撮るのが好きではないので、何か記念の品はと思い最初は買いました。本屋さんが好きな事もあり、旅先でも本屋さんを探してしまいます。

 

最初の海外旅行は、1998年南アフリカ共和国。ケープタウンしか滞在していませんが、そこで通った学校の近くに本屋さんを見つけました。とても大きなモダンな本屋さんでした。そこで、『ロビン・アイランド』と言う本を買ったのが始まりです。ロビン・アイランドは元マンデラ大統領が投獄されていた島です。この本は、この島の歴史のようなもの。イギリスがインドやパキスタンからの奴隷を本国に連れて行ったと共に、この国にも連れてきたようです。ロビン・アイランドでは、そんな人たちが働かされていた島のよう。と言って本を全部読んだ訳ではありませんが。実際、この頃は英語の本を一冊読み切る能力がありませんでしたから。英語の本を読み切る能力はなかったものの、旅先で本を買うことは続けました。そんな本を自分の本棚に並べて悦に入っていたのです。

 

二冊目はサンフランシスコで買いました。ケープタウンのハードな滞在に心が折れて、次は滞在が楽そうなサンフランシスコにしたのです。先生の家でのホームスティ。家の周りを歩き回り本屋さんを見つけました。この時買ったのは、JG・バラードの『RUNNING WILD』。わたしが大好きなSFの作家です。SFと言うよりもシュールレアリスム的。本は薄くすぐ読めそうでしたが、薄いから英語が簡単と言う訳ではなく、この時はまだ読めませんでした。

 

それから、マルタでもイギリスでも本を買いましたが、自分では読み切れないと自覚していたのでただ買っていたと言ったところです。しかし、読めないと思いつつも日本でも本を買うようになりました。どうせなら好きな本をと、フィリップ・K・ディックの『DR.  BLOODMONEY』やマイケル・ムーアの『STUPID WHITEMEN』。

 



 

上海で友達と仕事をすることになりました。2003年のことです。約2年間上海にいました。この時、『STUPID WHITEMEN』を持っていったのです。夜は出かけるところがなく暇だったので、少しずつこの本を読み始めました。で、いろいろな事情により台湾系の英語学校に通う破目に。そこで、有能な中国系アメリカ人の先生に会ったのです。彼が学校をやめると言うので、わたしもやめて、彼にプライベート・レッスンをお願いしました。適当な教科書がなく、それではこの『STUPID WHITEMEN』を読むことにしようと言われ、タフでしたが頑張ったのが英語読解力のプラスになったようです。

 

2005年に帰国した後、友達がオーガナイズした英語のグループ・レッスンに参加。そこで会ったインド系イギリス人の先生が、英語の本を貸してくれたのです。『華麗なるギャツビー』でした。なんとその本を一週間で読み切れたのです。とても面白い本で、ノンストップで読みあげました。この経験が、わたしを導いてくれました。

 

その後、試しに今までに買った本を読み返してみたところ、JG・バラードの本もフィリップ・K・ディックの本も最後まで読めました。おもしろかったあ。そして、興味を持って読めそうな本を買い漁り、読んではまた買うということを繰り返し、今日に至ります。

 

 

その後の展開はまたの機会に!







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