2015年10月29日木曜日

トイレ事情   (上海滞在記 2003-2005)


みなさんは海外でトイレに困ったことありますか。国によってトイレ事情は様々です。インドネシアやマレーシアでは、トイレットペーパーはなくお水で洗うシステムでした。所謂シャワートイレなので清潔ではありますが、そこら中が水浸しのこともあります。

 

最初に上海にやってきた時、驚いたことのひとつはトイレでした。メイが船中泊を含む海水浴への小旅行に連れて行ってくれました。船で上海を流れる川から海に出て、普陀山に向かいます。有名なお寺があるところです。一緒に行ったメイとその友達たちの目的は、そのお寺をお参りすることだったようです。中国人は信心深いのでしょうか。あるいは、日本人が信心深くないのか。つまり観光でお寺参りをするのは、日本人だけじゃないかと思ってしまう事があるからです。メイはわたしには「海水浴に行くよ~。」と言っていたので、彼女たちの真摯な態度のお寺参りには少々面食らいました。

 

わたしは、海水浴です。八月のこと。先ずは船中1泊、そして現地で1泊、帰りの船中で1泊という予定です。夕方に船に乗って朝普陀山に着くというスケジュールで、今回のお話は、その船の中のトイレの事です。

 

 

船は大きくて設備も整っていました。レストランなどもあります。部屋は二段ベッドが2つあり四人部屋でした。彼女たちが(合計七人の旅。女四人、子供三人)言うには「日本人いっしょだから良い部屋とったよ。」ということ。しかし、部屋にはトイレはなく、共同のトイレです。そこに洗面設備もあり朝、顔を洗ったり歯を磨いたりもできます。

 

そして、当然のことながらわたしもトイレに行く場面に遭遇しました。トイレのある部屋のドアを開けました。「ぎゃ~~~、」心の中で叫びました。それぞれの個室のドアが腰の高さまでしかないのです。トイレの個室が並んでいる側のほうが少し高くなっているので、ドアが腰のあたりまでしかなくとも、トイレの順番待ちの人たちには、トイレの中までは見えませんが……。

 

覚悟を決めてドアを開けて中に入りました。溝が1本ありました。その溝をまたいで用を足します。5個ぐらい個室がありましたが、溝はひとつで5個の個室を貫いているのです。もちろん個室と個室を隔てる境の壁も腰ぐらいの高さです。だから前で「用を足している」人は丸見え。そして用を足した「もの」もその溝を順次流れてくると言うわけです。

 

最初に考えたことは、「どちらを向いてしようか?」でした。どちらを見られる方が恥ずかしくないか、です。

 

「そうだ!一番端の個室に入れば一方向しか見られないで済む。注意するのは、一方向だけだ!」

 

そして、顔を見合わせるのはどうも…、とも。わたしには「日本人か中国人か」をあまり判別できないのですが、彼らは判別できる様なのです。トイレの壁を隔てて顔が合うと、こんなところに日本人がいると、目がまん丸になります。

 

そんなトイレでしたが、その溝は水洗で十秒ぐらいごとに水が流れています。だから清潔は清潔です。だからこんな造りで清潔なトイレってどこが作ったんだろうと、ちょっと興味がわきました。辺りを見回したら、「TOTO」と書いてありました。さすがだね~~~。

 

バリ島のトイレも少々問題ありでしたが、(バリの公衆トイレはドアなし。穴だけ。レストランのトイレはビチャビチャ。紙ではなく水で洗うから)トイレに行かないでおこうと思えば行かなくて済みますよね。でも船の中となるとそうはいきません。

 

 

また次の日、普陀山でお寺巡りをした時にトイレに行ったら、個室の間の間仕切りはありましたが、ドアはなし。そしてもちろん間仕切りは腰までの高さです。わたしが、「ドアがな~~~い~~~!」と叫ぶと、メイは、「はい、はい。だれも見ませんよ。上海でも最近までそうだったよ。」と軽くイナサレテしまいました。

 


 

それでもう一つ思い出したこと。

 

メイとはイギリスの英語学校で会ったのですが、先生推薦の「イギリスの伝統料理」を食べさせてくれるレストランに一緒に行った時の事です。もうひとり日本人の若い女の子が一緒に行きたいと言うので三人で行くことになりました。その帰りのこと、三人でバスを待っている時、帰りのバス停を間違えたらしく、いくら待ってもバスが来ません。あたりは真っ暗に(海に面した小さな田舎町でした)。そしてその女の子がトイレに行きたいと。わたしたちは、いつものようにビールを飲んでいましたから。いろいろあたりを探しましたがトイレは見当たらず。そしたらメイが「その辺でしなよ。わたし見張っていてあげるよ。」と。

 

結局、その子は道端でしたらしいのです(わたしはバス停でバスが来るのを見張っている係りだったのでわかりません)。その時わたしは、メイは何て親切な人なのだろうと思ったのでした。でも、上海の経験で、「何だ!彼女はそういう事に馴れていたんだ。」と思い直しました。

 

上海のトイレ事情については、まだまだありますよ、御不快でなかったら。また次回のお話、と言うことにしましょう。







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2015年10月27日火曜日

『3秒で話す中国語』  (上海滞在記2003-2005)


ちょっと観光で上海に来たつもりが、なんだか長期滞在になりそうな雲行きです。しかしそうとは想像していませんでしたが、最初の滞在の際に中国語会話の本を買いました。上海休暇を満喫する為にほんの少しでも中国語を知っていた方が良いだろうと言う気持ちでした。

 

日本で買った本は、『3秒で話す中国語』という題です。一回目の訪問時は、単独であまり行動する機会がなかったので役に立ちませんでした。また、実はペラペラと目を通しただけだったのです。そして、また上海に来なければならなくなった今回、また持ってきました。今回は役立てようと思って。

 

 

少し読んでみました。「買い物に行く」の項です。

 

<品物を選ぶ>  まあ、これは普通の会話ですね。

何々はどこですか?」とか、「何々を見せてください。」とかの言い方が載っていました。

 

 

次は、

<値段交渉>  まあ、まあ、これも普通ですね。

「もっと安いものはありませんか?」とか、「もう少し安くしていただけますか?」の言い方等々です。

 

<買い物でのクレーム>  これはちょっと曲者と思いますが、どうでしょう。

例えば、「ひびがはいっていますよ。」とか「このおもちゃは壊れています。」、「この食品は消費期限を過ぎています。」……これってちょっと興味深いでしょう。なぜ、日常会話集にこんな表現が必要なのでしょうか。

 

会話例:

「この急須はヒビが入っていますよ。」

「大丈夫、使えますよ。」(店員)

「いいえ、取り替えてください。」

 

「これ壊れていますよ。」

「問題ありませんよ。」(店員)

「いいえ、違うのを見せてください。」

 

読んだ時は変に思いましたが、これが上海での日常会話でした。

 
 
 
 
 

例えば仕事の関係で道具を買いに行った時のお話です。耐熱の台を買いに行きました。銀細工をする時の焼成台として使います。20cm四方ぐらいのもの。ちょうど良いものが見つかりましたが、ちょっとヒビが入っていました。わたしが指摘すると、メイが訳して言いました。お店の人は何か言って、それを叩きました。「バッキッ。」隅が割れました。

 

「店員が『全然問題ないね』、言って叩いたら割れたね。安くしとくと言ってるよ。どうするか?」

 

見たら割れたのは隅の方だったので、使うのには問題なさそうでした。メイが安く買いたたいたのは勿論のこと。まあいい買い物でした。

 

 

わたしのアパートのお風呂の栓が嵌らないと申しましたが、だいたいの中国の人はシャワーだけで湯船には浸かりません。バスタブがないところが一般的なのです。あったとしても何か問題点が必ずと言っていいほどあります。まあ、「日本人にとっては」と言えるかもしれませんが。

 

わたしが「お風呂の栓ができない」とメイに言うと、彼女が交渉してくれました。そしてすぐ直してくれることになったのです。新しい栓を買ってくると言います。次の日、まだ直っていませんでした。メイに聞いてもらいました。バスタブの規格が変わっていて、合う栓が売っていないとのこと。

 

「風呂ごと直さなければいけないと言ってるよ」です。修理するには2週間はかかるということで、結局あきらめました。それ以降の解決策は、スーパーのレジ袋をまるめて栓の変わりに穴に押し込み、ペットボトルを半分に切ったものでその上に蓋をし、足でペットボトルの蓋を押さえてお風呂に浸かるというもの。

 

と言うことです。








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2015年10月25日日曜日

上海再上陸  (2003-2005)


上海でお店を出すという男の子にアクセサリーの作り方を教えるために、もう一度上海にやって来ました。一カ月でお店を出すってどういうことと思いましたが、ワンさんがそう言うので「まあいいか」と。

 

2003年9月1日上海着。天気は快晴。とても暑いです。残暑です。中国では、秋虎と言うそうです。秋になっても猛威を振るう虎という意味とか。メイが再び空港に迎えに来てくれました。新しいホンダに乗っての登場。「その車どうしたの?」って聞いても答えてくれません。その上、車はオートマ。以前は、ミッションだったんですけど。

 

どうも彼女の夫の仕事の関係で手に入れたようです。中国は日々前進しています。彼女の夫は、若い頃、自分が自動車を所有する身分になるとは全然考えてもいなかったと言っていました。せいぜい良いとこ、モーターバイクを持てるくらいのもんだろうと。しかし、彼はホンダ・アコードを持てるようになりました。メイの夫のお仕事については、またの機会に。興味深いですよ。

 

車のことについてお話しますと、所有するには相当な額が必要なようです。先ず、ナンバープレートを取得することが大変。取るだけで10万元おおよそ150万円です。というのは、車が増えすぎるのを抑えるため、上海政府は月に3000件しかナンバープレートを発行しないからです。加えて、ナンバープレートの順番待ちやら、便宜を図ってもらうための賄賂などの費用が掛かります。メイが乗っていたアコードは新車で買うと300~400万円するとのこと。そして、プラス、ナンバープレート代ということになります。

 
 
 
 

とにかくその車で今回はホテルではなく、アパートに向かいます。わたしが住むことになるアパートは、出発前にメイがメールで内装などの写真を送ってくれていました。とても豪華そうでしたが、着いたら「ごめんね。あの部屋は借りられなくて違う部屋だけど中は一緒ね。」と言います。

 

アパートの外観はとても素晴らしかったです。高級アパートメント団地といった感じで中には児童公園、コンビニ、レストラン、クリーニング屋などなどがありました。もちろん、立派な門があり、制服を着た守衛さんが常駐しています。部屋は、ベッドルームとリヴィング、そしてバスとトイレ。場所は上海体育館の前で立地条件は最高です。地下鉄の駅も近くにありました。

 

内装は写真とは少々異なっていました。また、部屋が一階にあって、防犯上窓が開かないとか、金網が張ってあるとかしました。今では、ワンさんがケチったのだと言う事がわかりますが、その時はつゆ知らず。また、わたしにはバスタブが必需品なので、必ずバスタブのある部屋と頼んでいました。バスタブはあるにはあったのですが、栓ができなかったのです。その辺は、後で修理するからと言われ、わたしもとりあえずの一カ月だけの住まいなので「まあ、いいか。」と妥協しました。しかしそんなことは中国のこと、なにもスムースに行きませんでした。その時のわたしは「無垢な日本人」でしたから、素直に受け入れるしかありませんでした。

 

 

その日、「どこに夕食食べに行くか。」と聞くので、月曜日はいつも何でも半額で食べられるビアバーがいいんじゃないのかと言うと(9月1日は月曜日)、そこは予約が必要とメイは言います。「ふーん、じゃ、どうしようか?」と言うと、彼女は、「へ~~~~ん、もう予約してあるよ~~ん。」と。

 

完全にはめられました。

 

それで、行きましたビアバー、 ドイツ風ビアレストラン。 メニューが半額の時間は8:30までです。それで彼女はいつもその前に、2リットルのビールを飲めと命令します。8時半の5分前でもいいからお変わりせよと。つまり1リットルのビアマグを注文し、8時30分前に追加注文せよと言う意味です。

 

わたしは500ミリリットルのマグを本当は飲みたいのですが。なぜなら、常に冷たいビールを飲みたいから。でも1リットルのマグの方が安い。「どうせ飲むんだから、初めから、安い方を飲め。」との彼女の主張です。わたしは、何とも反論できません。なぜならそれが真実だから。そして会社のおごりだからです。

 

という訳で、二人で「ぐだぐだ」飲んで再会を祝い、上海の1日目の夜は無事に更けて行きました。二日目からのことは知りません…、どうなりますことやら。








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2015年10月24日土曜日

「夏休み 上海に行く」の巻  (上海滞在記 2003-2005)



わたしがなぜ上海に住みついて仕事をする羽目になってしまったのかを思い出すと、未だに腹立たしい限りです。しかし、それはメイの責任とは、わたしは思っていません。2002年にメイとイギリスで知り合って、三週間マーゲートの英語学校で共に過ごしました。その頃のお話を書く機会もあるでしょうが、メイさんとはすっかりお友達となりました。

 

メイはまだイギリスに残ると言う事で、わたしは一人先にイギリスを立ちました。その前日の夕方、彼女の寄宿先とわたしの寄宿先の真ん中あたりの駅で最後のお別れとなったのです。メイは、ハグしようかと言い、「そうだね」と抱き合いました。お互い、目に涙が溢れていましたが、メイは「泣くなよ」って。わたしも「フン、泣かないよ」と言って、さよならをしました。

 

 

その後、メールアドレスだけは交換していたので、メイからメールはありました。「MISS YOU. MISS YOU…」と。暫くのメールのやり取りの後、「わたしも上海に戻ったよ。」というメールが届きました。わたしが帰国してからさみしくて、また日本に行っちゃおうかと思ったけど、とにかく上海に帰りましたと。そして、わたしに上海に遊びに来て下さいとの懇願です。

 

わたしは、「え~~~ッ、そんなに思ってくれてるの。」と思って、「夏休みに行っちゃおうかなあ~~~。」と考えました。上海はわたしの好きな街でもあります。先ずは、上海ジャズ。そして、映画の『上海バンスキング』。また、大阪の叔父さんが、若い頃新聞記者として上海で暮らしていたことも思い出しました。上海ってどんな所だろうという妄想が一気に膨らんできたのです。

 



 

そして、2003年の夏に上海に降り立ちました。わたしは単に三週間の観光旅行の気分だったのですが。

 

メイは、上海空港まで迎えに来てくれて車でホテルまで送ってくれました。ホテルも「中国人が予約した方が安いね。」と、すべて計画してくれたのです。わたしは、ホテルまで送ってもらって、ご飯でも一緒に食べたらさよならして、「明日からは一人で上海探索だ」と考えていました。ところがメイは、毎朝ホテルまで迎えに来てくれて、その前の日にわたしがリクエストした所へ連れて行ってくれたのでした。

 

また、メイの友達とのクルーズも計画していたらしく、船中で一泊の小旅行にも連れて行ってくれたのです。目的は海水浴で、現地で一泊と帰りの船中泊も含め、計三泊四日の予定でした。メンバーは、メイの息子のトニーとメイの友達とその息子(中学生)、それからメイが以前勤めていたところの同僚とその息子(高校生)。全部で七人です。その珍道中ぶりもまたのお話と致しましょう。

 

 

今回は、なぜわたしが上海にいるのかという導入部分のお話です。メイには、わたしの仕事のこと(シルバージュエリー、デザイン、制作販売、講師など)も話してありました。そして彼女が共同経営をしている会社で、説明会とワークショップをしてくれないかと頼まれていたのです。その共同経営者が、海水浴旅行の一人だったのです。ワンさんです。

 

小旅行から帰ってからメイがホテルまで迎えに来ると、「今日はわたしの会社に案内するよ。」と。ワンさんが待っていました。もう凄い歓待ぶり。しばらくお話やら会社の案内をしてくれたあと、ワンさんはおもむろに言いました。「あしたから生徒が3人来るから教えてください。その人たちジュエリーの作り方学んで来月お店を出します。」

 

わたしは、「え~~~ッ、??!!!???」。

 

実は小旅行の計画もワンさんの企みで、旅行代金は彼女が出した模様。わたしはメイにもお世話になったので、彼女のために一週間くらい教えてあげてもいいかという気になってしまったのです。メイに「知っていたのか。」と聞くと、彼女もこの事は知らなかったと。その時は彼女の言葉を信じましたが、今は「どうなんだろう」と疑っています。

 

 

とにかく、彼等に少し教えました。男の子2人と女の子。ひとりの男の子は大学を卒業したばかり、あとふたりは大学生。でも4年生なのでもうあまり学校に行かなくていいから大丈夫とのこと。わたしはもう帰る日が来るのでどうするんだろうと思っていましたら、ワンさんは、「彼等(女の子はワンさんの姪でした)はまだ学ばなければいけないしお店の相談もあるのでまたすぐ来てください。」と言います。つまりワンさんとメイはわたしといっしょに仕事をしたいらしいのです。条件とかいろいろ提示されました。その時は中国人の実態を全然知らなかったので「それも面白いかな。」と思ってしまったのが間違いのもとでした。

 

その時点では、「ホテル代と航空券代と食事代そして報酬は歩合」という条件でしたが、メイが「歩合は変ね。仕事あるかわからないよ。生徒の授業料だけはもらった方がいいよ。」と教えてくれました。それで「ホテル代、航空券代、昼食代、授業料」だけは確保してあとは日本で考えてくるということにしていったん日本に帰って十日後にまた上海に来ることにしました。その時までに住むところもちゃんと用意しておくと言う約束で。でも、彼等が銀アクセサリーの制作技法を学んでお店を出すまでの一カ月の約束ですよ。

 

こう言う訳で九月初めに再び上海に降り立つことになりました。今までの話を読んで頂けた方は、「わたしとメイが会社を持っているはずでは」と、お思いかもしれません。

 

その通り。

この話はこれで終わるはずはなかったのでした~~~。







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2015年10月23日金曜日

中国人の英語教師 (上海滞在記2003-2005)


前回、少々彼女の事を書きました。「ヒーさん」のくだりです。彼女はわたしの上海の友達の英語の先生でもありました。彼女が友達の英語名の名付け親です。友達の英語名は「メイ」です。これからは、友達のことをメイさんと言うことにしましょう。

 

中国人はたいてい英語名を持っています。英語を習う機会があった人はですが。英語の先生が、英語名を授けるからです。メイの息子も幼稚園の時から英語を学んでいるので、彼の名前はトニー。小学校に入学した時、彼のクラスにはもうひとりトニーがいました。彼女の息子は、先生に名前を変えろと言われたそうですが、メイは先生と交渉して、「トニー」を死守しました。

 

メイとは、2002年にイギリスのマーゲートに行った時に出会いました。その時、学校には日本人がわたし以外にもう一人いると聞いていたのですが、見当たりません。それで彼女がそうなのだろうかと思っていると、先生が生徒の名前を紹介する時に彼女の名前を発音できず、彼女は「メイです。」と自分で名乗ったと言う訳です。その話はまたの機会にということで、中国人の英語教師のお話です。

 



 

彼女は裕福な家の出らしいです。でも上海出身ではない。メイに言わせれば、「彼女、上海人ないね。」です。上海人はすごく上海人ということにプライドを持っています。おそらく、東京に対する大阪のようなもの。北京に対する上海です。上海に進出している企業は大阪の会社が多いってご存知ですか。統計的にどうなのかは責任を持ちませんが。

 

彼女の生い立ちについては本人から2回ほど英語で延々と教えてもらいました。彼女の父親は彼女のことをとても可愛がっていて、大学に進むようにいつも言っていました。でも、彼女は父親にお金を出してもらって素直に大学に行きたくなかったようです。つまりINDEPENDENCEを標榜していたんですね。

 

そこで、勤めながら勉強ができるという制度がある会社を見つけました。そして応募しました。その面接でいつもの弁論術を発揮して(彼女は凄い。その上「どうやって人を説得すればいいのか」というような本をいつも読んでいる。)その会社に入社しました。しかしその会社で働いて学んでいるうちに「これは自分が望んでいるものではない」と思い始めたそうです。それで会社に面会を申し出てその主張をしたとか。つまり、会社は学校の費用も払っているのだから、途中で勝手にやめることはできなかったのです。そこを再びうまく丸め込んで家に帰りました。寮制でしたから。

 

わたし:おとうさん、怒らなかったの?非難しなかったの?

 

彼女:お父さん沈黙していた。でも、わたしは知っていたよ。お父さん他の人にはニコニコ顔で娘が帰ってきたと嬉しそうに言っていた。わたしに大学に行けと言ったの。いろいろ考えて英語を学べば英語の先生になってひとりで生きていけると思ってそうした。

 

そして彼女はその通りになったのでした。わたしと会った時は、すでに英語の先生ではなかったので、まだまだ紆余曲折はあったのですが。

 

 

彼女のお父さんですが、彼は殺されました。40歳代の時に強盗に襲われたのです。これも中国の不幸な出来事です。今も(2003~2005)そうですが、中国の取引は全て現金なのです。もちろん銀行振り込みは出来ますが、銀行間での決済システムがないので、振込でも現金を銀行の窓口に持って行きます。

 

わたしのアパートの家賃の振込も銀行に現金を持っていって支払いを済ませました。ご存知の通り、上海はどこでも人、人、人。銀行も例外ではありません。窓口では大量の札束を一々数えるので、すごく時間を要します。また、偽札も多いので、何重にもチェックしますから余計です。銀行に「VIP室」というサインがある部屋があったので「どういう意味」とメイに聞いたところ、「偉い人は早くできるんだろうよ。」と言う返事。

 

「ヘェ~、共産主義の国でかあ。」と言うと、「そうね。不思議ね。」と。

 

 

そんなことで、彼女のお父さんは商売をしていた為、いつも取引のために大量のお金を持っているといううわさが流れており、それで強盗に襲われたという訳です。

 

世の中は不条理だらけのようです。








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2015年10月22日木曜日

『顧先生』   上海滞在記 2003~2005



顧先生は、上海で知り合いました。わたしの友達の友達です。彼女は、中国人の日本語教師です。上海の友達は、十数年ほど前に、東京に留学していました。語学学校に2年、それから何の学校かは忘れましたが、専門学校に3年通っていたと言っていました。計5年間東京に住んでいましたから、日本語はお手のものです。その語学学校で、顧先生と知り合ったとのこと。友達なので「先生」と呼ぶ必要はありませんが、わたしたちはそう呼んでいます。ひとつには、わたしが中国人の名前を発音できないことにあります。彼女は、「コセンセイ」です。

 

他の人たちもわたしが名前を覚えないこともあり、あだ名で呼んだりしています。その中に「ヒーさん」と言う人がいます。その人は女性ですが、いつも男の人のような服装をしているので、近所の子どもたちから「おじさん」と言われているとの話。彼女がわたしたちのイベントに来たことがありました。その時、友達の友達である中国人の英語の先生もイベントを手伝ってくれていました。その英語の先生が、彼女は誰と英語で聞くので、

 

わたし:She is …………….

英語の先生:HE is……….

わたし:??? She is………….

英語の先生:HE is…………HE,HE,…….A male person, we call a male person HE, Right?

わたし:Oh, No!!! HE is she. No, No. She is she.

 

という訳で、それ以後彼女は「ヒーさん」です。わき道に逸れました。

 
 
 
 

顧先生は友達と十数年来の友達。親友です。「ホントの友達」と言っていました。彼女の日本語はほぼ完璧です。とても綺麗な日本語です。彼女は日本語の発音は簡単だと言っています。日本語は発音とかは易しいが、中国人に敬語を教えるのが一番むつかしいと。彼女の敬語は素晴らしいです。時々、やりすぎと思うこともありますが。

 

 

彼女は上海に帰ってから結婚し、現在一人息子がいます。中国は一人っ子政策を取っているので、わざわざ一人息子と言う必要はないのですが。彼女の夫はとても優しい人ですが今仕事がなく就職口を探しているところだと友達が言っていました。中国は就職難でもあります。「彼女が稼ぎ頭なわけ。」って。

 

息子は小学校一年生で、友達の息子と同い年。しかし、彼女の方は中国では珍しく、近くの学校に息子を行かせているので、毎日息子の面倒を見なければなりません。たいていは寄宿舎つきの学校に子供を通わせるので、子どもは土・日しか家に帰って来ないのです。わたしの友達は息子を幼稚園の時から寄宿学校に通わせています。この話はまたの機会にお話ししましょう。

 

友達が言うには、「上海では一番お金稼ぐ人が家で一番偉いよ。だから、彼女夜遊べるね。彼、息子の面倒みるよ。」ということで、わたしたち、よく夜遊びをしています。もうひとつ、家で一番誰が稼ぐかがわかるのは携帯。一番最新式の携帯を持っている人が稼ぎ頭ということ。その稼ぎ頭が新しい機種を買うと、古いものが順々にお下がりになっていくと言うことです。機能が良い携帯はとても高く、一般の人の1ヶ月分の給料くらいになります。最初、わたしもそのお下がりの携帯を友達から借りていました。

 

 

顧先生と友達は東京の語学学校で知り合ったと聞いていましたが、事実は少々違うようです。ほんとうは夜のお仕事で知り合ったみたいです。東京時代の写真を見せてもらったことがありますが、20代前半の彼女たちが綺麗なドレスを着て写っていました。その他同じように綺麗な中国人の女性たちもいました。

 

これは日本と中国にとってとても不幸なこと、と感じました。20代前半の若い彼女たちが、日本人のおっさんの一番いやらしいところを見て過ごしたのです。彼女たちは、今でも日本人の男性は外でスケベな事をして、浮気して、妻たちはそれを普通の事として平気で受け入れていると思っています。

 

「日本人の女性何も言わないのか。」って。

「日本人のおっさんはピャオラン(美しい)だけ中国語でしゃべれるよ。」って。







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2015年10月21日水曜日

上海で出会った人たち (上海滞在記 6)


わたしの友達は、わたしがひとりでアパートに暮らしていると寂しいだろうと、日本語がわかる人、または英語を話せる人を紹介してくれます。実際のところ、わたしはひとりが好きなので不自由は感じていませんが、彼女の気遣いには感謝です。

 

その中で、上海にひとりで暮らし日本語教師をしている30歳前後の女性がいました。彼女は数年前に上海に語学留学のためにやって来ました。上海の大学に1年通って日本に戻ったのですが、半年もしないうちにまた舞い戻りました。どうしてかと尋ねると、それは韓国人のボーイフレンドが上海にいたからだとフランクに答えました。そして上海に戻ってすぐ別れたと。

 

それから中国政府の日本語教師の養成機関に入って、詳しいことは忘れましたが多分2~3ヶ月で資格を取得したという事です。それからここで日本語教師として働いています。彼女は、中国人は決して教えてくれないであろうと思われることを教えてくれます。たとえば、レストランのテーブルの上に置いてある紙ナプキンは使わない方が良いとか、アパートの契約は半年にしといた方が良いとかいったようなことです。

 

テーブルの上に置いてある紙ナプキンは、どうも大量に仕入れられており、従業員が食堂の片隅のテーブルで一枚ずつ折りたたんでいるのです。わたしも目撃しましたが、とても衛生的な状況とは言えません。アパートの方は、住んでいるうちに故障しているところが見つかったり、どうしても我慢できないところがわかったりするので契約は短期間にし、いつでも引越せる状態にしておくことが重要とか。彼女は、今では三か月契約にしているそうです。しかし、彼女はもう中国の風習に慣れたようで、違和感なく上海生活を楽しんでいる様子でした。

 
 
 

わたしは慣れません。わたしが上海に暮らすようになった頃、中国人はなんて親切な人々だろうと思っていました。わたしと友達は二人で仕事を始めたのですが、何かイベントが入った時、二人では到底できないことがあります。そんな時、友達が彼女の友達に声をかけると、誰かが手助けをしてくれるのです。何の報酬も求めずに。手伝ってくれる人の中には、たった一回しか会ったことのない人もいました。友達は、昼食くらいは奢っていたようです。わたしにはこの事がとても奇異にうつりました。長年の友達ならいざ知らず、ほんとに一回だけアクセサリーの作り方を教えた生徒も来るのですから。

 

ある時この謎が解けました。これは日本の警句「情けは人の為ならず」だったのです。もっと、その何倍もリアルなものです。彼らはどこにでも顔を出して恩を売る……、なんて言うととてもイヤラシク聞こえますが、それはここでは日常です。時に、手伝ってくれた人が、化粧品のセールスを始めます。すると、友達はその人から化粧品の一揃えを購入します。しかし、その購入金額は、普通よりディスカウントされていますから、お互いに「よかった。よかった。」ということになるのです。そして友達は、その化粧品を買いたいと思っている人を彼女に紹介します。その人も、欲しい化粧品を安く手に入れることができたとハッピーになるのです。こうして人の絆の連鎖が起こっていくというシステム。

 

危険なこともあります。一回しかアクセサリーの作り方を教えていないのに、手伝いに来たという人たち。彼らの目的は、わたしたちの会社が大きくなったらなにか見返りを期待しているとか、彼ら自身が同じような会社を作るため、そのノウハウを盗み取ろうとしているのです。実際経験したお話をひとつ23人の若者がよく手伝いに来ていましたが、ある日友達が、「彼らはもう来ないね。」と言います。なぜかと問うと、「もう自分たちの店、作ったからね。」と。イベントのワークショップで、わたしがアクセサリーを作っているところを観察し、技法を持って行ってしまいました。

 

まあこんなことは日常茶飯事で、会社の中で「同じ仕事」をアルバイトでしている人もいます。つまり、ホームページを立ち上げる会社なら、その会社の器機を使って、会社には内緒で自分のクライアントの仕事をしてしまうというようなこと。最終的には、会社のお客さんを引き抜いて自分の会社を作ってしまいますよ。

 

 

そして日本語教師の彼女も、このサイクルの中にどっぷり浸かっています。こまめにいろいろなところに顔を出し、また人々の為に何か仲介したりしています。そしていろんな情報を彼等から仕入れ、日本語家庭教師(学校には内緒の内職)の仕事を得たりしています。この間も、彼女の中国人の生徒がアパートを引っ越すと言うから、手伝いに行くと言っていました。わたしは元来の出不精も相まって、どうしても無理です。

 

彼女は韓国人のボーイフレンドと別れてから、周りに「結婚したい。結婚したい。」と触れ回っています。そうしたら中国人の皆が「お見合いしろ、お見合いしろ」と。彼女は今、中国の男性とお見合いしまくっております。その話はまたの機会に。








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2015年10月19日月曜日

「ゴミ」 (上海滞在記 5)


上海の街はまるでゴミ箱だ。あるいは痰壺か。あなたは「何故?」と聞くかもしれない。わたしは答える。それはある意味教育であると。「ゴミをゴミ箱に捨てるだけの事が、何故教育に関係あるのか。」とあなたは憤慨するだろう。「ゴミ」とは文明なんだ。その昔は、すべてのものが自然界から生まれたものであり、すべてのものが自然界に帰って行った。そこにゴミと呼ばれるものはない。人間が「ゴミ」を発明したのだ。だから、それを始末する方法を我々は学ばなければならない。他の動物はゴミを産み出さない。彼らは、ECOLOGICAL CHAINのうちに存在するのみであるから。

 



 

人類に一番近い動物は何だと思いますか。ボノボです。以前はチンパンジーの一種と考えられていましたが、違う種族だとわかりました。99.9?パーセントのDNAは人間と同じです。その中で、カンジというボノボが実験観察のために米国の研究所で飼われています。彼はいまのところ、一番賢いボノボです。

 

彼は身体の構造から英語を話すことができませんが、研究者が話すことを理解できます。簡単な単語なら発音することができると聞きましたが、人間がそれを聞き取るのは少々難しいようです。その代りに彼はいつもキーボードを背中に背負っています。彼が何か言いたい時、あるいは何か聞かれたときはそのキーボードを押して伝えます。もちろんアルファベットが並んでいるキーボードではないようですが。詳しいことは知りません。

 

単純な文章しか理解できないのではないかとお思いかもしれませんが、彼は抽象的なことも理解できるそうです。例えば、ジュースは冷蔵庫の中にあるから、飲みたい時に飲んでも良いとか、妹(彼には妹が同じ研究室にいます)に鍵を持ってきてくれるように頼んでくれとかです。今では、妹に自分が学んだことを教えているそうですが、わたしは追リサーチをしていませんのでわかりません。

 

そんなカンジでも研究者が、コークを飲んだあとの空き缶をゴミの缶に捨てるように言っても理解できません。研究者は、カンジがコーク缶とゴミの缶の「缶」という事で理解不能に陥っているのではないと言っています。カンジはただゴミという概念が理解できないのだと。彼は、コーク缶をゴミの缶に入れることはできる。が、それにどういう意味があるのかは理解できない。なぜ「ゴミの缶」が存在するのかがわかりません。

 

 

わたしはもちろんの事、上海の人がゴミの概念を理解していないと主張しているわけではありません。人間はいろいろな物を発明しました。それは自然界のものではありません。「人工物」です。この頃は、自然界に戻る物も生産されていますが、おおむねその発明品は自然界に戻らず(あるいは戻るにしても時間がかかる)永久にこの世に存在します。そんな物が発明される前、人はゴミを地に返したり川に流したりしていました。そして人に役立たない「ゴミ」は自然界に戻っていったのです。自然界に戻らないものが生産されてからも、人はそんなものを川に流したり地面に埋めたりしてきました。その後どうなるのかを意識することなしに。だからそのことを知らせること(教育)が必要となります。

 

 

わたしの上海の友達は息子がいます。今、7歳の小学一年生(2003年の時)。彼は、学校で「ゴミはゴミ箱へ」と習っています。わたしも学校でそう教えられてことを思い出しました。母である友達も、息子に「ゴミはゴミ箱に捨てなさい。」と口が酸っぱくなるほど言っています。

 

が、ある日の事。仕事のため彼女が運転する車で移動していた時の事。彼女がキャンディを見せて、食べるかと聞きました。ありがとうと受け取りました。彼女もわたしも包みを開けて口にほりこみました。わたしは、包み紙をバッグの中に。彼女は、車の窓を開けて、外へ「ポイッ、と」。わたしが、「ちょっと、ちょっと。」と言うと、

 

「見てたかあ~~~。」って。

 

こうして上海の街にはいろいろなものが捨てられているのです。物以外のものもね。それはまたのお話です。








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